二通目 1
エルヴ領主が帰宅した気配を察して、カナンは腰を浮かせた。
未だに外では雨の激しく叩きつける音が続いている。雨の中、傘も差さずに庭園へ立ち尽くすカナンを無理矢理引きずり戻したのはノイルズである。
ノイルズはカナンの濡れた上着を引っぺがし、その勢いで侍女に声をかけ、乾いたタオルを調達して手渡し、髪を拭くように指示した。心ここにあらずで呆然としていたカナンは、ただ言われたとおりに濡れた髪を乾かし、しばらくぼんやりと虚空を見上げ、投げかけられる問いの全てに生返事をし、……眼前に豪華な食事を並べられた辺りでようやく我に返った。
外出しているという領主は、まさに今大慌てでこちらへ向かっていると聞かされた。到着は深夜になるかもしれないと言われ、今宵は屋敷に滞在してはいかがかと勧められる。有り難く申し出を受けて客間に通されたものの、カナンの目は冴えに冴えて眠るどころではなかった。
玄関先に明かりが灯り、車寄せに止められた馬車から小太りの男が転げるように出てくる。領主だろう。窓際から玄関を見下ろしていたカナンは、身を翻して部屋を出た。
階段上から玄関ホールを見下ろすと、領主が家令を怒鳴りつけながら入ってくるところだった。
「泊まらせている!? さっさと追い返せと言ったはずだろう、あんな異国の若造なんぞ――」
と、言いかけて、途中でその声が立ち消える。唾を散らして辺り構わず罵声を浴びせかけていた男は、ぴたりと口を噤んで首を竦めていた。
階段を上がった先でカナンが薄ら笑いを浮かべているのを見咎めて、その表情が見る間に歪む。嫌悪の滲むしかめ面のあと、しくじったと言いたげな苦い顔を経て、にっこりとよそ行きの笑顔に変わった。小気味よいほどの百面相に、思わず失笑する。
「これはこれは、総督閣下……あらかじめ知らせてくだされば、我が館をあげて歓待の準備を致しましたものを」
先程の粗暴な態度が嘘のように、領主は揉み手をしながらカナンの足下へとにじり寄った。
「して、我がエルヴ領に一体どのようなご用件で……」
「貴殿の領地管理に関して、一、二点ほど聞きたいことがありまして」
果たして、領主の示した動揺はただ事ではなかった。大きく見開かれた目が、助けを求めるかのように左右へ動く。しかし、男へ助け船を出す者はいない。
「ゆっくりとお話をしましょう。膝を突き合わせて、ね」
父親のような年齢の男に親しげに語りかけて、カナンは朗らかな調子で領主の耳元に口を寄せた。
「――レンフェール領との境に位置する山、屋敷のあった土地を売った相手は誰だ?」
低く囁いた瞬間、領主の体がびくんと大げさに跳ねた。まるで水から揚げられた魚かのごとく、滑稽なほどに全身が震えたのだ。
「れ……レウィシス家の別荘地のことでございますか」
低い声で応じながら、領主は背を丸め、首を竦めたまま、カナンの目をこわごわ覗き見た。
怯えているような表情に、カナンは内心で眉をひそめた。後ろ暗いところのある者の目だったが、それにしてはやけに異様だ。
別室に移動し、二人きりになると、領主はますます縮み上がったように見えた。
「思い当たる節があるようですね」
「いえ、それはもちろん、我が領のことでございますから……しかし、決して特別なことでもありませんで、記憶にはありませんので、調べてみないことには分かりませんな」
言いながら、その目は落ち着きなく四方へ動いている。小刻みに足が揺れ、長椅子が耳障りに軋んでいた。
「昔の帳簿を引っ張り出さねばいけないので、お時間を頂かないとお答えできません。総督閣下もご多忙でいらっしゃるでしょうから、後日、書面か何かで返事をお送りいたしますよ」
はは、と乾いた笑い声を漏らして、領主は下手くそな笑顔で提案した。カナンは腕を組んだまま、その言葉に応えようとはしなかった。
「聞くところによると、エルヴ領ではたびたび、領地の扱いに関して問題が起こっているとか……。実際、俺のところまで話が上がってきたことがあります」
足を組み、横柄な態度で呟く。全くのはったりであった。しかし、領主はてきめんに反応を示した。「それは一体どのような……」と見る間に狼狽え、額に汗が滲み出す。
「そうして調べているうちに、妙な話を聞いた。かつてレウィシス家が管理していた屋敷を、周辺の土地も合わせてあなたが何者かに売り払った、と。それが誘因で、かつての事故現場が流されたそうですね」
「それは、私のせいではっ」
「ああ、俺がそう言っている訳ではありませんよ。ただ、少なくとも現地の人間はそう思っているらしい、というだけで」
領主の顔色はだんだん土気色に近づきつつあった。体調が悪そうである。
「その話を聞いてから、そちらの方が気になって仕方なくて。詳しい話を聞けたら、他の件のことはついうっかり、忘れてしまうかもしれませんね」
早く答えろ、と言外に圧をかけると、領主はしばらく黙り込んだ。怯えた仕草で周囲を窺う。他に誰もいないのに、誰かを探すような動きである。
「……他の誰にも明かさないと、約束して頂けますか」
身を乗り出し、領主はカナンに向かって囁いた。口元に手を添え、その表情は真剣そのものだった。気圧されるように、「ええ」と頷く。
「実は、あの屋敷に関しては――」
言いかけたちょうどその折に、扉が軽く叩かれた。はっと息を飲んで、領主は弾かれたように身を退いた。果たして、扉を慎重に開けたのは年若い侍女であった。湯気の立つカップが盆の上に乗っている。
「お話中に申し訳ありません。お二人とも、特に旦那様は喉が渇いておられるのではないかと、マーキス様が」
家令の名である。随分と気が利くことだ、とカナンは嫌味混じりに考える。
水を差されたせいで、領主は幾分か落ち着いてしまったようだった。運ばれて来た熱い茶を一口飲み、息をつく。
「それで、あの屋敷についてですか」
忙しなく襟首や袖口、髪に触れ、領主は目を背けたまま口ごもった。決してカナンと目を合わせまいとするようだった。
「閣下を信頼して申し上げますと、あの屋敷を売ってくれと私に要求したのは、レウィシス家の方なのですよ。ですので何も、ええ何も、違法性や後ろめたいことは何一つございませんで」
「レウィシス家が?」
聞き返すと、領主は頷いた。
「あの土地は元々レウィシス家のものであり、かの家が取り潰される際に、あそこだけは権利を残してはもらえないかと持ちかけられたのです。私とて悪魔ではありませんから、どうやら思い入れのある屋敷らしいと察して、受け入れた次第です」
「対価は? 何の見返りもなく土地を譲ってやる質ではありますまい」
咄嗟に、言葉も選ばずに詰め寄る。山の上にあった屋敷を取り壊したのは、元の持ち主であるレウィシス家らしい。……屋敷が残っていると都合の悪いことでもあったのか?
土地を渡す代わりに何を得たのか、と問われて、領主はこれまでで最も長く沈黙した。長らく俯いて、それから、掠れた声で呟く。
「……この屋敷、です」
自然と、部屋をぐるりと見回していた。立派な邸宅であった。立地もよい。少し見て回っただけでも、高価な調度品がそこら中に見られる館である。少々どころではなく血生臭い事件が起こっていた屋敷のようだが、資産的価値だけでみれば相当なものだろう。
と、そこで、妙なことに気がついてカナンは眉根を寄せた。
「待ってくれ」と片手を挙げ、領主を注視する。
「その取引をしたのは、一体何者だ?」
レウィシス家が取り潰されたとき、そんな交渉ができる人間がいたのか?
領主は今にも吐きそうなほどに真っ白な顔をしていた。ぽた、と汗がその額から膝へ落ちる。引き結ばれた唇はわななき、惨めに震えている。
「ファリオン・レウィシス殿からの、言伝でした。それ以上はなにも、申し上げられません」
その言葉の通り、そこから先、領主は一切、何も語ろうとはしなかった。
***
「エウラリカ様!」
ふらり、平衡を失ったように、エウラリカが床へ尻餅をつく。失神したわけではなく、しかし、俯いたまま立ち上がろうとしない。床についた手が震えていた。
ウォルテールはすぐさま屈んでエウラリカの背に手を添えた。
「大丈夫ですか」と囁くと、エウラリカは「当たり前でしょう」と強い口調で返したが、信用できるとは思えなかった。あと一押しすれば簡単に卒倒しそうなほどの顔色であった。
「ファリオン殿。申し訳ありませんが、サイラール王子に、今日の会合は延期すると伝えて頂けますか」
ファリオンはにこりと微笑んで頷くと、それまでずっと怪訝そうな顔で後ろに立っていた王子を振り返った。早口で何か告げると、サイラールは真ん丸な目でエウラリカを見下ろした。
少年はエウラリカに向かって手を差し出し、恐らくは安否を問うようなことを言ったのだと思う。エウラリカはそれに応えようとはしなかった。項垂れたまま、ただ体を震わせている。その胸が波打つように上下する。
数秒様子を見てから、ウォルテールは慎重にエウラリカを助け起こした。申し訳ない、と再度告げて、ここまで馬車を回すように部下へ合図をする。
会合はエウラリカの体調不良を理由に延期となり、一団は宿泊棟へと戻った。部屋へ入るとエウラリカは倒れ込むように気絶し、そのまま寝入ってしまったらしい。酷く汗をかいて、うなされているとアニナが言っていた。
二日後、ようやく寝台から出られるようになったエウラリカのもとに、一通の手紙が届いた。手紙が到着したのは、ちょうどエウラリカが朝食を摂っていた最中である。彼女は手紙をよこすようにと、無言で机の空いた場所を指し示した。
手紙を受け取った侍女が、慎重にエウラリカへ近づき、手紙を目の前にそっと置く。彼女が細い指先で手紙を取り上げ、封を切るのを、ウォルテールは黙って眺めていた。
便箋に目を通し始めた彼女の目に、驚愕が浮かぶ。ほとんど恐怖と言ってもいいような、青ざめた顔をしていた。
***
翌朝、と言うにはやや遅い時間に、カナンは寝台から這い出た。考えすぎで頭が痛い。
朝食が用意してある、と声をかけられて食堂へ向かうと、奇妙なことに、自分宛ての手紙が到着しているという。
昨日に到着したばかりなのに、これは一体どういうことか。怪訝に思いつつ受け取って、手紙を開いて中身を検める。
記されている一文は単純であった。それを見た瞬間、カナンはどくんと心臓が嫌な跳ね方をするのを感じた。
***
帝都を遠く離れた東ユレミア州の迎賓館と、帝都圏北西部に位置するエルヴ領主館。
遠く離れた二地点にて、書簡はほぼ時を同じくして到着した。
内容は同一、単純明快な一言である。
『先代皇帝ルイディエト・クウェールが危篤。至急北の離宮へ参上されたし』
第三部一章が終了です。
できるだけ早く二章をお届けできるように作業を進めていますので、気長にお待ちください。




