薄氷の上 2
「わあ、エウラリカ様、本当に素敵ですよ!」
誰よりもよく響く声で、妻が手を叩いている気配を感じる。現地の侍女は客人に美辞麗句を並べるほど帝国語に慣れておらず、もっぱら聞こえてくるのはアニナの声ばかりである。
「アニナさん、今日も元気ですねぇ」
背後から歩いてきた部下が、隣で立ち止まりながら苦笑気味に腕を組む。男子禁制となってしまった廊下の先では、慌ただしい身支度が行われている様子である。
「毎日元気で可愛いだろう」
「なるほど」
どこかの遠い中空を眺めながら、デルトがこれ見よがしに肩を竦めた。
「この腕輪は、外しても大丈夫ですか? 付けてなきゃ駄目? 分かりました。じゃあ、この首飾りなんてどうです? エウラリカ様、何でも良いって仰っていたから、帝国での荷造りの際に、私が勝手に衣装箪笥から選ばせて頂いたんですけれど……」
漏れ聞こえてくる言葉ひとつだけでも、アニナがエウラリカの周りをちょこまかと動き回っている光景が想像できる。
「ほら、鏡見てください、とってもお似合い! エウラリカ様の瞳の色ですね。綺麗なあおいろ――」
アニナの声が途切れたことに気がついて、ウォルテールはぴくりと眉を上げた。
「……申し訳ありません。そうですね、ではこちらの首飾りなどはどうでしょうか?」
先程までの明るい声音とは打って変わって、慇懃な口調であった。エウラリカは声を抑えているらしく、その発言はウォルテールのところまでは聞こえてこない。が、彼女がアニナに不興を示したのだとすぐに分かった。
ぴりっとした緊張感がその場に走る。ウォルテールは目を見開いたまま、体を固くしてエウラリカのいる方向を見据えた。まさか彼女がアニナを理不尽に罰することはないと思いたいが……。
「……王女殿下は少々子どもじみたところがある、と聞いていましたが、本当みたいですね。何だかお可愛らしいです」
くす、と堪えきれなかったような笑い声が聞こえたのは、背後からだった。ぎょっとして振り返れば、リュナが佇んでいる。どうしてエウラリカの身支度を手伝っていないのか、と疑問に思ったのが伝わったのだろう。彼女は曖昧に微笑んだ。
「慣れない相手を傍に近寄らせたくないと仰せで。ほとんどアニナさんが一人で動いておられます」
私もお手伝いできればよろしいのですけれど、と頬に手を添えて首を傾げる義姉は、相変わらず控えめな態度で目を伏せる。
ユレミア王国と新ドルト帝国を互いに代表した会合が行われるまで、あと一刻を切っている。ウォルテールが軍に入った頃には、既に両国は長きに渡る戦を帝国の勝利で終えたあとだった。以来、少々の小競り合いは見られつつも、一度も戦端は開かれていない。
いずれも他に比肩するもののない大国同士である。国交改善への道が開かれるか、更なる緊張状態がもたらされるか。空恐ろしいような心地だった。
(少なくとも、ユレミア側から今回の縁談が来ている以上、それほど警戒することもないと思うが……)
身支度を終え、姿を現したエウラリカを眺めて、一瞬息が詰まるのが分かった。やや不機嫌そうに眉をひそめて顔をしかめているにも関わらず、それが何とも言えぬ気だるさを醸し出していた。
「早いこと出発しましょう。数分くらい早く着こうが遅く着こうが、大した違いじゃないわよ」
ウォルテールの顔を一秒ほど見つめて、深いため息を一つつくと、あっけらかんとした口調で言ってのける。気負う様子のないエウラリカに一度頷いて、ウォルテールはちらとアニナを見やった。表情には出さないようにしつつも萎れている。
エウラリカの胸元を飾るのは、淡い紫色をした宝石である。彼女が譲歩したあとに選んだ代物だと察せられた。
裳裾にかけて色が濃くなってゆく衣裳は、エウラリカによく似合っていた。エウラリカ自身は重厚な服装を好まないとカナンから聞いたことがあったが、本人の嗜好とは裏腹に彼女の威風を引き立てているのである。
エウラリカの背後で、何故かアニナが自慢げに微笑む。良い出来だろう、と言いたげな表情だったが、やはり多少のしょげた様子は隠し切れていなかった。
顔合わせの場所に指定されているのは、旧領主館の母屋である。手入れの行き届いた庭園の遊歩道には石畳が敷かれていた。エウラリカは背筋を伸ばして、規則正しい足取りで歩いている。その後ろ姿を眺めながら、ウォルテールは先程のアニナの言葉を思い返していた。
エウラリカの瞳の色は、青である。幼い頃から、驚くほどに深い色をした双眸がとりわけ印象的な少女であった。父である先代皇帝譲りの……
そこまで考えて、ウォルテールは先代の目の色を明確には知らないことに気がついた。果たして、ルイディエトはこんな目をしていただろうか?
見る者の視線を捕らえて放さない、強烈な引力をもつ瞳である。何を考えているか分からない、無気力な先代の印象とは異なる。
開け放たれた大扉をくぐり、エウラリカは額を振り上げた。
玄関ホールの正面には、来客を待ち構えるように幅のある階段が設えられている。その上に、まるで家主のように佇む人影があった。
階段の上に立ったまま、小柄な少年が帝国側の一団をぼうっと眺め下ろしている。口を半開きにしたまま、呆気に取られて固まっている様子だ。互いに予期せぬ邂逅だったらしい。
どうしたものか、と困り果てているような気配で、少年が背後を振り返る。
暗めの赤毛と異国風の顔立ちは、ユレミアのものである。服装や年齢からしても、恐らくは階上でおろおろとしているのが王子で間違いないだろう。
『初めまして、サイラール王子』
しばし目を瞬いていたエウラリカの口から異国語が飛び出したので、少し驚いた。
『私は、エウラリカと申します。あなたとお話できるのを楽しみにしていました』
ウォルテールはユレミア語を解さないが、穏やかな口調であることは分かった。少なくとも喧嘩を売ったわけではなさそうだ。
いきなり自国の言葉で話しかけられて驚いたらしい。幼いサイラール王子は零れんばかりに目を大きく見開いて、まじまじとエウラリカを注視する。
『は……はじめまして』
ぎこちなく返したサイラールは、手すりに指先を置いて階段を降りてこようとする。と、その頃になってようやく王子を追いかけてきた者があった。
『お待ちください、殿下――』
言いながら奥の扉から出てきたのは、明るい金髪を低い位置で束ねた男であった。帝国の人間だ、と咄嗟に判断する。サイラールの傍まで辿り着くより前に、男はこちらを見た。
男の容貌を観察するよりも前に、ウォルテールはエウラリカを振り返っていた。至近距離でなくとも分かるほどに、彼女が鋭く息を飲んだのである。その横顔の蒼白さに戦慄する。まるで死人を目の当たりにしたかのような、湿って冷たい恐怖がエウラリカを襲っていた。
玄関から差し込む光は、階段の中程までしか届かない。エウラリカのちいさな身体に遮られた影が、長く床へ、階段へ投げかけられている。一陣の風が吹くと、彼女の手首に嵌められた腕輪がしゃらりと音を立てた。その指先が震えている。
「――ああ、よく来たね、エウラリカ!」
快活な声が、天井の高い空間に響き渡る。帝国の王族に対するものとは思えない言葉遣いだが、ウォルテールはそれを咎めることもできずに凍り付いていた。
透き通るように滑らかな金髪と、秀麗な顔立ち。見る者を惹きつける微笑みは、どこか蠱惑的な魔性を思わせた。
年のほどは四、五十か。目尻に柔らかい笑いじわの見られる男だったが、優美な仕草や張りのある声音は若々しい印象を受けた。
わざわざ言葉にして確認するまでもない。
男にはエウラリカの面影があった。他人であるとは、誰も思わないほどに。
「……お久しぶりです。帝国にいられぬと悟って惨めに尻尾を巻いて夜逃げしたと聞いていましたが、ユレミアに寝返ったのちも息災にしていたようで何よりです」
エウラリカの声は、鋭く、硬かった。研ぎ澄ました刃の先を思わせる危うさがあった。その上、相手の鼻っ面を拳で殴りつけるような喧嘩腰の一言である。
思わず彼女の表情を確認すれば、エウラリカの瞳は見たこともないほどに猛々しい激情に燃えていた。憎悪、恐怖、憤懣……一口に言い表せぬ攻撃的な敵意が、彼女の全身からひしひしと放たれている。
「あの方は、一体……?」
恐る恐る、小さな声で問いかけた。エウラリカへ問うたのに、にこりと微笑んだのは男の方であった。
「初めまして。ロウダン・ウォルテール将軍であらせられますね」
穏やかな声で言いながら、男は足音をさせずに階段を降り、こちらへと歩み寄る。エウラリカが半歩後ろに下がる。
「母の兄よ」
エウラリカは噛みつくように答えたが、その声は激しくわなないて震えていた。
「伯父ですか」と返すと、何やら含みのある表情で、男が薄らとほほえむ。
「いかにも、ただいまご紹介にあずかった通り」と、男は恭しい仕草で胸に手を当て、エウラリカの眼前で足を止めた。
「殿下の母であり、正妃でもあったフェウランツィアの兄です。幼少のみぎりは、ルイディエト陛下の乳兄弟として大変親しくさせて頂きました。……訳あってユレミア王国におりましたが、このたび通訳として同行させて頂いております」
正妃の兄であり、皇帝の乳兄弟。そうした男がいるという話は、聞いたことがあった。噂好きのアニナが、かつて嬉々とした表情で語ってくれた。
しかし、思い起こせば、彼が現在どこで何をしているかという情報は耳にしたことがなかった。本来ならば、帝国においても影響力を持っていておかしくないのに、だ。ユレミアにいたならば合点がいく。
優雅に目を細め、男はエウラリカを一瞥したようだった。
束の間、両者の視線がはっきりと交錯する。瞬間、ウォルテールは稲妻に打たれたように慄然と立ち竦んでいた。脂汗が、首筋を音もなく伝う。
深い碧色の瞳が、一方は愉悦を湛え、一方は眦を決して今にも激昂せんばかりの形相で睨み合う。
エウラリカの双眸が、その父である先代皇帝のものとは違うと直感した理由を悟った。青色に見えるエウラリカの目の奥には、深い緑色が沈んでいる。
じっと奥まで覗いて見透かさねば分からない、複雑な色彩である。余人の何者とも違う、冴え冴えとした光を湛えている。
エウラリカと全く同じ色の眼差しをして、彼は喉の奥で笑っていた。
「ファリオン・レウィシスと申します。以後お見知りおきを」
青年時代はさぞや典麗な面立ちだっただろう。エウラリカと酷似した美男子だったに違いない。その容貌は、年を重ねてもなお、ぞっとするほどに美しい。
彼女と同じ瞳をして、ファリオンはエウラリカを見つめ、艶然と微笑みかけた。
「お手紙は読んで頂けましたか、――エウラリカ・クウェール殿下?」




