薄氷の上 1
「思ったよりも時間がかかったわね」
「途中で随分雨が降りましたから」
数日前の重苦しい風雨や曇天が嘘のように、開けた直線の道の上には晴天が広がっている。どこまでも続く穀倉地帯の光景は、牧歌的でのどかである。
宿場町の外れに店を構える食堂前は、たいへん陽当たりが良かった。ぽかぽかしている、とのんきな表現は、アニナの言である。
食堂の前にいくつか並べられている机の一つを囲んで、ウォルテールは地図を眺めた。
「今日の昼過ぎには、目的地の街に到着できそうです」
「先方はもう待っているかしら。遅れて悪かったわね」
眠くなってくるような陽射しの中、エウラリカができたての揚げ菓子にかぶりつく。気の抜けた様子は、知らない者なら王族とは予想もできないだろう。
「少し待たせるくらいの方が良いですよ。こちらが息せき切って到着したと思われては、足下を見られてしまいます。上手く進むべき交渉ごとも上手くいきません」
アニナの言葉に、エウラリカが「それもそうね」と頷く。存外に仲の良さそうな女二人を眺めながら、ウォルテールはこっそりと嘆息した。
護衛任務に身内を連れてくるのは下策である。アニナを同行させる予定はなかったが、エウラリカたっての希望となれば仕方がない。
帝都からは相当に距離のある長旅だが、エウラリカは存外この行軍を満喫しているらしかった。
「一度ユレミア方面には行ってみたかったのよね」と出発直後からご満悦である。彼女がせっせと口に運んでいる菓子も、どうやらこの辺りの名物らしい。
「これ、少しだけ花の匂いがするけれど、蜂蜜かしら?」
言いながら、エウラリカが目を輝かせて隣を振り返った。隣席は空である。いきなり水を向けられたと思って、脇に控えていた兵士が目を白黒させる。
「あ……」と、エウラリカは少し呆気に取られたように声を漏らし、そのまま無言で前を向いた。俯きがちに最後の一口を食べ終えた様子は、何だか悄然としているように見える。
しばらく黙り込んでしまったエウラリカを前に、ウォルテールとアニナは顔を見合わせた。エウラリカが誰に話しかけようとしたのかは、訊くまでもない。ここまでの道中でも、こうした場面はたびたび見られていた。
「……あと少しで到着することだし、気合いを入れ直さなきゃ」
両手で自分の頬を軽く叩き、エウラリカが腰を上げる。「そうですねぇ」とアニナが殊更のんびりとした口調で応じて、緩慢な仕草で伸びをした。
「王子様、良い方だといいですね。美形だと嬉しいなぁ、目の保養ですもん。あわよくば私がお近づきになっちゃったりして……!」
「……あなたは既婚者でしょう」
呆れ顔の突っ込みに、アニナがぺろりと舌を出す。聞き捨てならない発言はともかく、エウラリカの肩の力が抜けたのを見て安堵する。発言内容はともかくとして。
エウラリカが馬車に戻ってから、その後を追うアニナを捕まえて一応訊いておく。
「……冗談だよな?」
ごくごく声を潜めた問いに、アニナは「え? 何の話ですか?」と何も考えていないような笑顔で首を傾げる。
「いや、だから……さっきの、王子様とお近づきになる云々とか……」
まさか本気なのかと狼狽えてしまうと、一拍おいてアニナが噴き出すのが聞こえた。「もう!」と笑み交じりの一喝とともに、頬に両手を添えられる。
「そんな顔、部下の皆さんの前では見せちゃ駄目ですからね?」
背伸びをして、距離が縮まったと思ったのも束の間だった。軽い音を立てて唇の端に一瞬だけ口づけると、アニナはつるりと腕をすり抜けて身を翻した。離れたところで腕を組んで立っているエウラリカのところへ駆けてゆく。
気まずげな表情のエウラリカに苦言を呈されているらしいが、アニナは意にも介した様子もなく笑っている。勢いに釣られてか、エウラリカの表情が綻ぶのが見えた。
「……まったく敵わんな」
ひとり取り残されて後ろ頭を掻きながら、ウォルテールは小さく呟いた。
***
会合の場所に選ばれているのは、新ドルト帝国が置いている大使館ではなく、当地の名士の迎賓館であった。帝国の植民地になる以前に領主だった老人のもので、彼の死後は息子夫婦に相続されたらしいが、実質は街の共有財産のようになっているらしい。
客人のための別棟のひとつへ通され、一行は半月ほどに渡る往路を終えた。
物珍しそうに室内の調度品を見て回っているエウラリカを視界の端に留めながら、ウォルテールは荷ほどきや警備の指示を出す。
東ユレミアに逗留している外交官が言うには、ユレミア王国の一団は三日ほど前に到着しているらしい。要であるサイラール王子がどのような様子だったか訊くが、未だにその姿は見られていないようだ。
「サイラール王子って、結構年下よね?」
「はい。確か、先日の誕生日で十一……でしたか」
エウラリカが肩越しに振り返って問うと、駐在員はしゃちほこばって応えた。「え」と声を漏らしたウォルテールの横で、「ええーっ!?」とアニナが妙に大げさな動作で驚く。
「そんなに年が離れていたら、私みたいな年増は見初めて頂けないかもー」
ちら、とこちらを振り返ったアニナに、ウォルテールは絵に描いたようなしかめっ面になった。耳が熱い。相手が幼い王子であることをろくに把握していなかったのは、自分だけらしい。
無事に到着して気が抜けたのか、エウラリカはのんびりと窓の外の景色を眺めている。
エウラリカから決して目を離すな、と口酸っぱく言ってきたカナンを思い返した。忘れもしない、ハルジェル外遊の際にはまんまとエウラリカに逃げられたのである。二度も同じ失態を繰り返していたら本物の間抜けだ。
「別に、一人で脱走しやしないわよ」
ウォルテールの警戒を見透かしたように、エウラリカがくすくすと笑う。
広い談話室は十分に検分したらしい。長椅子の一つに腰かけると、柔らかい座面の上で行儀悪く膝を抱えた。膝の上に顎を置いて、彼女はほんの少し呆れたような苦笑とともに呟く。
「危ないことはしないって、約束しちゃったもの」
長い道中を含めても、エウラリカの口からはっきりとカナンに関する話題が出るのは初めてだった。カナンの話は禁句なのかと密かに懸念していたのだが、杞憂だったようだ。
これまた密かに胸を撫で下ろしたウォルテールから視線を外し、エウラリカはふて腐れたような表情で唇を尖らせた。
「……カナンがいないと寂しいわ」
ぽつりと独り言のように零された一言を、ウォルテールは聞こえなかったことにした。
折しも、来客があったと玄関の方向から報告が来る。思い当たる節はあったので、ウォルテールは驚きもせずに頷いた。談話室まで通すようにと応じると、エウラリカが首を傾げる。
「来客?」
「こちらでの生活を手伝ってもらう使用人です。仕事に入る前に、護衛には顔を通しておく必要がありますが、エウラリカ様も確認されたいのではないかと」
「そうね、把握しておきたいわ」
頷いたエウラリカが気分を害した様子はなかった。
かつての聞き分けのない愚鈍な王女とは違って、やけに冷静で物わかりが良い。恐ろしい本性を隠し持っている、とカナンが語っているのも聞いたことがあるが、そうした印象ともまた異なっていた。
エウラリカ・クウェールとは、理知的で穏やかな人間である。ウォルテールはそう結論づけていた。こちらをからかってきたり、甘えたような我儘を口にすることもあるが、大概はカナンがいるときの話である。
横暴なことは言わないし、護衛や行きずりの相手にもそつのない対応をする。したがって、兵士たちの士気はいつになく高かった。
複数の足音が近づき、ウォルテールは半身になって振り返った。侍女が四人と、料理人らしい男がかしこまった姿勢で控えていた。その立ち姿を一目見ただけで、よく教育されていると分かる。
と、侍女の中のひとりに目を留めて、ウォルテールは仰天した。
「……あ、」
義姉上、と声が出かけて、すんでのところで飲み込んだ。当の本人が、黙って、と言うように視線を向けてきたからである。
(何で、義姉上が、侍女としてここに……!?)
そこにあったのは、長兄であるルージェンの妻であった義姉の姿である。
侍女たちは順番に、緊張した様子でたどたどしく挨拶をした。このために覚えてきたのであろう文言からは、初々しささえ感じる。料理人はユレミアの言葉しか話さないらしい。
彼女は、どの侍女よりも帝国語が上手かった。
「リュナとお呼びください」
そう言って口角を上げてほほえんで、エウラリカへ恭しく礼をする。手入れの行き届いた赤毛が、額に一房落ちる。流暢な帝国語で名乗りを上げると、ゆっくりと体を起こす。
エウラリカはしばらく無言で面々を眺めていたが、やがて小さく頷く。「分かったわ」と呟いて、興味を失ったように頬杖をついた。掌底で顎を支えたまま、人差し指の先がとんとんと自らの頬を叩く。
「楽にしてもらって結構よ。しばらくの間、よろしく頼むわね」
虚空を見据えていた視線を戻し、エウラリカは立ち上がった。「アニナ」と一声かけ、肩を竦める。
「部屋に戻るわ。私がいたら色々と説明しづらいでしょう?」
王女を部屋から追い出すような形になってしまうのは想定していなかった。思わず狼狽えると、「私って気が利くでしょう」と悪戯っぽい微笑みで封殺される。
そのまま部屋を出て行くエウラリカにアニナが付き添うのを横目で確認してから、ウォルテールは改めて侍女たちに向き直った。今後の日程などの説明を終えると、各々が持ち場へ向かう。
「義姉上」
リュナを呼び止めると、彼女はふわりと柔らかい笑みでウォルテールに向き直った。
「お久しぶりです、ロウダン様。それとも将軍閣下とお呼びした方がよろしいかしら」
「ああ……人前では、そのように呼んで頂ければ。それにしても驚きましたよ、こちらから顔を出そうと思っていたのに、まさか侍女としていらしているとは」
ふっとリュナは肩を竦めて笑ったようだった。顔色が随分と良くなって、生気が戻ってきたと感じた。
帝都が陥落し、ルージェンが罪人として捕らえられた直後は酷く衰弱していた兄嫁である。今にもどこかへ身投げでもしてしまうのではないかと、当時はウォルテール家一同が気を揉んだものだ。生きる意味を失ったと語る彼女の姿は、まるで幽鬼のようだった。
結局、夫が処刑され未亡人となったリュナは、一人娘を連れて故郷へ戻った。おいそれと様子を見に行けない遠方に旅立ってしまった義姉を心配していたが、どうやら体調は戻ったようだ。故郷の水が合っていたのだろう。
「ロウダン様がいらっしゃると聞いて、少しでもお役に立ちたくて、自ら志願したんです。帝国語とユレミア語の両方を話せる人間も少ないようでしたから、とても歓迎して頂けましたわ」
笑顔で語る様子は、気弱で繊細な、夫の庇護を受けていた内気な女とは別人のようである。一人で遠い異国の地に来て暮らしていたことを思えば、こちらが本来の気性かもしれなかった。それとも、母は強しというものだろうか?
彼女の娘も、見ないうちにさぞかし大きくなっていることだろう。
「セイレアは元気ですか」
「はい、むしろ元気すぎるくらいで……。ヘルトさんが来てくれて、本当に助かっています」
去年頃からこちらへ来ているという末弟の名に、ウォルテールは曖昧に目を眇めた。
互いにいい歳をした兄弟である。いちいちその動向にもの申すこともないが、突如として単身で旅立った弟のことは気になっていた。そこまでヘルトを駆り立てたものは何だったのか。よちよち歩きの頃から面倒を見ている姪のことが気がかりだったか、それともあるいは……。
「ヘルトは、現在はあなたと一緒に?」
「他に知人もなく、身を寄せるあてもないと仰っていましたから……。せめて、セイレアにそれほど手がかからなくなるまでは、と。セイレアも、ヘルトさんのことをまるで父親のように慕っていますので……」
追究を避けるように、リュナがそれとなく目を伏せる。その眼差しに一瞬だけよぎったのは、ほのかな思慕ではなかったか。
(……まあ、お互いが納得しているなら俺が口出しすることでもないな)
手が空いたときにでも、ヘルトに会って問いただしておこうと内心で独りごちる。
「もしよろしければ、ヘルトさんにも会って行かれてください。ロウダン様がいらっしゃるのを、とても楽しみにしておられましたから」
たおやかな笑みを浮かべる義姉を眺めながら、ウォルテールは儀礼的な態度で頷いた。どうやら彼女との縁はまだ切れないようである。
まあ、もしかしたら気づかないうちに義妹になっているかもしれないが……。顎を撫でながら、ウォルテールはこっそりと嘆息した。




