花香 3
領主館に到着すると、予想通り、大慌てで出迎えの準備をしたらしい家令が額に汗を滲ませて出てきた。
一体何の用なのかと警戒を隠しきれない眼差しで、領主は夜まで戻らない旨を告げられる。もちろん何も言わずに突撃したのはカナンたちなので、否やを唱えられようはずもない。
客間の用意ができていない、と廊下から悲鳴のような声が漏れ聞こえる。応接間で寛いでいるカナンを横目で一瞥してから、家令が気まずげに目を伏せる。まさか家令が席について相手をする訳にもいかず、暇を持て余している様子のカナンをどうしたものかと扱いあぐねているようだった。
少し躊躇ってから、カナンは「この屋敷は」と口を開いた。
「元々、レウィシス家のものだったと聞いた」
出し抜けに出された名に、家令は目を丸くして束の間言葉を失った。真横から頭を小突かれたように少しふらつき、「ええ、はい、その通りでございます」と応じる。
「有り難いことに、レウィシス家がその地位を返上される以前より、この屋敷に仕えさせて頂いております」
「……先の正妃は、どのような人となりだった?」
カナンとエウラリカが浅からぬ関係であることを思いだしたらしい。家令は無言で目を見張ると、目を細めて微笑んだ。
「フェウランツィア様は、万事に秀でた方でございました」
年の離れた妹のように思っていた、という言葉には、偽りの色は感じられない。
「皇帝陛下の妃となり、この国で最も尊い女性になられると聞いても、誰も驚きはしませんでした。お嬢様は常に我々のような使用人にも分け隔てなく優しくしてくださいました。加えて誰より聡明でしたから、きっと良き国母として、新ドルト帝国を導いてくださるに違いないと、領民一同が信じておりました」
立て板に水のごとく並べられた賛辞に、カナンは密かに気圧された。ただ一言訊いただけなのに、この熱量である。二十年も前に死んだ女のことなのに……いや、二十年も前に死んだ女のことだから、なのか?
忠誠心というよりは、もはや信仰と評しても良いような有様であった。その頬は薄らと紅潮し、それまでの粛然とした仕事人の風情はない。
「それなのに、あのようなことになってしまって、……本当に痛ましく、許されざる事件です。未だに下手人が見つからないことには、死んでも死にきれません。フェウランツィア様ほど素晴らしい方が、人の恨みを買うはずがありません。あるいはその美しさに嫉妬した何者かの仕業か…………」
まだまだ続きそうである。半ばうんざりとしながら、適当な相槌を打つ。
「実を申しますと、フェウランツィア様のご遺体を最初に発見したのは私なのですよ」
と、そんな拍子に投げ込まれた言葉に、カナンは目を見開いた。
「……彼女は、ここで殺されたのか」
「はい。夜間のことでございました」
産後の療養に里帰りしていたときのことだという。
「部屋付の侍女が言うには、普段と何も変わらない様子で就寝されたそうです。しかし翌日の昼過ぎになっても起きてこられず、扉を叩いても反応がなかった。そのうえ、扉には鍵がかかっており、やむを得ず私が扉を壊して部屋へと突入しました。そうしたら、寝台の上で、フェウランツィア様が……」
正妃の暗殺と聞いて、何となく城内でのことだと思い込んでしまっていた。帝都の外でのことだったのか、と顎を撫でる。
『母は、帝都を出たから殺されたんだわ。馬鹿な女……』
独り言のように呟いたエウラリカの、伏せられた眼差しを思い出す。
「その侍女というのは、今もこの屋敷に?」
「いえ、それが……既に、この世にはおりません」
カナンは咄嗟に口を噤んだ。いかにも訳ありだと言いたげな重い口調に、おおよその事情を察する。殺されたか。この屋敷で、使用人たちが大勢殺害されたと聞いている。件の侍女が被害者の一人でも、不思議ではない。
(にしても、あまりに異変が起こりすぎじゃないか?)
まるで何かに呪われているみたいだ。カナンは詰めていた息をゆっくりと吐いた。手足の先がいやに冷えている。
「現場となった部屋を見ることはできるか」
「そのままの状態で残している訳ではございませんが、それでもよろしければ」
躊躇いがちに頷いた家令に先導されて、階段を上がる。歩きつつ少し先の床に視線を落とせば、毛足の短い絨毯は趣味の良い控えめな模様で彩られている。この屋敷で起こった惨劇の痕跡は、今はどこにも見受けられない。恐らくは絨毯も壁紙も、往時のものとは取り替えられているはずだ。
それでも、まさにこの場所、同じ廊下を、かつてフェウランツィアが歩いていたのだ。会ったこともない女の姿を想像しながら、カナンは嫌な跳ね方をする心臓に手のひらを重ねた。
(エウラリカ……)
縋るように、その名を口の中で転がす。
エウラリカの母親は、賢く、美しく、人を引きつける女だったらしい。分け隔てなく優しいという点に関しては、あまり受け継がなかったようだが……。そこまで考えて、カナンはおかしさと切なさの入り交じった微笑を口元に浮かべた。
あの人は、あれで意外と優しいのだと、祖国に戻った頃に何度か主張したことがあった。誰も信じようとはしなかったけれど、エウラリカが非情になりきれない女であることは事実だ。
どうしようもなく不器用で、不安定で、孤独なあの人を救いたい。その一心だけで、自分はここにいる。
案内されたのは、裏庭のよく見える一室であった。壁紙やカーテンなどは落ち着いた色彩でまとめられ、未だによく清掃されていることが窺える。
部屋の中央にがらんと不自然に開けた空間を指して、家令が硬い声で告げる。
「寝台は、事故が起こってすぐに撤去されました。流石に、血痕のついたものを残しておく訳にはいきませんから……」
同様の理由で、壁紙や絨毯も一部が取り替えられたそうだ。口ぶりからして、この部屋はファリオンによる凄惨な事件の現場にはならなかったようだ。
さりげなく置かれている調度品の類は、一目見ただけで一級品だと分かる。往年のレウィシス家の繁栄ぶりを窺わせた。
「分かりきったことを訊くようだが、就寝してから死体が発見されるまでの間に、この部屋に人の出入りは」
「なかった、ということにはなっていますが、実際には木さえ登れれば侵入は可能だったかもしれません」
指さされたのは、窓の外だ。何も見当たらずに怪訝な顔をすると、家令は「かつては庭木が窓のそばまで伸びていました」と嘆息する。元々は目隠しのための木だったが、夜の闇に紛れれば窓から侵入することは可能だったという。
「元から、人の出入りによく使われていたのか」
問うと、不自然な沈黙が落ちた。家令は口を噤んだまま、室内の様子に目をやっていた。それから、まるでカナンの言葉がなかったかのように窓を指さす。
「しかし、あの窓は昔から立て付けが悪くて開閉がしづらいのです。フェウランツィア様も、窓を開閉される際は使用人を呼んでおりました」
「つまり、犯人が窓から侵入したとすれば、それなりの腕力が必要ということか」
「庭木との距離も多少はございました。そのため、犯人は男か、……あるいは、背が高くて力のある女かと言われておりました」
男だろうな、と内心で独りごちながら、カナンは顎に手を当てた。
痴情のもつれ、と下世話で俗な発想が頭をよぎる。しかし、正妃ともあろう者が、まさかそんな……。
一言断ってから、カナンは慎重に室内へ足を踏み入れた。まるでほんの先程まで、部屋の主がここにいたかのような感覚になる。鏡台の上に、無造作に置かれたままの髪飾りを見つけた。大粒の宝石があしらわれたそれをしばらく注視する。
「部屋は、荒らされていなかったのか」
「物取りの犯行ではないようでした。遺体に関しても、酷く傷つけられたり乱暴された形跡はなく、怨恨による殺害でもないのではないか、と」
それでは、政治的な意図の絡む暗殺とみて良いのだろうか?
侵入経路となったかもしれない窓際に近づくと、細々とした花壇の並ぶ裏庭が見えた。客を招いて披露するためというよりは、まるで畑か植物園のような、飾り気のない佇まいである。
その中に、ひとつの色彩を見つけて、カナンは一度、ゆっくりと瞬きをした。
「随分とよく手入れされた庭があるようだが、こちらの庭は、正妃の手で作られたものなのか」
心持ち声を大きくして言うと、家令は「ああ……」とどこか呆然としたような風情であった。
「どうしてお分かりに?」
カナンは答えず目を眇めた。
「……よく、出入りしていたのか」
何故か、声が嗄れていた。いちど咳払いをして、カナンは思うようにならない喉へ指先を添えた。
「ええ。存命の頃は、フェウランツィア様自ら手入れをなさっていることもあって」
薄ら寒さが、背後から忍び寄ってきていた。具体的に何を言ったかは定かではない、カナンは庭を見て回りたいという旨を伝えて、家令はそれを了承した。
足が床についていないような、覚束ない心持ちだった。ふらつきながら、部屋を出て、階段を降りる。廊下の壁に掛けられていた鏡を横目で見やると、まるで死人のように蒼白な顔をしていた。
***
どうしてエウラリカがほんとうに純粋無垢な姫君として育つことができなかったのかを、カナンは知らない。彼女が新ドルト帝国を憎む由縁は歴史にあれど、自ら剣を握り、あれほどに骨身を削って行動を起こす理由を知らない。
彼女が何に突き動かされているのかが分からない。どうして彼女が、自身の母親を、我が身を強く憎悪するのか、カナンにはちっとも分からない。彼女が抱える虚ろな諦念の正体を、知ろうとすることさえ許されない。
視界が開けて、庭園に繋がる扉を潜ったことが分かった。空は明るいが、曇天である。どこか湿った空気は、雨が近いことを予感させた。
ふらふらと、何かに糸を引かれるかのように庭園へ歩み出す。数歩後ろをノイルズたちがついてきていたが、無言で歩を進めるカナンを静観するのみで何も言わなかった。
フェウランツィアとエウラリカは、容姿のよく似た親子だ。
血が繋がっているのだから当然だ。血縁関係は疑うべくもない。
エウラリカが決して余人に触れられたくない領域を、カナンは既に薄らと把握していた。
彼女が激烈な反応を示した場面を、いくつか思い浮かべる。エウラリカが声を荒げて激昂し、あるいは恐怖にも似た拒絶を露わにすることは、決して多くない。
私に触るな、と絶叫したエウラリカの姿を思い出す。寝台の上で、小さな体を必死にかき抱いて、震えていた。
ハルジェル外遊の際である。本当に何気なく、警戒する様子もなく着替えだしたエウラリカに焦ってしまった。だから慌てて諫めたのに、彼女がからかうみたいなことを言うから、
――男一人部屋に入れて前触れなく着替えといて、何が『勝手に見ていた』ですか、と。まるで誘うみたいなことをしているのは、あなたの方じゃないか、と軽口のつもりで投げた言葉だった。
エウラリカはその一言に激しい動揺を示した。自分の正体を見失ったかのごとき反応をみせた。『私は、あの女とは違う』と。
彼女が着飾ることを好まない理由は察している。エウラリカは、自らの容姿が母に近づくことを恐れている。だから『あの女』とは、フェウランツィアのことで間違いないはずだ。
簡単な推測は、ずっと前からカナンの脳裏に存在していた。しかし、それを認められないでいた理由は単純だ。だってそれじゃあ、とカナンは口の中で呟いた。
(それでは、まるでフェウランツィアが男を誘っていたみたいな言い方だ)
正妃ともあろう女が、まさか、そんなことをするはずが……。
ふわりと、どこからともなく甘い香りが漂う。湿った空気に、花香が染み込んで、滲んでいる。
香りの方向に顔を向け、「ああ」と思わず声が漏れていた。
既に花はほとんど散ったあとらしい。一つふたつ、茎の先に残された花は、花弁の上の露さえ深紅に染まっているようだ。鈴生りの果実を眺めながら、カナンはやり場のない絶望が迫ってくるのを感じていた。
香りが特徴的な、赤い花。
この辺りでは露地栽培できるのだな、と上の空で考える。帝都よりは原産地に近い。気候も温暖なのだろう。この街は交通の要で行商も盛んなようだ。異国の薬草を手に入れるのも可能なはずだ。
フェウランツィアが手ずから育て上げた花である。たったその一点のみで、思考は勝手に走り出そうとする。
いや、見た目も花香も良い花だ、先の正妃がそれを好んだとて何も不思議はない。妄想の域に達しそうな推測を押しとどめようと、かぶりを振る。
しかし、国母が愛好するには、やや曰くがありすぎるのではないか? そんなのは言いがかりだ。しかし事実、フェウランツィアが生活していた屋敷と帝都にて、同じ花が確認されているじゃないか。
温室では多種多様な植物が育てられていたが、この庭園と共通する花はこの一つのみである。
(温室……)
気がつけば、辺りは暗くなっていた。
ぽつり、と鼻先に雫が落ちる。いつしか頭上は黒々と分厚い雨雲の底で、今にも堰を切って長雨の訪れそうな空だった。
『だいたい、あれは私の温室なんかじゃないわよ』と記憶の中でエウラリカがため息をつく。
『あれは、元々、私の母親のために作られた温室だった』
『その存在は広く知られてはいない。隠匿されているのよ』
何も後ろ暗いところがないなら、どうして秘密にせねばならない?
――お前の秘密を知っているよ、エウラリカ。
花の香りのする便箋と、名指しの暗号が頭をよぎる。
蒼白な顔で、どうして、とエウラリカが呟く。
『わたしは、おとうさまがいればそれだけで良いの』
彼女の手が触れる唯一の人間のこと。彼女が完璧に隠しおおせた思慕のこと。
どうしてエウラリカは、それを秘密にしなければならなかった?
禁忌だから。倫理に反した関係だから。……何が? 誰と誰の関係が?
カナンは項垂れたまま呻いた。声も出なかった。
足下を見れば、乾いていた地面に無数の穴が空くごとく、黒々とした染みが広がりつつあった。見る間に濡れてゆく地面を見つめながら、濡れた髪の先でいくつもの雫が膨らんでは落ちるのを眺めながら、カナンは声を殺して目元を覆った。
家族が厭わしいのだとエウラリカは語っていた。自分のことさえおぞましくて仕方ないと。
父親であるルイディエトのことも嫌いなのか。無神経な問いを投げた自分に対して、彼女の答えは端的であった。
『父親なんかじゃないわよ』
――エウラリカは一度も、ルイディエトを父親と呼称したことはない。
底が抜けたような豪雨が激しく叩きつけている。水煙に視界の霞む庭園の中で、カナンは自身の推測を受け入れられないままでいた。
いくつもの光景が、目の前の赤い花を糸口に、渦を巻いて脳裏を駆け巡る。
結論が実を結ぶよりも前に、大きな声で叫びだしてしまいたかった。思い違いだと一笑に付してしまいたい。それなのに、こんな馬鹿げた疑念が頭から離れないのだ。
(エウラリカ、)
誰よりも気高く、悠然と、支配者たる威風を持つ彼女の姿を思い浮かべる。今ここにいない彼女のことを、力一杯に抱き寄せたい。衝動に突き動かされても、エウラリカはいない。
王女として生まれるべく生まれた女だと思っていた。どのような歴史があろうと、これまで帝国を統べてきた王族の血が、その身に流れている。
その血統こそが、彼女を恐ろしく、それでいて抗いがたい王者たらしめているのだと、無邪気に思い込んでいた。
私は、生まれるべきではなかった。そう呟く横顔が、あれほどによそよそしく感じられた理由をぼんやりと悟る。
途方もない絶望が、風が吹けば今にも消えてしまいそうな空虚が、いつもエウラリカを覆っていた。彼女はずっと、……ずっとこんな、
眼前で、ポネポセアが雨粒を受けて頭を垂れている。降りしきる雨の冷たさが、頭から肩へ、胸元や背へと染み込んで心胆を寒からしめる。
もしも、彼女がクウェール家の血を引いていないとしたら、だったら、
――エウラリカの父は、一体誰だ?
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