長雨 3
ゼルラクは山の向こうの町まで案内してくれた。ついでに用事を済ませると言って馬車とともに雑踏へ消えた後ろ姿を見送り、カナンたちは町角で顔を突き合わせた。
「どうします?」とノイルズの問いかけに、カナンとユインは腕を組んで顔を見合わせる。
「正直、見通しが甘かったことは認めます」
ユインが小さく嘆息してかぶりをふった。
「アルトランに行きさえすれば、証拠が掴めると思い込んでしまっていました。まさか屋敷が丸ごとなくなっているとは……」
「ただ、分かったこともある」
悄然としているユインの言葉を継いで、カナンは背後の山を一瞥した。
「この地域にまつわる一連の出来事が、明らかにきな臭い」
苦い表情で頷く様子からするに、どうやら同行している全員の総意らしかった。
「現段階で調べられそうなところというと、その『山の上の土地を買った貴族』ってのがどうも気になりますね」
ユインが呟くと、ノイルズは「しかし、」と眉根を寄せた。
「領主館のある街までは、ここから三日はかかります。ただでさえ行きで時間を食いました。帝都で皇帝陛下の不在を何とか誤魔化している状態で、これ以上行程を長引かせるのは得策ではない」
「母様が自ら協力してくださっているとは言え、僕もあまり迷惑をかけたくはないと思っています。……でも、こんな機会はもうないかもしれないと思うと」
口惜しそうにユインは項垂れる。帝都では今頃、ユインの実母が息子の療養のためと言って時間を稼いでいる頃のはずだ。
ここまでか、と肩を落とすユインをしばらく眺めてから、カナンは何気なく呟いた。
「俺だけで行くか」
は、とユインが息を飲んで顔を上げた。
「どのみち、仲良く肩を並べて帝都に帰還することはできない訳だ。ここで別行動にしても良いんじゃないのか」
「待て、今回は別行動を想定した人員じゃないんだぞ」
ノイルズが制止するが、カナンは取り合わずに「どうだ」とユインを見た。答えを聞く前から返事は分かった。ユインは大きく目を見開き、こくこくと頷いている。
「ほら、皇帝陛下も乗り気のようだ」
にこやかにユインを指し示すと、ノイルズは絵に描いたようなしかめっ面になった。
翌朝、日が昇ると同時に、ユインと大半の護衛は早々に帰路についた。元来た道を引き返すと、アルトランの村人たちに見つかった場合とんぼ返りを怪しまれる。山をぐるりと回った別の道を通って戻るらしい。
その数刻後にカナン、ノイルズを含む少人数が反対方向に向けて街を発つ。目的はレンフェール領に隣接するエルヴ領の領主である。何となく名前に聞き覚えがある。会ったことがあるだろうか、と記憶を掘り起こしながら、カナンは首を捻った。
「次に護衛任務を頼まれても絶対受けてやらないからな」
ノイルズが大変不満げにぼやくのを聞こえなかったふりで受け流す。こんな危うい旅路がもうないことを祈るが、もしも似た状況になったら彼は何だかんだと力を貸してくれるはずだ。
***
人数を減らし、身軽になった行程にこれといった支障はなかった。見慣れない色彩の異国人に奇異の目を向ける住民もいたが、まさか総督がこんなところを彷徨いているとは思わないらしい。
こうしていると、どこにでもいる、ごく普通の旅人のような気分だ。特に地位も立場も柵もない、自由な――
「――総督閣下! 宿に関してなんですが……」
人通りの多い街中で声高に放たれた一言に、冷水を浴びせかけられた気がした。
耳慣れない呼称に怪訝そうな顔をして、道行く数人が振り返る。カナンは咄嗟にフードを目深に被り、「どうした」と低い声で応じた。
あ、と口の前に手を当てて、呼びかけてきた兵は失態を悟ったらしかった。まだ若い兵で、カナンと大して変わらないか、いくつか年下だろうと想像がつく。腕は立つのだろうが、こうした物言いに粗忽なところが見られる青年だった。
あたふたとしながら、兵は声を潜めて囁いてくる。
「その、宿の部屋が足りないらしくて、相部屋なら用意できるみたいなんですが」
「ああ……」
知らない人間と同じ部屋で寝るのは、できれば避けたい。しかし他に部屋がないなら、野宿よりは多少ましだろうか? 思案して頭を掻くと、音もなくノイルズが前に出た。
「次の街に行くぞ」
有無を言わせぬ口調に、カナンは目を丸くした。
「今からだと、到着する頃には真っ暗になっているんじゃないのか」
「この街に滞在しているよりは良い」
ノイルズが鬼気迫る形相で言い募るので、気圧されるようにして頷いてしまう。
足早にその場を立ち去りながら、雲行きを確認する。天候は悪くないし、まだ日も傾きかけた程度である。
視界の端で先程の兵が青い顔で縮み上がっているのを見つけて、カナンは軽くその背を叩いてやった。「気にするな、大した失敗じゃない」と微笑むと、兵は引きつった笑みで頷く。いやにしょげた様子が可哀想だ。
「俺のことは同僚だとでも思って接してくれれば良い。だってあいつが一番偉そうだもんな」
一歩先を行くノイルズを指しながら軽口を叩く。「あ、いえそんな、恐れ多いです」と恐縮した様子で目を逸らす兵にもう一度微笑むと、カナンは前方に視線を戻した。
片手で馬を引きながら、大股で歩きながら、ノイルズが肩越しにこちらを振り返っていた。目が合うのが分かった。思わず体が固くなるほどに鋭い眼差しに、一瞬だけ息を止める。
「行くぞ、カナン」
そう言って目を細めた表情は、何の屈託もなかった頃のように親しげであった。
幸いにも次の街まではそれほど距離はなく、日没を過ぎた頃には既に宿を確保できた。予定外の強行軍に全身がくたくたである。明日には目的地に着くことだし、早いこと何か腹に入れたら休んでしまいたい。
日数を頭の中で数えて、エウラリカのことを考える。そろそろ彼女も東ユレミアに着いた頃だろうか? 何も起こっていないと良いけれど、あの人は何をするか分からないから、顔を見て話を聞くまで心配だ。
早く会いたい、と疲れた頭でぼんやりと思った。早くあの人を救いたい。彼女が何を思い悩んでいるのか知りたい。あんな苦しそうな表情をしないで欲しい。
(エウラリカ……)
彼女のためじゃない。ぜんぶ、彼女を救いたい自分のためだ。
馬を預け、荷物を手に宿の部屋へ上がろうとして、カナンは首を傾げて振り返った。
ノイルズが上がってこない。「どうした」と声をかけると、彼は笑顔で「先に行っていてくれ」と応じた。
何か差し障りがあっただろうか? 当惑して階段の中ほどで立ち尽くすカナンを、別の兵が「行きましょう」と促す。その声音がやけに急かすような響きを帯びているので、カナンは小さく頷いた。
***
部屋に入り、軽装になって少し寛いで、ノイルズが来ないことに気づく。改めて部屋を見回してみると、室内にいるのは二人だけである。ノイルズと、あともう一人足りない。いないのが先程の兵だと気づいた瞬間、妙な胸騒ぎに駆られて、カナンは咄嗟に立ち上がっていた。
「ノイルズはどこに行った?」
問えば、二人はいまいち要領の得ない反応をする。少し迷って、カナンは無言で部屋を出た。制止しようとする護衛を振り切り、大股で外へ歩み出る。
宵の口の街は薄暗い。隣の通りからは繁華街らしい賑やかな気配が伝わってくるが、一本路地に入った宿屋の前はしんと静まりかえって冷ややかである。下ろした髪が首筋を撫でる。頬を掠めた風は湿り気を帯びて冷たい。
「なあ、俺はそんなに難しい話をしているか?」
そんな声が聞こえたのは、灯りも持たずに数十歩進んだ頃だった。
「お前のちょっとした不注意で、あいつが危険に晒されるんだ。お前があいつを殺すんだ。ほんの一つの失言で、お前は帝国を滅ぼすんだ。分かってるのか」
聞き慣れた声音に、自然と足が止まり、耳に意識が集中する。ノイルズの声だった。嫌になるほど聞き覚えのある口調だった。
昔、いつだってノイルズは正しくて、彼自身もその正しさを確信していた。淡々とした口調で、決して相手をなじるでもなく、むしろ優しいくらいの言い方で、相手を諭すのだ。
気障なところのある優男で、自他共に認める優秀な男だった。出世頭になるのも不思議ではなくて、彼の率いる中隊の人員は使えるともっぱらの評判だ。
「今回お前を連れてきたのは、お前に見所があると思ったからだ。お前なら絶対、もっと成長できる。他の奴らも、お前のことを努力家だと褒めていた。俺は、お前に期待しているんだぜ」
だから、期待を裏切らないでくれ。甘いと言っても良いほどに優しい声で、ノイルズが告げる。
「はい」と弱々しい声が応えるのを聞きながら、カナンは足下から背後に悪寒が這い上がってくるのを感じていた。
「ノイルズ」
暗い路地裏に足を踏み入れて、カナンは何か言おうとした。口の中がからからで、上手く声が出なかった。唾を飲もうと喉を鳴らしたが、上手くいかなかった。
「――何やってんだ、お前」
背中に民家の灯りを受けて、自分の影が足下から長く長く伸びているのを、見るともなく眺めながら、カナンは感情のない声で呟いた。
握り締めた拳の輪郭が、薄暗がりの中で不気味に浮かび上がる。
その拳の先にいる兵は、口の端が切れて、顎まで血が垂れていた。頬には明らかに殴られた跡があり、怯えと恐怖がその表情に色濃く表れている。
放心したように動けない部下の胸ぐらを掴んだまま、ノイルズは笑顔で「ああ」と応じる。立ち上がりながら、目を細めて、柔らかい声でカナンを見る。
「そうだよな、腹が減ったよなぁ。待たせて悪かった」
まるで何もおかしなことなんてなかったみたいに、平然と、こちらに向かって歩いてくるのだ。
「行こうぜ」と背を叩かれて、カナンは絶句した。ノイルズの手が離れ、狭い路地の暗がりに倒れ込んだ兵から視線を外せない。
背に触れているノイルズの手を振り払い、カナンは倒れている兵のそばに歩み寄ると、屈んでその腕を取る。慎重に担ぎ上げて、「大丈夫か」と声をかけると、辛うじて肯定するような返事が聞こえた。
「……前から、こんなことをしているのか」
呻くようにノイルズを睨みつけると、彼は「ただの指導だよ」と微苦笑を浮かべた。昔見たものと酷似した笑顔だった。
「気にするなよ。だって俺たち友達だろ? 友達を守るのは、当然のことだ」
ずっと彼を避け続け、臭い物に蓋をするみたいに対話を拒んできたツケが回って来たのだ。そう直感して、カナンは慄然とした。
気づけなかった。ノイルズがこんなにも変わっていることに、ずっと気づけないでいた。
ノイルズも、カナンが変わったことを何も知らないのだ。彼が見ているのは、かつてエウラリカの奴隷だった哀れな友人だ。庇護する必要のある、小柄な異国人である。
「取りあえず、夕飯にしよう」
この期に及んで、まるで日常の他愛ない会話みたいな台詞しか出てこない。自分の意気地のなさに絶望した。
笑みを深めて頷いたノイルズを見ているうちに、彼が時折怯えたような仕草をしていることに気づく。カナンが口を開くたびに、その目が僅かに見開かれるのだ。何かを言われることを恐れてでもいるように、体を固くしている。
――まるで昔に戻ったみたいだだなんて、無邪気にそんなことを考えていた自分が恥ずかしかった。
***
目的地の街に到着した頃には、カナンとノイルズは声を発しようともしなかった。会話が途切れて、両者のあいだの空間がぽかりと口を開けていると、足りない誰かの存在をまざまざと突きつけられる。
再会してから、その人の名前はただの一度たりとも話題にのぼらなかった。それが答えである。まるで昔みたいだ? 馬鹿な勘違いだった。
領主のいる街らしく、市街地を囲む城壁は高く立派だ。大きな門のところは多くの馬車や旅人たちがひっきりなしに出入りし、交通の要衝になっていることが窺える。
「はい、次の人……今日は一体何の用で?」
愛想の良い門番に声をかけられて、カナンは口元にちょっと笑みを浮かべてフードを下ろした。ここ最近の多忙でまた長くなってしまった黒髪が露わになる。門番は少し意表を突かれたような素振りを見せたものの、異国人が相手だと分かった瞬間に不躾になる訳でもなかった。
「先触れなしでの訪問で申し訳ない。領主殿にお目通り願いたいのだが、ご都合がよろしいか訊いてもらえるか」
努めて朗らかに告げると、門番は怪訝そうな視線をカナンの頭から足下まで数往復させた。それから息を飲んで数秒硬直し、事態が分かっていないらしい同僚の肩を叩いて呼び寄せる。
「りょ、領主様んとこ、行ってこい」
「いきなり何だよ」
「おお、お客様が」
あたふたとしたやり取りを眺めながら、カナンは内心で苦笑した。
「客が来るなんて話あったか?」と門番が首を傾げると、もう一人が「馬鹿」と小突く。
そこから先は声を潜められたので聞き取れなかったが、何を言われているかは大体分かる。はっと目を見開いてこちらを振り返った門番が、「まじで?」と呟く。
遠慮がちに「どうぞお通りください」と門を通され、カナンは半笑いで門番の横を通った。ほとんど奇襲のように訪ねてしまったことは悪いと思っている。
小高い丘の上に作られた街を、門を通り過ぎたところから見渡す。蛇行する道の先に、巨大ではないが趣味の良い屋敷の外形があった。
通りの左右には露店がひしめき合って並んでいる。街の入り口近くは食べ歩きができるような軽食を売っている屋台が多いようで、油っぽさと熱気がむわりと押し寄せた。
「お兄さんたち、小腹すいてない!?」
よく通る子どもの声に、カナンはそちらへ顔を向けた。まだ十を少し過ぎた年頃の少年が、カナンたちに向かって手を振っている。奥で母親と思しき女が作業をしていた。看板をちらと見るに、この辺りの地域でよく食べられている揚げ物らしい。聞き慣れない名前の何かが揚げられている。肉なのか魚なのか、他の何かなのかは定かでない。
愛嬌のある表情で合図を送ってくる店番の少年に応えようと、口を開きかける。
「帰りに時間があれば寄らせてもらうよ、ありがとう」
明るい口調でノイルズが応じるので、カナンの声は音になる前に宙ぶらりんになった。愛想の良い対応は大人びていて、何もおかしなところなんてない。
坂を上がるほどに簡素な造りの露店は減ってゆき、路上に向けて店を構えた商店が増えてゆく。領主がいるであろう屋敷は着実に迫っていた。
直前の先触れで大慌てになっていることは想像に難くない。少し時間を稼ぐべきかと歩調を緩め、宝飾品を売っているらしい店の前で立ち止まる。どうして自然と足が止まったのかと考えて、視界の端にあった指輪に気がついた。
店頭に向けて展示されている商品である。決して派手ではない、控えめな品であった。大きな夜会で見るような、周囲の人間に誇示するかのごとく高価なものではない。
金の台座に嵌められた石が、きらりと輝く。青い石だが、見る角度によって時折緑色を帯びた光が奥でちらつく。
「…………。」
エウラリカに買って帰ったら喜ぶだろうかと、一瞬考えた。彼女が宝飾品を好むのか知らないし、身につけるにしてもどのようなものが好きかも分からない。
そもそも、指輪なんて……。
(俺が贈ったって嵌めるわけがない)
大体こんなあからさまな色彩の代物をこれ見よがしに用意して、エウラリカはどうせ鼻で笑うに違いない。皇帝の側近なんて大層な肩書きの人間が、皇帝の姉に贈るようなものじゃない。
(エウラリカは決して俺に応えない)
すらりとした指が瞼の裏にちらついて、カナンは唇を引き結んだまま黙り込んだ。一度も触れたことのない手のひらを想像する。ろくに見た記憶もない。
「随分と熱心に見てらっしゃいますね」
不意に声をかけられて、カナンはびくりと肩を跳ね上げた。我に返って顔を上げると、笑みの形に皺のできた老婦人が、こちらの顔をにこにこと覗き込んでいた。
「良い品ですよ。二、三十年ほど前にとても流行った組み合わせなんですけどね、この辺りでは最近とんと売れないんです」
「……今はもう新しい流行があるということですか」
何となく食ってかかってしまうと、店主と思しき老婦人は苦笑しながら首を振る。
「レウィシス家もあんなことになってしまって、ほんの少し、曰くがついてしまいましたから……」
脈絡なく出された名前に、カナンは瞬きをした。言わずとも怪訝な表情が伝わったのだろう、店主は手の甲を手のひらで撫でながら、道の先の屋敷を仰ぎ見た。
「この街は元々レウィシス領の中心地にあたる街で、あそこに見えるお屋敷も、二十年くらい前まではレウィシス家の皆様が住んでいたんですよ」
「レウィシス家の屋敷?」
「ええそう。領主様に、そのご夫人に、ファリオン様とフェウランツィア様……。今となっては、新しい領主様のお屋敷になっていますけれど」
知らなかった。目を丸くすると、店主は苦笑したようだった。
「すみません、レウィシス家の話は何となく聞いたことがある程度で」
「仕方のないことです。未だに大きな声で語るには躊躇われる話ですから」
口の前に手を当てるようにしながら彼女は、ほほ、と上品な笑い声を漏らす。
「……今となっては、すべて昔の話です。いずれ誰の口にのぼることもなくなるでしょう」
寂しげに呟いた老婦人の表情からは、往時のレウィシス家が領民から慕われていたことが窺えた。
「きっと、レウィシス家は呪われたのですね」
「呪われた?」
聞き返すと、店主は失言を恥じるように目を伏せた。忘れてください、とかぶりを振る彼女の袖を捕まえて、カナンは低い声で訊いていた。
「ファリオン・レウィシスという人間が、今どこで何をしているか、ご存知ではないですか」
「ああ、やめてください!」
店主がいきなりか細い悲鳴を上げたので、カナンは仰天して手を離した。店主の顔は蒼白であった。「その名前を出してはなりません」と囁く。カナンがなおも話を諦める様子がないと悟ると、手招きをし、耳を近づけるように合図をする。
「ファリオン坊ちゃまがどこで何をしてらっしゃるか、知る者は誰もおりませんわ」
言い方からして、他のレウィシス家の人間のように死亡が確認されている訳ではないらしい。訳ありなのは、彼女の反応からしても明らかだ。
「ファリオン様とフェウランツィアお嬢様は、本当に仲の良いご兄妹でした。坊ちゃまは、フェウランツィア様が殺害されたことに誰よりも憤激しておられました。ただ、あの方は家族を愛していただけなのです」
目を細めて、続きを促す。店主の老いて張りのなくなった喉元が、ゆっくりと上下した。
「ファリオン様は、哀しみのあまり、少しばかり精神に異常を来たしたのでしょう。ある日、突然、屋敷内で剣を持ち出すと、家人を見境無く――」
動揺した店主の話は聞き取りづらく、まるでつい数日前に起こったことのような臨場感があった。最後まで聞いてみれば、それは身の毛もよだつような話であった。
家族を全員失い、唯一残された跡取りが、使用人たちを手当たり次第に殺戮していったのだという。『お前が犯人か』と叫びながら、屋敷を上から下へ、それだけでは飽き足らず、市街にまで出てくると、今度は道行く市民を襲い始めた。
通りは狂乱して逃げ惑う人々の悲鳴で溢れかえり、ファリオンが取り押さえられた頃には何十人もの人間が死傷したという。
「ファリオン様は、街の男衆に取り押さえられながら、笑っていたのです。にこにこってして、笑っておられた。『フェウラ、お前を殺した犯人を、必ず見つけてやるからな』と言いながら……。あのお姿を思い出すたび、私、今でも寒気がいたします」
話している間、店主は手の甲を撫でさすり続けていた。その手の甲から、袖に隠れた前腕に向かって、痛々しい切り傷の跡がある。それに気づいた瞬間、カナンは鋭く息を飲んだ。
「すみません、無理に話させてしまって……」
「いいえ。うんと昔のことですから」
店主は苦笑し、長い息を吐いた。
「以来、レウィシス家は後継を失い、取り潰されることとなりました。ファリオン様がどこで何をしておられるのか、知る術もございません。どうか、どこかで心穏やかに過ごしていればよいのですが」
壮絶な最後を迎えたレウィシス家を思って、カナンは胸に重いものがつかえた気分になった。これから向かうのが、その曰く付きの屋敷だと思うと、薄ら寒いような心地になる。
店主は声を潜めて、「ファリオン様に関することは」と厳しい声で囁いた。
「決して、話してはなりません。あの方のことは、この街では未だに禁句なのです」




