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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【花香】

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長雨 2



 アルトラン、と小さな看板が立てられた山間の村に辿り着いたのは、帝都を出発して七日目の昼過ぎだった。長雨に足止めを食らい、思いのほか時間がかかってしまった。

「ここが」とユインが放心したように呟く。


「ここが、父上の育った村……」


 看板を見る。レンフェール領、アルトラン。塗料で塗り潰された上に書かれた『レンフェール』の名を指先でなぞる。この看板に本来書いてあったはずの文字は、知っている。

「旧レウィシス領、か」


 田舎に取り残された農村を見渡し、カナンは短く息を吐いた。谷間の斜面には低木がほとんど等間隔に並び、枝々に色づいた果実が実っている。

 のどかで、平和な村だ。視線を上げれば果樹園の中に点々と家屋が散らばっているのが見えるが、村の入り口近くには小規模ながら市場があるようだ。


「あらあら、どうしたんだい! こんな僻地の村に何か用かね」

 いきなり村の入り口に現れた男たちに驚いた様子で、通りすがりの農婦が目を丸くした。背負っている籠には、瑞々しい香りを放つ柑橘が山と盛られている。

「すみません、いきなり大勢で訪ねてしまって」

 ユインがいち早く進み出て、何気ない、明るい口調で声を発した。


「父がこの村でお世話になったと聞いたことがあって、たまたま近くに来たので立ち寄ったんです」

 怪訝そうな顔をした農婦に、ユインは笑顔で問う。

「聞き覚えないですか? ルイと、フェウラと――」

「あ、ちょっと待ってちょうだい! その名前、確かにどこかで覚えが……」

 農婦ははっとした表情になり、しばらく虚空を見上げて黙り込んだ。ややあって、「レウィシスのお坊ちゃまがたとお嬢様!」とユインを指さして大きな声を出す。

「その顔は、ええと、どちらかと言えば……ルイ坊ちゃまの倅かい?」

「はい」

 先代はこの村にゆかりがある。道中でユインが言っていたことだが、どうやら本当のことらしい。


 わあ、と農婦が歓声を上げて、ユインの顔をまじまじと覗き込んだ。

「そう、あの子もこんな大きな子どもがいる年かい」

 幼い日のエウラリカが想像できないのと同じように、かつてこの村にいて、親しげに語られるルイディエトの姿が、カナンにはまるで思い描けなかった。



 ***


「ルイ坊ちゃまは元気かい」

「父は元気にしているようです。ちょっと元気すぎるくらいかも、はは」

 小さな村である、噂が駆け巡るのも早いらしい。村長とやらの家に招かれたユインは瞬く間に村人たちに囲まれ、人好きのする笑顔を浮かべて応対している。


「それにしても、ルイ坊ちゃまがきちんとお嫁さんをもらえたようで良かったわぁ」

 一人が言うと、年嵩の村人たちは異口同音に同意を示した。

「ルイ坊ちゃまはいつもお嬢様のことを目で追いかけていたからなぁ。健気でもう……」

「フェウラお嬢様は皇帝陛下のお妃様になってしまったからねぇ」


 ぴく、とカナンは壁際に立ったまま眉を跳ね上げた。村人の言葉を反芻する。

(この村の人間は、『ルイ』が先代皇帝『ルイディエト』だと知らないのか)

 そのことを、ユインも把握しているらしい。そうでなければ軽々しくルイディエトの息子だと名乗るはずがない。フェウランツィアの正体は分かっているようだ。『レウィシスのお坊ちゃまがたとお嬢様』という言葉からして、ルイディエトも同じくレウィシスの縁者だと思われていたのだろう。


 いわゆる、幼馴染みだったのだろうか。

『あの人は私たちのお母様を、今でも盲目的に愛している』

 エウラリカの冷ややかな声を思い出す。おかあさま、と音ばかりは愛を込めて呼んでいても、そこに親しみというものは存在しなかった。


 ひとつの可能性が頭をよぎる。

 幼い頃から思いを寄せていた少女が、兄の婚約者になった。自分がずっと懸想していた女を、目の前でかっさらわれる。

 恋情は人をとびきり馬鹿にする毒だと聞く。ルイディエトが良からぬ衝動に駆り立てられたとしても不思議ではないのかもしれない。


 なぜかエウラリカの顔が瞼の裏に浮かび、カナンは思わず頭を掻いた。……馬鹿馬鹿しい。



「父は幼い頃どんな子どもだったんですか?」

 自然体で会話に興じるユインの姿を眺める。それなりの家で生まれ育った少年であり、だが、それ以上でも以下でもない印象を受けた。

 仮にも、この新ドルト帝国の皇帝なのに、そうした気配をおくびにも出さずに農民と接している。

(並のお坊ちゃんにできる芸当じゃないよな)

 内心で舌を巻く。もし自分がずっと祖国で生活していたら、ここまで上手く村人の中に紛れ込めただろうか?


「ルイ坊ちゃまはねぇ、本当に良い子で」

「真面目で、細かいところによく気がつく子だったね」

 村人たちが口々に語るのは、素朴で善良な少年の姿である。手振りを交えた思い出話からは、平和な村で住民たちに見守られながら生活している様子が目に浮かぶ。いくつか年下のフェウランツィアを随分と可愛がっていた、とも。


 いつも何を考えているか分からず、影が薄くて得体の知れない男の様子からは、いまいち想像できなかった。



「ところで、今日は何の用で近くまで来たんだ?」

 ふと、村人の一人が、部屋の隅で待機しているカナンと外に立っている護衛に目をやって首を傾げた。特に、見慣れない顔立ちの異国人がいることが気になるらしい。いつになく不躾な視線を向けられ、カナンは咄嗟に口元に愛想笑いを浮かべた。

「俺はただの付き添いで――」

「山の向こうのエルヴ領に行く予定なのですが、山を越えるついでに、父が過ごしていたという屋敷を見てみたくて」

 曖昧に答えようとしたカナンの言葉を引き取って、ユインが滑らかに答えた。何気ない口調の言葉に、しかし、村人たちは一斉に顔を見合わせて口を噤む。


「山の上のお屋敷に行こうってか? そりゃ無理な話だ」

 そのとき、のっそりと戸口から姿を現したのは、大柄で腕っ節の強そうな男であった。年のほどは四十ごろか。頑健な体格を上から下まで観察して、カナンは眉を上げる。人足だろうか?


 男は額や首筋の汗を拭いながら、身なりを整えることもせずに室内に入ってくると、ユインをちらと見る。

「あの屋敷は、二十年も前になくなった。どこかの馬鹿貴族のせいでね」

 気づけば、それまで一様に笑顔を浮かべていた村人たちの顔が固く強ばっていた。押し黙り、俯きがちに視線を合わせては鼻を鳴らす様子は、宿怨にも似たわだかまりを窺わせる。仲間内でひそひそと囁く声が聞き取れず、カナンとユインは当惑して顔を見合わせた。

「そう憶測でものを言うもんじゃない」と男は低い声で一喝すると、ユインに向き直って首を傾げた。


「屋敷が『あった』付近までで良いなら、案内してやれるが」

 曰く付きの橋の跡地も見せてやる、と男は表情の薄い口調で、背後の山を親指で指し示した。


 屋敷がなくなった。橋の跡地? 何かが妙だぞ、とカナンとユインは顔を見合わせた。



 ***


 男は周辺の山の木を切り出して薪炭材や建材として売ることを生業にしているらしく、名をゼルラクと名乗った。


「強引に連れ出すようにして悪かったな」と、ゼルラクは無愛想な口調で呟いた。斧やら鋸やらの道具が積まれている馬車の荷台で揺られながら、カナンは「いえ」と応じる。

 山道に入ってしばらく経つが、馬車の周囲を護衛が囲むだけの幅員はある。手入れのされた道の様子からは、思いのほか人通りが多いことを窺わせた。


「……二十年前に、何があったんですか?」

 御者台の真後ろで、ユインが慎重な声で問うた。

「こっちの話だ。元々、アルトランと山の向こうは折り合いが悪くてな。村の連中は、二十年前の災害がエルヴの領主のせいだと思い込んで譲らないわけだ」

 低く掠れ気味の声でぼそぼそと喋るゼルラクは、その体格も相まって熊のような印象を受ける。が、ちらとユインを振り返った眼差しは驚くほどに鋭かった。


「ついでに、あいつらの大半が、随分な貴族嫌いになった」

 まるで睨むような視線に思わず息を詰めるが、どうやらゼルラク自身にそのつもりはなかったらしい。

「俺も詳しいことは分からねぇが、おたくら、結構な高位貴族だろう」

 ユインは無言で微笑んだだけで、その言葉に答えなかった。ゼルラクは「いや、答えんでいい」とかぶりを振ると、前方に向き直る。


「……まあ、簡単に言うと、だ。元々、アルトランも山の向こうも、両方おなじレウィシス領に入っていた。だから多少の揉め事が起こっても、領主様が出てくれば大抵は収まるって寸法だったわけだ。土地の扱いについても、領主様がきっちり管理していた」

 山道には轍がくっきりと刻まれ、僅かな振動で荷台の道具が絶え間なくかたかたと音を立てている。一定の秩序を持った葉擦れや鳥虫の声を聞くともなく聞きながら、カナンは頭上から降り注ぐ木漏れ日を浴びていた。


「それが、レウィシス家が没落してからは状況が変わった」

 アルトランのある辺りをちょうど境に、旧レウィシス領はレンフェールとエルヴ領に分割されている。今越えようとしている山のどこかに領境があるのだろう。

「何があったんですか?」と口が重いゼルラクを促すと、彼はため息混じりに頭を掻いた。


「向こうの領主が、山の上の土地を馬鹿な貴族に売りつけやがったんだ。どんな目的だか知らないが、そいつのせいで、レウィシス家の別荘は取り壊された」

 それまで、わざとらしいほどに景色に目を向けていたユインが、ゆっくりと振り返る。

「……取り壊された? 一体だれが、それを命じたんですか」


 底冷えするような声であった。ユインの表情は剣呑だった。ゼルラクは片眉を上げてユインの様子を一瞥してから、ひょいと肩を竦める。

「馴染みのお嬢様がたが住んでらした屋敷のことだし、俺らも当然それが気になったんだが……何せ、よその領地のことだ。向こうの領主を俺らが問い詰める筋合いもないし、実際に訊いても口は割らなかったそうだ」


 そんな……とユインが声を漏らす。恐らくは、その屋敷とやらが彼の目的地だったのだ。既に取り壊されているとは知らなかったのだろう。衝撃を隠しきれない様子だった。


「それで、更に山を切り開いて平地を作ろうとしたんだろうな。だが、この辺りは昔から山が崩れやすい土でね、雨がちな地域でもある。屋敷が完成するよりも先に、買った土地が埋まった」

「山の上にあった、王子の死亡事故が起こったという橋も、それで?」

「流されたよ。跡形も残っていない」

 無言で、ユインがカナンに目配せをした。目的地だった屋敷は壊され、王子の事故の現場も残っていないという。……本当に偶然だろうか?


「その土砂が、アルトランまで相当流れてきてね。まあ、身も蓋もなく言ってしまえば、大勢死んだ。畑や家屋も滅茶苦茶になり、特に年寄り連中は山の上を切り開いた馬鹿貴族のせいだと未だに言って憚らねぇ訳だ」


 レウィシスが、あんなことにならなければなぁ。

 ゼルラクは独り言のように呟いて、木々の向こうに透けて見える空を仰いだようだった。


 レウィシス家の盛衰については、カナンも決して詳しくはない。こんにちの帝都でその名を聞くことはない。理由は単純だ。――レウィシス家は、既に存在していない。


 かつては娘を国母にまで押し上げた一族だが、その娘が何者かによって殺害されて以後は急速にその権力を失った。フェウランツィアの殺害を受けて夫人は心労に倒れ、元々体を悪くしていた当主も、坂を転げ落ちるように体調が悪化していったという。どちらも早々に衰弱して命を落としたと聞いている。


 馬車の縁に頬杖をつきながら、カナンは木立の奥を射貫くように目を眇めた。

 国民からの信頼を一身に集めていたラダームの姿を思い浮かべる。あの第一王子が青年になる頃には、既に彼の母は死んでいたし、母方の祖父母による後ろ盾も期待できない状態にあったはずだ。母が健在のユインとは違う。

 それでも、あれだけの支持を受ける第一王子の威風を思い返して、カナンは目を細めた。


(皇帝になるべくして生まれた人間、か)

 ルイディエトは違う。エウラリカも違う。隣で一緒に馬車に揺られているユインも、違う。生まれた瞬間から王者となることを望まれ、国を背負って立つべく育った人間ではない。

『父上に厳命されています。あなたを決して皇位に即けるなと』

 ユインはエウラリカにそう言い放った。

 きっとこの世には、人の上に立つために生まれた人間がいるのだ。『本物』がいる。裏返せば、皇帝になるべきではない人間だって存在している。

 そういう奴が頂点に立てば、いつかは、歯車が上手く回らなくなる。国が傾く。

 真心から大義を唱えられない人間が、人の上に立ったとて……。


『強い情は、罪は、自ら選んだ選択は、必ずお前の柵になる』

『愛する人の為なら国だって傾けてやる』

『私利私欲のために人を殺して英雄になろうなぞ夢を見るな』


 違うか? と、遠い声が問いかける。




 そうしたことを取り留めもなく考えているうちに、景色は変容してきていた。頭上の木々がまばらになり、水の音が聞こえてくる。

「本来なら、ここを真っ直ぐ行けば、谷を渡る橋があったはずなんだ」

 馬の鼻先を右方に向けてからその足を止めさせ、ゼルラクは前方を指さした。「見てみるか」と言われて、カナンとユインは一拍躊躇ってから頷いた。


 切り立った崖が見えてくると、カナンが足を滑らせるとでも思っているのか、ノイルズがぴったりと背後につけてくる。目の前が谷なのに、むしろ後ろに人がいる方がよっぽど嫌である。無言のうちに立ち位置を巡る攻防があったが、結局ノイルズは頑として譲らなかった。


「この辺りから、……あの辺まで、橋が架かっていたんだ。今となっては橋脚が数本残っているだけだな」

 ゼルラクが指し示す方向を順番に眺めて、カナンは息を吐いた。通る人の多い道なのだろう。それなりに立派な橋が作られていたことが窺えるだけに、破壊された形跡がもの悲しく思える。


「王子様が落ちて、しばらくは色んな奴が入れ替わり立ち替わりここに来ては現場を調べていったが、こうして橋がなくなってからは誰も寄らなくなった。俺たちも当時は何かが見つかるかもと谷に降りたもんだが、山が崩れてからはなぁ。谷もだいぶ埋まったし」

 ゼルラクは腕を組んで、深々とため息をついた。

 事故が起こったのが三十年以上も昔のことだから、彼も当時は幼い子どもだっただろう。それから十年ほどが経って、今度はこの谷を土石流が襲ったらしい。


(エウラリカが生まれたあとの話……だよな?)

 混乱してきて、カナンはここまでで聞いた話を整理するように斜め上を仰いだ。



 ルイディエトとフェウランツィアは、子ども時代をこの辺りで過ごしていたという。山の上にレウィシス家の別荘があって、そこで生活していたようだ。流石にずっと住んでいたわけではないだろうが、村人が覚えている程度には度々訪れていたのだろう。


 その後、いま目の前にある谷で、当時の第一王子が事故死。ルイディエトは繰り上げで皇帝となり、フェウランツィアはその妃となった。


 それから程なくしてフェウランツィアはラダームを産み落とした。やや期間を空けて、エウラリカが誕生。

 エウラリカが生まれた約半月後に、フェウランツィアは何者かによって殺害された。それを皮切りに、栄華を誇ったレウィシス家は衰退の一途を辿り、やがて没落、消滅したという。


 この一帯に広がっていたレウィシス領は、分割され周辺の領地へと吸収された。その結果、かつてこの山にあった屋敷も、第一王子の事故現場も消え失せた。レウィシス家が残っていれば、とゼルラクの残念そうな声が蘇る。


 直系のレウィシスの血を引く者は、もはや誰も――


 そこまで考えて、カナンははたと動きを止めた。……本当に誰も残っていないのか?

 ユインとゼルラクは谷を見下ろしながら何かを喋っている。

「そういえば、ファルの坊ちゃんはどうしてるんだ」

「ファル?」

 ゼルラクの言葉に、ユインがきょとんと目を丸くして聞き返した。「父さんから聞いていないのか」とゼルラクは指を立てる。


「ほら、――ファリオン・レウィシス。フェウランツィアお嬢様の兄で、ルイ坊ちゃまの乳兄弟だったんだろ? 最近はとんと消息を聞かなくなっちまったがなぁ」


 ファリオン、とカナンは初めて聞いた名前を口の中で転がした。

「ああ、名前くらいは……」とユインが頷くのを聞くともなく聞きながら、その名前を反芻する。

 谷の上の開けた晴れ空を、翼を広げた猛禽が大きく円を描いて飛んでいた。風が吹くたびに梢の葉が揺れて音を立てる。真夏を過ぎ、暴力的な照りつけは鳴りを潜めていた。涼風に髪が浮き上がり、頬を撫でる。


 もはや立ち寄る者のいなくなった谷を見下ろしながら、カナンは薄ら寒い心地で立ち尽くしていた。今となっては誰の口にのぼることもない、レウィシスの名を繰り返す。


 ファリオン・レウィシス。妹は何者かによって殺害され、一家は衰退。

 ……本来なら次の当主としてレウィシスを立て直すべきだったそいつは、どこへ消えたんだ?




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