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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【花香】

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長雨 1



 アルトランは帝都から四、五日ほどの山地に位置する村である。レンフェール領の領主には話を通しておらず、ごく内密に、最小限の護衛のみを連れて向かう。


「僕の近衛は駄目です。父上の息がかかっている」

 人気のない早朝の通路を足早に歩きながら、ユインは低い声で毒づいた。そうだろうな、とカナンは小さく頷く。皇帝の近衛、侍従、侍女や周辺の掃除婦に至るまで、半数近くはルイディエトの配下とみて間違いない。


 日の出前の城内は寒々しい。ユインは眉根を寄せて、外套の合わせを握り込みながらカナンを見上げた。

「閣下が用意した護衛って、本当に信用できるんでしょうね」

「できる。だって――」

 言い終わるよりも前に、カナンは咄嗟にユインの腕を掴んで引き寄せた。曲がり角の向こうに人の気配がある。手振りだけで顔を隠すように合図をすると、ユインはすぐにフードを被って顔を伏せた。



「おや、閣下。随分と早いですね」

 姿を現したのは、官僚の一人であった。顔に見覚えはある。丸顔で穏やかそうな顔立ちだが、その目は不釣り合いに鋭い。品定めするようにカナンと傍らの人影を眺め回す。その視線を黙殺し、カナンは何気ない口ぶりで首を傾げた。

「……北部の視察に出ることは伝えてあるはずだが」

「もちろんその件は聞き及んでおります。いえ、ただ……先程、皇帝陛下の姿が見られないと侍従が探し回っていたのを見かけたもので。閣下なら『皇帝陛下の側近』なのですし、何かご存知かと思いまして」

「さあ? どこか散歩にでも行っているんじゃないのか」

「…………なるほど?」

 厄介だな、とカナンは内心で毒づいた。ルイディエトの配下……という自覚が本人にあるかは不明だが、明らかに前皇帝の下にいる人間だ。疑われているのは明白。

(どうするかな……)



「ところで閣下、そちらは侍従ですか?」

 背後に庇ったユインの肩が跳ねる。カナンは少し黙ってから、ユインの背に手を回して抱き寄せた。「えっ」と声が漏れたのを聞こえないふりで、ユインの顔が見えないように頭を胸元に抱える。


 まるで女にするみたいな仕草だった。手の下でユインが抵抗する気配が分かるが、無理矢理に封じる。

「おや、これはこれは……」

 官僚は今度こそ本気で目を丸くして、カナンをまじまじと観察した。ようやく察したのか、ユインが大人しくなる。官僚に視線を流し、カナンはいかにもばつが悪そうに苦笑した。

「……このことは、内密に頼む」

 苦い口調で告げれば、官僚は口元に手を添え、絵に描いたようなにやけ面でカナンを見る。

「エウラリカ様が出発されてまだ何日も経っていませんのに……閣下も大胆ですねぇ」

「エウラリカに余計なことを言う必要はないからな」

 咄嗟に本気で釘を刺すと、官僚は満面の笑みで「もちろんですとも」と頷いた。思いがけず重要な情報を得られてご満悦らしい。カナンの弱みを握ったと思っているのだろう。

(こいつ、絶対に喋る)

 何なら、帰ってきた頃には既に公然の秘密になっていそうだ。顔を引きつらせつつ、カナンは「では」とユインを促して官僚の横を素通りした。



「……ちょっと! 何で僕が女ってことになってるんですか」

 人の目がなくなってから、ユインが小声で食ってかかる。カナンもさっさと手を離し、腕を組んで小さく舌打ちをした。

「エウラリカが前に言っていた。『他人の変な場面を見たくないのは万人共通』だからな」

「総督の不倫現場なら、押さえたい人は多いと思いますけど」

「まあ、それは……。いや、そもそも不倫はおかしいだろう。独身者だぞ」

 こっちだって不本意である。ただでさえエウラリカの情人扱いされているのに、彼女が出発した直後に女を連れ込んだことになってしまった。身持ちが悪すぎる。


「……このことは痛み分けにしましょうか」

 大変不満げなユインがむっすりと呟き、カナンはしかめっ面で頷いた。



 人が立ち寄ることの少ない裏口へ向かって歩くうちに、様子がおかしいと気づく。言い争うような声を聞きつけて、カナンとユインは揃って足を止めた。

「ですから、再三申し上げている通り、何のことを仰っているのか分かりません。我々は総督閣下の視察と聞いているのですが」

「口答えをするな! 兵士風情が……。これから皇帝陛下がここに来るから、身柄の保護に協力しろと言っているだけだろうが」

(…………。)

 曲がり角の前で腕を組み、カナンは眉間に皺を寄せた。思いのほか、相手方の動きが速い。

 これは言わば皇帝の誘拐と表されても文句は言えない脱走である。ユインを置いていけば帝都を発つことは可能だろうが……。ちらりとユインを見ると、「僕は絶対に行きますからね」と頑なな表情で囁く。


「……総督閣下!」

 と、背後からいきなり小声で呼びかけられて、カナンは弾かれたように振り返った。見れば、城内警備と思しき兵が柱の陰で手招きをしている。ユインを隠そうと半歩踏み出してから、その顔に見覚えがあると気づいた。

「ベリウス」

 ナフト=アハールへ向かうときに同行していた顔なじみの兵である。今回の『視察』にも加わっていて不思議ではない。足音を殺して駆け寄ると、ベリウスは略式の礼をとりながら裏口とは別の方向を指さした。


「中隊長の命令で、訓練場近くの門の方へ馬を回してあります。護衛の半分は既にそちらで待機しています」

「なら、僕はそちらから出れば良いんだな」

「はい」

 ユインはすぐに頷いて、ちらとカナンを振り返った。「帝都を出たところで落ち合おう」と一言告げると、ベリウスが「その予定です」と了承する。


「閣下一人で行けば、あいつら文句なんて言えませんよ」

 ユインが来るはずだと言い張っている連中のことらしい。口の端に悪童のような笑みを浮かべて、ベリウスが目配せをしてくる。久しぶり、とでも言いたげな目つきに苦笑して、カナンは「頼んだ」とだけ応じた。



 ユインが見えなくなってから、たっぷり四十秒は数えたあと、カナンは大股で裏口の方向へと歩み出した。朝日が上がりかけた時間帯である。張り出した屋根の下には赤みを帯びた光が射し込み、地面に長い影を落としている。

「どうした」

 普段より声を高くして呼びかけると、カナンは平然とした態度で玄関ホールを横切った。体ごと振り返ったのは、面識のない貴族の男数人である。寝間着の上に外套を羽織っただけのような、大慌てで走ってきたのがよく分かる格好だ。

 さしずめ、ユインが行方不明になったと聞いて手柄を上げるために出てきたのだろう。帝国貴族なら誰もが、カナンを失脚させたくて仕方ないはずだ。


「申し訳ないが、あまり余裕のある行程ではないんだ。用がないなら道を塞いで大きな声を出さないで頂きたい。馬が驚く」

 これ見よがしに手袋を嵌めながら、カナンはなおざりな態度で言ってのけた。単身で歩いてきたカナンに、貴族たちが目を疑うように絶句する。

「……貴様! 皇帝陛下をどこへやった!」

「口には気をつけろ。皇帝陛下に関して言うべきことは何もない」

 歩みを緩めることなく言い放ち、カナンは冷ややかな眼差しで彼らを一瞥した。


「先程も別の人間に同じことを訊かれた。皇帝がいなくなったのに、どうして真っ先に俺を追いかけ回しているのか理解に苦しむな。忠臣として身を案じるなら、皇帝を探しに行くものじゃないのか」

「それはっ」

「己の手柄を上げようとするのは結構だが、他人を陥れる方向にしか知恵が働かないようでは先が思いやられる」

 手渡された手綱を受け取り、カナンは馬の首筋を撫でた。いきなり大きな声を出す癖のある男のせいか、馬の耳が先程から落ち着きなく動いている。


 反射的に食ってかかろうとした男を制して、別の男が前に歩み出る。

「僭越ながら、同じ言葉を総督閣下にも返したく存じます」

 優雅な仕草と共に放たれた一言に、カナンは人を食ったような態度でせせら笑った。

「皇帝陛下に関する話なら、俺は既に所在を把握している」

 言いつつ、鐙に足をかけると一息で体を持ち上げる。両手で手綱を握ると、視線の下にいる男たちを一瞥した。

「ここのところ心労が絶えないと言って、母君のところで療養するそうだ。周囲の人間が信用できないのだと度々漏らしておられて、俺が内々に手配をしておいた。皇帝陛下のことを思うのなら、しばらくは周りでやかましく騒ぎ立てるのは遠慮して頂きたいものだな」


 淡々とした声で告げると、男たちは一様に目を丸くして顔を見合わせる。「本当か」「確認しにいかねば」と言いながら我先に踵を返して走り去った後ろ姿を眺め、カナンは聞こえよがしに嘆息した。



 玄関ホールに静寂が戻る。耳が痛くなるような沈黙はどこか重く、息を吸うことすら躊躇わせるほどに、固く、わだかまっていた。口を開かないでいる間も、周囲で控えている兵たちの視線を感じる。


「出発しますか」と、穏やかな声が問う。

「ああ」

 ゆるりと顔を上げると、木々の隙間を縫って朝日が目の奥を突く。目頭がつんと痛んだのは眩しさのせいだ。

「行こうか、……中隊長?」

 掠れた声で応じる。隣の馬上で、かつての友人が目を細めて、声を殺して笑っていた。


 首を傾げ、ノイルズは目を細めて微笑んでいる。

「どこまでだってお供しますよ、総督閣下(・・・・)



 ***


 帝都から出る跳ね橋は既に降りており、いくつもの馬車や通行人が橋の上を行き交っている。その中に紛れて帝都を出た一行は、橋を渡った先の広場でユインの到着を待った。


「……話を聞いたときは、何の冗談かと思った」

 今日に至るまで、連絡は常に人を介して内密に行われた。顔を合わせたのは先程が初めてである。

 朝が訪れ、既に市街は活気に溢れていた。建物の影で腕を組んで立っている二人の会話に聞き耳を立てる者はいない。人前でないことを理由に無礼講である。ノイルズの口調はかつてと同じだった。


「あまりにも無謀だし、危険すぎる。下手すりゃ俺たちは首が飛ぶぞ」

 ノイルズはしかめ面で吐き捨てた。「捕まらなければ問題ない」と応じたカナンを横目で睨み、聞こえよがしに嘆息する。


「皇帝陛下を無断で連れ出すだけじゃなくて、行き先はレンフェール領の山奥だろう。……とびきりの曰く付きだ」

 次から次へと流れるように文句を並べ立てる、ノイルズの横顔をちらと見る。視線に気づいたのか、ノイルズが顔をこちらへ向けた。その表情は不満げというよりは、案じているがゆえの不安に見えた。


 レンフェール領の山間地。少しでも王族周辺の事情に詳しければ、誰もが知る地名である。カナンは頬を吊り上げて平静を装うが、腹の底で得体の知れない恐ろしさが渦巻いていることも自覚していた。

「先代皇帝の実兄が事故死した現場だ。以前から一度行ってみたいと思っていた」


 ひどく雨の降る日だったと聞いている。とある谷を渡すようにして架けられた橋の上を、第一王子を乗せた馬車が通っていた。その際に、馬が足を滑らせたか、はたまた轍が水膜で浮いたか、ともかく馬車が、谷底へ転落したのだという。

(もう三十年以上も昔のことだ、何か証拠が残っている訳でもあるまいが……)


 元よりルイディエトの即位には疑惑が付きまとっていた。次代の皇帝と目されていた兄が事故で死亡し、その座に即いた第二王子である。当時は『愚鈍な弟王子』と呼ばれ、その評価は即位後も続いた。

 兄王子の婚約者からルイディエトの妃に収まったのが、フェウランツィア・レウィシス。後にラダームとエウラリカの母となる彼女は、幼少期はルイディエトとの親交も深く、家ぐるみでの付き合いだったという。ルイディエト即位後、レウィシス家は一時、王家に並び立つほどの権力を誇ったそうだ。

(傀儡、か)

 かつて辞書で引いた単語が蘇り、カナンは自然と物思いにふけっていた。

 エウラリカに群がる無数の糸を思い出す。彼女を背後から操って権力をほしいままにせんとする、どす黒い欲望の渦である。


 兄王子の事故の裏に、ルイディエト、ひいてはレウィシス家がいると睨む者も少なくはなかったようだが、結局さしたる証拠は出てこなかった。次代の皇帝に刃向かう者もおらず、事故にまつわる疑惑は闇に葬られたという。


 ノイルズは体ごとカナンに向き直り、真剣そのものの表情で告げた。

「何をしようとしているのか、自分で分かっているのか、カナン。――先代の闇に切り込むことは、クウェール家を相手にするってことだ。帝国と対立するも同然だぞ」

 その言葉に、カナンは思わず笑みこぼれていた。ノイルズが怪訝そうに目を丸くする。

「十分、わかっているつもりだ」

 何で笑ったのかと首を傾げるノイルズの背後で、見覚えのある装備の一隊が橋を渡ってくるのが見えた。



「おい、新入り、ちんたらするな!」

 人をかき分けながら、ベリウスが大声でユインの腕を引く。小柄でどこかぎこちないユインは、何気なく見ているとまるで新兵のようだ。先輩に荷物まで持ってもらいながら、後ろを必死についてゆく新米に見える。

「名演だな」とカナンは思わず腕を組んで呟いてしまった。ノイルズも面白がるような態度で、「役者の道もありそうだ」と喉の奥で笑う。


「ひぃ……あぁすみません、ほんとにごめんなさい、違うんです……」

 ベリウスはそのままカナンたちの近くまで来ると、ユインに向かって首を縮め、小さな声でひたすらに謝罪を繰り返し始めた。それからノイルズとカナンを振り返り、しどろもどろに言い募る。

「橋のところの関所で、ちょっと引っかかっちまって……。それで咄嗟に、俺の後輩ってことにしたんです。決して俺がやりたくてやってるわけじゃ」

「分かった、分かった」

 ノイルズは片手を挙げて一旦ベリウスを黙らせ、カナンを一瞥した。


「人に多いうちに行くか」

「ああ」

 砕けた口調で頷き合った両者を、ユインが目を丸くして見比べる。少しして、納得したように頷いた。

「閣下にも気が置けないご友人がいるんですね。何だか意外ですけど、安心しました」

「別に、交友関係で案じられる筋合いはないのだが……」

 帝都を脱出し、合流できたことで安堵したらしい。ユインはにこりと微笑むと、無言で小首を傾げてみせた。



 ***


 不幸なことに、レンフェール領アルトランへの道のりは悪天候に見舞われた。皇帝など連れているはずがない一行は豪奢な馬車などは伴わず、断続的に強まる雨風と霧のような冷雨に晒され続けた。

 カナンはともかく、ユインの疲弊ぶりは見て分かるほどである。街道沿いの宿場町へ雨宿りに寄った際には、顔を青くして唇を震わせていた。騎乗には申し分なく、『離宮ではよく馬に乗って出かけたものですよ』という言葉にも嘘はないようだったが、如何せん体力がないらしい。


 やや季節外れながら暖炉に火を入れてもらい、一室は息苦しいくらいに暖まっている。

「小さくても良いから幌のある荷馬車でも借りるか」

 暖炉の近くで毛布にくるまっているユインを指し示しながら、カナンは小声でノイルズに提案した。ノイルズも「御身に何かあったら良くない」と頷く。


「……いりません!」

 がばりと顔を上げ、ユインが大きな声を出した。

「僕のために進みを遅らせる必要はありません。僕は大丈夫です」

 鼻を真っ赤にしながら、ユインは頑なな表情でカナンを見据える。とてもではないが信用できない言葉に、思わず腕を組んでしまう。

「せっかく掴んだ好機なんです。絶対に逃してなるものか。一秒でも遅れれば、出し抜かれる。僕たちは今、そういう瀬戸際にいるんです」

 ぎらぎらと光る目でカナンの裾を捕らえ、ユインはいつになく声を荒げて言い放った。揺れる炎が、その頬を赤々と照らす。見る者をたじろがせるような、敵愾心にも似た苛立ちが両目に宿っていた。


 天候は更に悪化し、時折目の端にぱっと光が閃いては、遠雷が鳴る。強い風がぎしぎしと柱や屋根を揺らし、雨粒が窓に叩きつけては筋となって流れてゆく。

「はは……ごめんなさい! 生意気なこと言っちゃいましたよね」

 それまでの猛々しい態度がまるで幻のようだった。にこりと満面の笑みを浮かべて、ユインはカナンとノイルズを見上げた。

「僕も足を引っ張らないように頑張るので、よろしくお願いします!」

 殊更に子どもぶった仕草のはずなのに、数秒前のヒリついた威圧より、ずっと大人びたように思えた。


 雨脚はなおも一層強くなる一方だ。晴天を待って一泊することとなった。

 高貴な身分の御方がいるはずのない隊は、安い大部屋で雑魚寝を余儀なくされた。護衛たちの高いびきの向こうに雨音を聞きながら、カナンは頭の下に両腕を差し込んで天井を見上げていた。

 闇に沈んだ木目を、焦点も定まらぬまま眺めながら、遠い旅路に思いを馳せる。

 エウラリカたちが、酷い雨に降られていなければ良いが。




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