一通目 3
後日、サイラール王子とエウラリカの顔合わせが行われることと相成った。日時は決まっていないが、場所だけは、東ユレミア州で行うと合意がされた。
ほうほうの体で帰って行った使者を見送って、エウラリカが深々とため息をつく。
「随分と疲れている様子ですね」
「……別に。何のことはないわ」
背もたれに体を預けながら、エウラリカは口先ばかりは気丈に答えた。カナンはしばらくその横顔を眺めてから、「エウラリカ」と慎重に声を発する。
「ユレミアの王子と、本気で結婚するおつもりですか」
「それが最善の手だと判断したら、ね」
横目でちろりとこちらを見て、彼女が短く応じた。
「どちらにせよ、いずれは破綻する話だわ。あちらの目的は王家の再興で、私たちは王家の排斥を目指している。ユレミアにそれを悟られぬうちにクウェール家の力を削いで、現王朝を終わらせる。その頃にはユレミアも飛び火を避けるために尻尾を巻いて逃げるでしょう」
言いながら、どうしてもエウラリカの顔は晴れなかった。ずっと気分が悪そうな表情であった。
「少し、外に出ませんか」
声をかけると、エウラリカは少し迷うような仕草をみせてから、小さく頷いた。試しに差し出してみた手には見向きもせず、彼女は滑らかに立ち上がる。
「行きましょう」とこちらを振り返って、エウラリカが微笑んだ。深い色をした両目が、きらりと光る。
庭園に降りると、聞き慣れない鳥の鳴き声に興味を引かれたように、エウラリカが顎を上げた。耳を澄ませて唇を少し尖らせている様子を眺めながら、カナンは奇妙な感慨を覚えていた。
まるで子どものような仕草だ。と同時に、たった一言で大陸の趨勢を一変させうる女である。可愛らしさと恐ろしさの同居する女だ。
「ねえ、カナン」
鳥が飛び立つのを見届けてから、エウラリカがこちらを向いた。
「何か、私が知ったら怒るようなこと、隠していない?」
問われた瞬間、自分が貼り付けたような笑みを浮かべたのが分かった。
エウラリカは何か確証があって発言したわけではないようだった。追究に身構えて、自然と薄らと唇が弧を描く。こちらの様子を一挙手一投足見ているエウラリカの視線を感じながら、カナンは「どうしたんですか」と彼女の頬に手を添えた。
エウラリカの誤魔化し方と丸きり同じだと気づいたのは、彼女の真ん丸の両目が賢しらに瞬いた直後だった。
「何もありませんよ。あなたを不安にさせるようなことは、一つも」
言いつつ、反対の手も持ち上げてエウラリカの頬を両手で包み込んで上向ける。彼女は抗う様子も見せず、さりとて甘えるつもりもない目つきでカナンを睨みつけていた。
「カナン」
小さな頭だった。力を込めれば首を一ひねりできてしまいそうなほどだ。触れているだけで壊してしまいそうに恐ろしい。
「私、嘘は嫌いよ」
それなのに、今にも喉笛を食い破られそうな威圧が全身から放たれている。ほとんど唇を動かさずに囁いて、エウラリカはじっとカナンを見据えていた。
ユインから持ちかけられた話を明かすか、迷った。ユインと手を組む、とあらかじめ彼女に伝えておけば良いんじゃないかと。口先では若き皇帝の側につくが、本心はいつもエウラリカの味方である、と。
(でも、そうしたら、エウラリカは不安になるだろう)
ただでさえ、彼女はカナンの把握できない問題で追い詰められた様子だ。そこに追い打ちをかけるような情報は与えたくない。それに、
(俺が彼女の秘密を暴こうとしていることを、勘づかれたくない)
眉根を寄せて黙り込んだカナンを、エウラリカが険しい表情で注視する。その視線に返せる言葉はない。
「……俺は、あなたを大切に思っています。本当に……本当です」
苦し紛れに口を開くと、エウラリカは片眉を跳ね上げ、目元だけで見事に懐疑的な意思を示してみせた。気圧されて、するりと手を引く。
「信じてください」と、ほとんど縋り付くように告げていた。エウラリカはしばらく沈黙したまま目を伏せていたが、ややあって瞼をもたげる。
「馬鹿ね」
小さく呟くと同時に、彼女が指先一つで手招きをした。応じて身を屈めると、唇の端を何かが掠めた。
「私を信じていないのはお前でしょう」
半歩下がって俯いたまま、エウラリカが低い声で吐き捨てる。その表情は見えないが、面白くなさそうな声音だった。耳の痛い指摘に、カナンは黙り込む。
しばらく躊躇ってから、彼女の肩に片手を置いた。小さな子どもにするように軽く叩くと、ふんと鼻を鳴らすのが聞こえた。ちらと顔を上げ、上目遣いに一言告げる。
「大好きよ、カナン。――あなたが思っているよりちゃんとね」
だから、もう少し、待って。
そう囁く彼女の目の仄暗さに、ぞくりと背筋が冷えるのが分かった。深い水底のように、冷え冷えとして重苦しく、暗い色をしている。
「全部かたづけた私で、あなたと向き合うから」
余人には計り知れない決意に満ちた声音で、エウラリカは虚空を睥睨していた。
「あなたの隣に立てるようにするから、何もしないで、待っていて」
その背に手を触れようが、視線が合っていようが、呼吸に合わせて規則正しくゆっくりと上下する胸が重なっていようが、何も関係ない。これまでで最もと言って良いほどに頑なな拒絶だった。
「簡単な話よね? 何度も言ってきたはずだわ。――私を裏切らないで。私の個人的な事情に踏み込もうとしないで」
研ぎ澄まされた切っ先のように鋭く、よそよそしい気配で、エウラリカが囁く。
「私は、あなたを、殺したくない」
過去に、そうして殺された人間がいることを示唆する口調であった。
***
「エウラリカが東ユレミアへ行っている間に、アルトランへ向かう。対外的には、他領の視察に行っていることにする」
「それで、姉上が帝都に戻ってくるより先に帰ってくるって? 絶対に変だって勘づかれますよ」
階下で慌ただしく人が行き交うのを眺めながら、カナンは鼻を鳴らした。隣でユインは面白がるような風情で、腕を組んだままにやにやとしている。
「僕はてっきり、閣下は何が何でも姉上に同行するものとばかり。だって、東ユレミアで待ち構えているのは姉上とユレミアの王子を結婚させたくて堪らない連中ですよ。単身で向かわせるとは、さぞかし不安でしょう」
「それくらい、エウラリカは自分であしらえる」
踵を返しながら返すと、ユインが意外そうに眉を上げた。
「随分と厚い信頼ですね?」
揶揄するような言葉は黙殺して、カナンは階段の方へ向かう。ユインは追ってこなかった。
東ユレミアにて開かれる会合には、カナンは同行しないこととなった。エウラリカの目を盗んで行動を起こす目的もあるが、婚姻という話題の場にカナンがいると不利だからである。
カナンとエウラリカが数年来の付き合いで、近しい間柄であることは既に周知の事実だ。身も蓋もなく言ってしまえば、周囲からはほとんど情人扱いされていると言って良い。それが本当だったらまだマシだと何回思ったか分からない。
(流石に俺が着いていったら、喧嘩を売っているも同然だからな……)
帝国もユレミアも重婚の制度はないし、大っぴらな不倫も決して褒められたものではない。
出発を間近に控えて、車止めに面した玄関ホールは慌ただしい。エウラリカはまだ来ていないらしい。
「閣下」
呼ばれて振り返ると、ウォルテールがいかにも忙しそうな風情で近づいてくる。
「何か御用ですか」
「いや……」
特に何か決まった用事があって来た訳でもないので言い淀むと、ウォルテールは安堵と呆れの入り交じった表情をした。
東ユレミアにはウォルテールが同行する。決して当地に明るい訳ではないが、ユレミアとの確執がないという点が大きかった。年嵩の将軍は先の戦いの際に従軍しており、ユレミア側の心証が良くない。そもそも彼らは融和路線に対して強固に反対しており、今回の縁談に関しても決して賛同はしないだろう。
カナンの手足となって動いてくれるウォルテールは貴重な存在であった。珍しく殊勝な気分になって、カナンは普段より優しい声で語りかける。
「……軍部の中でも、風当たりが強いだろう。苦労をかける」
「今更ですね」
こちらも珍しい毒舌で、ウォルテールが肩を竦めた。思わず目を丸くすると、ウォルテールは腕を組んで息をつく。
「『将来有望な若き将軍』だったはずが、今じゃ『日和見で腰抜けの売国奴』ですよ。昔の方がよっぽど日和見だったのに、先達の言うことを聞かなくなった途端にこれだ」
反応に困って眉根を寄せると、ウォルテールが声を上げて笑う。思いの外あっけらかんとした笑い声だった。カナンが答えあぐねているのを見て、ウォルテールは不意に年長者じみて悠揚な眼差しをした。
「分不相応な評価を仕立て上げられていた頃に比べたら、今の方がよっぽど良いですよ」
どことなく吹っ切れたような様子に、たじろぐのはカナンの方である。ウォルテールの立場が悪くなっている原因である自覚もあり、引け目もある。それなのに恨み言の一つも言われないと、拍子抜けした気分だ。
「……それに、滞在する街には義姉と姪がいますし、去年から弟もあちらに行っているそうです。なかなか遠方で会うことのできない家族ですし、良い機会だと思って」
意外と乗り気のウォルテールを眺めながら、カナンは頬を掻いた。本人が嫌じゃないならそれに越したことはないが……。
「本当に、一瞬たりとも、エウラリカから目を離さないでおいてもらえるか」
「いや、流石に俺は常にご一緒するわけには……アニナによく言っておきます」
そこまで言った辺りで、城内の方向から華やかな話し声が聞こえた。二人揃って振り返る。
「まあまあ、今日もとっても素敵ですわ」
「よくお似合いでございます」
侍女たちに囲まれながら姿を現したのはエウラリカだった。どことなくげんなりとした様子が見て取れる。
「私、必要もないのに言葉を浪費する人間はあまり好きではないわ」
苦々しい表情で呟いたエウラリカをよそに、「あら、でも本当のことなんですもの」と侍女たちは意にも介した様子もなく囃し立てる。気難しい姫君の機嫌を取ろうとするのはお手の物らしい。
言えば言うほど、エウラリカの機嫌が下がっていくのが分かった。人の目がある手前、黙れと叱り飛ばすわけにもいかないし、しかし不愉快だし……と苛立ちがよく分かる表情である。心持ち眉根を寄せて、エウラリカが唇を尖らせる。
「だいたい、出発するだけなのにこんなに着飾る必要なんて……」
「いけませんわ、そのようなこと。高貴な御方が人目に触れますのよ、ほんの一瞬だとしたって、気を抜いてはなりません」
人に囲まれるのにどうしても慣れないらしい。エウラリカは一度大きくかぶりを振ると、「ここまでで良いわ」と宣言する。
そのまま勢いを殺すことなく大股でこちらへずんずんと歩いてくるので、圧倒されてカナンは半歩下がった。
エウラリカが現れた頃からウォルテールはいつの間にか姿をくらましており、目だけを動かして探すと、遠くでこれ見よがしに馬車の点検をしている。逃げたらしい。
「……何?」
進行方向にいたカナンと視線が重なると、エウラリカはゆるりと首を傾げた。髪を結い上げた姿はなかなか見慣れず、どこか妖艶ささえ漂う雰囲気に思わず視線が逸れてしまう。唾を飲むと、エウラリカがつっけんどんに腕を組んだ。
「何か文句でもあるの」
「いえ……」
既に出立の準備は調っているようで、あとはエウラリカが馬車に乗り込むだけである。近くで待機している兵士たちが様子を窺っている気配を感じながら、カナンはおずおずと手を伸ばした。
「容姿も、武器ですから……。研ぎ澄ませば切れ味も上がりますね」
無言でエウラリカが片頬を吊り上げる。及第点だったらしい。彼女の目尻に慎重に親指を添えて、ほとんど掠めるような曖昧さで目の縁をなぞる。
「危険なことは絶対にしないって、約束できますか」
無言で首を傾げて微笑んだエウラリカに対して、「約束してください」と語気を強めて迫る。
「無事に帰ってくるって、今ここで、言ってください。一人で危ない橋を渡るくらいなら、俺も一緒に連れて行くって、約束してください」
とてもではないが、人に聞かせられないような懇願だった。エウラリカはしばらく黙っていたが、ややあって呆れ果てたように目を逸らし、浅く息を吐く。
「……分かった。約束する」
ほんの少し照れくさそうに、エウラリカがはにかんで肩を竦めた。少女らしいが、取って付けたような幼さはない口調だった。
馬車に乗り込む直前、エウラリカはすれ違いざまにカナンの耳元に口を寄せた。低く囁く。
「良い子だから、余計なことは考えずに、大人しく待っていなさい」
口元に薄い笑みを湛えたまま、その眼光はいつになく凶暴な光を放っていた。カナンは無言で微笑むことで応じた。
遠ざかってゆく馬車を眺めながら、カナンは口の中で呟いた。
「俺は、約束するとは一言も言っていませんから」
馬車の影が見えなくなった瞬間、くるりと体を反転させる。以前に念のため作らせておいた合鍵を指先に引っかけ、緊張をほぐすように一度息を吐いた。
「バレたら謝りますよ、許してもらえるように――心の底から、真剣に、誠心誠意ね」
***
机の引き出しや、箱の二重底は外れだった。主が不在となった部屋の中を闊歩し、隅々まで見て回る。
(既に処分してしまっただろうか)
内心で独りごちながら、本棚から、何冊目か分からない一冊を抜き出す。何度も繰り返した手つきで表紙を開くと、それはまるで木の葉が舞うがごとく足下へ滑り落ちた。
「……あった」
小さく呟いて、カナンは『それ』を手に光の射す窓際へと歩いていった。壁に軽く背を預け、手元を見下ろす。
エウラリカ・クウェール。新ドルト帝国の第一王女へ向けて送られた手紙である。既に切られている封を指先で撫でる。中の便箋は封筒から出したまま一緒に本に挟まれていた。指先で取り上げた瞬間、ふわりと甘い花香が漂う。
(…………。)
眉がぴくりと動く。
文章を丹念に追うが、分かりやすい含みを持たせた文面以上のものを読み取ることはできない。自然と、焦りが湧き上がってくる。
ユレミアからエウラリカに宛てて書かれた手紙。この手紙から、エウラリカは、カナンには気づけなかった何かを受け取ったのだ。それは、彼女を追い詰める何かだ。
この手紙には、エウラリカにしか分からない符合がある。ルイディエトも、恐らくそれを知っている。
苛立ちに任せて手紙を握り潰したくなる気持ちを堪えて、カナンは過去のエウラリカの様子を思い起こす。手紙を一通り読み終えて、この提案をどう受け取るかと話をして、そうして彼女は、……
一度、大きく心臓が跳ねた。焦りを押し殺して、ゆっくりと、手紙の折り目を確かめる。
(折り目が多い)
縦横無尽の折り目がやけに強く刻まれた紙である。咄嗟に封筒を手に取り、重ね合わせる。やはり、本に挟まれていた畳み方では形がおかしい。エウラリカが後から別の形に畳んだのだ。
本来の折り目を見つけるのは、さほど難しい作業ではなかった。記憶を辿りながら、矛盾のないように紙を折る。
畳んだ紙を見下ろし、カナンは小さく呟いた。
「――見つけた」
こうして見てみれば、公的な書簡にしては妙な折り方である。紙の端と端を合わせていない。その目的も、今となってはよく分かる。
折り目に沿って畳むことで、ある一行の上半分と、それより下段に位置する別の一行の下半分が繋がるように仕込まれているのだ。繋がった二行は、あやまたず一つの文章を表している。
その文字列が理解できた瞬間、カナンは慄然と立ち竦んでいた。
『お前の秘密を知っているよ、エウラリカ』
便箋に丹念に焚きしめられたポネポセアの香り。手の込んだ名指しの脅迫。
一見すれば丁重な手紙に思える一枚の紙に、執念とも言えるような悪意が込められている。
もう少し待って、と告げた彼女の瞳の昏さを思う。一人で何とかするから立ち入るな、と頑なな拒絶を思い出す。
(放っておけるわけが、ないだろ)
正面から聞いたってエウラリカが素直に答えるはずがない。自分で推測しようにも情報がない。もどかしさに歯噛みする。
思い当たる手段はひとつしかなかった。
(……やはり、前皇帝に聞くしかないか)
慎重な手つきで手紙を本に戻し、カナンは少しのあいだ無言で立ち尽くした。
エウラリカの部屋の続きに位置する、彼女の私室である。奥には決して大きくはない寝台が置かれ、その隣に机と明かり取りの窓がある。壁の大半を占めるのは本棚で、王女の部屋にしては手狭に思えた。
エウラリカが帝都にいた頃、彼女は決してこの部屋にカナンを入れようとしなかった。カナンが初めてここに足を踏み入れたのは、エウラリカの訃報を聞いて帝都へ戻ったあとのことである。
(俺の知らない本ばかりだ)
本棚に手を伸ばし、背表紙を順に撫でてゆく。エウラリカは博識だ。頭の回転が速いし、機転も利く。元から頭の良い人なのだろう。
彼女を育て上げたのは誰なのかを、カナンは知らない。カナンが初めて会ったときから、エウラリカの周りに大人はおらず、彼女が誰かに師事している様子もなかった。
一度だけ、彼女が漏らした独白を、ふと思い出す。
曰く――「『先生』は、私が初めてこの手で殺した人なの」、と。




