花香 2
皇帝陛下がお呼びだと言われて、カナンは滅多に立ち寄ることのない皇帝の私室へと足を運んだ。
「お呼びでしょうか、陛下」と取って付けたように問うと、身の丈に余るような大きな椅子に腰かけたユインが微笑む。
豪奢だが決して下品ではない、瀟洒な調度の部屋だった。日当たりが良く、室内は柔らかい色調で明るく照らされている。
「総督閣下は酷いなぁ。姉上のところにユレミアからお手紙が来ていたなんて、僕、ちっとも知りませんでしたよ」
肘掛けに頬杖をついて、ユインは唇を尖らせてみせた。何の用事で呼びつけられたのかを察して、カナンは「ああ……」と声を漏らす。
「話を受けるおつもりですか?」
「それを答える義務はないと思うが」
「どんなお考えでも反対はしませんから、聞かせてください」
ユインの言葉を聞きつつ、カナンは手振り一つで人払いの合図を出した。室内から人が消えてから、表向き自分の主である皇帝と相対する。
「……前皇帝に、探りを入れるよう命じられたんだな」
数日前、ユインのもとに密書が届いたことは把握している。送り主の名前こそ偽装してあるが、先代との縁が深い領主の名を借りている時点で出所は明白だった。中身は確認できなかったが、どうやらユレミアとのことを聞きつけ、すぐさま手紙を送ってきたらしい。北の離宮に引きこもっているはずなのに、先代の耳の早さには舌を巻く。
「はは、閣下には隠し事ができませんね」
言いながら、ユインは机に片手をついて腰を浮かせる。
「確かに、父上からはそのような指示を受けています。ですが、僕は父上にそうした告げ口をする意思はありません」
物の少ない机を回り込んで、ユインがこちらへ歩み寄る。
「先程の質問で、義務は果たしたと言えるでしょう。控えていた侍従か侍女の誰かしらが内通しているでしょうから、しっかり父上に報告を上げてくれるはずです。あとは『訊いたが返答は得られなかった』と言っておけば良いだけ」
突如として饒舌になって、ユインは人懐こそうな笑みを浮かべて小首を傾げた。カナンは身じろぎせず、暗い青色をしたユインの両目を見据える。
「この際、明言させて頂きます」
すぐ目の前に立って、ユインは心持ち顎を引いたまま上目遣いでカナンを見ていた。
「僕は、父上に与するつもりはないんです。恩義も利点もありませんから」
その言葉を信用しきれずに、カナンは目を眇めた。帝国人に比べれば上背の低いカナンより、ユインは更にもう一回り小柄である。あと数年もすればあっさり大人の背丈になるだろうが、彼は現在の容姿を意図的に利用しているようだった。
「生まれた頃から遠い離宮へと追いやられ、必要になったから呼び戻して、今更父親面されてもね。いくら血が繋がっているとはいえ、素直に慕えと言われても無理ですよ」
侮られやすい、少年のような姿である。本人もそう振る舞っている。けれども、瞳の奥の鋭さだけはどうにも隠しきれていない。
「……その言葉を、俺が信用できると思うのか」
「いいえ。閣下は用心深い方ですから……」
言いながら、ユインは口元に手を寄せて、慎重に背伸びをした。
「――レンフェール領にある、アルトランという村を知っていますか」
全くもって初耳であった。耳元で囁かれた一言に、カナンは猜疑心を隠そうともせずに眉をひそめる。
「僕が秘密裏に情報を得た村です。父上を失墜させるための、有効な証拠があると睨んでいます」
「その村に一体何が?」
「幼少期の父上に縁があり、加えて『あの事故』の現場のほど近くにある、と」
眦を決して虚空を睨みつける、その眼差しには紛れもない闘志がみなぎっていた。
「近いうちに、理由をつけて直接アルトランを訪れようと思っています。もしよろしければ、閣下にも同行して頂きたい」
わざわざ人払いをしてまでこの話をすることには、少なからず意図が感じられた。素直に見るならば、ユインはルイディエトを出し抜き、カナンと結託しようというのだろう。しかし……。
(どうしても、信用しきれない)
身に染みついた警戒心が、そうやすやすとユインを受け入れようとしない。カナンはしばらくの間、無言でユインを睥睨していた。
「僕も、アルトランで必ず何かを掴めるとは断言できません。だから、今ここで完全に信用しろとも言いません。僕が父上の監視下にいることも事実です。でも、」
挑むように目をしっかと見開き、口角を上げる好戦的な表情が、エウラリカのものと酷似している。
「僕は役に立ちますよ、閣下」
胸に片手を当て、ユインははっきりと断言してみせた。
そのとき、控えめなノックとともに、扉の向こうから呼びかける声が聞こえる。ほらね、と言うようにユインが片目を閉じて、すぐに返事をする。
扉を開けたのは侍従だった。カナンは体ごとそちらを振り返り、そこで一瞬、完全に頭が真っ白になった。
どうせ用もないのに様子を確認しに来たのだろう。侍従がどうでもいい連絡をしている声など耳に入らなかった。視線を釘付けにされたまま、動けない。
……美しく微笑む女が、超然とこちらを見下ろしている。
背後を顧みて、初めて存在に気づいた。扉の上に掲げられた大きな肖像画に、カナンは抗うこともできずに目を奪われる。
滑らかな金髪はまるで絹糸のような滑らかさで一房肩に流れ、透き通るように白い頬に、薄らと血の色が透けて赤らんでいる。結い上げられた髪を銀細工が飾り、その胸元では淡い色合いの宝石が輝いていた。
まばゆいばかりの光を浴びた女とは対照的に、その背後は暗く、彼女の輪郭は周囲から浮かび上がるかのごとく鮮やかであった。
侍従が扉を閉じる。ユインが何かを言っている。それに返事をすることもできない。
自信と誇りに満ちた、悠然たる微笑みであった。この世の全てを手にしている者の威風だ。自分にできぬことなど何もないと確信している眼差しをしている。
その姿はまさしく――
「――エウラリカ?」
考えるよりも先に、声が口からこぼれ落ちていた。カナンの知る限り、何よりも美しい女の名である。呟いた、その響きが舌の上から消えるよりも先に、『違う』と直感が告げる。
目が違う。この肖像画に描かれている女は、その肢体に似つかわしい、金色の目をしていた。透明感のある、琥珀の双眸である。
違う。あの、どこまでも沈んでゆくような、深い色を湛えた碧眼とは、全く……。
エウラリカと違うからこそ、この女の完全性がありありと分かる。光か霞のように軽やかで、得体が知れない。同じ顔かたちをしているけれど、エウラリカの瞳はいつだって強い引力でもって異彩を放っているのだ。
この女にはそれがない。何ひとつとして欠けたところはない、何ひとつはみ出すところがない。完璧な真円、非の打ち所のない、まるで人ではない、この世の生き物ではないみたいな――
「正妃様、ですね」
カナンの隣に立って呟いたのはユインだった。
「フェウランツィア・クウェール。旧姓は、レウィシス」
平坦な口調で示された名を、カナンは口の中で転がした。フェウランツィア。エウラリカとよく似た響きを持つ名だった。
第一王子であるラダームと、エウラリカの実母だ。エウラリカを生んだ後、程なくして何者かに殺害されたと聞いている。未だに下手人や黒幕は見つからず、迷宮入りしている事件だということも。
エウラリカは、その母とよく似ているのだと、色々なところで聞いたことがあった。こうして肖像画を目の当たりにして、それらの言葉に合点がいく。
エウラリカとフェウランツィアの顔の作りは、ぞっとするほどに瓜二つだ。
「父上が飾ったものだと思うのですが、わざわざ人に頼んで片付けさせるのも面倒で、そのままになっています」
ユインはため息をつきながら肖像画を見上げた。埃臭い物置へしまい込むのは躊躇われる。しかし、故人の肖像を更に人目に触れるところへ掲げるのも妙な話だ、とそういうことらしい。
「僕にとっては、産まれる前に亡くなった方ですし、血縁もない。まったく関係のない人ですが……これほどまでに姉上とそっくりだと、何だか知らない人のように思えません」
遠くのものを見るように目を細めて、ユインが腕を組んで息をつく。カナンはしばらくフェウランツィアの肖像画を凝視してから、「いや」と漏らした。
「……ちっとも、似ていない」
「そうですか?」
不思議そうな顔をして、ユインがこちらを振り返る。横顔に視線を感じながら、カナンは端的に結論づけた。
「エウラリカの方が、ずっと可愛い」
目の前にある肖像画は、恐らく相当に腕の良い画家に描かせたものだろう。決して格別に美化されたものではないことは、エウラリカを見ればよく分かる。
それだけに、この女の完全無欠さが、不気味なまでに全く満たされた姿が、如実に描かれているのだ。ただひとつの瑕疵すらない女である。現世の些事なぞ何も目に映らないような、すべてを超越したような、別世界の生き物だった。
ユインはしばらく黙ってから、ため息とも苦笑ともつかない吐息とともに肩を竦めた。
「あっそ……と言いたいところですが、正直言って僕も同感です。……僕たちが初めて会ったときのこと、覚えていますか?」
出し抜けに問われて、カナンは面食らった。ユインとの初対面? 南方連合から帝都に帰還したときのことだろうか。いまいち思い当たっていないことを察したように、ユインがくすりと笑う。
「ラダーム兄上が殺害されて、僕が、離宮から帝都へ戻されたときの宴会です」
ああ、とカナンはようやく頷いた。エウラリカの婚約がどうのと話題が持ち上がっていた頃の話である。ユインに対する印象はほとんど残っておらず、カナンは怪訝に首を傾げた。
「姉上とあなたが揃って歩いてきてさ、僕の方を見て、哀れむような顔をしたでしょう」
はっきりと言い当てられてしまえばその通りで、カナンは思わず渋い顔になる。初めてユインを見たとき、衆目に怯えて母に縋り付く子どもを侮ったことは事実だった。
「あのとき思ったんですよ。『この人たち、すっげぇ性格悪ぃ』って」
予想だにせぬ暴言に目を丸くした隙を逃さず、ユインは抜け目なく付言する。
「……でも僕は、それでちょっと安心しました」
肖像画を一瞥し、皇帝は朗らかに笑っていた。
「宮廷なんて恐ろしいところ、鬼が出るか蛇が出るか、人を人とも思わないような王侯貴族が司る、理解できない場所だと思っていました。姉上に関する様々な噂も、離宮で聞いていましたから……。でもあのとき僕を嘲笑った姉上は、ものすごく人間だった。この帝国を動かしているのも、みんな人間なんだって理解しました。僕はそれが嬉しくて」
過去の無意識の言動について語られるのは、妙な居心地の悪さがある。苦い表情のまま押し黙ったカナンを真っ直ぐに見つめて、ユインは少女のように頬を赤らめて微笑んだ。
「あのときから、僕は、あなたと話をしたいと思っていたんです。閣下」
くるりと体を反転させ、フェウランツィアに背を向けながら、ユインは低い声で囁く。
「どうですか。姉上の手先なんてよして、僕と手を組みませんか」
不遜、と言っても良いような口調だった。思わず喉を上下させてしまったカナンをじっと観察して、ユインがおもむろに懐から一枚の紙を取り出す。
「すぐに信用して頂けるとは思っていません。今回は、この手紙ひとつだけでも、僕の本気の証として受け取ってください」
そういって手渡されたのは、簡素に折りたたまれた紙である。その場で受け取って開けば、やや右上がりの走り書きだと分かる。
「これは」と小さく声を漏らしたカナンに、ユインが頷く。「父上からの密書です」
ユレミアから手紙が届いたと聞いた、様子を探れ――予想のついていた文言に目を通す。本当に前皇帝からの手紙だとみても良さそうだ。そう得心しながら、最後に、末尾の一言を見つけた瞬間、カナンは息が止まるような心地がした。
『エウラリカは、ユレミアからの話を断れないだろうから』
辛うじて、動揺を顔に出すのは堪えた。それでも、内心に走った激震は計り知れなかった。
(前皇帝は、エウラリカの行動を読んでいた)
カナンでさえも推測のつかない『何か』がユレミアからの手紙にあると、はるか遠方にいるルイディエトが言い当てている。エウラリカだけが気づく何かの符合を、あの男は知っているのか。
(前皇帝に素直に教えてくれと言って、答えるはずがない)
あの男から情報を引き出すには、こちらにも手札が必要だ。
アルトラン、と口の中で地名を転がした。そこに、ルイディエトを追い詰めるための証拠があるのなら……。
(エウラリカには、言えない)
彼女がひた隠しにしたい秘密を暴こうとしているなどと、知られるわけにはいかない。
長い逡巡のあと、カナンは唸るように告げた。
「分かった。……アルトラン行きの件、受け入れよう」
本当ですか、と目を輝かせるユインを見下ろしながら、カナンは吐き気を伴う息苦しさを覚えていた。
これは裏切りではない。エウラリカにとって最も良い選択をするために、エウラリカを救うために、彼女のことを知らないままではいられないから、俺はそのために……。
必死に言い聞かせるが、いやな鼓動はなかなか鎮まろうとしなかった。
――この二心を知られたら、俺はエウラリカに殺される。
***
ユレミアからの書簡に書かれていた使者が帝都に到着したのは、書簡から半月ほど遅れた頃だった。恐らくは東ユレミアの辺りで予め逗留していたのだろう。
使者は明るい赤毛の中年男で、櫛目の通った髪が生真面目そうな外交官だった。儀礼的な挨拶の言葉を述べる様子を注視する。淀みのない帝国語だが、些細な発音に多少の違和感が残る。
あの手紙を書いたのはこの男だろうか? 疑いを持って外交官を観察するが、彼がエウラリカに対して特別な態度を示す様子はない。エウラリカも面識はなさそうだ。
礼節を保った対応をしながら、カナンは微笑みの下で外交官を品定めする。
外交官は決して核心に触れるような発言はせず、『婚姻は双方にとって利する』という内容をカナンに向かって語りかけている。ユインは同席しておらず、これはカナンの画策によるものである。
「エウラリカ様とサイラール王子の婚姻は、総督閣下にとっても、決して悪いようには働かないと存じます」
含みのある口調で告げた外交官の視線は、あやまたずカナンを見据えている。
こほん、と軽い咳払いの音がした。ぴくりと眉を上げて振り返ったカナンの視線を追って、外交官が顔を動かす。
「話の腰を折るようで申し訳ないのだけれど、私、とても不思議だわ」
紫紺のビロード張りの椅子はエウラリカが帝都を離れていた間に搬入されたもので、随分と手触りがお気に召したらしい。椅子に身を沈め、肘掛けに頬杖をついたまま、エウラリカは見せつけるような緩慢な仕草で足を組んだ。
「婚姻を結ぶ可能性があるのは私であって、カナンは関係ないでしょう。彼を説得しようとしても仕方ないのではないの?」
無邪気を装ったような素振りに反して、その眼差しは冷え冷えと外交官を睨めつけている。
「私に用があるわけでないのなら、そろそろお暇してもよろしいかしら」
痛烈な皮肉であった。あくまでも整った微笑みだが、不愉快さを殊更に知らしめようとする態度である。エウラリカが放つ冷気を真正面から受けて、外交官がたじろぐ。
静観するカナンを窺うように振り返ってから、外交官はエウラリカに向かって恭しく礼をした。
「申し訳ありません。これからお話をしようと思っていたところで……」
「そう。それなら良いのよ」
にこりと微笑んで、エウラリカが話を続けるように促す。ほんの二、三の言葉で場の空気を引きつけて、彼女は悠然と目を細めた。
折衝の場には西日の射す部屋が選ばれており、夕方間近の時間帯は眩しいほどになる。窓を背にしたエウラリカの顔や手元には濃い影が落ち、どこか得体の知れない威圧感が漂っていた。
「迂遠な話はやめにしましょうか。私は皇帝派に対抗するだけの力が欲しくて、あなたたちも帝国の後ろ盾が欲しいのでしょう」
透き通るような金髪は多少伸びて、垂らされた一房の先が胸の高さで揺れている。砂漠地帯から戻ってから、彼女の肌は元通りの白さに戻っていた。陽射しを受けて、指先に血潮が透ける。
「簡単に調べさせてもらったわ。次期国王と目されている第一王子の母は王家に近しい分家出身で、今回の縁談で名前を上げられている第二王子は、ここ最近で勢力を強めている地方の貴族家、いわば外様の系譜を汲むとか」
にこ、と口角を上げるエウラリカの視線を受けて、外交官は身構えるように顎を引いた。エウラリカが語る事情に関しては、カナンも既に聞き及んでいる。彼女がどのような話をしようとしているかも想像がつくし、信頼もある。
「長らく続く帝国との緊張状態、度々訪れる凶作年、一部の貴族との根強い癒着……ユレミア王家の求心力は随分と落ち込んでいるという噂も聞きました。ああ、もちろん、噂を鵜呑みにしているわけではないのよ、ご安心なさって」
獲物をじりじりと角へ追い詰めてゆくのが見えるようだった。
「つまり、第二王子を王位や中央から遠ざけるために私に押しつけがてら、帝国を利用して王家の威信を取り戻そうというわけね?」
「そのような仰りようは……」
「いえ、私はそれが悪いなんてちっとも思っていないわ! むしろ、とてもよく考えられた案だと感服いたしました。でも私が訊きたいのはそこではなくて、」
胸の前で手のひらを合わせ、エウラリカがあどけない笑みで言い放つ。
「私の利点は一体どこにあるのか、聞かせて頂ける?」
使者が、ごくりと唾を飲むのが分かった。エウラリカの表情は笑顔のまま変わらず、そのまま指を組んで膝に置く。
「私、ただで利用されるつもりはないわ。生半可な覚悟で手を出すくらいなら今のうちに手を引け……と、伝えておいて頂戴。そうね、サイラール王子と――」
冴え冴えとした眼差しは、使者を睥睨しているようで、その向こうにいる誰かを見据えている。
「今回の話を仕組んだ発起人の方に、ね」




