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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
変革せし帝国と手繰る系譜【花香】

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花香 1


 昨日とは打って変わって開けっぴろげな快晴は、何だか小馬鹿にされているような気分になるほどだ。

 等間隔で光の落ちる廊下を歩きながら、カナンは横目で窓の外を睨みつけていた。


(ユレミア王国、か……)

 帝都から随分と遠い国だが、祖国のジェスタからはもっと遠い。名前こそ聞いたことはあるが、縁の薄い国といえた。

 この立場についてから、帝国の各地を訪れた。しかし行き先はもっぱら数日で行って帰って来られる帝都周辺であり、西の遠方までは足を伸ばしていない。ユレミアの人間と会った経験もほとんどなかった。


 ふと、頭に浮かんだのは、ウォルテールの足下に纏わり付いていた赤毛の幼子である。

 赤毛はユレミア地方にルーツを持つ人間の特徴で、思い返せばウォルテールの義姉が東ユレミアの出身であった。その娘のセイレアも、同じく赤毛だったはずだ。

 帝都を落とし、ルージェンを連行したときのことを思い出す。恐らく、あのときに見た女が、ユレミア出身だという義姉のはずだ。……その直後に訪れた思い出が否応なしに蘇り、カナンはかぶりを振った。



 元々は、どこで初めて義姉の話を聞いたのだったか。逃げるように記憶を更に深くまで潜れば、すぐに答えが思い当たる。

(帝都に来て初めての冬だった)


 エウラリカに仰せつかって大臣の邸宅へ潜入した岐路のことである。早朝という時間にもかかわらず、カナンは街角でウォルテールと遭遇した。

 そのときに相談されたのが、ある『花』を巡って勃発した、家庭内での対立についてだった。


(……ユレミア語の図鑑)

 結局、あの話題はエウラリカによってあっさりと解決された。その顛末を思い出して、カナンは無言で目を見開いた。

 確か、あの図鑑はウォルテールに貸して戻ってきたあと、エウラリカの部屋に置かれていたはずだ。


 異国の言語と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、南方連合で明らかになった過去のことだ。旧帝国とナフト=アハールの因縁、そして、酷く似通ったふたつの言葉。……まさか、ユレミア語までもが同じではあるまいな。

(いや、ユレミア語は違う)

 もちろん、あの図鑑を見たときは帝国語も覚束ないような頃だったから断言はできないが、そもそも文字が異なっていたように思う。

(……大丈夫だよな?)

 落ち着かない危惧が腹の底をくすぐるが、曖昧な記憶を頼りに考察しても詮無いことだ。


 昨日の置き手紙について聞くためにエウラリカの部屋の前まで来たが、どうやら不在らしい。以前のように自由に部屋へ出入りできる関係でもない。しばらく扉の前に立ち尽くしてから、カナンはひとつため息をついて踵を返した。



 もう、あの頃とはお互いに立場が違う。決して不満がある訳ではないが、何となく物足りないような気分であった。語ろうと思っていた話題を持て余したまま、カナンはあてどなく元来た通路を引き返していた。

(エウラリカは、何か惚れ込む要素があって、ユレミアの第二王子とやらと一生連れ添うつもりなのだろうか)

 そうではないだろうな、とほとんど直感で確信するのは、付き合いの長さゆえである。以前にも、婚約に関する話題が上がったことがある。


 オルディウス・アルヴェール。あのエウラリカをもってして『驚くほど理想的』と言わしめた一人目の婚約者である。旧帝国の時代に関する研究者だったらしく、今思えばエウラリカが強い関心を示すのも当然だ。

 それでも、彼女はオルディウスと結婚する気はないと断言した。

(共に死ぬなんて考えられない、か……)

 当時のエウラリカの言葉を思い返しながら、カナンは何とはなしに庭園へと足を向けていた。日向に足を踏み出せば、一瞬目が眩むほどだ。


 エウラリカが添い遂げようと思う相手とは、一体どのような人間なんだろう。

 前皇帝の顔が浮かぶ。エウラリカが、顔も分からない王子の腕に手を回して幸せそうに笑っている。そんな光景が次々と脳裏をよぎって、カナンは思わず拳を握りしめた。

「……くそっ」

 思わず、傍らの壁に拳を打ち付けていた。誰もいないのを良いことに、低く呻く。――あの女。

 壁に拳の側面を押し当てたまま、カナンは肩で息をした。

 エウラリカを自分のものにしようなどと、願ってはいけないのだ。分かっている。そんなこと、とうの昔に悟りきって、受け入れたことのはずだ。けれど……

(エウラリカが俺以外の誰かのものになるのは、認めがたい)


 だからといって手を伸ばせば応えてくれる女じゃない。隣にいられる肩書きだってない。



「閣下」

 よろめきながら歩き出した頃に、背後から声がかかる。聞き慣れた声に振り返ると、いつも通り生真面目な表情をしたウォルテールがこちらへ歩いてきているところだった。

 規則正しい歩調とともに目の前まで来て、ウォルテールが眉根を寄せる。

「昨日、ユレミアから書簡が来たという話を聞きました」

「ああ……」

 噂を聞きつけるのが早い。「あとで説明しようと思っていたところだ」と前置いて、カナンは幾分か安定した足取りで歩き出す。どこまで話したものか、と思案してから、端的に告げる。


「ユレミア王国からエウラリカに対して、縁談の申し入れがあった」

「何ですって!?」

 耳を疑うように身を乗り出してきたウォルテールに「本当だ」と返して、カナンは腕を組んだ。

「えう、エウラリカ様に?」

 何故か口ごもりながら、ウォルテールが呆然とする。エウラリカが帰ってきて以来、ウォルテールは未だにずっと彼女に関して挙動不審であった。顔を赤くさせたり青くさせたり、支離滅裂な発言を繰り返したりとなかなか面白い見世物である。結構な頻度でエウラリカのおもちゃになっている。


「……それは、ユレミア側からの和平の申し出とみても良いんでしょうか」

「少なくとも、今すぐの開戦を企てている王国が王子を差し出してくることはない、と考えているが」

 ふむ、とウォルテールが思案するように顎に手を添える。カナンは歩きながら横目でその表情を窺う。東ユレミア州、ひいてはユレミア王国への態度に関しては、軍部でも意見が分かれるところである。

「ここ数年は、東ユレミアでの運動も下火です。ユレミア王国内部でも融和路線を唱える者がいると聞きます」


 一時期は現地に駐屯している軍だけでは運動を抑えきれず、帝都から一個大隊を派遣したこともある土地である。そもそもが長い戦争の果てに得た領土で、現地民と帝国の間の確執は根深い。帝都から遠く離れた東ユレミア州を維持するために、毎年多額の軍費や人員が投じられている。

 東ユレミアにおける抵抗運動を背後から長らく支援してきたユレミア王国も、同じような状況のはずだ。

 二国間の緊張状態は、もう二十年以上も続いている。


「和平を結ぶにしても、東ユレミア州の処遇は互いに足下を見ているような状況というわけだ」

「宛名は、新ドルト帝国や皇帝陛下ではなく、エウラリカ様を名指ししていたんですね?」

「要するに、エウラリカを利用して東ユレミアに関する対話を優位に進めたいんだろう」

 どうも、ユレミアにはこちらの状勢に詳しい人間がいるらしい。



 カナンが自然と庭園の奥へと足を向けていることに気づいて、ウォルテールが怪訝そうな顔になる。どこへ行くのかと言いたげな視線を受けて、カナンは初めて自分が意図せず特定の方向へ向かっていることを自覚した。

「温室に行くおつもりで?」

「いや……」と言いかけて、それも良いかと考え直す。元々、エウラリカを探していたのである。暇を持て余したエウラリカが温室にいる可能性は十分にあった。


 温室に向かって歩きながら、そういえば、前にもこんなことがあったと回顧する。道に迷ったカナンを、ウォルテールが温室まで連れて行ったときのことだ。あのときよりも随分と目の高さは近づいたが、両者の間に横たわるわだかまりは、形を変えつつ未だに消えきらない。


 沈黙に耐えかねたように、ウォルテールが口を開く。

「エウラリカ様とユレミアの王子の結婚は、認めるんですか」

「何が言いたいのか分からないな」

「エウラリカ様のことは、どう思っておられるので?」

「どう、とは?」

 問いに問いを返してから、カナンは内心で顔をしかめた。これではまるで、触れられたくないと自分から表明しているみたいだ。


 ウォルテールはまるで見透かしたような眼差しで、静かにこちらを見据えている。

「……婚姻の話が進んでから、『ちょっと待った』は駄目ですよ」

「当たり前だ」

 即答したのに、ウォルテールの表情はどこか心配そうだった。相変わらず考えていることが丸っきり全て顔に出る男である。

 言いたいことがある。でも言ったら機嫌を損ねるかもしれないし、でも言えるのは自分しかいないし、でも負い目があるし……。煩悶する様子が手に取るように分かる。呆れてしまうほど愚直な態度だった。


「何か思うところがあったら、些細なことでも相談してください」

 結局、そんな無難な言葉で締めくくる。気遣わしげなウォルテールに曖昧に頷いて、カナンはむっすりと黙り込んだ。



 温室の輪郭が近づいてきて、透明な硝子の向こうに、俯きがちに佇んでいるエウラリカの姿が見えた。突如として動きがぎこちなくなったウォルテールに、思わず笑ってしまう。

 彼女の変貌をいとも容易く受け入れたアニナとは対照的に、ウォルテールはどうしても記憶と様子の異なるエウラリカが受け止められないらしい。ほとんど初対面の人間に対するよそよそしさである。


 エウラリカは椅子に腰かけたまま、何やら手元に視線を落としている。本でも読んでいるのだろう、体はこちらを向いているが、カナンたちに気づく様子はない。

「あ、あの花……」

 ふと、話題を逸らそうとするように、ウォルテールは温室の一角を指さして呟いた。

「ポネポセアが咲いてますね」

「ポネポセア?」

 少し前まで考えていた話題が戻ってきて、カナンは目を丸くする。


 実が避妊や堕胎に使われるという花である。ポネポセアの花束がウォルテール家での揉め事に繋がったと聞いてはいたが、実物の花がどのようなものなのかは知らなかった。見たこともないし、形も色も知らない。

 視線を彷徨わせるカナンを見て、ウォルテールが「あの赤い花です」と付け加える。その瞬間、鮮やかな色が目に飛び込んできて、カナンは既視感に息を飲んだ。


(あの花、)

 見覚えのある花だ。カナンが始めてこの温室を訪れたときから、あの花は既に置かれていた。何なら一度だけエウラリカが自室まで持ってきたこともある。



 と、エウラリカが気配を察知したように顔を上げる。真っ先に目が合い、思わずたじろいだカナンに対し、彼女はにっこりと満面の笑みを見せた。それからウォルテールに視線を移したエウラリカが、面白がるように目を細める。獲物をいたぶる猫のような、可愛らしくも嗜虐的な表情である。

「どうしたの、ウォルテール。何か用?」

 自ら温室を出てきたエウラリカを前に、ウォルテールは傍目にも分かるほど仰け反った。及び腰のウォルテールに歩み寄り、エウラリカは片手で本を胸に抱いたまま小首を傾げる。さも不思議そうな表情だが、わざとらしく可愛い子ぶった素振りは明らかに小芝居である。


「え……エウラリカ様、ご機嫌麗しゅう」

「そんなことを言いに来たの?」

「いえ……」

 助けを求めて左右へ振れた視線が、カナンを見つけて縋るような目をする。

「その、閣下が、用があるって」

 ウォルテールが、まるで自分は関係ないとでも言いたげに指を指してくるので、彼は思わず半目になった。確かにそれはそうだが、もう少し取り繕うという発想はないのか。

 目に見えて嫌そうな顔をしたカナンに「言っちゃ駄目だったんですか」と顔を引きつらせ、ウォルテールがあたふたと「やっぱり違います」と首を振る。これで誤魔化せると思っているのかは定かではないが、案の定エウラリカは一瞬だけカナンを見た。咄嗟に目を逸らしてしまう。


 腰に片手を当て、エウラリカが目を細めた。

「違うの? じゃあ、ウォルテールはどんな用があってカナンを連れて来たの?」

「えー……と」

 旗色が悪いと踏んだらしい、ウォルテールは今にも帰りたそうな風情で一歩退く。

「……あとはご両人での話し合いだと思うので」と言いながら勢いよく七、八歩下がり、ウォルテールは腰の後ろで手を組んで静観の構えを取った。向き合ったまま残された二人は、視線を合わせて立ち尽くす。



「何か、用事でもあったの?」

 間をおいて、エウラリカが柔らかい口調で問うた。彼女の顔色は、平静そのものであった。まるで、あの置き手紙のことはなかったような口ぶりだ。

「……用事がなかったら、会いに来ちゃ駄目なんですか」

 そんなつもりはなかったのに、口から飛び出たのは喧嘩腰の一言だった。面食らったようにエウラリカが瞬きをして、それから整った微笑みで小首を傾げる。

「そんなことはないわよ」

 いつになく優しい声音だった。一歩分開いていた距離を詰めて、エウラリカが身を寄せてくる。


「何だか心配になっちゃって、念のためユレミア語を調べちゃったわ」と彼女が笑いながら見せてくるのは、見覚えのある装丁の本である。

「まさか、ユレミア語まで帝国語に似ていたらどうしようって、思うわよね」

 表紙に記されている文字は読めず、馴染みのない異国語だとすぐに分かる。

「これ、前に見た図鑑と同じものですか」

「そうね。流石に私も、読めもしないユレミア語の本を何冊もは持っていないわ」

 言いながら、同じ向きに立って、エウラリカが本を開く。肩が触れ合うのを感じながら、揃って見開きを覗き込んだ。


「……俺も、つい先程まで、この図鑑のことを考えていました」

 言いながら、精緻な植物の図と文字列に目を落とす。エウラリカは冒頭の表題を指さしながら微笑んだ。

「文字が違うのは見て分かるけれど、語順や発音も大きく異なるわ。特徴的なのは、こちらにはない格変化よね。……帝国語とは似ても似つかないって、言って良いと思う。実際、私も随分前から習得しようと思っているけれど、まだ全然」

 耳元に口を寄せて、「良かったわね」とくすくす笑う。明るい陽射しを浴びて、温室の屋根や壁が輝いている。エウラリカの頬に柔らかく光が射して、笑みを形作る唇が色づいていた。


「私たち、おんなじこと考えていたのね」

 甘えるような口調で、視線を合わせて、エウラリカがすぐそばで照れ笑いを浮かべる。手を伸ばさずとも触れられるような距離だ。


 その姿を曖昧な微笑みで見下ろして、カナンは無言のうちに、やるせなさが胸の内に広がってゆくのを感じていた。

 まるで、何もなかったことのように、不自然に明るく振る舞っている様子が、見るに堪えない。誤魔化しの意図を多分に含んだ笑顔で、彼女は一枚膜を隔てた向こうにいる。


 エウラリカ自身だって、カナンがこんな見え透いた媚び売りに惑わされるなんて思っていないだろう。互いに形ばかりの笑みを貼り付けたまま、彼女はじっと様子を窺うようにこちらを見据えている。まるで仲の良い恋人を相手にしているみたいな小芝居の奥で、鋭い双眸が光っていた。

 水底のように深い色をした瞳を見るにつけ、そこから放たれている拒絶をひしひしと感じるのだ。切なさが喉を締め上げる。


 目配せひとつで、分かるのに。

 たった一度の咳払いだけで、十分なのに。

 口には出せなくても、そうと分かる些細な仕草のひとつでもあれば、何でもしてやるのに。



「エウラリカ」

 呼ぶと、彼女はゆるりと首を傾げることで応じた。柔らかい金髪が一房、音もなく肩を滑り落ちて胸元に垂れる。こめかみから一房を掬い上げて、そっと耳にかけてやる。指の甲で頬を撫でる。


「何か、俺に言いたいことはないですか」

「ないわ」

「それなら、俺に、隠していることはないですか」

 手を下ろしざま、指先が一瞬だけエウラリカの首筋を掠めた。彼女は片目を眇めたが、身じろぎひとつしなかった。


「俺があとで知ったら怒るようなことは、ないですか」

 エウラリカは既に下手な猿芝居をやめたらしかった。可愛らしい笑みの立ち消えた、大人びた面差しで、正体の読めない真顔でカナンを正視している。

「自分を蔑ろにするようなことは、していないですか。何か危険なことはないですか」

 声はいつしか哀願同然の切実さを帯びていた。両手をだらんと体の脇に垂らし、弛緩した立ち姿のまま、彼女は一度だけ瞬きをする。


 ふ、と浅い吐息ひとつと微苦笑。エウラリカは緩慢な仕草で顔を背け、カナンの横を滑らかな一歩ですり抜けた。

「何もないわ。――お前に話すようなことなんて、ひとつも」

 息を飲むほどに色濃い拒絶が、その眼差しに宿っている。不用意に手を伸ばせば指先を食い千切られそうだった。剣呑な視線を受けて、無言のうちに身震いする。


 足音をさせずに立ち去るエウラリカを振り返って見送ることはできなかった。指先ひとつを動かすことすら。

 俺は、怯えているのか。そう気づいたのは、膝が笑っていることを自覚してからだった。



 黙って様子を窺っているウォルテールの視線を感じながら、カナンは無言で温室へと足を踏み入れた。エウラリカが座っていた椅子の横に立ち、机に指先をついたまま項垂れる。

 ……エウラリカの信頼を得ていると思っていた。誰よりも近くにいると思い込んでいた。他の人間には言えないような秘密でも、自分にだけは打ち明けてくれると信じていた。

 たとえエウラリカがカナンを選ばないとしても、何年も共犯者、あるいは悪友として動いてきた仲だ。彼女が助けを求めるとしたら、自分以外にはいないだろうという自負もあった。


 優越混じりの傲慢が、音を立てて崩れてゆく。

(俺は、エウラリカのことを何も知らない)

 エウラリカが胸の内に広がる空虚の正体を分からないままでは、彼女の深層に辿り着けない。


 ユレミア王国から送られてきた手紙に何かあるのは明白だった。余人には言えない内容だ。彼女の弱みを握るようなことではなかろうか。手紙を見下ろす、青ざめた横顔を思い出す。


 どうして、彼女はいつも何かに脅かされなければならないんだろう。痛切な哀しみと無力感が込み上げてくる。まさに今、彼女が一人で追い詰められているのに、俺は手をこまねくばかりで何もできない。

 一体なにが、彼女を恐れさせている? 苛々と天板を指先で打ちながら、カナンは眉根を寄せて黙考する。



 温室の隅で、深紅の花がひっそりと咲いていた。ウォルテールが指し示していたものである。慎重に歩み寄る。微風さえないガラス室の中で、ポネポセアは滴るような色香を漂わせて揺れていた。

 中心に向かって色が濃くなってゆく花弁に指を触れて、茎から手折って、そっと鼻先へ寄せた。ふわりと鼻腔を漂った甘い香りに、カナンは思わず瞑目した。

(この香りは……)

 決して遠くはない記憶が刺激される。乾いた布に水が染み込むように、じわりと憶測が広がってゆく。止めどなく伸びてゆく思考を俯瞰して、彼はゆっくりと息を吐く。


 ――ひとつひとつ、点と点が繋がってしまいそうだ。

 恐ろしいような予感だった。核の分からぬ憶測が、ひとつの形に収束しそうな気配がしていた。

 彼女の抱える秘密の中核に、この花がある。予感とも確信ともつかぬ可能性であった。

 考えてはいけない。エウラリカはそれを許さないに違いない。そうと分かっていても、制止の効かない衝動であった。彼女が余人に触れられることを拒む秘密を、それでも知りたいと、心が叫ぶのだ。



 どうしてエウラリカは、ポネポセアのことを知っているのだろう。

 彼女は決して草花を格別に好む女ではない。それなのに、異国で親しまれているというポネポセアに限って、たまたま聞いたことがあったとでも?


 今しがた、彼女はユレミア語をまだ読めないと語った。それなのにどうして、かつての騒動の際に、あの図鑑にポネポセアのことが記してあると知っていた?


 誰が、エウラリカにあの花のことを教えたのだろう。図鑑はどのようにして彼女の手に渡ったのだろう。


 一体誰が、何が、彼女を歪めたのだろうか?





核心を突くコメントが来ると対応に困ってしまいそうなので、しばらく感想欄を閉じます。よろしくお願いします。

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