帝都陥落2
帝都はジェスタの軍により攻め落とされた。前触れのない夜襲だった。
狙われた時間は警備が手薄になる前北東の刻。宮殿を制圧した兵たちは、明らかに城内の構造を把握していた。それも当然だ。
軍を率いていたのは、一年ほど前までこの城で生活していた、王女の奴隷――カナンである。
どこからどのようにして城内に入ったのか分からない。城は帝都の最も奥に存在し、川から崖を這い上がるか、門を通るか、あるいは塀をよじ登るなりして突破せねば中に入ることは出来ないはずだった。そして、それらのどの手段を選んだとしても、これだけの軍勢を城内に入れるのは容易くない。
しかしカナンはそれをやってのけた。それはまるで、魔法か何かでいきなり軍を出現させたかのようである。
(馬鹿な)
魔法などというものがこの世に存在しないことなど、ウォルテールはとうの昔から知っている。それだけに、どのようにしてこの襲撃を成し遂げたか分からない事実が恐ろしい。
ウォルテールが急報を受けて駆けつけたときには、城の警備体制は既に瓦解した後だった。完全な奇襲である。
背後からジェスタ兵に拘束されたまま、ウォルテールはカナンの横顔を睨みつけた。
「一体何が目的で戻ってきたんだ、カナン」
「口の利き方には気をつけた方がよろしいかと」
カナンは一旦声を潜めてウォルテールに告げると、「目的、か」と頬を吊り上げる。
「そうだ……その、通りです」とウォルテールは自分の口調に酷く違和感を覚えながら頷いた。カナンは満足げに目を細めてウォルテールを一瞥する。ウォルテールは顔を歪めた。
「もう自由の身だというのに、わざわざ自分から、こんなところに戻ってくる必要など……」
「その必要があったから、俺はここにいるのだ。その程度のことすら分からないのか」
ぴしゃりとカナンはウォルテールの言葉を叩き落とした。ウォルテールは思わず口をつぐむ。これはやはり、ウォルテールの最も近い記憶にあるカナンとはまるで違う。
――まるで、初めて出会ったときと同じじゃないか。
険しい視線と張り詰めた気配は、敵愾心をありありと滲ませ、容易に人が近づくことすら許さない、怒れる少年のそれである。ウォルテールを見据える黒い瞳には温かさの欠片もなく、冷然とした眼差しは躊躇というものを感じさせなかった。
(やはり、大人しくなったように感じていたのは演技だったのか?)
穏やかに微笑み、人懐こく従順な少年。ウォルテールに教えを乞い、周囲の人間と共に成長してきた子供時代はすべて偽りか。だとすれば、これほど滑稽なことはなかった。自分は存在せぬ幻想の世話を見、心を砕いてきたのである。
「…………。」
ウォルテールが小さく舌打ちし、自嘲するように口角を上げれば、カナンは無言でウォルテールを横目で見上げた。その目の奥が読めない。何を思っているのか分からない。まるでカナンが得体の知れない化け物のように思えた。
カナンの率いる一軍に連れられ、ウォルテールはいくつかの廊下を通り、道すがら、ひとつの中庭を通りかかる。
広い中庭では、抵抗する帝国軍とそれに応戦するジェスタ軍の剣戟の音が未だに続いていた。彼らに見せつけるがごとく、カナンはウォルテールの背を押して前に出す。よろめきながら歩み出れば、兵たちは動きを止めた。その目は大きく見開かれ、愕然としたような表情で口々に呟く。
「ウォルテール将軍……?」
「まさか……」
声が広がり、帝国の兵士たちは目を疑うようにウォルテールを見た。ウォルテールは顔を上げていられずに俯くが、カナンに背を突かれて再び顔を上げた。
「何があろうと前を見ろ。……貴方から教わったことですよ?」
カナンはウォルテールの背後にぴたりとつけたまま、低い声で囁く。ウォルテールは思わず歯ぎしりした。
顎を引き、前を見据え、呆然とする兵たちを見回し、ウォルテールは一度、胸を上下させて深呼吸した。そして、はっきりとした声で、静かに告げる。
「全員、剣を下ろして地面に置け」
ウォルテールがそう言い終わるよりも前に、兵たちは「そんな!」と目を剥いた。「嘘ですよね」と縋るように問われる、その声に否定を返してやることが出来ない。
「聞こえただろう。今すぐ剣を置いて離れろ」
カナンが追い打ちをかけるように声をかけると、程なくして剣が地面の上に落ちる音が相次いだ。カナンは振り返り、背後にいたジェスタ兵へ何事か指示を出した。早口のジェスタ語を聞き取ることは出来ず、ウォルテールはただ身を固くする。
ジェスタの兵の数人が離れ、投降した帝国軍の方へ向かう。その様子を、固唾を飲んで見守っていると、カナンがウォルテールの背を押した。
「ただ拘束するだけですよ。兵にも言い含めてあります。不必要な暴力を振るうこともありません、……あのとき、ジェスタで貴方がそうしたように」
動こうとしないウォルテールにそう言って、カナンは歩き出す。ウォルテールは渋々その背中を追った。
勝手知ったる態度で――事実そうなのだが――カナンは城内を闊歩する。迷いのない足取りが向かう先は、皇帝のいる居室の方向ではない。そのことに気づいて、ウォルテールは眉をひそめた。皇帝を弑し、帝国を落としに来たのではないとしたら……カナンは、一体、何をしに来たんだ?
カナンは歩きながら、低い声で呟く。
「戻ってきた理由、でしたか」
短い一言とともに昏い視線が向けられ、ウォルテールは後ろ手に両腕を拘束されたまま、肩を強ばらせた。先程の話の続きである。
長いこと沈黙するカナンに、『言いたくないなら言わなくて良い』と言おうとして、やはり口を閉じる。聞きたくないのは自分の方じゃないか。
カナンが恨み言を言わなくなったからと言って、どこか許されたような気がしていたのである。大人しく従順なカナンの姿に安堵していた。あの王女の言いなりになって、理由のない侵略を行った後ろ暗さから、目を逸らしていたのだ。
それが過りであったことは自明だった。今、カナンがこうして帝都に戻ってきたことがその証左だ。それでもまだ、ウォルテールは直接の言葉で突きつけられることを恐れていた。
『お前に復讐をしに来たのだ』と、恐らくカナンはそう言うのだろう。それだけのことをした自覚はあった。
「将軍にだけ特別にお教えしましょうか。ごくごく単純な理由です」
様々な呵責の念に苛まれながら沈黙するウォルテールを、しかしカナンは一瞥すらしなかった。青年は仄暗い眼差しで、どこか遠くを睨みつけている。
「――――俺の知らないところで、エウラリカが死んだ」
それはあくまで穏やかに、落ち着いた声音で放たれた言葉だった。しかし言葉の裏には隠しようもない激情が揺らめいている。ウォルテールは息を飲んだ。
「俺があの女にどれだけのものを捧げたと思っている。すべてだ。……俺の持ちうる全てをあの女に捧げた。誇りも、生まれも、家族も捨てて傅いた。筆舌に尽くしがたい数多の屈辱にだって耐えた。あの女のためなら尊厳を自ら傷つけさえした」
唸るように吐き捨てるカナンの横顔は、一口には形容しがたい感情に歪んでいる。ウォルテールは背筋が寒くなるのを感じた。これほどまでのものが、この青年の中に抱かれていたとは、想像だにしなかった。
握りしめた拳はわなわなと震えていた。カナンの目にはっきりとした怒りが浮かぶ。
「それなのに、あの女は、俺のいない間に勝手に死んだ。一人で、自分だけ、逃げやがったんだ。……絶対に許さない」
その唇が幾度となく動く。声もなく呼ばう。――『エウラリカ』。
「……だから今日は、彼女の墓参りに来たんです」
カナンは小さな声で呟いた。その言葉でウォルテールは行き先を理解する。この先にはエウラリカの居室、そしてその墓が置かれた離れがある。
ウォルテールは薄ら寒いような心地で、エウラリカの墓の有様を思い浮かべた。白い石を立てて作られた墓の下には、若くして命を落とした王女が眠っている。
何と恐ろしいことか、――傾国の乙女とは、死してなお国を傾けるらしい。
誰もいない廊下を突き進み、向かうは宮殿の最奥、エウラリカの部屋である。正面での騒ぎはもう聞こえてこず、まるで外界から切り離されたかのような錯覚に襲われる。夢の中を歩いているかのようだった。
カナンの言葉を反芻しながら、ウォルテールは密かに戦慄していた。いつの間にカナンはここまで巨大な感情を膨れ上がらせていたのだろう。ちっともそんな様子を見せなかったのに。
そこまで考えてウォルテールは、いや、と内心で頭を振った。
(あれは確か、二年前。そう……エウラリカ様の婚約の話が持ち上がったときのことを思い出せ)
今になって思えば、あのときカナンは確かに、エウラリカへの執着を覗かせていたのである。
はるか遠くに思える二年前に思いを馳せながら、ウォルテールはエウラリカの待つ静かな庭園へと近づいていった。




