夢のあとの庭
陽射しの強い午後のことであった。暗い地下牢は野外の灼熱など知らぬように冷え冷えとしていて、ルオニアは思わず身震いしてしまうほどだった。
石の階段を下りて、徐々に目が慣れるにしたがって、独房が左右に並ぶ通路の姿が見えてくる。
「一番奥です」
セニフが耳元で囁く。「わざわざ、ルオニア様ご自身で来られなくても」と不満げに漏らした声を黙殺して、ルオニアは大股で通路を進んだ。突き当たりが見えて、人の気配がする。
「ああ……お前、少し太ったんじゃないか?」
頬を吊り上げ、開口一番にそんなことを言ってきたひとの姿を、ルオニアは静かに微笑んで見下ろした。
サハリィが主導するナフト=アハール攻撃が行われてから、既に三ヶ月あまりが過ぎている。南方連合の各氏族の長が集まり、種々の取り決めがなされた。王ではなく首長という立場に置かれていたアドゥヴァが引きずり下ろされれば、王座は空である。
ルオニアの即位は滞りなく進んだ。残るのはアドゥヴァの処遇に関してのみだった。
「その顔色と背後の警備からするに、俺は処刑か」
「エフタの氏族長がとても強い毒を用意してくれたよ。数滴で致死量のものを、たっぷり一瓶」
「普通、処刑は前日までに予告するものじゃないのか」
「あなたが逃げるんじゃないかって、皆警戒してるのよ。そもそも処刑は予告して欲しいなんて、どの口が言ってるの」
その通りだ、とでも言うようにアドゥヴァが肩を竦めて降参を示す。ルオニアは重い息を吐き出して、ちらとセニフを振り返る。勿体ぶった仕草でセニフが鍵束を出し、一歩前に出た。
後ろ手に両腕を拘束されて、億劫そうに独房を出てくる。身を屈めていたアドゥヴァが背を伸ばすと、その巨躯は見上げるばかりだった。
「で、どこに行くんだ?」
これから命を絶たれようとしているのに、その態度はやけに飄々としている。憑き物が落ちたとでも言うべきかもしれない。覚悟していたよりも余程大人しい様子に、眉根を寄せたのはセニフだった。
「態度が悪いですよ。目の前にいるのが誰だと心得ている」
「俺の妹分だろ。何か間違ってるか?」
人を食ったような態度で吐き捨てるアドゥヴァに、セニフが目に見えて青筋を立てる。今にも頭から湯気を出しそうなセニフを目顔で宥めて、ルオニアはゆっくりと歩き出した。振り返らずに、努めて気楽な口調で呟く。
「私、この間即位したよ」
「へえ、そりゃおめでたいな」
斜め後ろをついてくる足音は、ルオニアのものよりも重く、力強い。素っ気ない声からは感情が読み取れず、ルオニアは思わず肩越しに振り返って『兄』の顔を確認した。
「やっぱり、どんなものも収まるべき場所に然るべき形で収まるってわけか」
遠くを見るように目を細めたアディは、薄らと微笑んでいた。……ルオニアの見間違いでなければ。
***
氏族長たちが勢揃いする議場は、地下牢からは距離がある。したがって往路は長く、歩を進めれば進めるほどに重い空気に満ちていった。
陽射しはなおも強い。視界が白く灼けるような真昼の光である。
立ち並ぶ建物の数々の向こうに、議場の丸天井の輪郭が覗く。決定的な場面は、もうすぐ目の前に迫っている。咄嗟に、ルオニアは足を止めていた。
「セニフ」と一言発して、ルオニアは素早く視線を走らせる。この近くの庭園に、小さな東屋があったはずだ。木々の向こう、そちらへ目を向けたルオニアに、セニフが「なりません」とだけ言ってかぶりを振る。言わんとしていることを察したらしい、この上ない渋面である。
それでも視線を外さないでいると、彼は聞こえよがしに嘆息した。諦めたようにかぶりを振る。一連の流れを、アドゥヴァは面白がるように眺めていた。
「本当に言うことを聞かない我が儘お嬢だろ、大変だよな」と顎をしゃくってきたアドゥヴァを無視して、セニフが周囲の兵を一瞥した。
「ライア。皆様に、少し遅れると伝えてきなさい」
下級兵と同じ格好をした短髪の女が、無言で頷いて早足で歩き去る。アドゥヴァがその後ろ姿を横目で見送るのを、ルオニアはじっと見つめていた。
「アディ。少し、話したいことがある」
こちらに視線を向けさせるように、大きな声を出す。彼はゆるりとこちらを振り返った。
下がって、とルオニアが告げた言葉に、セニフは大層、それはもうとても、難色を示した。
「ほんのちょっとで良いから、二人にして欲しいの。……一分で良いから」
反対は聞かない、と頑なな声と態度で示せば、セニフはあからさまに渋々といった様子で首を縦に振った。アドゥヴァを一瞥して低く吐き捨てる。
「……少しでも怪しい動きを見せたら、殺しますよ」
「お前、その脅しが今の俺に利くとでも思ってるのか?」
心底不可解そうに首を傾げて、アドゥヴァがセニフを眺めた。セニフの口元がぴくりと引きつる。一触即発の気配を感じたルオニアは慌てて割って入った。アドゥヴァの背中を押して、東屋の日陰へと歩を進める。じっとセニフを睨むと、これまでに類を見ない渋面で立ったまま、それ以上は近づいて来なかった。
「で、話ってのは何だ。流石にお前の悠長な雑談をのんびり聞いていられるほど余裕ではないぞ」
「うん。……座って」
木目の鮮やかなベンチを指し示すと、アドゥヴァが緩慢な仕草で腰かける。立ったまま、ルオニアは「大きな声出さないでね」と身を乗り出して耳元に口を寄せた。
言おうとした言葉が、何故か掠れた息として出てきてしまう。自分で思っていた以上に緊張しているようだ。何だ、と言いたげにアドゥヴァが片眉を上げてルオニアを横目で注視する。顔の半分ばかりに明るい光が落ちて、少し眩しそうに目を細めた表情を、つと呆然と見つめてしまった。
「あのね」
気持ちの上では少し禁忌だけど、実際には禁忌ではない。でもやっぱり、人に祝われるようなことでもない。数日前、秘密裏に呼び寄せた医師の言葉を思い出す。指が震えた。口元に片手を添えて、そっと囁く。
「――子ども、できた」
しん、と恐ろしいような沈黙ののち、「駄目だ!」と叫んだのはアドゥヴァだった。咄嗟に駆け寄ろうとするセニフを鋭い眼光で制して、ルオニアは目の前の蒼白な顔に向き直る。
「これを伝えるのが、アディにとって喜ばしいことなのかどうかも分からないけど、でも、黙ったままで『見送る』のも違うと思ったから」
「さっさと堕ろせ。新しい女王が即位して早々に出産なんぞ、どんな目で見られるか……しかも」
「やだ。産むって決めたの。アディだって良いって言ってたじゃない」
「あのときはっ」
「あのときは、何なのよ!」
腕が自由だったら、きっと胸ぐらでも掴まれていただろう。まるで手負いの獣のように荒々しい眼差しであった。ルオニアは負けじと眦を吊り上げて、肩で息をするアドゥヴァを睨みつけた。
「……薬も何とかして手に入れたけど、自分の意思で飲まなかったの」
「白い目で見られることが分かっている子をみすみす産もうってか。それこそお前の身勝手だろう。どうせ不幸になるガキなら産まれない方が何百倍だってマシだ」
「私は、アディが産まれてこなければ良かったとは思っていないよ」
間を置かずに返すと、アドゥヴァは虚を突かれたように目を丸くした。ややあって、「俺の話なんてしていない」と呻く。ルオニアは思わず苦笑した。
「ねえ、アディ」
あとほんの少し、もうここからでも見える、あの議場に入ってしまえば、そこが舞台だ。衆目の中での斬首を唱える者もいたが、ルオニア自身が強く反対した。……自分が、見たくなかったからだ。死してなお辱めを受けるアドゥヴァの姿を見たくなかった。マーリヤにも見せたくない。
「他の人の前じゃ言えないけど、私、やっぱりアディのこと――」
言い終わるよりも前に、アドゥヴァがふと、遠くを見た。前触れなく、ゆらりと腰を浮かせる。
その動作が、やけにゆっくりと感じられたのだ。背後で両手を戒めていた枷が、留め金のところから弾ける。長い腕をこちらへ伸ばして、まるでのしかかろうとするように肉迫する姿が、ひとつの大きな影に見えた。
肩に手のひらが触れて、つよく、突き飛ばされる。
空を切る音がした。
気がついたときには、地面に尻餅をついていた。「捕らえろ!」とセニフの声が飛ぶ。訳が分からず呆然とする。目の前に立つアディの胸から、妙なものが生えている。ぽた、と何か熱いものが次々と滴り落ちてきて、地面へ投げ出されたままのルオニアの足を濡らしていく。力の入らない両足が、赤く染まってゆく。
歯を食いしばる音が、荒い息の隙間から聞こえた。大型の獣が、緩慢に振り返るような動きだった。頭をもたげ、彼はルオニアの背後を鋭い眼光で睨みつける。
「貴様ッ……」
胸に刺さった矢を一気呵成に引き抜いて、アドゥヴァは辺り一帯を震わすような大音声で吠えた。
「――――エーレフ!」
耳を疑う。だってそれは、ナフタハル虐殺の糸を引いていた人間の名で、かつて、エウラリカが殺したという人の名前だ。咄嗟に立ち上がって振り返ろうとするルオニアの頭を無理矢理に押さえつけて、アドゥヴァが風のように走り抜ける。
「アディ、待って!」
悲鳴を上げて呼んだ声にも、彼は振り向かなかった。まるで穴の空いた器を運ぶように、鮮血が地面に軌跡を描いている。
「駄目です!」
地面に手をついて駆け出そうとしたルオニアを背後から羽交い締めにして、セニフが東屋の羽目板の影に身を屈めた。壁に押しつけられ、「動かないでください」と強い口調で厳命されて、ルオニアは両目に涙を浮かべたままこくこくと頷く。
騒ぎを聞きつけて、次々と衛兵たちが駆けつけてくる。その間、ルオニアは為す術もなく両手で口を覆ったままへたり込んでいた。
ほんの数分間のことだろうに、それはまるで永遠のように思われた。
……初め、それは一対の獣が乾いた地面に重なって倒れているように見えた。呆然としながら立ち上がり、地に足がつかないような心地で歩を進める。
「アディ、」
じわじわと、地面に、赤い色が広がってゆく。アドゥヴァが首長としてラヴァラスタ宮殿に君臨していた頃、回廊の上から度々目にした色彩と同じものである。
夢の中のように、現実味がない。
地面に倒れたアドゥヴァの下に、もう一人、誰かがいるのが分かった。歩み寄る。足はまるで石のようだった。誰も、何も言わなかった。
金髪。男。ルオニアはごくりと唾を飲む。先程、アドゥヴァが叫んだ名前を、口の中で転がした。
「……カナンがね、ナフト=アハール包囲の際に、宮殿内で怪しい人影を見たって言ってたの」
一歩、重い足を動かして歩を進める。アドゥヴァが獣のように唸り、身じろぐ。その両腕でもって地面に押さえつけられているのは、見覚えのない男だった。まだ若く、線が細い。一見すればどこぞの貴公子のように見える。しかし、明るい空色をした瞳に浮かぶ、荒んだ気配は隠し切れていなかった。
「その特徴を聞いたエウラリカが、もしかしたら、って」
細い首に両手がかけられる。体重をかけるように肩を入れるが、ぬるついた血で手が滑る。自身の処刑を聞かされても眉一つ動かさなかったアドゥヴァが、顔を歪めて、歯を剥き出しにして、獰猛に笑っていた。その両目から、とめどなく透明な雫が溢れ出しては血潮に波紋を落とす。
「もしもあなたが生きているとしたら、私の命を狙うだろうって言ってた。エウラリカの言うとおりだったね」
警備は普段より大幅に強化され、衛兵に見つけられることなく宮殿の出入り口を通ることは不可能である。地下通路へ繋がる井戸や床下などは、大規模な調査と共にすべて塞がれている。
この数ヶ月、宮殿内に潜んでいたとみても良いだろう。その執念に、思わず身震いする。
喉笛を圧されながら、男はアドゥヴァの腕に両手の爪を突き立てて藻掻いていた。アドゥヴァの腕はびくともしない。エーレフが諦める様子はなかった。
ああ、このひとが。内心で呟く。心は驚くほど平坦であった。静かな水面のような胸中を抱えて、ルオニアは短く言葉を発した。
「初めまして、エーレフ」
即位してから初めて訪れた、父の眠る陵墓を思い出す。父の名が刻まれた石碑を、指先で慎重になぞった、あのときのことを。真昼の光に熱せられて熱くなった碑に触れて、指の腹がまるで焼けるように痛かった。
『何としてでも生き延びなさい』
始祖王の名を与えて、そう告げた父のことを思う。
『あなたが生き延びることで、救われるものがある』
そう信じてくれた人がいた。願いを託してくれた人がいた。あなたのためならと、命や尊厳までもを投げ出してくれた人たちがいた。
その思いに応えるにはどうすれば良いのか。ただ生き延びるだけでは満足できない。
未来を見据えて、皆でひとつずつ、選びながら歩いて行くのだと決めた。きっとそれが、先に逝った人たちに報いることだから、と。
ずっと、目を逸らしていたのだ。王として、あるいは一個人として、
(……私は、過去に刃を向けるべきなのか否か)
それを知りたかったから、だから、
「――私は、あなたに、会いたかった」
ルオニアは薄らと微笑み、足下で仰向けに押し倒されているエーレフを見下ろした。アドゥヴァの胸から噴き出す血を浴びて、その顔は赤く染まっている。大きく見開かれた両目が、射貫くようにこちらを見上げていた。向けられる視線は憎悪とでも言うべきで、思わず笑ってしまう。どうしてあんたが憎む側なのだ。
傍らに転がる弓矢を一瞥する。笑みが深くなるのを自覚した。この矢尻が、自分に向けられていたのか。
「……うん。やっぱり私、あなたのこと嫌いだなぁ」
呟いて、ルオニアは一度だけ大きく頷いた。
そのとき、不意に力が入らなくなったようにアドゥヴァが崩れ落ちた。その体が激しく波打ち、震える。明らかに異様な状態に、ルオニアは息を飲んだ。
好機とみてエーレフが体の下から這い出ようと動くが、すぐに別の兵によって取り押さえられる。今度は地面にうつ伏せになって、エーレフはルオニアを睨みつけていた。
「殺してやる」
「どうして?」
「エウラリカ様のために」
「私は、エウラリカを害したりなんてしないよ」
「お前の血筋が残っている限り、終わらない」
「急がなくたって、どんなものも終わりは来るよ」
「いつだって終わりは、最後まで立っていた者の描く形をしている」
短い応酬が続く。先程まで首を圧迫されていた影響か、喘鳴混じりの声は聞き取りづらい。
「私の思う『エウラリカのため』と、あなたのそれは違うものみたいだね」
裏切られたの、と呟いていたエウラリカの姿を思い出す。傷ついたような、幼げな表情で、目を伏せていた。
そうした会話を交わすうちに、アドゥヴァが地面に手を踏ん張って、ぎこちなく身を起こす。僅かな身じろぎのたびに傷口から赤黒いものが湧き出す。
「誰かが、教えてやらなきゃいけないんだ。願いなんてどうせ叶わないんだって、エウラリカ様に、教えなきゃ……」
エーレフの言葉は、まるで熱に浮かされた譫言のようだった。後ろ手に両腕を拘束されたまま、男は息だけで笑っていた。
「俺が守ってやらなきゃいけない。俺の姫様なんだ。だって可哀想じゃないか、叶いもしない願いに拘泥して、自分の全てを捧げたって絶対に報われない献身ばっかり続けて、ずっと苦しいままなんだ。そんなのあんまりだ」
笑っているのに、まるで悲鳴のようだった。
「――叶わないんだよ! 全部、何もかも! 人間なんて所詮なにもできないんだ、超えられない壁ばかりだ、壊せない壁ばっかりだ!」
叩きつける声の激しさとは裏腹に、言葉は息を飲むほどに空虚な諦念に満ちている。
ゆらり、アドゥヴァが傷口を片手で押さえたまま頭をもたげ、エーレフの背後、遠くを見るような仕草をした。声もなく目を見張る。
「夢なんて、見たって、無駄なんだ。頑張れば救われるなんて幻想だ。お前も分かるだろ、なぁ。はやく諦めた方がうんと楽だ。はやく終わらせてしまえば良い。終わらせてやるよ」
口の端を醜く歪めて、顔の半分を血に染めたまま、エーレフは凄絶に笑いかける。
「さっきの矢にな、毒を塗っておいたんだ。掠りでもすれば即死まちがいなしだ」
はっと、アドゥヴァを振り返る。その頬からは、急激に血の気が失せていた。吐血したせいで血のついた唇が開閉するが、音にならない息が漏れるだけで聞き取れない。そんな、とルオニアはその場でたたらを踏んだ。
目には見えない毒が、彼の体を刻一刻と蝕んでいる。
「お前は、何もできずに死んでいくんだ。人の上に立つ資格も持たず、それでも分不相応な望みを抱いて、挙げ句の果てに、かつて殺し損ねた本物に呆気なく処刑されるんだ。お笑いだよ。お前も俺もまがい物だ。身の程知らずな夢を抱いた罰だ。これがお前の末路だ、お前の成れの果てだ。ざまあみろ……!」
衛兵に動きを封じられながらも、高らかに哄笑する。歯を見せて声を上げるエーレフの表情の露悪的なことに、ルオニアは顔を歪めた。これから死ぬ人間に対して、勝利宣言を叩きつけずにはいられない。一体どれほど空虚な胸の内から放たれる衝動だろう。
アドゥヴァの視線は、まるでエーレフなどいないかのように、遠くに据えられたままである。ふと、その目が、眩しいものを見るように細められる。
「……た、よ」
さも傾聴するかのように、エーレフが恭しく首を傾げる。アドゥヴァは息を吸おうと口を開いた。喉の奥で、ごろごろと痰が絡むような音が苦しげに繰り返される。
「かなっ、た、よ、おれは」
息も絶え絶え、彼が告げたのはその一言だった。虚を突かれて、エーレフの目が丸くなる。呆気に取られて耳を疑うエーレフの眼前で、アドゥヴァの体躯が、ゆっくりと、音もなく傾いでいく。
「叶った。全部」
次の瞬間、目にも留まらぬ速さで振り抜かれた刃が、正確無比な軌跡を描いてエーレフの首筋を切り裂いた。
新たな絶叫、新たな血飛沫が上がるのと、アドゥヴァが湿って重い音を立てて横倒しに頽れるのは同時だった。倒れ込みながらも、その双眸に浮かんでいるのは紛れもなく勝利の笑みである。
伸びてきた手がエーレフの顎を掴み、小瓶を口にあてがった。顔を振って逃げようとする男の後ろ髪を鷲掴みにし、顔を無理矢理に上向ける。強い手つきは、決して容赦をしないと言外に告げていた。ルオニアは立ち竦んだまま、突如現れた女の横顔を凝視する。
「ライア、」
ルオニアの声など、聞こえていないようだった。あるいは、聞こえていても無視しているか。
暴れるエーレフの胸に馬乗りになり、その喉に液体を流し込んで、ライアは荒い息を吐いた。まるで宝玉のように濃い色をした瞳が、血溜まりの中で倒れて動かないアドゥヴァを一瞥する。
「……毒は、もう要らないみたいだから」
ライアが手にしている小瓶には見覚えがある。アドゥヴァに服させる予定だった毒薬である。あれを飲んで、生きていられる人間はいない。
程なくして、エーレフの体が、激しい痙攣を起こし始める。苦悶の表情を浮かべ、喉を掻きむしるような仕草をする。その様子を、ルオニアは声もなく見下ろしていた。
「ライア! 何を、勝手なことを……!」
一部始終を見ていたセニフが激しく糾弾しても、ライアに動じる様子はなかった。疲れたような、しかし、どこか晴れ晴れとした表情で、兄を振り返る。
「良いよ。どんな処罰でも受けるわ。処刑だって、甘んじて受け入れる」
言いながら、彼女は徐々に力を失ってゆくエーレフを見下ろした。「はは」と小さく笑い声を上げる。
「こいつを殺せたんだから、もうそれで十分!」
歯を見せて笑うライアの目に、薄らと涙の膜が張っていた。ルオニアとセニフは、咄嗟に返す言葉を見つけられずに立ち尽くす。返事を待つ様子もなく、ライアは体を反転させると、動かないアドゥヴァへと歩み寄った。
互いに、上半身を赤く染めた二人であった。片方は自らの血で、もう一人は返り血で。顎を引いてアドゥヴァを見下ろすライアの横顔は、冴え冴えと冷え切っている。凜と背を伸ばした姿を、美しいと思ってしまった。血に濡れた刃を体の脇に下げたまま、彼女は薄く唇を開いて息を吸った。
「立ちなさい」
頭の横に立って、ライアは硬い声で言い放った。アドゥヴァの腕を掴み、強く引き上げる。
「起きろ――こんなところで死ぬなんて、許さない!」
アドゥヴァの瞼が、微かに動く。ほとんど痙攣のような震えだった。
「あいつに殺されて、あんたはそれで良いのか。そんな末路で納得できるのか」
低く囁きながら、アドゥヴァの腕を肩に担いで支えるライアの声が、揺れている。彼女に自重を預けながら、アドゥヴァが必死に地面へ足を踏ん張る。ライアの服はたちまちに血塗られてゆく。
「あんたは、私が、殺すんだ。そう約束したでしょう」
鼻先が触れ合いそうな距離で顔を見合わせて、アドゥヴァはほんの少し唇を歪めて、何とか笑みを形作った。「そうだな」と吐息が応える。
本来の処刑場である議場に向かって、ゆっくりと、まるで亀の歩みのように進んでゆく。二人の後ろ姿を、ルオニアとセニフは為す術なく見つめていた。
だって、二人の姿が、まるで、計算され尽くした絵画の光景のように一対だったから。
苦しげに肩を丸めるアディの背中が、あんまりにも小さいから。
言葉に表せる根拠なんて何もない。ただの直感だ。それだけに、痛いほどに分かってしまう。
――アディは、死ぬ。
堪えがたい衝動が喉元までせり上がる。わっと声を上げて泣き出してしまいたかった。
「ルオニア様」
息を詰まらせたルオニアを諫めるように、セニフが一言だけ告げる。感情の読めない眼差しは、己の妹をじっと見据えていた。
「あともう少しだけ、ご辛抱なさってください」
そっと、背に手を添えられる。「先に、議場へ行きましょう」
下唇を強く噛んで、ルオニアは小さく頷いた。
それは、さながら、赤い絨毯に彩られた王道のように見えた。開け放たれた大扉から姿を現したアドゥヴァは、蒼白な顔をしてライアに支えられている。議場で待ち構えていた氏族長達が、一斉に息を飲む。
極めて平和的に行われるはずだった処刑は、今や目に痛いほどの鮮血に満ちている。むせかえるような血生臭さに、サハリィ当主が僅かに目を眇めたのが分かった。ライアが無言でアドゥヴァの腕から手を離すと、数歩退く。
高い位置の窓から、まるで降り注ぐように、陽光が斜めに射し込んでいる。四角い光が等間隔に投げかけられた通路を、アドゥヴァが、焦れるほど緩慢な足取りで、こちらへと近づいてくる。
もういつ倒れてもおかしくないのに、限界を超えて気力で立ち続けているようだった。鬼気迫る様相で、彼は一歩ずつ歩を進める。
視線が重なったと、お互いに気づく。真っ直ぐな眼差しで、アドゥヴァが目を見張る。決然と、唇を引き結ぶ。
「――アディ!」
静寂を破って、甲高い悲鳴とともに駆け出したのはマーリヤだった。制止を振り切り、言葉にならない声を上げて息子の背に両手を回す。
「ああ、何という、こんな、こんな……」
それで、糸が切れたようだった。アドゥヴァの膝がかくりと折れて、床の上に倒れ込む。下敷きになるかと思われたマーリヤは、必死に両手を踏ん張ってアドゥヴァを支えた。
「こんどは」とまるで幼い子どものように舌足らずな発音で、アドゥヴァが母の肩に顔を埋める。
「今度は、真っ先に来てくれましたね」
お母さん。弱々しく囁かれた言葉に、マーリヤの喉がぐうっと鳴った。
「……ルゥ」
まるで水に溺れるように、その腕が空を掻く。もう目が見えていないようだった。咄嗟に周囲を窺うと、サハリィ当主と視線がかち合う。彼は白けた表情で腕を組み、苦々しげな表情で肩を竦めた。「行ってやったらどうです」と、ため息と舌打ち付きで。
「――さっさと、死ね」
顔を背け、アドゥヴァを見下ろしながら、彼が低く吐き捨てたのが聞こえた。
覚束ない足取りで歩み寄り、伸ばされた手に、そっと触れる。指を絡めて、身を寄せた。
「アディ」
耳元で呼びかけながら、ルオニアは膝をついた。目線の高さを合わせ、その顔を覗き込む。
「ルオニア」と彼が、弱まる息の隙間に囁いた。背に手が触れる。抱き寄せようとするような仕草だが、力が入らない。マーリヤとルオニアを胸の前にかき抱いて、彼は目を閉じたまま、満足そうに微笑んでいた。
この人は、死ぬのだ。間近で顔を覗き込んだ瞬間に、えも言われぬ寂寥が込み上げてきて、彼女は息を止めた。長大な記憶が、堰を切ったように襲いかかる。目の前が眩み、束の間、周囲に立っている人たちのことが視界から消えた。
遙か彼方へ思いを馳せる。水底へ沈めてゆくように、水面の向こうに広がる深淵に向けて、波紋へそっと指を触れるように。
幼い頃から抱き続けて来た憧れは、今まさに、この場所にあった。
なんて幸せそうな顔だろう。数え切れない人を殺して、沢山の人の人生を狂わせて、憎悪を生み、その落とし前をつけようとしている人が、何て満たされた顔だろう。
こんなの、許されない。何人の人が、彼によって苦しめられ、虐げられてきたと思っているのだ。一点の慈悲だってくれてやるべきではない。然るべき判断を、下さなければいけない。――王として!
駄目な理由ならもう知っている。自分で選んだ道に背く気だってない。私は既に王道の先にいる。
分かってはいる。
「アディ、」
肩を揺らしてしゃくり上げながら、ルオニアは声を上げて慟哭した。人の目なんて気にする余裕はなかった。
エーレフの言葉が、脳裏を過ぎ去り、遠ざかる。夢なんて見ても無駄だ。どうせ何も叶わない。まるで呪詛のような言葉が胸を蝕むより先に、アドゥヴァの一言が胸の内で強く木霊するのだ。
夢は叶う。口の中で呟いて、ルオニアは嗚咽するマーリヤの背を抱き寄せた。
願いが絶対に叶わないなんてことは、絶対にない。思いが届かないなんてことは、ない。
アディが最期にそう言ってくれた。その事実だけで、まるで、これから訪れるであろう苦難の日々が照らし出されるような気がした。彼の行いを肯定する訳じゃない。けれど、あんなにも苦しそうな顔をしていたアディが、こんな安らかな顔で終わりを迎えられるのだ。この世に不可能などないと、信じてはいけないだろうか。
背に触れていた五指が、徐々に力を失ってゆく。血濡れた手のひらが音もなく滑り落ちる。傾いた肉体の重みが肩にのしかかってくるのを受け止めながら、彼女は瞑目した。
――私たちは、今、非の打ち所のない完璧な家族だ。
***
セニフに付き添われながら、ルオニアは冷たい地下牢へと降りた。独房のひとつに横たえられていた死体を見下ろして、その体が動かないことを確認する。
死んでいる。確実に。
エーレフの冷たい首筋に手を当て、ルオニアはゆっくりと息を吸った。父の敵である。少しくらい小突いてみようか、言葉を浴びせてみようかと考えていたけれど、そんな気持ちも雲散霧消した。胸の内に広がるのは、荒漠たる虚しさばかりである。
もう済んだのだから、これ以上、憎悪を向けても仕方ない。もう、全て終わった。
諦めてしまえば楽になる。そう語るエーレフが苦しそうだった理由は、薄々察している。諦められないからだ。彼が諦められないものが何なのかは、今となってはもはや知るよしもないが。
結局、人間なんてみんな大して変わらないのだ。
「……エウラリカに、手紙を出すわ」
踵を返しながら、ルオニアは低い声で呟いた。
「エーレフが生きていたということは、私やナフト=アハールでのことは、その主人に筒抜けになっている可能性がある」
片手を腹に当てて、長い息を吐く。この地で三度目の騒乱は起こさせない。
私は、これから先の未来を背負っている。その自負が、何度も反響するように胸を打つ。
少女時代の終わりを実感する瞬間は、決して劇的ではないらしい。冷たい骸を見下ろし、頭上を振り仰ぎながら、彼女は長い息を吐いた。
随分と長い夢を見ていたような気分だ。




