“I miss you”
簡単ながら、とユインが言ったとおり、晩餐会は非常に限られた人数で催された。これにはエウラリカも安堵を隠しきれない様子で胸を撫で下ろしていた。優に二年半近く帝都を離れていて、帰還したその日に、各界の重鎮たちの目に晒されるのは負担が大きいだろう。
ユインはそうした機微を非常に弁えている様子で、いちいち細かいことを聞いてくるでもなく無難な話題を投げかけてくる。
「お部屋に関しては、空き部屋を用意させてあります。以前に使ってらした自室は、鍵がかかっていて侍女が入れませんでしたので」
ユインの言葉に顔を見合わせると、はっとエウラリカは片手を挙げ、自らの手首を見下ろした。彼女の腕は空である。身じろぎのたびに鳴るものはない。確認して初めて、彼女は自身が腕輪をつけていないことに気づいたようだった。
呆気に取られたように、エウラリカが瞬きをする。その表情がどこか清々しい。
まるで、彼女を戒めていた枷が外れたかのようだった。
穏便に済んだ晩餐会ののち、エウラリカは案内されるがままに用意された部屋に向かおうとする。その後ろ姿を呼び止めて、カナンは言外に特定の方向を指さした。一瞬だけ戸惑う様子を見せてから、明るい表情でエウラリカがすぐに頷く。
先導しようとしていた侍女に一言言うと、エウラリカは小走りに駆け寄ってきた。
「鍵、持っているの?」
弾む声で囁いてきたエウラリカに頷いて、カナンはそっと腰の辺りを指し示す。剣帯に通してある装飾に目を留めて、彼女は面白がるように「あら」と呟いた。
「ちゃんと、なくさずに持ってたの」
「落としませんよ」
どちらともなく歩き出す。慣れた歩調で、見慣れた景色が流れてゆく。
「良い子ね」
意味を込めるでもなく、自然とこぼれ落ちた言葉のようだった。「それ、そろそろやめませんか」と苦笑すると、エウラリカが唇を尖らせる。「口癖になってしまったみたい」と、何故か彼女の方がふて腐れたような口調である。
重厚な扉の前に並んで立って、肩が触れ合いそうな距離で、短く息を吸う。初めてこの扉を潜ったときのことを思い出す。鮮烈な憎悪だった。殺してやる、と呻いた声は、未だに口に苦く刻まれている。
剣帯を外して、腕輪を抜き、指先で摘まんで、エウラリカに差し出した。真意を問うように目を覗き込んできた彼女を見下ろして、胸に浮かぶのは奇妙な喪失感であった。
「お返しします。元々、借り物ですから」
何か言おうとするように唇を開いて、結局彼女は口を噤んだ。「そうね」と、細い五指が慎重に伸ばされ、腕輪を受け取る。ぴくりと彼女の頬が緊張するのが分かった。
鍵を手に、エウラリカが扉に向き直る。鍵の先端は、鍵穴に音もなく飲み込まれた。向こうで、かしゃんと機構が動く音がする。蝶番が物々しく軋んで、扉が動いた。エウラリカは扉を完全に開け放つことはしなかった。隙間から体を滑らせるように反対側へ行くと、踊るように軽やかな足取りで部屋の中へ歩み出る。そのあとを追って、カナンは慣れた部屋へと足を踏み入れた。
背後に控えていた衛兵や侍女たちがこちらを窺っているのも構わず、後ろ手に扉を閉じた。静謐な空間が、二人を迎え入れる。こうしていると、まるで、過去に戻ったかのようだった。
「まあ、あれってもしかして、私の墓?」
エウラリカは口元に手を添えて窓の外を眺めている。それから、懐かしむように部屋を見回して嘆息する。
部屋の中央に立ち尽くすエウラリカに、大股で歩み寄った。この部屋に来て初めて、ようやく戻ってきたという実感が込み上げる。
「エウラリカ」
呼ぶと、彼女は面食らったように目を瞬いた。気分を害した様子はなく、怪訝そうに見上げてくる彼女の目の前に、距離を取って立ち止まる。
月が明るい夜だった。彼女の姿は青白い光の中に浮かび上がり、頬にやわらかく丸い影が落ちている。
「……あの日、ここで、俺はあなたの奴隷ではなくなった。あなたももう、俺の主人ではない。だから、俺がこれから言う戯れ言を聞く必要はありません」
硬い声で切り出すと、エウラリカは目を丸くして、耳を澄ませるように姿勢を正した。一身にこちらを見上げてくる姿を見下ろす。
いつになく心臓が早鐘を打っていた。
「あなたの帰りを待って、頑張った従僕に、ご褒美を頂けませんか」
は、と怪訝そうな声がひとつ。エウラリカはぱちくりと瞬きをすると、耳を疑うようにカナンを凝視する。カナンが真剣であると気づいて、驚き顔が緩む。心底呆れたみたいに苦笑して、エウラリカは口元に手を添えてくすくすと笑った。
「そんな改まって言わなくったって、……私に用意できるものなら、何でも良いわよ」
肩を揺らして、エウラリカがおかしそうに笑う。泣きたくなるほどに可愛い笑顔だった。
「俺の、」
声は喉元でわだかまり、怯えを示して指先は震えていた。
こんなことを試すべきではない。彼女は自分とともに、ここへ戻ることを選んでくれた。それだけで良い。十分だ。そうだろう。必死に自分を納得させようとする理性とは裏腹に、腹の底で渦巻く感情が叫ぶのだ。――どうか応えてくれないか、と。
きょとんと小首を傾げる彼女に向かって、カナンは血の気の失せた片手を差し伸べた。
「俺の手を、握ってくれませんか、エウラリカ」
その瞬間、彼女の全身が悲鳴を上げた。否、実際にはエウラリカはただの吐息ひとつ漏らさなかった。けれど、限界まで見開かれた両目が、眼窩で震える瞳が、青ざめて戦慄く唇が、色を失った頬が、彼女の絶叫を何より如実に示しているのだ。彼女の握りこぶしは腹の辺りで強ばって動かず、両足が床に縫い止められたかのように、その場に立ち竦んでいる。
どんな言葉よりも雄弁な、疑いようのない拒絶だった。分かっていたはずなのに、重みのない失望と諦念が静かに胸の内に降り積もってゆく。時が止まったかのようだった。
「いつから」と弱々しい声で、エウラリカが後じさる。
「ずっと前から」と呟く。
気づいていないとでも思ったか、エウラリカ。常に傍にいた自分が、気づかないとでも? だとすれば、随分と甘く見られたものだ。
「あなたは一度だって、その手で俺に触れたことがない」
カナンだけではない。エウラリカは決して、己の手で、人に触れようとはしないのだ。忌々しい爺に唇をくれてやっても、下僕に身体を明け渡そうと、決して、手だけは。
「足癖が悪いだけだと思っていたが、見ていればそうではないことが分かる。あなたは絶対に人に触れないし、誰かが近づけば体を固くする。とりわけ顕著なのが手だった。何度か手を使ったこともあったが、そのときは常に手袋をつけていた」
そこへ置いておいて。彼女と生活する中で、幾度となく聞いた言葉だった。軽く足蹴にされたこともあった。鎖で引かれたこともある。でも、彼女に触れられたことはない。
後ろ手に手を組んだ立ち姿を何度も見た。頑なに枕を握り締める両手から目が離せなかった。
エウラリカの戦い方は、決して相手に近づこうとしない。エウラリカが甘える仕草に、手を使うものはない。
どれだけ気を払って、彼女の手に触れないように立ち回ってきたことか。きっと彼女はそんなことに気づきもしないのだろう。
ちがうの、とエウラリカが弱々しく頭を振った。これ以上喋るのを拒むように、必死に首を振るのだ。それだけだ。掴みかかって、口を塞いで、黙らせる手段は、彼女にない。大きな窓から降り注ぐ月明かりを受けて、白い床はよそよそしく輝いている。
エウラリカと同じ顔をした女が、他意のない、怪訝そうな顔で、こちらへ手を伸ばしてくる。温かい指先が無防備に頬へ触れる、あの感触が、未だに痺れたように残って消えてくれない。
「だから、ナフト=アハールであなたを最初に見つけたとき、本当に驚いた。――あなたが、あっさり、俺に触れたから」
その瞬間、エウラリカが記憶を失っていると確信した。帝国にいた頃の芝居とは全く違う。一度として破ることのなかった不文律を、彼女が破るはずがない。あの瞬間の絶望を、エウラリカが理解できるものか。
「あなたが触れるのは、常にただ一人だけでしたね」
おとうさま、と声を上げて、甘えるように抱きつく少女の姿が脳裏に蘇る。殊更に幼く振る舞い、母と同一視されることを嫌ったエウラリカは、一体『誰に』、母と重ねられることを厭うたのだろう?
助けたい人がいるの。後生大事に宝物でも抱えるみたいに告げて、目を伏せたエウラリカの姿が、今となっては痛ましく思い出される。
「本当に上手に隠していたと思います。あなたは一度だってそんな感情を匂わせるような言葉は口にしなかったし、おくびにも出さなかった」
でも、いずれ気づくに決まっているだろう。だって、ずっと一緒にいたんだから。これから、そいつを相手取ろうとしているんだから。
「あなたが救いたかったのは、あの男ですか。旧帝国の存在を証明することで、あの男が救われると思っていたんですか」
彼女は怯えたように身を竦めていた。それ以上カナンが口を開くことを恐れるように、蒼白な顔色で様子を窺っている。ラヴァラスタ宮殿で彼女を手酷く傷つけたときのことを思い出した。けれど今は、彼女に恨み言をぶつけたときのような、あの堪えがたい激情はない。
けれど、口を噤むこともできなかった。今ここで言葉にしなければ、もう二度とこの話題を唇に乗せることは許されない気がしたのだ。
「馬鹿げた使命、と前にあなたは言いましたね。あのとき言っていた、クウェール家が背負わされた使命が、旧帝国の生き残りを抹消することだった」
ナフト=アハールで彼女が見せた絶望が、空虚が、手に取るように分かる。分かってしまうのだ。これまで行ってきた全ての献身を、最も受け取って欲しいひとに受け取ってもらえない切なさが。そうと気づいた瞬間の絶望が。ようやくお前も思い知ったかとは、口が裂けても言える気がしない。
薄く開いた唇から、囁きが漏れる。
「……ただクウェール家に生まれただけのことで、過去の呪縛に囚われて生きなければならないなんて、不幸だわ。生まれは選べるものではないのに……」
エウラリカの見てきたルイディエトという生き物が、一体どんな生き物だったのか。カナンには想像する術もない。いつも、どこか気が抜けたような、心ここにあらずというような男だった。
今思えば、カナンが初めてあの男を目の当たりにしたとき、彼は既にナフタハル虐殺を済ませた後だったのだ。人知れず、はるか彼方の土地で王族をほとんど根絶やしにしていたことになる。暗愚であると囁かれ、覇気のない態度を貫いていた皇帝である。
自然と、寒気が背筋を襲った。
「だから、旧帝国の存在が隠しようもなく証明されてしまえば、おとうさまは、もう望まぬ侵攻なんて命じなくていい。ようやく、解放されるんだって」
エウラリカは掠れた声で付言する。「そう思っていたの」と。
「でも、違ったのね。あのひとは既にナフタハル家をほとんど根絶やしにした後で、言うなれば、クウェール家の悲願を果たしたとも言える。……私が旧帝国の存在を証明しようと地図を追いかけ回していたのなんて、何の意味もなかったんだわ」
透明な眼差しで、彼女は虚空を見据えていた。彼女の目に自分が映っていないことを、まざまざと痛感してしまう。
「――そんなことで救われる人じゃなかったんだわ。私、そんなことも知らなかった」
エウラリカが目を閉じる。
地図は『さる方』に渡した。あなたの望みは一生叶わないから、僕のものになってくれないか。
エウラリカが語った、エーレフの台詞である。その意味が、今なら克明に理解できる。帝都の地下通路の地図は、ジェスタから盗まれた後、恐らく前皇帝ルイディエトの手に渡ったのだろう。今も無事な状態で残されているとは考えづらい。
旧帝国の存在を証明すること自体は可能だろう。それがエウラリカの生きている間に為されるかは分からないが、永遠に隠しておけるものではない。ナフト=アハールのことを思えば、いずれは必ず明らかになるものだ。
でも、たとえ旧帝国に関する話題が明るみに出て、クウェール家の過去が露わになって、その『使命』なんてものが何の意味もなくなっても、
(父を救いたいというエウラリカの望みは、叶わないのだ)
それを、エーレフは知っていたのだろう。
結局、一番の願いなど叶いやしないのだ。たやすく届く祈りに渇望することなどない。
差し出した己の手を見下ろしながら、言わなきゃ良かった、と後悔が押し寄せていた。宙に浮いた片手は、行き場を失って動かない。カナンは深く俯いて、強ばった腕を無言で下ろす。だらりと体の脇に両手を垂らしたまま項垂れる。
エウラリカの一番になれないことなんて、ずっと前から分かっていることだった。それでもまだ愚かにも願ってしまった。聞かなければ良かった。
エーレフと同じことを口にしたら、きっと彼女は困ったように黙り込んでしまうのだろう。
『私に期待をするな。よもや私を手に入れられるなどという幻想を抱くな』
何度もエウラリカは説いていた。自分は決して誰のものにもならない、と。彼女の傍にいるための唯一の方法を何度も教えてくれた。願ってはいけないのだ。自分に許されたのは献身のみで、彼女を我が物にしたいなどと、思ってはいけない。
それが、カナンが惚れ込んでしまったエウラリカという女なんだから、仕方ない。
「……戻りましょうか。部屋が元通りだと分かりましたし、掃除はまた後日頼んでおきましょう。もう時間も遅いですから」
扉の向こうで待っているであろう侍女や衛兵を暗に指し示して、カナンはそつのない微笑を浮かべてみせた。ほら、と促すように歩き出すが、エウラリカは動かなかった。
「後から、行くわ。そう伝えておいて」
俯きがちに呟いた彼女の姿が、やけに小さく見える。まるで濡れた猫のように悄然とした姿だった。少しの間躊躇って、カナンは頷くと踵を返した。
扉を開けて、気が揉めた様子で待っていた衛兵に目配せする。音を立てないように慎重に扉を閉じて、口の前に人差し指を立てた。
「部屋は、西棟にある客間か?」
小声で侍女に問えば、「三階の角部屋です」と控えめに返ってくる。その位置を思い浮かべてから、カナンはちらと背後の扉を一瞥した。
「後で連れて行くから、帰って構わない。遅くまで悪かったな」
戸惑うように顔を見合わせた面々を、有無を言わせずに追い返す。足音が聞こえなくなってから、カナンは長い息を吐いた。決して気配を悟られぬように、恐る恐る扉に背を付ける。漏れてくる声を聞かないようにしながら、瞼を下ろして、上げた。
(エウラリカ……)
掴んだと思ったら、するりと手の中から逃げ出してしまう。そのくせ、周囲の人間を捕らえては放さないのだから、本当に堪らない。最悪だ。大陸全土を探したって、こんな厄介な女は他にいまい。
扉に背を付けたまま、膝から力が抜けてその場にへたり込む。……どうせ叶わない望みなんだから捨ててしまえと、そんなこと、言えるはずがない。
***
過呼吸気味で、視界が白くぼやけていた。徐々に我に返り、彼女は呆然と周囲を見回す。
広い自室に物はなく、机と長椅子、それといくつかの棚や箪笥が置かれているのみである。元より殺風景な光景が、今は窓の外にある白い墓のおかげで更に寒々しい。鈍い思考を動かして、体の向きを変える。この部屋には、通路へ出るためのものともう一つ、扉があった。
決して誰も入れたことのない寝室へ続く扉を開いて、光の射さない部屋の中へと足を踏み入れる。お世辞にも広いとは言えない部屋は埃臭く、壁を覆う本棚は重々しく彼女を出迎えた。
最も奥、小さな寝台と机が置かれた一角に歩み寄り、エウラリカは瞬きをする。カナンがここに入ったことは想定済みである。しかし、部屋の中は予想に反して、記憶にあるものと寸分違わぬ様相をしていた。
机の上には、堅牢な細工のされた金属の箱と、錆び付いた鍵がひとつ。律儀に並べられたそれを見下ろして、眦を下げる。鍵は、かつてエウラリカが自らの手で、棺に入れたものだった。両手で持てる大きさの箱は、従来は貴重品を保管するのに使っていた代物である。
鍵がここにあるということは、カナンはエウラリカの想定通り墓を暴き、棺を開け、この鍵を見つけたのだろう。そうして今いる部屋を検めて、箱を見つけた。いっそ感動してしまうほどに思い通りに動いてくれたのだ。背後から忍び寄ってくるのは冷ややかな怯えであった。
箱に手を伸ばす。鍵は開けた状態で置いておいたらしい。蝶番を軋ませつつ、蓋は抵抗なく開いた。……この中に納めておいた手紙のことを思い出す。カナンが出立した後に編纂した内通者の一覧も添えておいたはずだ。他にも、彼の手助けになるであろう資料を、いくつも。
本当なら、ここに戻ってくるつもりはなかった。行方を眩まして、目的を果たして、遠くで一人、勝手に満足できれば良いと思っていた。
『卑怯だよ、そんなの』
ルオニアの声が蘇る。そうだね、と唇が動いていた。
箱の中には何もなく、鈍い光沢を持つ底が見えているばかりである。小さな明かり取りの窓から、手元を何とか照らすだけの淡い光が降り注いでいる。指先だけの感触で、底に触れる。隅に人差し指を添えた。僅かな突起が指の腹に引っかかる。爪をかけるようにして、力を込める。
二重底はあっさりと開いた。体を固くしながら、エウラリカは箱を覗き込む。果たしてそこには、四つ折りにされた紙片がひとつだけ、ひっそりと転がっていた。思わず、ほっと息を吐く。手を伸ばして、やや黄ばんだ紙片を手に取る。
底を戻して、蓋を閉めて、鍵をかけ直して、エウラリカはその場に立ち尽くす。片手に握り込んだ紙片を検める気には、とてもじゃないがなれなかった。
今となっては思い出したくもない。今では、あんなこと、決して口に出せるはずがない。――愚かしく、感傷的な一言を、衝動的に記した記憶がある。
……余人に見つけられる前に回収できて良かった。安堵のため息をつきながら、証拠を隠滅するように紙片を握りつぶす。後で、どこかの燭台から火でも拝借して燃やしておこう。
重い足を動かして踵を返そうとしたそのとき、ふと、違和感が思考の片隅をくすぐった。その正体を見定めるように、肩を強ばらせる。手のひらの中で、紙がかさりと音を立てる。瞬間、握り込んだ片手に意識が集中するのが分かった。
(確か、私は、青みを帯びた紙を使ったはずだ)
ほとんど恐怖するような思いで、手のひらを開いていた。古びて黄ばんだ紙を、震える指先で広げて伸ばす。――見覚えのある手跡で、記憶にない言葉が、ただ一行だけ。
『 俺もです、エウラリカ様 』
簡素に綴られた一言を前に、行き場を失った感情が込み上げた。思わずその場にしゃがみ込んで、深く項垂れる。短い手紙を腹の前で握り締めて声を殺した。直視してはならない思いがいくつも浮かんでは沈んでゆく。
どんな思いで、この文字を記したのだろう。あんな別れ方をした人間に対して、あんな恥知らずな言葉に対して、こんな一言のみを残してゆくなんて、そんなこと……。
「カナン、」
掠れた声で呟いて、片手で目元を覆った。しゃらりと腕輪が鳴る。縋り付くように手首へ頬を寄せていた。そうすることで、何かから救われるとでもいうように。
瞼を閉じると、午後の光の射した明るい部屋のことを思い出す。その部屋にいる自分はまだ幼くて、小さな体をしている。
『ああ、悪い子だね』と指が絡む。体を捩って逃げようとするのに、両手はまるで縫い止められたように動かせない。
『お父さんの言うことが聞けないのかい』
助けを求めるように視線を走らせた先に、その肖像画を見た。美しく微笑む女が、超然とこちらを見下ろしていた。
『お前を殺した犯人を、必ず見つけてやるからな、フェウラ』
……わたしの顔を覗き込んで、愛おしげに目を細めるひとの姿が、今でも目に焼き付いて離れない。その服に染み付いた匂いまで覚えている。どこか煙たいような、不思議な……。
いつからなのかは、もう覚えていない。呪いのようなものが、ずっとこの両手に絡みついて離れない。触れられないのだ。どうしても、この手で、人に触れることができない。
いつか、呪いが解けるだろうか。てらいなく、普通の女の子みたいに笑いながら、人と手を繋げる日が来るのだろうか。誰かを抱き締められる日が来るだろうか。とりとめのない夢想をしながら目を閉じる。
でも、たとえ、そんな日が決して来ないとしても――
気づけば、机に寄りかかったまま、半ば気絶するように眠っていた。おぼろげな意識の向こうで、肩を叩く手がある。呆れたような吐息一つ。慎重な手つきで体が起こされる。膝の裏に手が差し入れられるのが分かった。
泥のように正体を失った輪郭が、徐々に肉体の形へと収斂してゆく。ふっと目が開いたときには、背後で扉が閉じられた後であった。どうやら、まるで幼子のように抱き上げられて運ばれているらしい。自分で歩かなければと思うのに、手足が動かない。
空高く浮かぶ月が目に映っていた。花の盛りはもう過ぎてしまった頃のようで、生い茂った木々の影が庭園に林立している。鳥の歌が静寂を震わせるのに耳を傾けながら、目を閉じた。
頭頂部に何かがそっと触れる。その感触を夢うつつに処理しながら、エウラリカはすぐ傍にある肩口に頭を預けた。まるで溺れるみたいに首を伸ばして、唇の端に一瞬だけ口づける。ほんの少し息を漏らして、苦笑する気配がした。
明日のことは、明日考えれば良い。大丈夫。何とかなる。口の中でそう呟いて、規則的な歩調を感じていた。
――私は一人ではない。
第二部「灼ける砂国と伏流の矛先」 完
本作は全三部を予定しています。再開までしばらく気長にお待ちください。
余談ですが、番外短編集の方に「fiel 下」を追加しました。興味がある方はぜひどうぞ。
ブックマークや評価pt、感想など、いつも応援ありがとうございます。本当にありがたく思っております。下部のフォームから評価入れていただけると私がハッピーになります。
三部、(尺が伸びすぎないように)頑張ります……。




