天泣3
「ルオニア様! すごい! すごいですよ!」
息せき切って、セニフが駆け込んでくる。頬を紅潮させて、珍しい高揚ぶりである。ルオニアも内心浮き足立ったまま、しかしそれを悟られぬように平然とした態度で肩を竦めた。
「雨でしょ? 気づいてるわよ」
「いや、違います」
「ちがうの!?」
真顔で首を横に振ったセニフに、ルオニアは目を剥いた。これより凄いことがあるのか。
ぱらぱらと音を立てる雨の中を歩く。雨粒は冷たいが、陽射しのおかげで寒くはない。
セニフにせっつかれるようにして連れて来られたのは、昨晩ルオニアが破壊した池のところである。明るくなってから改めて見てみると、堤防がものの見事に決壊し、そこから水が流出した形跡が確認できた。
「壊れてから見てみると、池に向かっての斜面は砂が堆積したもので、実際の堤防は意外と小さいんですよね」
「へぇ……まあ、この上り坂も言われなきゃ気づかない程度だものね」
言いながら、水面があったはずの縁まで歩く。職人を呼んだらしい。水の抜けた池の底から、人足たちがこちらを見上げている。
「滑りやすいので気をつけ……わっ!」
言った一歩目から尻餅をついたセニフが、立ち上がってから何事もなかったように手を差し出してきた。非常に信頼できない手を借りながら、ルオニアはえっちらおっちら池の底まで緩勾配を下りる。池の底は予想とは反して石でできており、今まさに降り始めた小雨で濡れてつるつると滑った。
「旦那、この辺の溜まっていた砂は大体どかしましたぜ」
「ありがとうございます」
未だに事態が読めずに首を傾げて、ルオニアは怪訝にセニフを追う。足下を見れば、石を敷いた池の底はやけに凹凸があって歩きづらい。爪先を引っかけて蹴躓いてしまいそうだ。『何よこれ』と文句を言うために顔を上げた瞬間、ルオニアはそこで声を失った。
「これは、一体……」
呆然と立ち尽くす。ルオニアの足下から視界いっぱいまで、池の底を彩っていたのは巨大な石の彫刻だった。
古びて風化し、もはや細部は判別できずとも、神さびて荘厳な光景であった。陰影に富む立体的な構造が、残された水や雨水で輝いている。
「レリーフ、でしょうか」とセニフが目を細めて呟いた。
表情豊かに描かれているのは人々の姿であり、またある部分は地図を示しているようでもあり、文字列が綴られた箇所もある。
「すごい」とルオニアが漏らした声に被せるようにして、「素晴らしいわ」と聞こえたのは背後からだった。振り返ると、エウラリカが池の縁に立ってこちらを見下ろしている。少し遅れて、カナンが追いついて目を丸くした。緩い風に吹かれながら、二人は並んで池の底を見下ろしている。どうやら話はついたらしい。
「結構滑りますよ」
「見れば分かるわよ」
言い合いながら、二人はさっさと池の底まで下りてくる。ルオニアの隣で立ち止まると、感嘆したように息を漏らした。
「これ、池の水を抜かないと見れないようになっているのね」
「つまり、宮殿の構造と帝国の繋がりに気づいた者のみが見られるということか……」
「ああ、確かに。これを見つけた人間は、既に旧帝国に関して認識している必要があるのね。そうして得られる解答がこれなんだわ」
先に来ていたルオニアをそっちのけで、勝手に何やら納得している。問答無用で蚊帳の外に叩き出されて、ルオニアは口を半開きにしたまま立ち尽くした。セニフも同様の表情である。
とはいえ、こちらの言葉で会話をしている分、多少の配慮はあるのだろうが。
エウラリカ、と呼ぶと、すぐに振り返る。「何?」と微笑んだ彼女の目元が、まだ少し赤い。
「えと……落ち着いた?」
躊躇いがちに投げた問いに、エウラリカは曖昧な反応を返した。ちらとカナンを見上げ「落ち着いたと思う?」と繰り返す。「さあ?」とカナンが首を傾げた。
「……少なくとも、これが見つかったとなれば、落ち着いていられないわよね」
池の底に広がる意匠を見渡して、エウラリカは髪を耳にかけて目を細める。その横顔を見やって、ルオニアは思わず息を止めた。彼女の眼差しはやけに大人びてしんと静まっている。まるで覚悟を決めたかのようだった。
ややあって、エウラリカはこちらを振り返って、薄い笑顔で首を傾げた。
「旧帝国について、もう聞いた?」
「ライアが教えてくれたわ」
彼女自身は兵の監視の下、空き部屋で軟禁という措置が取られている。言葉少なに頷くと、エウラリカは腹を括ったように唇を引き結んで、「そっか」と呟いた。
エウラリカ・クウェール。内心でその名を噛みしめる。正対して、ルオニアは彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「クウェール家が手を回して、ナフタハルを根絶やしにさせたって聞いた。そのためにアディが担ぎ出されたことも。その発端になるのが『旧帝国』ってやつで、それが今のナフタハルに連なるんだってね」
「恐らくは」とエウラリカが頷く。視線を落として足下のレリーフを見やる。
「証拠はないけれど、この都が帝国と関係あることは、調べればすぐに分かるはずだわ。……ここに彫られている文字も、古い帝国語だもの」
認めたくない、とでも言いたげな口調だった。透き通るような金髪が霧雨に濡れて、しっとりと重たげに頬を覆っている。
「もしも、かつてのナフタハル虐殺の背後に帝国がいるなら、私個人の感情としては、許せないよ」
セニフが黙って足下を睨みつける。ライアだけがクウェール家のことを知っていて、自分だけが何も知らなかったことが衝撃だと語っていた。それまでの空元気が萎んでしまったように黙り込む。未だに整理がついていないのはルオニアも同じだ。
「誰なのか、分かるの? 黒幕っていうか……。そもそも、誰かを封じることで、片付くような問題なの?」
「背後にいたのが誰か想像はついているわ。確証は持てないけれど」
エウラリカが自らの体をかき抱きながら呟く。
「約十年前に、エーレフや兵を動かしてナフト=アハールに干渉できるクウェール家の人間は、一人しかいないわ」
エウラリカは腹を括るように一度息を吸って、口を開いた。
「――ルイディエト・クウェール」
そういえばそんな名前だったか、とカナンが漏らした言葉に、それが二人が知る人物だと悟る。聞き覚えのない名だが、クウェール家の人間であるのは間違いないだろう。つまり、きっとエウラリカの家族だ。
エウラリカの様子からして、そのルイディエトとかいう輩の行いは彼女も把握していなかったのだろう。ルオニアが幼い頃の話なのだから、当然、エウラリカだってまだ小さかったに決まっている。彼女は関与していない、と思って良いはずだ。
不安を隠せないように、こちらを見据える瞳は落ち着きなく揺れていた。
「それ、誰?」
身も蓋もない問いを投げると、カナンは舌打ちでもしそうな表情で短く応えた。
「先代の皇帝だ。既に禅譲を済ませて退いている」
忌々しげに鼻を鳴らす。何があったのかは知らないが、決して仲が良いわけではなさそうだ。
「……ただ、帝国側としては、そのような事実は把握していない、というのが正式な回答になるだろう」
硬い声で、カナンが呟く。
「むしろ、こちらが把握しているのは、アドゥヴァとセニフ……ライアによる、帝国への内政干渉の方だ。こちらでも多くの市民が被害に遭ったし、高級官僚や議会まで、大規模な粛正の必要があった。国内へ与えた混乱は甚大だったと言える」
努めて何気ない口調を装ったようだったが、カナンの声に混じった緊張は隠し切れていなかった。ルオニアは思わず唇の端に力を入れる。
「正直、こちらとしては、あまり事を荒立てたくはない」
そちらも同じだろう、と言外に迫るような声音だった。高圧的に見下ろされて、自然と体が萎縮する。「負けないでください」と間抜けにセニフが背後から囁いてくる。それを聞き留めて、カナンが心持ち眉を上げた。
「そうだな。貿易を止めるか、それともハルジェル辺りの兵を増強するか……」
聞こえよがしに指折り計画を立て始めるカナンの視線が、ちらとルオニアを窺う。冷ややかな視線に突き刺されて怖じ気づいた直後、「冗談だ」とその目が和らぐ。ほっと胸を撫で下ろして息をついた瞬間に、カナンは実に良い笑顔で続けた。
「ただ、今回の外遊でナフト=アハールの内情や構造はよく分かった。俺の得意な地下戦にもってこいの戦場のようだし、兵糧や行程の算段も立てられそうだ。守りが脆弱なのも、昨晩の包囲で実感した。何なら既に一度、この宮殿を攻撃した実績がある訳だもんな。二度目はもう少し円滑に運べるだろう」
「え!? ちょっと!」
声を裏返らせて叫ぶが、カナンが再び『冗談だ』と続ける様子はない。笑顔のはずなのに、朗らかな声音が尚更怖い。背後にカナンを立たせたまま、エウラリカは腕組みで若干の呆れ顔である。
カナンの脅迫があながち的外れではないことは予想がついた。帝国は、南方連合よりももっとずっと大きな国である。本腰を入れて攻撃を開始されてしまえば、こちらに打つ手はない。あまりに広大すぎる砂漠の立地ゆえに、すぐに助けを求められる友好国の手札もない。
しばらく沈黙して散々ルオニアをびびらせてから、カナンは胡散臭い笑みを引っ込めた。
「……もちろん、こちらも無条件で見逃してくれと言う気はない」
顎を引いて居住まいを正して、真剣な声で切り出した言葉に、ルオニアは息を飲む。
「どのような対応を取るのが、誠実かつ帝国民を守るために最善なのかを考えたい。まだ思いつきに過ぎないが、」
そこまで言って、カナンは思い悩むように言葉を切った。躊躇を振り切るように、長い息を吐く。
「南方連合に対する、ナフタハル虐殺の背後にいたのは、あくまで『クウェール家』であり、帝国ではない。帝国はこれを重く見て、然るべき処断を下す……とする」
明らかに、風向きが変わった。カナンの語り口は淀みなく、余人に口を挟むことを許さない威圧があった。
「過去に遡れば、クウェール家は正統ならざる王家である。それを隠蔽するために余所の地域の王家を根絶やしにしようとするとは、自国民に対してのみならぬ不実だ。現に、南方連合の新たな女王は、帝国のことを『許せない』と語っている」
真っ向から指を指されて、ルオニアは顔を引きつらせる。先程、自分が言ったとおりの言葉である。
「だから、クウェール家の排斥を行う。現王朝の廃止だ」
弾かれたように、エウラリカが振り返った。両目をいっぱいに見開いて、カナンを見上げて絶句する。「どういうこと」と譫言のように呟いた。
「要するに――」
カナンの双眸が遠くの空を睨む。
「――俺が、新ドルト帝国を終わらせる」
その言葉を、エウラリカは呆然と聞いていた。どうして彼女がこんなに深い衝撃を受けた様子なのかは分からない。彼女は息を飲んだまま動かず、カナンは決然とした眼差しでルオニアを見据えている。
「旧帝国に関する情報を公にするのは、互いに状況が落ち着いてからにしたい。この条件で、今後の友好的な国交を考えてもらえないだろうか」
握手を求めるように差し出された片手を見下ろして、ルオニアはごくりと唾を飲んだ。この言い方だと、どうやらカナンはクウェール家と対抗するつもりのようだ。勝算があるのか、算段はついているのか、と山積する疑問は一旦脇に置いておいて、
「え……エウラリカはどうなるのよ」
睨み上げるように上目遣いで窺うと、カナンはわざとらしい仕草で「そうだな」と顎を撫でる。
「全て済んだ後は、クウェール家の人間として責任を取ってもらうのが良いだろう。……例えば、金輪際、政の場に担ぎ出されることがないように、どこかの辺境に追放する、とか」
目を逸らして言いづらそうな顔をして、カナンが喉元に指先で触れた。エウラリカはカナンを凝視したまま動かない。
「――隠居でもして、穏やかな余生を過ごせば良いんじゃないですか?」
まるで照れ隠しのように、ぶっきらぼうな声と態度で吐き捨てた。カナンはしばらく気まずそうに頬を掻いていたが、沈黙に耐えきれなくなったのか「じゃあ、そういうことで」と勝手に話を終わらせようとする。
「待ちなさいよ」
踵を返す素振りを見せたカナンの袖を捕まえて、ルオニアは腰に手を当てて嘆息した。いつの間にか雨は上がっていた。光度をいや増した白日の下に晒され、池の底が照り映えている。
「け……検討する。私もまだ、王位継げるかすら分かんないから確約できないけど、お互いにとって悪くない形に納めたいと思ってるわ。未来を見据えた判断をしたい」
無理矢理カナンの手を掴んで、強引に握り締めた。不格好な握手に苦笑して、カナンが手の形を変える。手のひらが重なる。自分の知らない人生が刻まれた手をしていた。視線が交わり、奥に光の射す黒い瞳を覗き込む。背筋が伸びる気がした。
ちょっとカナンを見直してしまったことが腹立たしくて、ルオニアは咄嗟に片眉を上げて憎まれ口を叩いていた。
「最初は気色悪い変質者だと思ってたけど、今はそこまでじゃないわよ」
「『お見それしました閣下』の間違いじゃないのか」
「冗談は顔だけにしなさいよ」
すぐさま食ってかかってきたカナンに薄ら笑いを返して、ルオニアは鼻を鳴らした。泣き腫らした両目の分際で、偉そうにしている方が悪いのだ。
「っと、」
不意に、握っていた手がぱっと離れたので、ルオニアは目を丸くした。何が起きたのか分からずに首を傾げると、カナンの背にエウラリカが頭突きをしているのが見えた。……見てもどういう事態か分からない。
「え、エウ……」
傍目にも狼狽えた様子で、カナンが恐る恐る体を捻る。カナンの背に額をつけたまま、エウラリカが小さな声で呟いた。
「お前、やっぱり馬鹿だわ」
聞き返すように振り返ったカナンから一歩離れて、エウラリカは背後に手を回したまま唇を尖らせた。どこかふて腐れたような表情で付言する。
「とってもね」
ふん、と鼻を鳴らして顔を背けた仕草は、照れ隠しにもなっていなかった。
居心地が悪くなったように、エウラリカが池の中央に向かって歩き出す。細かな彫刻が施されている部分には近づかないように回り込んで、彼女が足を止めたのは数行の文章が綴られた箇所の前だった。
「『この……を見つけた……に告ぐ』」
膝に手をついて、身を屈めたエウラリカが呟く。大きく彫られているとは言え、恐らく数百年もの間水底にあった文字列は損傷が激しいのだろう。彼女の言葉は切れ切れである。ルオニアも一緒になって文字を覗き込むが、何だか読めそうで読めない、妙な気分である。文字の形は酷似しているのに、よく分からない。
エウラリカが切れ切れに読み上げる文章は、恐らくは旧帝国からこの地へ流れ着くまでのことを語るものである。
「……『どのような判断を下すかは、これを読む者に委ねる』」
先代は、ナフト=アハールに水を招いた王だったのだという。若き日の父は、水門を破壊こそしなかったが、この池の水を抜いて同じ景色を見たのだろうか。
お父さんは、これを読んで、どのような判断を下したんだろう。
先代が市井にて口さがなく語られるのは、主に宮殿における管理不足や、多情に見える女性関係に原因がある。アドゥヴァによる虐殺が大規模になった理由のひとつでもあるが、先代の血を引くとされる王子や王女は、これまでに類を見ないほどに多く数えられていたはずだ。実際の血縁は定かではない。
ナフタハルの血脈を曖昧にし、南方連合全土に『王家の子孫』を広げたのだ。次代の王が本当にナフタハルの血を引いているかも、外部からは分からない。時が下れば、もはや根絶やしにすることなど不可能になったはずだ。その必要がないと判断されたかもしれない。
それが、父の復讐だったのだろうか。
父の思惑は砕かれ、ナフタハルの血を引くのはもはや自分しかいない。傍系はまた別の話題である。
私が、最後のひとりなのだ。その事実が胸に改めてのしかかって、ルオニアは思わず息を詰めた。
そのとき、エウラリカが、小さく息を飲んだのが分かった。数度まばたきをして、彼女が顔を上げる。戸惑いがちに宙へ目をやって、再び彼女は文字列に視線を落とした。
エウラリカの声が重々しく告げる。
「『我が名は始祖王、ルオニア・ドルテール』」
耳を疑った。目を丸くして、該当すると思しき文末を凝視する。微妙に理解できないが、文字の形はほとんど同じだ。固有名詞の表記ならば読み取ることができる。
エウラリカの読んだとおりであった。何百年もの昔に彫られた文字は、確かに同じ名を記している。
「始祖王の名前が、ルオニア・ドルテール……」
何故だか、声を上げて泣いてしまいたいような衝動に駆られた。けれど感傷はどこか遠くにあって、胸を突き上げるほどの奔流にはならない。
『お前にぴったりの名前だ』
そういって頭を撫でてくれた、大きな手の感触を思い出した。父は一体どんな気分で、この名を私につけたのだろう。かつて自らの国を追われ、この地に流れ着いた始祖王の名である。
「始祖王の名前ですか。ぴったりですね」
セニフが穏やかな声で呟いた。怪訝に振り返ると、彼はほのかな笑みを浮かべている。
「最初のひとり、ってことでしょう? ……様々な因縁で、約十年前、この地では多くの血が流れました。その中でも、ルオニア様が唯一生き残ったことは紛れもない事実です」
何としてでも生きなさい、と父が言い聞かせる声が蘇った。
「きっと、先代陛下の祈りだ……と僕が勝手に推量するのもおこがましいことですが、少なくとも僕はそう思います」
雨上がりの空の一角を指さして、何故かセニフが得意満面で「ほら」と言う。指の先には色の薄い虹が見えていた。
「何でしたっけ、ほら、良い王様は水を招くって伝説があるんですよね。宮殿は見事な水害に見舞われましたし、雨が降って虹まで架かって、これはもうルオニア様の門出を祝ってるってなもんですよ!」
「そういうの信じないって言ってなかった?」
酷い言い草に閉口すると、セニフは悪びれもせずに「験は担ぐんです」と言ってのけた。




