天泣2
憎悪は、次の憎悪を生むだけだと知った。そうした因縁を断ち切ろうと唱えるのは、無邪気な理想論か、これ以上の悲劇を起こさないための手段か。
「最初にアドゥヴァの暗殺を命じられたとき、それを完遂した後は理由を付けて自分も処分されるのだろうと予想はできていた。だからこその入れ替え。サハリィとは無関係の人間による犯行だと示威するためでしょう」
エウラリカの声は無感情で、それだけに恐ろしさが際立っていた。
半開きの窓からは快い風が入ってきているのに、ルオニアは身じろぎ一つできないままに体を縮めていた。回廊から場所を移し、アドゥヴァとマーリヤを一旦地下牢へ入れた後のことである。
「私が生き延びるためには、アドゥヴァを決して殺さず、かつ暗殺の意思はあり、可能だと思わせた状態を保つしかなかった。少なくとも、記憶を持たない私にはそれしか方法はなかった。問題は、私の他にもサハリィから送り込まれた監視が潜り込んでいることだった」
エウラリカの視線は一度としてサハリィ家当主の方を向かなかった。徹底して見ないようにしているようだった。
「マーリヤがフィエルを殺害する現場に居合わせて、これは使えると思ったの。不貞行為の噂が囁かれる寵姫を告発すれば、マーリヤはあっさりと彼女らを殺した。それらに紛れて、サハリィや共謀するオーサルクの関係者も殺させたわ。このままいけば、サハリィが宮殿から手を引くかもしれないと思った。でも、そんなことはなかったわね。指示は撤回されなかった」
ずっと、自分は何も気づかずにいたのだ。ルオニアは横っ面を張られたような気分で、エウラリカを見つめていた。
「そして、アドゥヴァ来訪の報せが来た。ここでアドゥヴァを殺さねば、暗殺の意思がないと判断されると思った。だから私は、来訪の報告をサハリィに上げようとする宦官を追って、宦官が地下通路へ潜る前に書簡を回収しようとした。その途中で、マーリヤに見つかった。彼女はそれを逢い引きと判断した。だから、サハリィの企みを彼女に明かさざるを得なかった。賭けだったわ」
瞼を下ろしたエウラリカが、強く両目を見開く。
「私は賭けに勝った。マーリヤは私を信頼して、宦官を殺した。完璧だと思った」
自分が呑気に長椅子で居眠りをしている間に、そんなことが起こっていたなんて、知らなかった。知るよしもなかった。エウラリカの語り口は殺伐としており、腿の上で握り締められた両手は指の節が血の気を失うほどに握り締められている。
「テテナに疑いを向けられたのは、その直後のことだったわ」
咄嗟に、部屋の隅に視線を走らせる。腕を組んで立っていたカナンと目が合う。あのときだ、と目で頷き合う。彼は何やら思い悩むように眉根を寄せていた。
「テテナが間諜だとは知らなかったから驚いたわ。彼女は宦官の殺害に関与していると私を疑った。放っておけば報告が上げられて、私が処分されるところだった」
目を閉じて、エウラリカが鼻に皺を寄せて顔を歪める。痛みを堪えるような表情で深く項垂れ、再度顔を上げたとき、彼女は薄らと微笑んでいた。
「……だから殺させたの。随分と都合が良かったわ。テテナが部屋をいつ抜け出すのかは推測ができたし、容姿の説明だって簡単だった。知らない敵より、近しいところにいる慣れた相手を始末する方が、うんと易しいのよね。だって簡単に切ることができるでしょう?」
そう語る彼女の瞳の、底が見えないのである。うふふ、と肩を竦めて無邪気に笑う姿は、『フィエル』の姿を思い起こさせる。それなのに、眼差しだけがどこまでも昏い。
「自分の身を守るためだった。仕方なかったのよ。元はと言えばこんな計画と管理を企てたこの男のせいだわ。私は被害者よ。わたしは何も悪くない」
整った微笑が崩れ、エウラリカは歯を見せて高い笑い声を漏らした。喉で引きつったような音を立てて、彼女は奇妙にぎらぎらと光る目をして虚空を睨みつけている。
「だって私、自分の手で人を殺したわけじゃないのよ? わたし、実際には何もしてない。ただ一言告げただけだわ。このままだと、息子さんがまた人を殺しますよって。知りたいだろうと思ったから教えてあげたのよ。感謝されることはあっても、何も責められるようなことはしていないわ。私は、わたしはただ、私は……」
視界の端で、カナンが動いた。蒼白な顔をしていた。あはは、と体を揺らすエウラリカの肩を掴んで、「エウラリカ様」と呼びかける。四度ほど呼んで、ようやく彼女の焦点がカナンの顔に定まった。へらりと口元を緩めたまま、エウラリカはじっとカナンの両目を見据える。
早口で語り続けていたエウラリカが、口を噤んだ。恐ろしいほどの静寂であった。
息混じりに囁く。
「ずっと思ってきたの。もしも私が、帝国の王女なんて立場で生まれ育っていなかったら、何者でもない別人になれたら、何の柵もなく、これまでの所業も全部捨て去って、すべてから逃げ出すことができたら、きっと何かが変わるに違いないって……」
乱れた髪が彼女の頬へかかり、目元に影を落としている。蒼白な顔をしたまま、彼女は唇を戦慄かせていた。しかし身に纏う衣裳は姫君に相応しいそれで、面立ちには隠しきれない気品が滲み、それは紛う事なき王女の威風だった。
「私が何の立場もないただの小娘になれたら、きっと私は善良で素直で幸せな一般市民になれるんだって信じていたの。私が『こんな』になったのは環境のせいで、場所が、前提が変われば、皆と同じような人生が送れると思い込んでいた。でも全部嘘だった」
鋭く息を飲んで、カナンが目を見張る。言葉にならない呻き声が漏れた。
『あなたが変わっていなくて嬉しかった』
彼がエウラリカに向かって笑顔で放った言葉が、ルオニアの脳裏を鮮烈によぎる。あのときの輝かしい光景が蘇った。
「――私は、何も変わらなかった」
カナンの両手が、肩から落ちる。笑顔のまま、エウラリカの目尻から一筋だけ雫が落ちた。
「記憶を失って、これまでの全てをまるきり削ぎ落としても、私は人を殺すことを選択肢に入れて、実行した。真性が綺麗に証明されちゃったのよ。安心しなさい、……私は、絶対に変わらない。良かったわね」
くすくすと笑うエウラリカの姿から、目が離せなかった。かける言葉さえ見当たらず、ルオニアは胸を上下させて浅く息をしていた。
堰を切ったように、はらはらと、エウラリカの両目から涙が溢れ出ては胸元に落ちてゆく。カナンはその前で立ち尽くしたまま、呆然と立ち尽くしていた。肩を抱いて、恭しく涙を拭ってやることなど思いも寄らないようだった。
「エウラリカ様」
返事はなかった。返事の代わりに立ち上がり、エウラリカが部屋を出て行く。慌てて後を追おうとするカナンに、彼女は「来ないで!」と激しい語調で叩きつけた。カナンの足がその場に縫い止められたようにぴたりと止まる。乱暴な仕草で目元を腕で擦り、エウラリカは足早にその場を立ち去った。
「あ……」
途方に暮れたように、カナンが立ち尽くす。まるで母親に置いて行かれた幼子のような、情けない顔をしていた。エウラリカが出て行った扉をじっと見つめたまま、進むことも戻ることもできずに凍り付いている。
「行ってあげて」
声をかけると、カナンは「でも」と瞳を揺らしてこちらを振り返った。ルオニアは目を逸らさないまま、「あとでまた話をするから、今は行って」とだけ告げる。
今、自分が行っても仕方ないという直感はあった。自分が声をかけに行っても、彼女はますます意固地になるだけだろう。
「エウラリカの記憶が戻ったとき、最初に向かったのは、あなたのところだったよ」
努めて穏やかに言うと、カナンが言葉に詰まったように唇を噛む。しばらく逡巡する様子を見せて、カナンは「悪い」と一言だけ呟いて部屋を出て行った。
「私は本心から、自分が悪いことをしたとは思っていませんがね」
サハリィ当主が当然のような口調で呟いた言葉に、ルオニアは曖昧に目を伏せた。
***
「エウラリカ様っ!」
背後から呼んでも、彼女は足を緩めなかった。早足で追いつくが、反応はない。隣に並んで歩調を合わせて、無言でしばらく歩く。どうやら行き先は決まっていないらしい。
取り返しのつかない過ちを犯していた。それに気づいたときにはもう、彼女を手酷く傷つけた後だった。
これまでの言動の数々が蘇って、血の気が引くようだった。咄嗟に追って来てしまったが、かける言葉もなかった。
「……どこか、座れるところはないの」
「あ……それなら、客間が、ここの左に」
鼻を鳴らして、指し示した方向へとエウラリカが歩を進める。カナンはただ悄然と項垂れたまま、その後ろをついていくことしかできなかった。
風が凪ぐ。通路の端々に植えられた椰子が、濃い色をした葉を揺らしては影を落としている。時折、押し寄せるような熱気が通り抜けてゆく。
「マーリヤは、」
小さな声で、エウラリカが呟いた。「はい」と頷きこそしたが、何が『はい』なのかは分からない。
「アドゥヴァに、昔のように戻って欲しかったんだって。昔みたいに、仲の良い親子に戻りたかったって」
自分が責められている気がして、カナンは息を詰める。しかしエウラリカの声に険はなく、ただ思いついたことを口に出しているような脈絡のなさがあった。
「でも、アドゥヴァの様子を見てみると、とてもじゃないけど『仲の良い親子』だった時期があるようには思えないの。多分、マーリヤの思い出に幻想が混じっていたのね」
エウラリカの足音は静かで、まるで裸足で歩いているかのようなしなやかさである。一歩踏み出すたびに、白いうなじが毛先の間に見え隠れした。
「記憶の中の理想は消せるものではないわ。思い出はいつも最良のものよね。同じように、過去も決して変えられない」
髪型も衣裳も違う後ろ姿はまるで別人なのに、目の間にいるのは疑いようもなくエウラリカだった。そのことに安堵してしまうと言ったら、また彼女は傷つくだろうか。
『僕が守ります』と宣言した、まだ無知だった頃の自分の声が、脳裏に蘇る。あのときの気持ちや言葉に嘘はない。けれど、
(俺は一体、エウラリカを何から、どうやって守って、どうなって欲しかったのだろう)
自分の本心を突きつけられた今となっては、同じ言葉を無邪気に口に乗せられる気がしない。俺は、エウラリカがかつてのような苦悩を抱え続けていることを、本心では願っていた。
(エウラリカは、何を守りたくて、何から守られたくて、どうなることを望んでいたのだろう)
そんなことを、考えたことはなかった。エウラリカ自身が何を願っているかなんて。
結局俺は、エウラリカ本人を守りたかったのではなく、自分の目を通して見たエウラリカに心酔していただけだったのだ。
***
あてがわれていた客間の扉を開けると、しばらく部屋を開けていたせいか、埃っぽい空気が受け入れる。カナンが後ろ手に扉を閉めた瞬間、エウラリカは糸が切れたように崩れ落ちた。慌てて駆け寄り、その背を支えて助け起こす。
「エウラリカ様、」
立ち上がる気配のないエウラリカを抱き上げて、長椅子がある方まで連れて行く。驚くほどに小さく、頼りない体をしていた。胸元にぐったりと頭を預けてくるエウラリカの、伏せられた瞼を見下ろす。
「――ごめんなさい」
一瞬、耳を疑った。今の言葉は、本当に目の前の彼女から放たれたものなのか?
今まで、エウラリカは一度だって、謝罪の言葉を口に乗せることはなかった。冗談ではなく、一度も、である。それに気づいたのは彼女に出会ってから比較的すぐで、エウラリカの高慢さを殊更に表した性質であると考えていた。
でも、きっと、そうではないのだ。
一度だけその言葉を呟いてから、彼女はまるで針にでも刺されたように体を縮ませた。目を見開き、「違う」と頭を振る。
慎重に彼女の体を長椅子に下ろして、カナンは音を立てないよう緩慢に、向かいの席に腰を下ろした。じっと、エウラリカを見つめる。
「私に、そんなことを言う権利はない……」
両手で顔を覆う彼女を眺めて、カナンは考えるよりも早く「やめてください」と声を発していた。息を飲んで、指の隙間から目を覗かせたエウラリカが、僅かに怯えたように身構える。
「聞かせてください。全部」
声はほとんど哀願だった。
「どんなに醜悪でも、我が儘で身勝手でも、受け止めますから」
手を伸ばしても、指先に触れるものはなかった。エウラリカは疲れ果てた様子で、ぼんやりとこちらを見つめ返している。
「……解るなんて傲慢なことは言いません。それでも俺は、あなたの言葉が聞きたい」
花の香りに釣られてきた蝶が、一度だけ羽を上下させるような、軽い動きであった。瞬きひとつ。視線を持ち上げて、まるで泣き出す寸前のように作り損ねた下手な笑顔で、彼女は一言だけ告げた。
「全部投げ出して、逃げてしまいたいの」
言葉にしてみれば、何のことはない、短い願望であった。ずっと背を灼いていた焦燥感と、地に足がつかないような不安定な状態、胸を満たす空虚のすべてが、端的な言葉に収斂する。続く言葉は分かる気がした。
「でも、今更もう引き返せない」
エウラリカの声が、息を殺して歪む。
「私の勝手な事情に巻き込んで、あなたの人生を狂わせた。全部私のせいよ、あなたは何も悪くない、ただ偶然そこにいただけ……」
深く俯いて、再度、あの言葉が繰り返される。短く切り揃えられた髪が、その顔を覆い隠して影を落とす。ごめんなさい、と声はいつになく幼い響きをしていた。カナンが知らない、かつての無邪気な少女の幻影が見えるようだった。無垢な幼子が、冷酷に人殺しの算段を立てるようになるまでの日々のおぞましさを想う。
「――本当なら、こんなこと、考えることさえ許されない!」
癇癪のように自らの腿に拳を叩きつけて、エウラリカは顔を上げた。鋭い眼光でカナンを睨みつける。
「全部、私がやったことなんだから。私が一人で始めた我が儘によって、何人もの人生がぶち壊しにされて、何人も死んだ。私が殺した。それらを私が悔いるのなんて、それこそ侮辱だわ。何も悲しいことなんてない。私にそんな資格はない。……逃げるなんて、できるわけない!」
強く見開かれた両目に、燃えるような怒りが見え隠れしていた。やり場のない感情が、渦を巻いて彼女の全身を駆け巡っている。
「こんな道に、お前を引きずり込んだ。私のせいで。私なんかのために……!」
どうして、と吠えるように叫んだエウラリカの痛嘆こそが、カナンがずっと反芻し続けて来た恨み言の倒影だった。全く同じ輪郭をした反射だ。疑いようもなく。
わかる、と声には出さない吐息が漏れた。『閣下は、ご自分のことがお嫌いですか』とセニフが問うた言葉を思い出す。肯定したときの、僅かに苦笑したような眼差しが瞼の裏に蘇った。
「何も、悲しむことなんてない……」
エウラリカの言葉のひとつひとつが、カナンの心にひとつずつ棘を刺していくように痛い。だって彼女が自分に言い聞かせる全てが、己を覆うために紡ぐ言葉の初めから終わりまでが、まるで鏡映しだ。
思わず、片手を挙げてエウラリカを黙らせていた。一度口を開きかけて、声が掠れて上手く出なかった。短く咳払いをする。身構えるように顎を引いたエウラリカの両手が、その喉元で重ねて握られる。
俯いて、カナンは呻くように呟いた。
「……俺は、人を疑い、陥れ、切り捨てるのは、つらいです」
彼女が決して口にできないであろう一言が、舌に苦い。俺にだって、こんなことを言う資格はない。でも、俺が言わなければ、エウラリカはきっと認められないだろうから。
「人に憎まれることも嫌だし、誰かに情を移してしまうことが一番怖い。だから相手を見ないようにした」
エウラリカが唇を噛んだ。頷こうとして直前でやめたような、奇妙な動きで頭を振る。
「裏切られたくないし、裏切りたくもなかった」
それでも、そうしなければいけない理由があった。あるいは他人からは『そんなことで』と笑われるかもしれない理由だとしても、それが自分にとっての一大事だったのだ。
「俺がそう認めることを、あなたは咎めますか」
ふるふると、音もなくエウラリカが首を横に動かす。その姿を数秒眺めてから、「エウラリカ」と一言だけ呼ぶ。
いっぱいに目を見開いて、彼女はこちらを見つめていた。どこか呆然としたような表情だった。「わたし」と声が漏れて、視線が重なる。嵌められた、とでも言いたげな顔で。
「それが答えじゃ、駄目ですか」
認めないことには次に進めない。ずっと自分に嘘をついて必死に宥めたままでは息ができない。
「あなたのせいで、俺は今こんな形で、ここにいます」
ジェスタの大自然の中で無邪気に笑う少年時代の記憶が、いつしか靄がかかったように掠れて遠い。祖国の王都は再興したが、まるきり過去のままとはいかない。かつての日々も、街並みも失われて二度と戻らない。
「あなたがいなければ、ジェスタは滅んでいました。俺も今ここにはいなかったでしょう」
今のカナンを形作ったのは、エウラリカだ。互いに言わずもがなで了承している前提だ。自分の語る言葉の始めから終わりまで、口を開く前の息を吸った一瞬でさえ、すべてがエウラリカによって与えられたものだ。
「あなたに俺を助ける意思も、陥れる意思もなかったことは知っています。恩人か仇かなんて二択に相手を嵌め込むのは愚かしい判断だ。自分が正しいと思ったことだけを繰り返していても、善人になれる訳ではない。ふとした言葉ほど人を傷つけるし、たぶん、救うこともある」
思わず目を伏せてしまう。自分の幼さから目を背けてはいけないと思いつつも、どうしてもエウラリカの顔を見るのが怖かった。
「あなたによって奪われたものと与えられたものの多寡は、争点ではない。だからあなたが、俺から奪ったものだけを思い返して、殊更に気に病む必要はないと思います」
口ではそう言っていても、未だに夢に見ることがある。別の道はなかったのだろうか。どこかで自分は選択を誤ったのではあるまいか。
「あなたと出会えてよかったと断言することはできません。あなたが歩んできた道を寸評する筋合いだってない。でも、」
こちらをひたむきに見つめてくるエウラリカの視線をようやっと受け止めて、カナンはおずおずと微笑んだ。
「――やっぱり俺は、あなたがこの世に産まれて、無事に生き延びて、今ここにいることが、本当に嬉しい」
笑っているはずなのに、何故だか勝手に涙が溢れて止まらないのだ。そのことに焦って、指先で必死に目元を押さえるが、事態は改善しない。それを見て笑うエウラリカも似たり寄ったりの状態である。
エウラリカが死んだという報を受けてから、常に糸が張り詰めているような心地がしていた。それが今、初めて緩んだのだ。
こんな安堵を長いこと噛みしめていられる立場でないことは、分かっているけれど。
窓の外から、まばらな拍手のような音が聞こえて、カナンは目を丸くして振り返った。当然だが、人影はない。怪訝に瞬きをしていると、エウラリカが立ち上がって、扉を開けて外に出るや、明るい声を上げた。
「雨だわ」
屋根のないところまで駆けていき、手のひらを上に向けてエウラリカがこちらを振り返る。
「天気雨なんて、珍しいこともあるものね」
雲間から射した真昼の光を浴びて、水滴がそこかしこできらめいていた。恐る恐る外に出ると、湿った雨の匂いが立ちこめている。
「カナン」と日向からエウラリカの声が呼ぶ。雨粒がまるで宝石のように彼女の四肢を輝かせていた。
「ちょっと、顔を洗いたいわね」
真っ赤な目をしながら照れくさそうに首を竦めて、エウラリカが甘えるように小首を傾げる。ああ、それなら――と近くの水場に向かって歩き出したところで、ふと、背後から小さな声で呼ばれた気がした。聞き間違いかと思ってしまうような、ほんのささやかな声で。
「――迎えに来てくれて、ありがとう」
咄嗟に振り返ると、何事もなかったかのような澄まし顔で「ん?」と返される。……本当に敵わない。
空は抜けるように青く、じきに虹が出ることを予感させる晴天であった。




