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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
灼ける砂国と伏流の矛先【後編】

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奔流、堰切れ、湧水深6



「この塔、前にも来た」

 開け放たれた扉から中に入るなりエウラリカが呟くので、カナンは釣られて塔の内部をまじまじと見回した。円形の内壁に沿って螺旋階段が設けられている塔である。敵も味方も関係なく我先にと皆が階段を駆け上がっていくが、堅牢な石積みの塔はびくともしない。


 階段の中ほどで足を止め、カナンとエウラリカは同時に窓から外を覗き込んだ。真っ先に視界に入ったのは、暗闇の中に浮かび上がる火災の光景である。遠目にも巨大な火柱が広範囲を舐めるように踊っているのが分かり、カナンはごくりと唾を飲んだ。


「居住区だわ。塀の外から火矢が放たれたのよ」

 周囲の喧噪の中、耳元でエウラリカが低く囁く。あちらの方向は、確かサハリィ家直属の兵が配備されている辺りである。

(そこまでするか……)

 真夜中の急襲で、寵姫たちがいると分かっている居住区に向かって、直接火を放つ。一拍遅れて理解が追いつくと、腕に鳥肌が立った。攻撃を開始する直前になっても、なおも穏やかに微笑んでいた当主の姿を思い出す。



 地鳴りのような音はなおも続いていて、得体の知れない破壊音が聞こえる暗闇はどうにも薄気味悪く思える。エウラリカは先程からずっと無口で、心ここにあらずといった風情で虚ろな目をしていた。


 アドゥヴァによる王家筋の人間の虐殺については知っていた。クウェール家と旧帝国の話題も、予想はついていた。

 けれど二つがこんなところで、こんな形で結びつくとは、思ってもみなかった。この動揺ぶりを見るに、エウラリカも同じだろう。しかし、彼女が受けた衝撃はカナンの比ではないらしい。視線こそ火炎の方を向いているが、意識はここにないように見える。何度か声をかけても応答はなかった。



 不意に、ひやりとした風が押し寄せるのを感じた。ここまでの騒乱でほつれていた髪が、大きく揺れる。

「あ、」とエウラリカが声を漏らして、夜陰の一点を指さした。ほっそりとした人差し指が外の暗がりに向かって差し伸べられ、白い輪郭がぼんやりと浮かび上がる。真っ直ぐに指が伸ばされる方向を見やって、カナンは息を飲んだ。


 燃え上がる炎の端が、徐々に削られてゆくのだ。それに気づいて炎を注視すれば、建物が建ち並ぶ居住区の炎は、目に見えて小さくなってきていた。

「水だ……」

 呟いて、カナンは窓から身を乗り出して食い入るように目を凝らす。火が小さくなっているのは気のせいか。高い位置から見れば、地面を覆う水の姿が薄らと認められる気がした。


 どこからともなく出現した水が、大火を抑えているのだ。堰を切ったように、大きなうねりとなって、奔流が宮殿の地表を縦横無尽に覆ってゆく。


 周囲の兵たちも、向かいの炎が縮小していることに気づき始める。宮殿の衛兵もサハリィの兵も、帝国の者も皆が入り交じって同じ方向を向き、指を指しては口々に驚嘆の声を上げていた。

「奇跡だ」と誰かの言葉が聞こえていた。



「奇跡などというものは、存在しない。存在したとしても、それは、私の手の届くところになんて降ってこない……」

 さながら祝祭の旅芸人を囃し立てるかのような高揚の中で、エウラリカだけが身じろぎ一つせずに呟いた。

「私には、何も変えられないし、何も救えない」

 カナンが傍らにいることなど忘れ去っているようだった。顔を横に向けて、エウラリカの表情を窺う。ふと、その瞳に光が当たっていることに気づいて、カナンは再び視線を外へと戻した。


「私が生まれて来たことに、意味はひとつもなかった」


 地平の向こうから、眩い光点が姿を現そうとしている。宮殿を囲む塀の先には緩やかな曲線を描く砂地が連続する。闇に沈んでいた稜線の輪郭が、まるで暗い水面から姿を現すがごとく浮かび上がった。藍色の空の端から、地面を焼き尽くすように鮮烈な暁光が立ち上る。天頂には未だに星屑が散っていたが、視線を巡らせるたびに天球は朝の気配に染められていくようだった。

 朝日が、果てしなく広がる視界を白く覆う。一陣の風が吹いた。鬱屈して澱んだ夜の空気を一掃するような、涼やかで澄んだ風だった。


「私は、生まれるべきではなかった」


 そんなことない、と安易に否定する言葉は、出てこなかった。凍り付いたように体を強ばらせたまま、カナンは為す術なくエウラリカを見つめていた。彼女の小さな体を、想像もつかないほどの空虚と絶望が満たしている。


 腕を伸ばしきらずとも触れられる隣にいるのに、こんなにもエウラリカが遠い。全身から、すべてを拒絶するような気配がひしひしと放たれている。

 今なら、かつてのエウラリカの言葉が分かる気がした。目的に向けて道を敷き、着実に歩みながら、いつそれが崩れてしまってもいいと思っている。虚栄でも強がりでもない本心から想像しているのだ。自分には変えようも抗いようもないような、圧倒的な力で、すべてが完膚なきまでに破壊されてしまわないだろうかと。

 心のどこかで、ずっと願っている。


 必死に藻掻いて、行き先も分からぬのに藪を漕ぐように、溺れながら喘ぐように進み続けて、来たる破滅から逃げ切れはしないだろうかと、ここまで走ってきた。


 エウラリカを見つければ、何かが変わると思っていた。常に些末なことに拘泥してしまっては苦悩する自分とは違う、彼女なら一言で自分を導けるような言葉と威容を持っているはずだ、と。

 でも、そうではない。これもまた『エウラリカ』なのだと、痛感させられる。そうだった、と内心で呟く。自分はいつの間にか、彼女の姿に幻想を抱いていた。


 憂いを抱きながら、それでも進んでゆく。迷いながらも、前を見続けることのできる、強い人なのだ。


「エウラリカ様、俺は……」

 呟いた声は掠れていた。聞こえているだろうに、彼女は返事をしなかった。



 いつしか騒乱の止んだ宮殿を、新しい陽光が照らし出す。とりわけ明るい色の屋根で作られた円形の回廊と、通路。回廊の周縁に敷かれた通路には水が張られ、陽射しを反射してきらきらと輝いている。

 それはまさしく、帝国が掲げてきた紋章の意匠である。


 二つの人影が、水路となった小径を飛び越えて、こちらへと近づいてくる。長い影が地面に投げかけられて、まるで踊るかのように楽しげな姿に見えた。


「――幼い頃に、疑問に思ったことがあったの。新ドルト帝国の『ドルト』とは何なのか」

 と、エウラリカの言葉は、どうやらカナンに向けられているらしい。彼女の視線こそこちらを向かなかったが、カナンはゆっくりと頷いた。

「古くからの地名を表す単語ではない。そんな名前をもつ血脈があったという記録もない」

 彼女の眼差しは、今まさに塔へと駆け寄ってくる姿へと注がれている。


「帝国に伝わる古い家柄の名字は、皆同じ接尾語を持つ。アルヴェールやウォルテール、そしてクウェール」

 大きく手を振って、塔の下へと到着した彼女は鳶色の三つ編みを揺らして、エウラリカを見つけると弾けるような笑顔を浮かべた。



「もしも旧帝国が存在していたのなら、それを統べる者の名は『ドルテール』だろうと推測していたわ」

 エウラリカの横顔には諦観が浮かんでいた。

「だから、記憶が戻ったときから、薄々察していた。……たぶん、私とルオニアは、ずっと無邪気なお友達ではいられない」



「エウラリカ!」

 ルオニアが口の横に手を添えて、馬鹿みたいに開けっぴろげな声で呼びかける。

 言ってから、何やら『しまった』というように口を塞いで横を見る。一歩遅れてルオニアに追いついたのは、セニフであった。随分と疲労困憊した様子である。顔を見合わせて何やら言い合っている様子は、随分と気心が知れたように見える。

「えと、今のは違くて、何だっけ、……そうそう、フィエルさーん」

 妙に棒読みな態度で、ルオニアが誤魔化すように舌を出した。それまで陰鬱な表情をしていたエウラリカが、耐えきれなかったように息を漏らして笑う。


「エウラリカで良いよ。合ってるから」

 目を細めた、その瞬間にようやく初めて、彼女の瞳の奥まで朝日が射した。



「カナンに会えたのね」とルオニアの視線がこちらを向く。どう応えたものか分からずに、口の端だけを上げる。その反応を見てか、ルオニアが怪訝そうに小首を傾げてエウラリカを見た。

「良かったね……で合ってる?」

 何てことをサラッと訊きやがるのだ。体の片側に異常な緊張が集中する。とてもじゃないが隣を見られる気がしなかった。


 エウラリカは少し黙って、ちょっと斜め上に視線をやってから、曖昧な微笑みで頷いた。


「合ってるわ」



 ***


「帝国の紋章が表す『蔦』が何なのかを考えたの。東西から来る二つの大河が合流する地点に帝都があるっていうのは聞いたことがあったから、左右から下りてきて下で交わる蔦っていうのは、川の象徴だと思った」

 ルオニアは身振りを交えながら早口で語る。一晩中駆け回っていた興奮が、まだ全身を満たしているようだった。

「じゃあ宮殿における蔦が何かって言うと、主通路で表されているのよね。しかも考えてみれば、主通路って何故か地面を掘って一段下がったところに、そこだけ石畳で作られているのよ。これはもう完全に水路だと思って」


 斜め後ろでセニフはげっそりとしており、隣を歩くエウラリカとカナンは興味深げに周囲を見回している。ひと晩のうちに変貌した宮殿は、そこかしこに水溜まりができてきらきらと輝いている。

「宮殿が作られた当時、この通路に水を引く手段は何だろうと考えてみたんだけど、ひょっとして庭園にある泉って自然にできたものじゃなくて、貯水池として作られたんじゃないかと思ったのよ」

 ああ、なるほど、と口々に頷いたのはエウラリカとカナンであった。「妙な斜面があると思った」「盛り土ね」「堤防」と何だか自分たちだけで納得している。


 話を戻すように咳払いをして、ルオニアは腰に手を当てた。

「そ……それで、貯水池なら排水するための場所があると思ったの。水門みたいなのが」

「で、発見したと思ったら、あっという間に破壊したんですよね」

 後ろから恨めしげな茶々が入って、思わず顔を引きつらせる。じとりとしたセニフの視線を感じたと思ったら、カナンまでもが引き気味の表情でこちらを振り返っている。思わず「わざとじゃないわよ」と呟いていた。


「自分でも、あんなに暗い中で水門をすぐに見つけられたのは奇跡だったと思うわ。それで、歯車を回して少しずつ門を上げようとしたのよ、んで歯車に繋がる取っ手みたいなのをエイッと動かしたら……その……取れちゃって」

 水門は土やら石やら木々で隠されていたし、周囲は暗いしで、正直何が起こったのかは分かっていない。手当たり次第に何か動かしていたら水が出てきたのである。水が出てきたと思ったら予想以上の勢いだし、ついには堰が切れるとも思わなかった。

 恐らく市街の方まで水浸しだろう。大変なことをしでかした自覚はある。


 唯一「すごいわ」と言ってくれたのはエウラリカだけで、彼女は薄らと微笑んでこちらを見つめている。

「ルオニアは、本当に、すごい……」

 言いながら、エウラリカの顔が徐々に歪んでゆく。眉根を寄せて、彼女はまるで眩しいものでも見るように目を細めていた。



 すっかり朝日が上がり、攻撃は既に止んだ。しんと静まりかえった朝の宮殿を歩きながら、ルオニアは一歩先を行く二人の背中を無言で見つめる。

『エウラリカ様。これからどうしますか』

『お前は、どうして欲しいの』

 微妙な距離を開けて歩いている二人は、一度も視線を合わせようとはしなかった。それでも、やり取りは非常に滑らかで、ルオニアには聞き取れない言葉は恐らく帝国語なのだろう。

『それは、俺が決めることじゃないでしょう』

『……そうね』

 もっと、再会を喜び合う感動的な場面が見られるものと思っていた。何だか少し拍子抜けしながら首を傾げるルオニアのすぐ後ろに、セニフが何も言わずに近づいてくる。


「――俺も、奇跡は起こせない人間です。魔法も使えないし、すべてを変えてしまえるような力だって持っていない」

 低い声でセニフが囁いてくるのは、恐らく前方の会話を訳したものだ。まるで盗み聞きのようで居心地が悪くなったが、前の二人が嫌がる様子はない。というより、恐らく、こちらの声など聞こえていないのだろう。


「あなたに会えば、何かが変わると思っていました。これまで一人で抱えてきた鬱屈が昇華されて救われると祈ってきた。でも何も変わらなかった。それで良いと思ってもいますが、正直に言えば、少し残念にも思います」

「失礼ね。人なんて変わらないわよ。たかが人ひとりに会ったり、記憶を失ったり、これまで知らなかった情報を知ったくらいのことで、人は決して変わらない」

 エウラリカが、不意に顎を上げて、カナンの方を見上げた。「残念だけどね」と、頬に浮かんでいるのは静謐に整った微笑みだった。ようやく笑顔を向けられて、カナンの表情がふっと綻ぶ。


 思わず、というように、彼は何気ない口調で告げた。

「あなたが変わっていなくて、嬉しかった」

 カナンが破顔する。顔に明るい光が当たり、珍しく青年らしい、瑞々しい笑顔であった。




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― 新着の感想 ―
[一言] まだルオニアがクウェールがなんぞや、と言うのを知らないから関係が保てているのか、しかし、ルオニアの性格を考えれば知ったとしても個人としては赦しそうな気もするし…まぁどうなるのやらね。 カナ…
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