奔流、堰切れ、湧水深5
「私は、ただ……帝国の地下通路の地図を、探しに来ただけ」
横から眺めているだけのカナンの目にも、エウラリカは怯えきっているように見えた。背筋こそ伸びているが、言葉の切れ間に唇を噛み、背後に回した拳を握り込んでいる様子は、虚勢に他ならない。
「エーレフから受け取った地図を持っているでしょう? 地下通路の、地図を……」
アドゥヴァに向けた言葉は、ほとんど縋るようだった。カナンは冷然とした視線で、その横顔を眺める。固唾を飲んで返事を待つエウラリカは、いつの間にか随分小さくなってしまったように思う。……それが気に食わない。
「地下通路?」
祈るように背後で手を握り合わせていた彼女に対して、アドゥヴァの怪訝そうな声が、何よりも容赦のない返答だった。押し殺したように息を飲み、エウラリカが目を見張る。
「何の話だ。地図? ……エーレフが?」
「エーレフは私を裏切って、誰か別の人間のもとについたと聞いたわ。その新しい『ご主人さま』とやらに地図を渡したと」
「それが俺だって言いたいのか。なるほど、本物の姫様ってのはとことん底意地が悪ぃな」
体についた砂埃を払いながら、カナンは黙して両者の姿を見比べる。
エウラリカの案内に従って地下通路を進み、アドゥヴァがいると思しき拠点の裏側から回り込んで奇襲を仕掛けた。激しい戦闘を覚悟していたのに、繰り広げられているのは淡々とした声音の会話である。
もちろん、刃傷沙汰にならないのは悪いことではない。殺気立っていた衛兵たちも、抜いた剣の行き先を失ったように互いの顔を見合わせている。いつでも剣を抜けるように身構えた姿勢のまま、カナンは牽制するように視線を走らせた。
エウラリカの肩越しにライアと目が合う。青年のように切り揃えられた髪が、地毛なのだろう。隙のない立ち姿と、腹の据わった態度。これが、ハルジェルの地下に潜んでいた『セニフ』だと悟って、カナンは眉を上げる。
「……お前は、エーレフの主人ではなかったの?」
顎を引いて、心持ち上目遣いに放たれた問いに、アドゥヴァが頬を吊り上げる。一瞬だけ苛立ちが浮かんだように見えた表情は、すぐに意味深な笑みに取って代わられた。
「俺がエーレフの主人だったことは、一度もない」
答えれば答えるほど、エウラリカが衝撃を受けることに気づいたらしい。アドゥヴァの言葉はいたぶり焦らすように断片的で、エウラリカは必死に動揺を押し殺して動かない。
「その逆だ。……言うなれば、エーレフが俺の主人だった」
端的な一言には、カナンも流石に目を丸くした。アドゥヴァの口元は苦々しげに歪んでいる。
「南方連合の主になりたいのなら、兵を貸してやる。お前の意志に感動した。協力は惜しまない。そう言って言葉巧みに乗せられたが最後、俺はあいつに逆らえなくなった。もちろん簒奪へ向けての侵攻は俺が始めたことだし、俺は、自分の意思ですべてを動かしているつもりでいた」
まただ、とカナンは目を眇めた。物事の背後に密かに繋がる糸が、薄らときらりと光っているのが見えるようだった。帝都にいた頃によく味わった感覚だ。糸を辿ってゆくと、そういうのは全部どこかで繋がっていて、最後にはどこか一点に行き着くのである。
「王を弑した際、最後に王が口にしたのが、『クウェール』という名だった。まるで因縁があるのを以前から承知していたかのような口調で、……俺が、エーレフの口車に乗せられてナフタハル家の人間を根絶やしにした後のことだ」
諦念とやるせなさの滲むアドゥヴァとは対照的に、ライアの怒りは未だに真新しい傷跡のようだった。血の気を失うほど唇を噛みしめ、燃えるような眼差しでエウラリカを見据えている。
「お前のナフタハル虐殺の後ろに、エーレフがいたと言いたいの? 更にその背後に、クウェールがいた、と」
感情を切り離したように、抑揚のない声でエウラリカが呟く。「そうだ」とアドゥヴァが鼻を鳴らして応じた。
エウラリカが倒れると思った。彼女の顔色はそれ程までに深刻だった。いつでも受け止められるようにエウラリカの体勢に目を配りながら、カナンは彼女の胸中を思う。
「それで、エーレフは今、どこにいるの」
ほとんど口を動かすことなく、ライアが呟いた。エウラリカの瞳に痛みを堪えるような色がよぎる。
「っ死んだわ」
声を詰まらせながら端的に答えた一言に、ライアとアドゥヴァが揃って息を飲んだ。顔を見合わせ、両者は目を見開く。説明を求めるように視線を向けられ、エウラリカが眉根を寄せて目を伏せる。
「……私が、殺したの。私の望みを何でも叶えると言っておきながら、『どうせ無理だ』とあっさり寝返ったエーレフのことが、私は許せなかった」
その手を血に濡らして、呆然と立ち尽くすエウラリカの姿が目に浮かぶようだった。カナンは奥歯を噛みしめて、苦しげに項垂れる彼女を見つめる。
「どんな理由を付けたのかは忘れたけれど、崖際まで連れて行って、部屋から持ってきた果物ナイフで胸を一突きして、崖から突き落としたの。水面までは距離があるし、あの川に落ちて無事なはずがないわ。絶対」
それが、カナンがエウラリカと邂逅する、ほんの少し前のことなのだ。裸足で玉座の間に飛び込んで、明るく無邪気な素振りで振る舞っていた少女の姿が蘇る。エーレフの最期はきっと、あのときの彼女にまだ鮮明に刻まれていたのだろう。今なら、そうと分かる。
「そうか。エーレフは、もう……」
宙を仰ぎ、喘ぐように口を開けたアドゥヴァの表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。噛みしめるように呟くアドゥヴァとは対照的に、ライアは「何ということを」と呻く。
「エーレフが死んでも、その背後にいた人間が死んだ訳ではない。黒幕に繋がる唯一の手がかりを、あなたはみすみす殺したのよ。状況は何も変わっていない」
ぎらぎらと光る目で、ライアは顔を歪めてエウラリカを睨みつけた。
「どこの誰が、何の目的で、一連の事件を画策したのかも分からない! そいつを突き止めて殺さない限り、ナフト=アハールは未だに危険に晒されたままだわ!」
俯いたまま黙り込んでいたエウラリカが、ふと口を開いた。
「そんなの、私、何も知らない」
息混じりの声で囁くと、ライアが色めき立ってエウラリカを責め立てる。向けられる激情を受け流して、彼女はゆるりと顔を上げた。
「でも、今の話と、ここに来てから見聞きしたことを合わせて考えれば、エーレフが何を目的にそんなことをしたのか、推測はできるわ」
噛みしめるように告げたエウラリカの横顔は、決然としていた。彼女の頬を炎の明かりが照らし出す。夜風が過ぎ去ると、軽い前髪が揺れては戻る。
「良いわ、別に隠し立てするようなことじゃない。どうせ全て暴くつもりのことだもの」
凜と背筋を伸ばして、エウラリカは覚悟を決めたように息を吸って、吐いた。怜悧な輝きが、深い色をした双眸に宿る。
知らず知らずのうちに、食い入るようにその面立ちを凝視してしまっていた。こうしたときのエウラリカが一番美しいことを、自分は知っている。
音もなく短い息を吸って、エウラリカは単刀直入に言い放った。
「クウェール家は、常に旧帝国の存在を抹消するためだけに存在してきた。国を大きくし、富を求め、民を守るなどという大義が掲げられたことは一度もない。ただの一度も」
エウラリカが立てている推測は、恐らくカナンが想像しているものと同じだろう。かつて、帝都の地下で彼女が口走った言葉を思い出す。あのときエウラリカは、いつになく意気消沈した態度であった。
「帝国は周辺諸国の征服を繰り返し、当地の文明、文化をすべて破壊して回ったわ。特に新興国を標的にして、王家を完全に根絶やしにした。帝国軍人は、それが最も合理的で、正しい戦略であると教え込まれてきた。国を守るために、ね」
毅然と頭を上げて、滑らかな帝国語で語るエウラリカの目には、怒りが見え隠れしている。彼女がかねてからこの方針に反感を抱いているのは明白である。見る者が見れば腰抜けとも言えるウォルテールを登用した動機でもあるはずだ。
口を挟む者はなかった。挟ませる気もない。
松明の火が爆ぜる音が、断続的に空気を弾く。
「――クウェール家が探し続けてきたのは、旧帝国の形跡と、生き残り。亡霊にも等しい過去に怯えるばかりの卑怯者、それが新ドルト帝国の正体よ」
重大なことを喋っているはずなのに、彼女の声はどこまでも静かで、鏡のような水面を思わせた。ライアは毒気が抜かれたように呆然とエウラリカを見つめている。
「発端は単純で、旧帝国の簒奪に成功したクウェール家は簒奪の事実を隠蔽しようとした。動機や経緯は今となっては定かではないけれど、卑怯な手段が含まれていたと感じたのでしょう。……旧帝国が存在しなかったことにすれば、その歴史も権威も、何一つ損なわれたことにはならない」
地下通路を思い浮かべながら、カナンは思わず拳を握りしめていた。帝都の足下を通って簒奪を行うことが『恥じるべきこと』だとしたら、俺は一体何なのだろう。
「事実、新ドルト帝国が誕生したと予想される時代の記録を見ても、その前後に大きな政変があったという記述は一切見られない。新帝国は連綿と続く歴史を持つ、正統なる国家である、と。本来なら旧帝国時代にあたる頃の記録は、八割方が捏造とみても良いでしょう。新旧の名称に関しても、当時どのような経緯があったかは不明でも、同じ名を利用する選択をしたところに意図が見える」
愚かな、と吐き捨てた言葉が、しんと静まりかえった空間に刺々しく突き刺さる。初めこそ押し殺すように淡々としていたエウラリカの話しぶりは、徐々に感情的になっていた。
エウラリカはおもむろに剣を持つ腕を下に向け、剣先を地面につけた。乾いた地面に切っ先で手早く描くことには、二重円と放たれる光線、そしてその下で合流する二本の曲線である。
「現在新ドルト帝国が象徴として掲げる紋章は、帝都の立地を象ったものだわ。だから、あの位置に変わらず君臨し続ける帝都にいるかぎり、紋章も使い回しで良いと思ったのでしょう。自分が追い出した一族の紋章を我が物にするって、この上なく恥知らずな行為よね」
己が属する一族を語るのに、妙に生々しい侮蔑を含んだ言葉尻だった。口の端を歪めて、エウラリカは冷めた目で地面の模様を見下ろしている。
「――ラヴァラスタ宮殿は、この紋章の形に作られている」
真っ先に息を飲んだのが誰かは分からなかった。カナンは改めてエウラリカの足下を注視する。それから宮殿の構造を思い浮かべるが、全容は判然としない。しかし、ライアとアドゥヴァの反応は揃って激烈だった。大きく目を見開き、驚愕の表情を浮かべている。
「どういうこと?」とか細い声でライアが呻く。
「簡単よ。宮殿を作ったのが、帝国の人間なんだわ。恐らくは、クウェール家によって帝都を追われた、旧帝国の人間」
「ナフト=アハールの地下に作られた通路も、帝国にあるものと酷似した造りをしていましたね」
カナンが口を挟むと、エウラリカは小さく頷いた。「それも証拠のひとつよね」と顎に手を添えて、彼女はそこで不意に躊躇うような仕草を見せた。
「でも、私が最初に気づいたのは、」
言いかけて、口ごもって目を伏せる。何だ、と窺い見ると、エウラリカは悲しげに眉根を寄せている。唇だけ動いて呟かれた言葉は、『ルオニア』に見えた。
頭を振って、エウラリカは今しがたの一言を誤魔化すように声を大きくする。
「クウェール家は常に反乱を恐れてきた。彼らがずっと危惧していたのは、旧帝国の王家に生き残りがいて、その子孫が再び帰還することだった」
「ナフト=アハールを作ったのは、始祖王と呼ばれる人間だ。彼から、ナフタハル家へと連なる」
アドゥヴァの応答で、ライアが無言で額に手を当てた。呼吸を整えようとするように、荒い息づかいが漏れる。
「――だから、クウェール家は、ナフタハルを皆殺しにせよと命じたのね」
エウラリカの全身を、言い表せぬ絶望が満たしていた。青ざめた顔をして、彼女の体はがたがたと震えている。
どうして、と無意識のように漏れた言葉に、ライアが叫んだ。
「あんたが、自分で説明したでしょう!」
悲鳴であった。
「その話が本当かどうかなんて、今の私たちに確かめる術はないわよ、でもそれが本当だとして、……だとしたら、私たちはそんな下らないことのために踏みにじられ、蹂躙されたというの?」
ライアが呻く言葉を、エウラリカは黙って聞いていた。唇を閉じたまま、表情もなく。
「私も、下らないと思ってる」
ぽつりと落とした一言は、この場においてはやけに白々しく聞こえた。
互いに顔を見合わせた沈黙の中に、気詰まりな空気が流れていた。エウラリカは何か思い悩むように項垂れていて、腹の前でぎゅっと握り締めた片手が震えている。
「全部、終わらせたいの。私は旧帝国が存在したことを証明して、新ドルト帝国という名の下に作られてきたものを全てぶち壊してやりたい。……ずっとそう思ってきたの」
エウラリカが、震える声で呟く。「だから」と顔を上げた瞬間、どこか遠くで物音がした気がした。ぴくりと眉を跳ね上げ、カナンは遠方に耳を澄ませた。
まるで己を必死に奮い立たせるように、彼女は強く拳を握りしめていた。
「協力して欲しい。ぜんぶ知りたいの。知らないままじゃ終われない。この土地でかつて何があって、その果てに何が行われたのかを明らかにしたい」
「それで、クウェール家を断罪するとでも言いたいの? どの面下げて言ってるのよ、『王女さま』が」
ライアは剣を握る手を上げて、叩きつけるような口調で舌打ちをする。束の間、エウラリカの目に物言いたげな光がよぎる。
「高みから見下ろすみたいな、まるで『自分は他のクウェール家の人間とは違うんです』とでも言いたげな態度ね。自分の手は汚さずに、情報だけ集めて何かを変えようって? 恥知らずにもほどがあるわ」
エウラリカは眉根を寄せ、無言で微笑んだ。一歩、歩み出す。その足音がやけに湿っていたのは気のせいか。
「だって」と、夜風が大きく動く。遠くで木々が揺れる音が、さざなみのように広がってゆく。
「……私は、そうした方法でしか、人を救えない」
エウラリカの声は震えていた。
――そのとき、まるで重いものが落ちたかのように、地面が揺れた。どぉん、と、重い轟音。疑いようのない地響きに、一同が息を飲む。
誰もが息を飲んで周囲を見回す。何かが近づいてくるようだった。何だ、と耳を澄ませる。中腰になって身構えたカナンの耳に、誰かの怒鳴り声が届いた。
「全員、高いところへ上がれ! ――水が来る!」
この砂漠のど真ん中にあって、『水が来る』とはどういうことだ。訳が分からずに当惑するカナンたちとは別に、ライアがはっと目を見開いた。
「兄さんの声だわ」
呟いて、素早く身を翻すと視線を方々へと走らせる。その間にも、音は徐々に大きくなり、明らかな破壊音が断続的に聞こえ始めていた。未だに周囲は暗く何が起こっているかは分からないが、これまでにない異常が発生しているのは明白だ。暗闇に目を凝らしたまま、カナンはじっと体を固くする。
ぱしゃん、と。身じろぎをした拍子に、足下で水音がした。息を飲んで地面を見下ろすと、周囲の篝火が反射しては揺れている。薄らと水が張っているのだ。否、流れている。見る間に水量を増しながら、どこからともなく、大量の水がこちらへ流れてきていた。
(……水?)
ジェスタにいた頃、豪雨によって増水した川を遠くから見たことがあった。ごうごうと恐ろしいような音を立てて流れてゆく濁流の光景が、瞼の裏に浮かぶ。背筋を悪寒が駆け上がる。今はまだ遠い、しかし着実にこちらへ迫り来る轟音は、まるであのときのようではないか。
宮殿のそこかしこで繰り広げられていた抗戦の気配が止む。地面を覆い、瞬く間に量を増してゆく水が、戦火を端から順にかき消していくかのようだった。
ややあって「あそこへ!」とライアが指し示したのは、ほど近くに位置する細長い塔であった。未だに訳が分かっていない様子のエウラリカと視線を合わせて、一度だけ頷く。
とにかく今は、高いところへ登って事態を把握することが先決だ。くるぶしの辺りまで水位が上がり始めた宮殿を駆け抜けて、二人は高台に位置する塔へと急いだ。




