奔流、堰切れ、湧水深4
妹をこれ以上傷つけないで、と頭を垂れた兄の姿が、今でも目に焼き付いて離れない。
炎上する宮殿を眺めたまま、ライアは放心したように立ち尽くしていた。何とかしなければと考えてはいるのに、体が動かない。
「ライア様、ご無事ですか!」
急遽用意された拠点にて、衛兵たちをかき分けて姿を現したのは、侍女たちである。宮殿でも特に不出来で冷遇されていた少女たちを教育のために側に置いていたら、いつの間にかすっかり懐かれてしまった。
「酷い、こんな……宮殿に火を放つだなんて……」とライアより彼女らの方が余程打ちひしがれた様子で顔を歪めている。本当なら熱を込めて同意すべき場面なのに、生返事しかできなかった。
(兄さんがやったんだわ)
攻撃を行っているのは、サハリィ家の軍勢だという。兄はかねてからサハリィと繋がって、反乱の機会を窺っていた。兄が頻繁に宮殿を抜け出していることをアドゥヴァに悟られるわけにはいかない。そのための身代わり。そのための忍苦。いつか本願を達成する日を夢想して、今まで仇敵の従順な下僕に甘んじてきたのだ。
兄はライアよりも更に前線で、危険を冒して密通を行ってきた。だから報せを受けたときも、この包囲の裏に兄がいることはすぐに予想できた。
予想できなかったのは、兄が、自分に何も言わずに攻撃を実行したことである。
(敵を騙すなら、まず味方から……ということ?)
そう言い聞かせるのに、何故か、胸騒ぎがして仕方ない。心臓の上に片手を添えて、ライアは大きく息を吸って、吐く。
違和感の理由は分かっている。宮殿を包囲する勢力の中には、帝国も名を連ねているらしい。その経緯を、ライアは一切把握していない。知っていたら絶対に認めなかっただろう。
(新ドルト帝国……)
その名を口の中で転がすだけでも忌まわしい。何も知らない兄が、帝国に与したのか。それでも帝国に唆されたか。奥歯をゆっくりと噛みしめて、ライアは暗い空に浮かび上がる火影を睨みつけていた。
「――ライア!」
大音声で呼ばれて、振り返ったと思ったときには、脳が揺さぶられるような殴打が頬を襲っていた。耐えきれずに地面へと倒れ込んだライアに、侍女たちが悲鳴を上げて駆け寄る。口々に何か言おうとする彼女らを片手で制して、彼女は口の中に滲んだ血を傍らに吐き捨てた。目の前に仁王立ちする男を睨みつける。
「どうされました、アドゥヴァ様」
唸るように声をかければ、振り上げた腕を下ろさないまま、アドゥヴァがライアを憤怒の表情で見下ろしている。
「お前の、差し金か……!」
「は? 私は何も知らないわよ」
咄嗟に嘲笑が漏れていた。ライアは挑発的に肩を竦めて吐き捨てる。
「私が、このラヴァラスタ宮殿に軍勢を呼び込んで攻撃を行わせるはずがないじゃない。火を付けるなんてもってのほかだわ。考えればすぐに分かることでしょう」
「それなら、一体、誰が手引きをしたと言うんだ。宮殿に軍勢を引き入れるには、外とやり取りをする人間が必要だっただろうな。そんなことが可能な人間は限られている」
「知らないわよ。誰かあんたに恨みがある人間がやったんでしょ。心当たりなんて無数にあるんじゃないの? 宦官の人事だってもう腐ってるんだから、誰が紛れ込んでいたって不思議じゃないわ」
つい反抗的な口調で答えてしまうと、再度の折檻が降り注ぐ。胸ぐらを掴まれて鼻先が触れ合いそうな距離で目の奥を覗き込まれ、ライアは負けじと目を見張ってアドゥヴァを睨みつけた。
「勘違いしないで。私たちはただ目的が一致しただけで主従関係でも何でもないし、欠片も絆や親しみを感じない。私はあんたに忠誠を誓ったことなんて一度もないわ。私が仕えるのはナフト=アハール、ただそれだけ。脅しても凄んでも、私があんたに忠実なしもべになることは決して有り得ない」
喉の奥で唸ると、アドゥヴァが聞こえよがしに舌打ちをする。臆することなく視線を外さないでいると、沈黙ののちに突き飛ばされてよろめいた。
「それなら、とっとと剣でも持って防衛に混ざってこい。お前の愛するラヴァラスタ宮殿が蹂躙されるなんて見過ごせないだろう?」
「言われなくてもそうするわよ」
つんと顎を上げて吐き捨てると、黙って話を聞いていた侍女が悲鳴を上げて首を振る。
「駄目です! ライア様、危ないわ!」
左右の腕に縋り付くようにして引き留めてくる少女たちを見下ろして、ライアは束の間言葉を失った。目に涙まで浮かべて必死にしがみついてくる様子に、嘘や虚飾の気配はない。だからこそ、かける言葉に迷ってしまった。
「カエ、リーフィ」と名を呼んで、優しく腕を振りほどく。アドゥヴァの視線を感じながら、努めて柔らかい声で告げる。
「……私は、あなたたちが思っているような人じゃないのよ」
規律を守り、自他共に対して厳しく、厳格かつ清廉な人間だと思われている自覚はある。実際、宮殿内においてライアは常にそう振る舞ってきたつもりだった。……代々ナフタハル家を擁して継がれてきた、このラヴァラスタ宮殿を汚すような真似はしたくない。
宮殿に棲むライア・スエラテルスは、そういう人間だった。
「私は目的の為なら嘘だってつくし、汚い手も使うし、他者を傷つけることに躊躇いもない。私が今まであなたたちに優しくしてきたのは、それが宮殿の管理人として相応しい態度だと思っていたから。それだけよ」
甘やかすように囁いて、ライアは侍女たちを一瞥する。衝撃を受けたように黙り込んでしまった彼女らから目を背けて歩き出し、ライアは近くにいた負傷兵の剣帯を拝借した。
重みが腰に加わり、柄に触れて感触を確かめる掌は既に硬く、厚くなっている。おもむろに片手を挙げ、額にかかる前髪を握り締めるやいなや、強く引き下ろす。ずるり、と冷ややかな黒髪はいとも容易く頭から離れ、長い毛髪が指に絡んだまま宙に掲げられた。
押し殺した悲鳴が上がるのを背後に聞きながら、ライアは無言で鬘を見下ろした。この鬘を作るために、密かに自慢に思っていた長い髪を切り落とした日のことを思い出す。
それにしても、かつて自分の一部であったはずのものが、一度こうして離れてみれば、こんなにも薄気味悪く冷ややかで、直視するのもおぞましく感じられるのはどうしてか。
そのまま前線へ向かおうとするライアの背に、「嘘です」とか細い泣き声が届く。
「ライア様は優しい人です。私たち、ちゃんと分かっています。ライア様は、いつだって私たちに優しかった。義務感だけであんなに親切にしてくれる人なんていない……」
緩みかけた歩調を速めて、ライアは奥歯を噛みしめた。馬鹿じゃないの、と口の中で吐き捨てた言葉に力がないことは、自分でも分かっている。
拠点は宮殿内でも門から遠い奥に位置している。しかし、防衛は次々に破られ、徐々に押されてきていると報があった。自分ひとりが加わったとて戦況が変わるとも思えない。
(兄さんを見つけて、今すぐこの攻撃をやめさせなきゃ……)
兄を探す算段を立てようと眉根を寄せた瞬間、背後で突如として甲高い悲鳴が上がった。弾かれたように振り返り、ライアは息を飲む。
「カエ!」
叫んで走り出そうとするが、ぎらりと光った金属が見えて足が止まった。
「大人しくしてください」と響いたのは帝国語であった。帝国人の面影の濃い兵が、小柄な侍女に後ろから腕を回して拘束し、喉元に剣の刃を突きつけている。どこから現れたのか、全く分からなかった。しん、と静まりかえった拠点で、束の間誰もが息を止める。
「さて、と……」
次いで、兵の背後の暗闇から姿を現した女を見て、ライアは目を丸くする。
「降伏を要求するわ。無益な殺生は互いに望むところではないでしょう」
飄々とした口調で告げたのは、二人目のフィエル・サハリィであった。思わず声を漏らすと、短い金髪を揺らして彼女の視線がこちらを見る。鬘を外したからか、一瞬戸惑ったように瞬きをして、それから意外そうに目を細めた。
「あら、短髪も似合ってるじゃない。まるであなたのお兄さんみたいよ。よかったわね」
流暢な帝国語は、それが彼女の母語であることを如実に示している。
噛みつくようにアドゥヴァが叫ぶ。
「お前ら、どこから来た!」
「地下ですよ。まさか首長殿ご自身が通路に気づいていなかったのか? とんだ笑いぐさだな」
アドゥヴァの言葉に答えたのはフィエルではなかった。肩を手で払うような仕草をしながら、フィエルに次いで帝国の総督が歩み出る。人を食ったような表情で頬を吊り上げ、額にかかった黒髪を払いのける。
理解に時間は要しなかった。フィエルの身体的特徴が帝国圏のものであることは承知している。サハリィ家の娘、と見え透いた嘘を背負ってここにいる彼女は、帝国の人間である。となれば結論は明白だ。
「フィエル。あなた、帝国とサハリィ家から使わされた間者だったのね」
低い声で問うと、彼女は「正確ではないわ」と肩を竦めた。その立ち居振る舞いはライアの知る、得体の知れない寵姫のものではない。一挙一動が滑らかで、どこか悠然として余裕を見せた優雅な仕草である。
「私を宮殿に送り込んだのはサハリィ家だけ。指令はひとつ」
ゆるりと振り向いて、彼女は何故か硬直したきりのアドゥヴァに目を向けた。彼は微動だにせぬまま、目を剥いてフィエルを凝視している。ぴくり、とフィエルが眉根を寄せた。それから薄らと微笑む。
「アドゥヴァを暗殺せよ、とね」
世間話のように何気ない口調で告げた彼女の手に、剣が握られている。それに気づいた瞬間、全身の毛が逆立つ気がした。暗殺者、と言われて見れば、確かに彼女の纏う雰囲気には殺伐としたものが混じっている。……人殺しを知っている者の眼差しである。
腰に手を当て、彼女はアドゥヴァを一瞥する。
「縄なら持ってきたから、さっさと投降――」
「――エウラリカだな?」
アドゥヴァが脈絡なく呟いた言葉に、ライアは耳を疑った。「エウラリカ」と口の中でその名を繰り返す。
「記憶が戻ったか。そいつのおかげか?」
「カナンは記憶に関して役には立たなかったわよ」
驚いた様子もなく声をかけるアドゥヴァと、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす『フィエル』。両者の姿を睨みつける。
エウラリカ。……エウラリカ・クウェール。続く家名に気づいた瞬間、ライアは慄然として立ち尽くした。剣の柄に、自然と手が吸い寄せられる。
クウェール。クウェール家。
声にならない激情が、一瞬にして全身を貫いた。剣を突きつけられて震えているカエの姿が、いつしか視界から消える。一息で剣を抜き、ライアは『エウラリカ・クウェール』に躍りかかっていた。
難なく弾かれた初撃の勢いを殺さぬままに、ライアはもう一度剣を振りかぶってエウラリカの胸の中央に狙いを定める。カエの首に剣を当てた兵が、「動くな!」と叫ぶ。その声も耳に入らなかった。
耳障りな金属音が甲高く響き、打ったはずなのに何故か通らない剣筋に違和感を覚える。ぬるりと滑るかのような気持ち悪さであった。エウラリカの動きは素早く、何故か剣を薙いだときには狙った位置から半歩ほどずれた位置にいる。攻撃をいなすことに慣れた人間の動きだった。
一度として、真正面から剣を打ち合わせるようなことはなかった。避けて、隙をひたすら窺い続ける双眸が、冷ややかに光っている。まるで別人のようだった。
殺さなくてはいけない。こいつを、自分の手で、始末しなければならない。生かしておけない。……クウェール家の人間など!
「やめろ、ライア!」
アドゥヴァの声がようやく聞こえたのは、恐らく既に何度も同じ言葉が繰り返されたあとだった。宙に縫い止められたかのように、腕が急停止する。我に返ったときに真っ先に目に入ったのは、左肩を赤く染めて啜り泣くカエの姿だった。それが見えていなかった自分自身に、戦慄する。
「……もう一度動いたら、この子の命は保証できません」
改めて見てみれば、カエの後ろにいるのは年若の青年であった。カエを片腕でしっかと拘束したまま、じっとこちらを見据えている。腹の据わった目だった。カエの肩に刻まれた傷に、喉笛を圧されたかのように息が詰まる。
「殺すな。訊きたいことがある」と低い声を出したアドゥヴァに、突沸のごとく頭に血が上る。
「そんな必要ないッ!」
絶叫した声は軋んでいた。剣を握り締めたまま、切っ先でエウラリカを強く指し示す。
「クウェール家の人間と話をすることなんて何もない! こいつらは全員、一人残らず殺してやるんだ、慈悲も容赦も必要ない、――こいつらが私たちに対してそうだったように!」
普段の規律をかなぐり捨てて声を上げるライアを、周囲の兵はもちろん、帝国側の人間も呆気に取られて眺めていた。
「……何のこと?」
エウラリカの唇が戦慄いているのを視界の端に捉えながら、ライアは目尻に浮かんでくる涙を誤魔化すように瞬きをする。息が浅くなり、視界が白く煙る。過呼吸だ。
「しらばっくれないで。知らないなんて言わせない。絶対に……!」
呻いて、一瞬ふらついた剣先を支えるように反対の手を柄に添える。対するエウラリカの蒼白さも動揺を示して、今にも倒れそうに肩で息をしたまま動かない。
「お前に言ったら問答無用で殺そうとするだろうと思ったから、正体を言わなかったんだ」
アドゥヴァがぼそりと漏らした言葉に、ライアは目を剥いて振り返る。「そんな大事なことを、どうして今まで……!」と噛みつく語尾が、鋭い眼光で制された。
この言い方だと、アドゥヴァは以前から、『フィエル・サハリィ』として寵姫の座に納まっていた女が、帝国の王女『エウラリカ・クウェール』だと承知だったのだ。これは明白な裏切りではないのか。詰りかけて、直前で口を噤む。私たちは主従関係ではない、と啖呵を切った声が、口の中に苦く蘇った。
「教えてくれ、エウラリカ」
呟くアドゥヴァの両目は暗く、澱んでいる。冷酷な征服者、圧倒的な力を持って砂漠全土を制圧した勇猛果敢な戦士の姿は既になかった。それはさながら、目的を失って彷徨うばかりの亡霊のような。
ライアの視界に、呆気なく頽れた王の姿が蘇る。直接声をかけられたことこそなかったが、公正で誠実な人だと聞いていた。人格者だった養父が一心に慕う君主であった。
それを、あの男は気楽な調子で殺害したのである。
(エーレフ、)
身震いするような憎しみが湧き上がる。この南方連合を滅茶苦茶にしたアドゥヴァのことは当然憎い。でも、憎むべき相手はそれだけではない。アドゥヴァだけを断罪しても、ナフト=アハールは守れない。南方連合に暮らす人々を守れない。兄を守れない。
だからライアは、兄の意思に背くことを決めた。
安全なところに自分を留めておこうとする兄の思いは、痛いほどに理解できるのだ。
だってそれは、ライアが兄に対して抱いている祈りと、寸分も違わない。
アドゥヴァが呻く。
「――俺はあの日、一体何の片棒を担いだんだ?」
黒幕を白日の下に引きずり出して断罪するまで、クウェール家を絶やすまで、この砂漠に平穏など訪れない。




