奔流、堰切れ、湧水深3
並べられた地図と短剣を前に、ルオニアとセニフは言葉もなく立ち尽くしていた。
「これ、は……」
掠れた声が、衝撃を物語るように立ち消える。ルオニアは口を噤んで目を見張ったまま、愕然と地図を睨みつけた。
「エウラリカは、気づいていたのね」
この地図を自らの手で記しながら、まさか母国の紋章との一致に気づかないはずがない。むしろ、気づいたからこそ図に起こそうと思ったのだろう。鈍い頭痛が襲うようだった。
「……ナフト=アハールを作ったのは始祖王だった。始祖王は、新ドルト帝国の紋章を象って、ラヴァラスタ宮殿を作った……」
直感が、二つを単純に繋げてしまえと叫んでいる。でも、それなら、何故……。
「始祖王が帝国の人なんだったら、どうして、ナフト=アハールは帝国領になっていないの? どうして、南方連合と帝国の間には国交がない? この都が帝国の系譜を継ぐなら、どうして私たちはそれを知らないのかしら」
譫言のように呟く言葉を、セニフが無言で聞いていた。長い沈黙が暗い室内を満たす。ルオニアは額に手を当て、深々と息を吐いた。
「……情報が足りないわ。考えたって分からない……変な憶測をしている場合じゃない」
次々と浮かんでは別の疑問に塗り替えられてゆく問いの数々を振り払う。かぶりを振って、毅然と頭を上げた。
「とにかく今は、この攻撃をいち早く止めさせなきゃ」と努めて平然とした口調で言いながら、ルオニアの足は震えていた。サハリィによる攻撃が終わるとき、それはアドゥヴァを討ち取ったときに他ならない。
私にできるだろうか? 見下ろした両手が所在なさげに揺れている。指先まで血が巡っているのを感じて目を伏せる。この体ひとつに流れている血と、それを守るために命を賭してくれた人々のことを思う。
『あなたが生きているだけで、救われるものがある』
迷いのない口調で囁いたセニフの声が、今でも耳元に聞こえるようだった。生きているだけで。誰に知られずとも、この血を繋いでゆくだけで。
(でも、生きているだけでは、私は納得できないのだ)
だって、私には、今苦しんでいる人を、これから傷を負うかもしれない人を救える力がある。
俯いた頬に、別れとなった夜の風の冷たさが蘇る。
(アディ……)
ねえアディ、大きくなったら結婚しよう。
(そうすれば、あなたとずっと一緒にいられると思ったのだ)
どうして駄目なのか、お前が理解していないから駄目だ。
わたしが分かったら良いの?
それでも駄目だ。
(分かったよ、アディ。私、ようやく分かった)
たとえ血が繋がっていてもいなくても、もしも誰しもが私たちを祝福したとしても、あなたはきっと私を選ばないのだろう。
(わたしが本物で、あなたが偽物である限り)
――あなたが、それを受け入れない限り。
「行こう、セニフ」と呟くと、僅かな躊躇いののちに、「どこへ」と声が返る。ルオニアは短剣の柄を握り締めて、はっきりとした声で告げた。
「アディに振られてくる」
***
飛び火したらしい。火に包まれた退路を前に、ルオニアとセニフは立ち尽くした。
「別の道を探しましょう」
轟音の中で声を張り上げ、セニフが火の薄い方向を指さす。ルオニアは大きく頷いて、そちらに足を向ける。エウラリカの衣装箪笥から拝借してきた大ぶりな上衣を頭から被り、大股で炎を縫って駆けた。
慣れ親しんだ景色が、今はこの有様だ。口惜しさに涙が出そうだ。……どうして、未然に防げなかったんだろう。
「落ち込むのは後にしましょう」とセニフは容赦がなく、半ば引きずられるようにしてルオニアは先を急ぐ。
ようやく火の手を逃れたと思ったときには、ルオニアは既に庭園にまで辿り着いていた。つまり、居住区は端まで火に包まれているということだろう。息を切らしたまま呆然として、背後の火柱を振り返ってへたり込む。口を開いて息を吸うが、煙たさが喉につかえて咳き込んでしまう。
「水でも飲んで落ち着きましょうか、ルオニア様」
燃え上がる宮殿の一角から目が離せないルオニアの肩を揺すって、セニフが大きな声を出す。それで初めて我に返り、ルオニアは顔を上げた。
「水」と口に出して初めて、声が嗄れていることに気づく。小さく頷き、ルオニアは地面に手をついて緩慢に立ち上がった。全身が重い。足が沈み込む砂地の斜面を上がって、庭園の中央に位置する泉へと歩み寄る。広い水面は、ほど近くで繰り広げられている狂乱など露知らぬように静まりかえっていた。
凪いだ水面に明るい月が冴え冴えと映り込む。夜風に時折さざなみが立ち、青白い月の輪郭が滲むように震えては元に戻る。ちゃぷ、と音を立てて波が寄る水際に膝をついて、ルオニアは片手をそっと水に浸した。片手に掬った水に口を付けると、澄んだ冷たさが喉を滑り落ちる。
覗き込んだ鏡面に、自分の顔が写っている。十人並みの、取り立てて特徴もない顔である。エウラリカみたいに整った顔はしていないし、威厳だってなくて、途方に暮れたような表情をしている。何だか弱そうだ。
でも、似ている。それだけで良い。
「……お父さんは、水を招いた王だったのよね」
前触れなく呟くと、セニフは戸惑ったように「はい」と応じた。睨みつける水面の下から、父がこちらを見据えている気がした。
「お父さんだけじゃない。代々ナフタハル家では、即位の頃に『水をもたらした』と伝えられている王がたびたびいて、それが賢王の徴だと言い習わされている」
小さな声で呟くと、セニフはひょいと肩を竦めた。
「皆そういう伝説が好きですからね。僕は信じませんよ、あまり真に受けるようなものでは――」
「――始祖王、従者を伴いて泉に降り立ち、都を拓く。奇跡の水、都に満ちて王の訪れを祝福す」
南方連合で古くから伝わる叙事詩の一説である。顔を上げて広大な水面を見渡して唱えると、セニフが小さく声を漏らした。
「帝国から、従者を伴ってこの地に来た、と?」
「元々ここは自噴井がある土地なのよね。それなら『泉に降り立ち』という言葉も納得がいく」
水際に跪いたまま、ルオニアは眉根を寄せる。
「……始祖王が来てから、ナフト=アハールが栄えたのはどうして?」
呟いた言葉を知ってか知らずか、水面が再び小さく揺れた。
***
戸棚を漁っていたエウラリカが大きなため息をついたのが聞こえた。
「見つからないわ」と吐き捨てる声は苛立ちを含んでおり、念のため絨毯を剥がして床を検めていたカナンも、そろそろ疲弊してきていた。
綺麗に整えられていたアドゥヴァの部屋は、今はさながら物取りが入った後のように荒らされている。あながち間違いでもない。探せそうな場所はもう残っていないようだった。
「地図は、ここにはないんでしょうか」
「そんなはず……アドゥヴァが持っていると思ったのに、」
顎に手を添えて眉をひそめるエウラリカの横顔に焦燥感が滲む。絨毯から手を離すと、重い音を立てて床から埃が上がる。
「……実は、気になることがあるんです」
切り出すと、エウラリカは視線だけをこちらに向けた。カナンは首に手を当てて、逡巡するように目を伏せる。
「アドゥヴァが地下通路の地図を持っているのなら、どうして、アドゥヴァは直接城内に侵入して、攻撃を行わなかったのか」
エウラリカの両目が、束の間不安げに揺れた。「それは」と口を開いて、閉じる。
「俺が言うのも何ですが、あの進入路を知っていれば、帝都を掌握するのは存外に容易い。官僚に裏から手を回させて皇位継承に干渉しようとしたり、わざわざ薬物を製造して流通させるなんて手間をかけたりするくらいなら、城に攻め入って、皇帝をさっさと叩けば良いでしょう。可能だったとも思います」
口を噤んだまま、エウラリカが小さく頷いた。「そうね」と認めて、腹の前で両手が握られる。
「でも、それなら……エーレフは、一体誰に、地図を渡したというの?」
「エーレフが自分で地図を所持している可能性はないのですか」
「ない」
断言に迷いはなかった。エウラリカの視線が、つと遠くを見る。
「地図は『さる方』に渡した。あなたの望みは一生叶わないから、僕のものになってくれないか、と……冗談じゃないわ」
握り締めた拳が白くなっていた。わなわなと震えて怒りを押し殺すエウラリカを眺めながら、カナンは顔も知らないエーレフに思いを馳せた。
(気持ちは、分かる)
私は誰のものにもならない、と繰り返し唱えるエウラリカの姿を思い浮かべる。この大陸で誰よりも恵まれて育ったであろう王女が、時折驚くほど寂しげな顔をして、呆れてしまうくらい些細なことで笑うのだ。そうした姿を見るにつけ、埋めようのない隔たりを感じて恐ろしくなる。
自分と同じ場所まで、引きずり下ろしてやりたくなる。
「地図がここにないなら、全部水の泡だわ」
滅多に気弱な態度を示さないエウラリカの声が、今にも泣き出しそうに揺れていた。咄嗟に『大丈夫』などという無責任な言葉が口をついて出かけて、カナンは唇の端に力を込めた。
「大丈夫」と呟いたのはエウラリカの方だった。唇を噛んで、俯いて、彼女が顔を歪めて沈黙する。
「大丈夫、……それなら、もう一度、初めからやり直すだけ……」
呟く言葉に力はなく、カナンには悄然と肩を落とすエウラリカを見ていることしかできない。
「でも、アドゥヴァがエーレフのことを何か知っているのは間違いないんですよね」
ハルジェルで対面したときのことを思い出して、カナンは腰に手を当てた。はっと息を飲んでエウラリカが顔を上げる。「そうよね」と呟いて、彼女は気を取り直したように明るい表情になって胸の前で拳を握った。
「アドゥヴァが地図を持っている可能性が消えた訳でもないし、最初から直接締め上げて事情を吐かせれば良かったんだわ」
「え?」
ほとんど蛮族のような発言に思わず耳を疑ったが、どうやら聞き間違いではないらしい。エウラリカは胸を張って意気揚々と扉の方へ向かってしまう。カナンは覗き込んでいた引き出しを乱暴に戻すと、大股で背中を追った。
「閣下!」
外へ出たところで声がかけられ、カナンはそちらの方向に目を向ける。帝都から連れてきた兵たちである。何人か減っている。
「負傷した連中は撤退させました。閣下は、お探しのものは見つかりましたか」
「いや……」
エウラリカは見つけたが、彼女の捜し物は未だに見つからないままである。ちらとエウラリカを見やると、視線を追って面々が彼女の方を振り返る。いきなり注目を浴びたエウラリカはたじろいだように目を丸くして、少し遅れて「見つからないわ」と応じた。
穴が空きそうなほどにエウラリカを凝視している帝国兵に、カナンは曖昧に苦笑する。エウラリカが宮殿にいるという情報は伝えてあったが、帝都では死んだとされている王女のことである。この反応も無理はない。ほとんど珍獣を眺めるような素振りであった。
「おい、王女様に何かしたら総督閣下が怒るって言われてただろ」
呆けたようにエウラリカを観察する兵たちの頭を、ベリウスが容赦なく後ろから叩く。声を潜めたつもりらしい大声に、エウラリカとカナンは揃って顔を見合わせる。どういうこと、とでも言いたげな視線を受けて、カナンは苦い表情になった。
「……それも、ノイルズの入れ知恵か?」
「い、いえ、中隊長は関係……」
仕方なく声をかけると、ベリウスをはじめ大勢がぎくりと反応する。「なるほど」とエウラリカが腕を組んで頷いた。合点がいったように苦笑して、横目でこちらを窺う。
「ノイルズって、確かお前の友達よね。もう中隊長にまでなったの? 出世頭じゃない」
エウラリカの目に、懐かしむような光が宿っている。彼女の視界には帝都の光景が浮かんでいるのだろう。目を細めて、エウラリカが歩き出す。当然のように全員が追従してしまうような、自然な動きであった。
「ノイルズ……ノイルズね」
ノイルズの名を反芻しながら、エウラリカの横顔には安堵したような色があった。ふ、と短く吐いた息が柔らかい。
「そういえば、お前のもう一人の友達、……何と言ったかしら」
何の気なしに放たれた言葉に、カナンは己の喉元が引きつるのを感じた。行く手に視線を投げているエウラリカは何も気づかない様子だ。記憶を引っ張り出すように、顎に人差し指を当てて首を傾げている。
「……バーシェル、ですか」
努めて平然とした声で応じると、エウラリカはピンときたように数度頷いた。珍しく嬉しそうな笑顔で、芝居がかった仕草で人差し指を振る。
「そう、あの子はどうしているの? 城外勤務だったわよね。まさか職権乱用して小隊長くらいまで上げさせた? 駄目よ、いくら友達と言ったっ、て……」
言いながらカナンの方を振り返って、エウラリカはまるで石にでも躓いたみたいに足を止めた。目を見張って、凍り付いたようにこちらを見上げるエウラリカの顔を見ながら、カナンはぼんやりと考える。俺は一体、今どんな顔をしているのだろう?
「カナン!」
大きな声で呼びかけられるまで、反応ができなかった。我に返ったとき、目の前のエウラリカは動揺しきった様子で青ざめていた。「どういうこと?」と小さな声で呟く。
「――お前、友人と今も仲が良い訳ではないの?」
その言葉に、先程の彼女が安堵していた理由を悟る。咄嗟に誤魔化そうと口角を上げたが、頬は変に引きつっていた。何も言えないカナンを、兵たちが固唾を飲んで見つめている。
「……帝国人のあいつらと、俺が、こんな関係になって円満だと思いますか」
やっとのことで絞り出した言葉は、そんなつもりはないのに恨み言のように響いた。否、恨み言で間違いない。ずっと心のどこかで、常に思ってきたことだった。
――全部、エウラリカのせいだ。
「カナン、私……」
「はは、そんな顔しないでくださいよ」
苛立ちが胸をよぎり、思わずカナンは声を上げて笑っていた。今更、そんな怯えたような顔をされたって困る。
「あなたは傲岸で傍若無人な、人を人とも思わない人でなしでしょう。そんな、どこにでもいる普通の女みたいな顔をしないでください」
一度口に出してしまえば、言葉はまるで堰を切ったかのように止まらなかった。エウラリカは目をいっぱいに見開いたまま動かない。
「あんたが、俺を捨てたんですよ。忘れた訳じゃないでしょう」
言葉はまるで泥を吐くようだった。水底の泥のように重く、澱んで、形を持たない。
「でも別にそれをとやかく言う気はありませんよ。俺は、あなたの為なら何でもする覚悟はできているんです。あなたが望んだから帝都だって落としましたし、今あなたが望むなら、あなたのために、この都をもっと完膚なきまでに破壊したって良い」
アニナを連れて来なかったのは当然の判断だが、失策だったかも知れない。制止してくれる人がいない。頭の隅の冷静な一部が呟くが、言葉はなおも口をついて出続ける。
「俺なら、あなたの気持ちを理解してやることができる。あなただけが、俺を分かってくれる……」
暴力的な衝動が突き上げるのを押し殺して、カナンは歪な笑みでエウラリカを見据えた。
「あなたは、俺の、主人でしょう。今更自分だけ逃げるなんて許さない」
さあ、とエウラリカを促して再び歩き出しながら、カナンは眼差しに険が混じるのを自覚する。それをエウラリカに向けないだけの自制はできなかった。きつく睨まれて、びくりとエウラリカが身体を揺らす。
「あ……」
幼い子どものように、途方に暮れた表情で彼女は声を漏らした。動こうとしない彼女の腕を強く掴んで、片手で引き寄せた。エウラリカがどんな顔をしているか見たくなくて、前を見たまま強引に歩き出す。
人気のない宮殿は、まるで市街の静かな夜道のようだ。物々しい足音の中に、つんのめるエウラリカの不規則な歩調が混じる。
「バーシェルは死にました。俺が殺しました。帝都の掌握のためには仕方がなかった」
平坦な声で呟いて、カナンは口の端を歪めたまま低く吐き捨てた。
「何を悲しむことがありますか。――全部あんたの筋書き通りにやったんですよ」




