奔流、堰切れ、湧水深2
(そういえば、あそこに、誰かいたような……)
来た道を振り返りながら、カナンはつと動きを止めた。暗がりで背格好は分からなかったが、戦闘に加わらずに様子を見ていた男がいたように思う。一体誰が、と目を凝らした直後、「行くわよ」とエウラリカが囁いた。その言葉に頷いて、カナンは物陰から視線を外す。
「閣下、今のうちに!」
サハリィ家の兵に一挙に加勢した帝国兵たちが、行く手を阻む衛兵を蹴散らして道を切り開く。かけられた声に頷いて、カナンはエウラリカの腕を緩く掴んだ。
「俺たちも後から行きます! ――何が何だか分からねぇけど、あんたは、帝国を守ってくれるんだろ!?」
ベリウスが一瞬だけこちらを振り向いて、大きく目を見開いて力強く微笑む。信頼に満ちた言葉に真っ直ぐ視線を返し、「ああ」と応じる。傍らのエウラリカは、ふと驚くほど澄んだ眼差しでこちらを見上げた。
「お前、」
もの言いたげに、その唇が薄く開く。横目で窺った彼女は、以前よりむしろ幼いような表情をしていた。
混乱した広場を抜けて、やにわに静かになった通路を早足に駆ける。隣をゆく人を恐る恐る盗み見ると、視線を敏感に感じ取ったエウラリカが顔を上げる。
記憶の中にあるものと、ほとんど変わらぬ顔をしていた。日焼けした。少し痩せただろうか? 再会に際して何か儀礼的な言葉を口にしようとしたが、適当な文言が思い浮かばない。
カナンの懊悩に気づかないふりで、エウラリカが平然とした口調で切り出す。
「お前、よくこの場所が分かったわね」
面白がるように目を細めたエウラリカを眺めて、カナンは一拍遅れて苦笑した。どう切り出そうと考えていた自分が馬鹿みたいだ。敵わないな、と息をつく。……これで良い。
「簡単な推測ですよ」と眉を上げて、カナンは前方を見やる。この数年で、早足で歩く癖がついてしまったらしい。意識して歩調を緩めながら、諸々の記憶を反芻した。
「ひとつは、あなたがジェスタ侵攻をウォルテールに命じたこと」
エウラリカは相槌ひとつ打たずに黙って歩き続けている。瞬く間に攻め落とされた祖国を思いながら、カナンは目を伏せた。
「放っておけばラダームの軍によってじきに陥落していたであろうジェスタに、わざわざウォルテールを向かわせた目的は、ジェスタの王都にある大きな図書館あるいは資料館――『大陸中央書庫』の保護、ですね。ジェスタが帝国の属国となれば、蔵書はあなたの思いのままでしょう」
無言で瞬きをしながら、エウラリカがこちらを一瞥する。否定の言葉は出なかった。
「それでは、あなたが何を欲して大陸中央書庫に手を伸ばしたのか。一度だけ教えてくれましたね」
長い睫毛が上下する。エウラリカは顎をもたげてカナンを注視していた。その視線を受け止めながら、カナンは低めた声で告げる。
「――帝都の下に広がる、地下通路の地図」
ややあって、「ええ」と声が返ってきた。覚悟を決めたように唇を引き結んで、エウラリカが続きを促すように首を傾げる。カナンは一度目を閉じると、細く息を吸った。
「ふたつ目は、あなたが地図の入手を『エーレフ』という人間に任せたこと」
その名を告げた瞬間に、エウラリカの表情に痛切なものが混じる。眉根を寄せて視線を落とす彼女を、じっと眺め下ろした。
「あなたはエーレフに対して、ジェスタへ行って地図を手に入れ、自分のところに持ってくるように命じた。けれどエーレフはそうしなかった。エーレフはあなたを裏切り、恐らく別の誰かのもとに地図を持って行った」
苦しげに俯いたまま、エウラリカは沈黙している。
「だからあなたは、エーレフを殺した。俺が帝都に入り、初めてあなたに会った、あの日にだ」
裸足で現れたエウラリカの姿が蘇る。『お前にもっと早く出会えていたら、何かが変わっていたのかしら』。睦言めいた囁きの裏に、見たこともないエーレフの面影が浮かび上がった。
彼女の行動の端々に纏わり付くエーレフの気配を、見ないようにして目を閉じる。そいつは、あなたにとって、そんなに大事な人間か。吐き捨てたい言葉を飲み込んで、長い息を吐く。
分かっている。彼女はずっと忘れないに違いない。エーレフに限った話ではない。……エウラリカはそういう人だ。
「大陸中央書庫から地図が持ち出されたのは間違いありません。閉架となっている古地図の棚から、蔵書が消えているそうです。行方不明になった時期を推測すると、どうやら帝国によるジェスタ陥落の頃らしい。……帝都の古い地図だと聞きました」
初耳だったらしい。エウラリカは心持ち視線を上げた。「ジェスタにはないのね」と頷いて、顎に手を添える。道中はなおも暗く、行く手に人の気配はない。
「それでは地図は誰の手に渡ったのか。……『傾国の乙女』あるいはトルトセアの取引、使用に利用されたのが、帝都の地下通路だった。イリージオも関わっていたこの勢力は、帝都を内側から掌握しようとするルージェンらの一派とも地続きでしたね。だからあなたは、一連の事件の糸を引く者が、地図を持つと考えた。すなわち、それが、エーレフが寝返った相手です」
エウラリカの歩幅が小さくなり、やがてあるところで足が止まる。カナンも追従して立ち止まり、体ごと向き直ってエウラリカを見た。
「傾国の乙女の製造および流通に関わっていたのはハルジェル領。そのハルジェル領の背後にいたのが、アドゥヴァだった。だからあなたはここに来た」
エウラリカは薄らと口角を上げてカナンを見上げたまま、しばらく沈黙していた。
「……まさか、その道中で、あんな状態になるとは思ってなかったけど」
口元に浮かんでいるのは、恐らく自嘲である。まるで別人のように変わり果てていた彼女を思い出す。カナンはかける言葉に迷って口を噤んだ。
「これまでのことを整理して考えれば、あなたが常に帝国地下通路の地図を追い求めていることが分かります。ならば、ナフト=アハールのどこを探すか。南方連合による帝都侵略は表沙汰になっていない。公的な書庫に収められていることはないでしょう」
カナンは足を止めた建物に視線を向ける。近辺に明かりはなく、部屋の主の不在は明らかだった。
「――探すべきは、アドゥヴァの部屋だ。だからあなたは、こちらに向かっていると思いました」
言いながら、扉に手をかける。取っ手を掴んで力を込めれば、どうやら鍵がかかっているらしい。すぐさまエウラリカが外壁を回り込むように動き出した。入れそうな窓を探して角を曲がり、慣れた手つきで窓枠を掴んで揺する。悪びれる様子もない姿を見て、改めて彼女が戻ってきたことを実感した。
***
難なく建物内に侵入して、カナンは部屋の中を見回す。
「ここ、か……?」
部屋に明かりはなく、物音はしない。広々とした部屋を大股で横切るが、絨毯が足音をかき消した。
「何だか、物の少ない部屋ね」
窓枠に手をついてよじ登ってきたエウラリカが呟く。その言葉に頷いて、カナンは腰に手を当てた。首長の部屋にしては、簡素すぎる。調度品の類は全くと言って良いほどなく、がらんと空間が広がる様は、どこかもの悲しさを感じさせた。
「この辺りは何もなさそうだわ」とエウラリカはいつの間にか本棚の前に立って、納められていた書物を次々と引っ張り出しては散らかしている。文字列に目を走らせている横顔を眺めながら、カナンはつと思い出して口を開いた。
「……こちらの言語は、音も文字も、帝国語と酷似していますね」
呟いた言葉に、エウラリカがゆるりと顔を上げる。柔らかい毛先を揺らして、彼女は「ええ」と囁く。
帝国語に親しんだ者ならば、ナフト=アハールの言葉は決して難しくない。現に、カナンやアニナは難なくこちらの言語を習得したし、逆もそうだ。セニフもライアも、アドゥヴァも、サハリィ家当主も当然のように帝国語を話せる。言語体系が近いのだ。
「距離で言えば、ナフト=アハールと帝都は、帝都とジェスタよりも余程遠い。けれど、ジェスタ語を母語にしていた身からすると、帝国語の習得の方が段違いに苦労しました。読み書きはまだしも、音声でのやり取りなら、帝国内の訛りと相違は同程度だ」
開いていた本を閉じる音が、ぱたりと大きく響いた。本棚の前に立ったまま、エウラリカは体ごとこちらを振り返り、拳を強く握る。
エウラリカが持つ本の題名は読める。どうやら近年の陳情やそれに類する報告をまとめた文書らしい。一拍遅れた程度で、理解は実に滑らかだった。見知らぬはずの言葉が容易く思考に滑り込んでくる。それが気味悪くて、カナンは密かに身震いした。
「これだけの距離がありながら、帝都と南方連合で言葉が偶然、ここまで似通うものですか」
問いかけの体を取りながら、エウラリカに投げた言葉は明確な否定を含んだ確信であった。目を合わせたまま、彼女が浅く頷く。
「――それを、私も知りたいの」
決然とした眼差しで、エウラリカは告げた。握り締めた拳が体の脇で震えている。
「私は全てを明らかにしてみせる。全部、証明してやるって決めたのよ。私が終わらせる。自分の手で終わらせるの。……その為なら、何だってやってやる。すべて私が負う。そのために、私は今、ここにいる」
謎めいた決意を口にしながら、暗く冷ややかな部屋の中で、青い瞳が爛々と光っていた。顎を引いて、エウラリカはカナンを真正面から見据えている。
「私は、新ドルト帝国を滅ぼすわよ」
挑むような強い声音で、エウラリカが言い放った。決して大きな声ではないのに、彼女の一言は重々しく落ちた。カナンは無言でエウラリカを見据える。
「……その言葉を、額面通りに受け取るなら、俺は『応』とは言えません」
呻くように答えると、エウラリカが微笑んだ。満足げな笑みだった。「やっぱり、お前を選んで良かった」と目を閉じる。窓辺に立つ彼女の頬に、ひんやりと青白い月光が射して目元に影を落とす。
「だから、教えてください。あなたが知っていることを全部。あなたの全てを」
エウラリカに向かって手を差し伸べる、指先が震えていた。宙に浮いた片手が、滑稽に行き場を失う。彼女は閉じた本を胸に抱え、反対の手をだらりと力なく体の脇に下げたまま動かない。
「私は……」
伏せられた睫毛の先に月明かりが宿る。緩慢な動きで瞼をもたげて、エウラリカがどこか遠くを望むように虚空を見やった。
「……私は、助けたい人がいるの」
茫洋とした眼差しで佇む彼女を眺めながら、カナンは静かなやるせなさを噛みしめた。エウラリカは『助けたい人』とやらの正体を明かさなかったが、自分は恐らく、それを知っている。
彼女が唯一愛している人間が、自分ではないことを知っている。




