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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
灼ける砂国と伏流の矛先【後編】

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奔流、堰切れ、湧水深1



「え? サハリィ家は王位を簒奪する気がないの?」

「当主に限って言えば、私怨が主な理由だと思います。もちろんそれだけで動く御仁ではありませんが」

 あっさりと言ってのけたセニフに、ルオニアは呆気に取られて瞬きをする。私怨だって?


 セニフは軽く頷いて、「元はと言えば」と口を開いた。

「私が、ル――どちらで呼べば?」

「どっちでも良いけど、他人に聞かれる恐れがあるから『ルオニア』で」

 もちろん二つの名前の両方が自分である。名乗ってきた期間はどちらの方が長いか分からないが、片方は生来の名だし、片方は父が直接授けてくれた名だ。両方に思い入れもあるが、この場ではルオニアの方が安全だろう。端的に答えると、セニフが続ける。


「アドゥヴァが首長となって以来、南方連合の治安や氏族同士の均衡が非常に乱れている。それを憂慮したサハリィ家とともに、ルオニア様を見つけ次第、あなたを旗頭にしてナフト=アハール襲撃を決行する計画でした。しかし南方連合中を探し回っても一向に見つからずに混迷していたところで、総督閣下からの指示で今夜の実行に至ったわけで」

「カナンの指示? 帝国は関係ないじゃない」

 ルオニアは思わず眉をひそめた。そういえば、先程エウラリカの部屋に来たときも同じことを言っていた。『総督閣下の命でお迎えに上がりました』と。


 怪訝に腕を組んだルオニアに対して、「いいえ」と頭を振ったセニフの顔は真剣そのものだった。

「ひとつが、アドゥヴァによる帝国侵略です」

「それは聞いたわ。アドゥヴァと……そうだ、セニフが帝国を侵略しようとしてたって! あなた、まさか」

「僕じゃありません」

 目を剥いて指を指すと、セニフが即座に否定する。「違う」と呻いて、項垂れる。


「……ライア、です」

 その声はまるで血でも吐くように苦しげだった。ルオニアは目を丸くして息を詰める。

 セニフと名乗って宮殿内を闊歩する人物の正体は、ライアである。先程、セニフを偽物だと断じた自らの推論が急に意味を持って目の前に立ち現れる。セニフと思われていた人間がライアだったと聞かされて、それを頭ごなしに否定する気にはなれなかった。


「ライアが、セニフとして動くことは以前からあったのね?」

「元々は、僕が宮殿を離れる際に、不在を悟られぬようにするための措置でした。逆に言えば、宮殿の外でセニフとして振る舞うことを、僕は認めていない。勝手に『セニフ』を名乗ってアドゥヴァとともに帝国の侵略を目論むのは、ナフト=アハール、ひいては南方連合への反逆に他なりません」

 苦渋を滲ませたのも束の間、セニフの顔からは感情が切り離され、平坦で冷然とした態度が彼を覆う。けれど双眸だけが、切なげに揺れていた。


「総督閣下には、帝国による過度な報復行為は行わないというお言葉を頂きました。しかしこちらとしても、帝国侵略に関わった人間を捕らえ、処罰しないことには、落とし前をつけられないでしょう。――ライアも同様です」

 肉親だからといって、見逃すことはできない。硬い声で言い放って、セニフが拳を握る。指の節が、血の気を失って白くなっていた。ルオニアは呆然とライアの姿を思い浮かべる。ときどき酷く疲れた顔をして笑う、厳格な女である。


 そんなはずない、と内心で呟いていた。南方連合への謀反、という言葉は、彼女から最もかけ離れたものだ。

 綺麗な都でしょう――ナフト=アハールの姿を望みながら、ライアが誇らしげに目を細める。塔の上で風に吹かれながら、心底嬉しそうに。

 咄嗟に、そのことを伝えようと顔を上げた。しかし、セニフの表情を見た瞬間に言葉が潰える。……私が言わなくたって、そんなこと、彼は百も承知のはずだ。その上での、決断なのだ。



 避難してきた寵姫や侍女たちが多く集う回廊から距離を取って、火の手の届かない居住区の片隅で顔を突き合わせる。他に人の気配はなかった。

「要するに、カナンがきっかけで今の攻撃が行われている訳で、サハリィが王位に即く可能性は心配しなくても良いってことね?」

「そうですね。帝国側も、内部で未だに勢力争いが収まらない段階で南方連合を侵略する意思はないということです」

 その言葉に、ルオニアは思わず胸を撫で下ろした。ひとまずは、現在の騒動が外に波及する心配はしなくて良さそうだ。


「……それなら、目下のところは、」

 呟くと、セニフと間近で視線が重なる。

「アドゥヴァを討ち、この攻撃をいち早く終わらせることです」

 頷き合って、ルオニアは大きく息を吸った。



 ***


 アドゥヴァを討つと言ったって、ルオニアは武術も剣術も全くの門外漢である。セニフは仰々しい剣を提げているから戦えるのかと思いきや、ただの飾りらしい。

「とりあえず、何か身を守るものは欲しいわよね」

 宮殿に刃物を持ち込むことは禁じられている。辛うじて台所の包丁を思い浮かべたところで、ルオニアはぽんと手を打った。そういえば、エウラリカの部屋に、短剣があった。

「エウラリカの短剣を拝借することにするわ」とセニフを振り返ると、彼は目を丸くしていた。耳を疑うように瞬きをして、「何ですって?」と聞き返す。


「そういえば、先程も……。エウラリカ様のことをご存知なのですか?」

 他に誰も聞く者もいないのに、声を潜めてセニフがこちらを窺う。ルオニアは目をぱちくりさせながら「ご存知も何も」と首を傾げた。

「あ、もしかして知らない? あの子の記憶が戻ったときに、教えてくれたのよ。あの子、エウラリカっていうんだってね」

「いえ、そうではなく……」

 首を横に振りながら、セニフは逡巡するように口を開閉させた。一目を憚るみたいに左右へ視線を走らせて、「ひとまず、部屋へ行きましょう」と口を噤む。わざとらしいほど、『訳あり』のご様子である。



 煙に巻かれたような気分でせっつかれ、部屋への道を急ぐ。既に避難は済んだ後のようで、通路や建物内に人の気配はない。顔を上げれば立ち並ぶ屋根の向こうに火が見えるが、この辺りは煙が薄らと漂ってくるのみである。

 居室の扉を開ければ、部屋の中はしんと静まりかえっていた。この部屋の窓から、マーリヤが侵入してきたときのことを思い出す。抜き身の刃物を手に、窓の近くに立っていたエウラリカの首をひと思いに掻こうとしていた。ふるりと体が震える。

(マーリヤ様、どうして……)

 暗澹たる感情を抱えながら、ルオニアは居室を横切ってエウラリカの寝室へ向かった。セニフが後ろをついてくる。彼ももの言いたげな視線を部屋の中央に向けながら、何も言わずに息をついていた。


 寝室に入り、そこでまたため息を漏らす。下腹に一瞬だけ掌を当てて、項垂れた。

(アディがナフタハルの血を引かないのならば、私とアディに、血縁関係はない)

 ……だから、許されるというものでもない。


「それで、短剣というのは?」

 セニフの声に我に返って、ルオニアは気を取り直して顔を上げた。

「棚の中にあったの。こっそり持ち込んだみたい」と戸棚に近寄って、エウラリカがしまい込んでいた箱を抱えて引っ張り出す。四角い籠の蓋を開けると、中には見覚えのある小物や衣裳が納められていた。容赦なく中身を取り出して中身を検めれば、果たして短剣は底にあった。

 息巻いて短剣の柄を掴んで取り上げると、別の装飾品が鞘の先に引っかかっていたらしい。しゃらりと音を立てたそれは、小ぶりな輪と細い棒の飾りが連なった、金属製の……


「……腕輪?」

 呟いて、ルオニアは発掘品を指先で摘まんで目の高さまで持ち上げた。セニフも膝をつき、腕輪をしげしげと眺めている。窓から射し込んできた月明かりがちょうど手元を照らして、腕輪がきらりと光る。ほんの少しの身じろぎのたびに、涼やかな音を立てては揺れる。顎に手を当てて、セニフが目を眇めた。

「これ、総督閣下も同じものを持っていました。腕ではなくて、帯に通していましたが」

「カナンとお揃いってこと?」


 顔を見合わせて、ルオニアは目を丸くする。再び腕輪に視線を戻し、決して新品には見えないそれを矯めつ眇めつして眺め回した。装飾の一つ、細長い棒の一つに目が留まる。他は皆、真っ直ぐな直線をしているのに、一つだけ妙な凹凸があるのだ。偶然できたものではない、人為的に施された細工に見える。


 鍵、と単語が胸に浮かぶ。……一体、何の?

 人目を避けるように紛れ込んでいる一本に気づいた瞬間に、腕輪が変に秘め事めいたものに思えた。少し躊躇ってから、腕輪をそっと籠の底に戻す。短剣だけを腹の前で握り締めた。


「そもそも、エウラリカとカナンって、どういう関係なのかしら。帝国の総督と近しいってことは、エウラリカもそれなりの地位にいるってことでしょう?」

 呟くと、セニフの視線が頬に突き刺さるのを感じる。振り返れば、彼は真剣な表情でこちらを見つめていた。どこか遠くに思いを馳せるような目をして、それからゆっくりと、息を吸う。


「エウラリカ・クウェール。二年前に病死したとされている、新ドルト帝国の第一王女です」


 それが、今回の攻撃に帝国が加わっているもう一つの理由だ、と。

 滑らかな声音で放たれた言葉に、ルオニアは一瞬、完全に動きを止めた。え、と声が漏れる。瞬きを三度。セニフが冗談めかして笑う気配はない。王女、と口の中で単語を転がした。

(クウェール、)

 その名は、確か、帝国を統べる王家の――。


「エウラリカも、王女だったの」

 呟いた声が遠く聞こえた。脳の中心が痺れたような感覚だった。彼女が出自を黙っていたことに対する怒りは湧かなかったし、正体を聞かされたからといって急激に彼女を身近に感じるわけでもない。

 純粋な驚きのあとに訪れたのは、胸の内に灯るような、ほのかな喜びであった。一人ではない、と思ってしまったのだ。


(エウラリカも王女なんだ)

 胸の内でそう唱えた直後に、すぐさま次の疑問が浮上する。どうして帝国の王女ともあろう人間が、病死したと偽りの情報を流された上で、こんな土地に流れ着いたのか。不可解さに気づいた瞬間、握り締める短剣が、不意にずしりと重みを増したような気がした。


 俯いた拍子に、胸の前に抱えた短剣が目に入る。鍔に彫られた紋様を、無意識のうちに親指で撫でていた。


 月を抱く太陽。二重の円から放射状に放たれる光線の意匠。

 それらを支えるように囲む二本の蔦。月と太陽の下で二本は混じり合い、ひとつになる。


 短剣の持ち主を考えれば、この紋様が何を意味するのかは自ずと知れた。……これは、帝国の紋様だ。

 ルオニアが今まで一度として訪れたことも見たこともない、はるか彼方に位置する国家の象徴である。それなのに、何故か、帝国の紋様に既視感を覚えて仕方がない。はたり、と瞬きをする。耳にかけていた髪が音もなく滑り落ちて、視界を縁取る。

 太陽と、月。そんなモチーフを、私は知らない。そんな印で表されるものを、私は知らない。ならば、この強烈な違和感は、何だ。


 不意に黙り込んだルオニアを、セニフが気遣わしげに覗き込む。ルオニアは短剣を目の高さに掲げ、紋様を凝視する。やはり見覚えがある。内心で確かめるように呟く。私は、この紋様を、どこかで見たことがある……!

「……ルオニア様?」

 セニフの声も耳に入らなかった。知らず知らずのうちに、息が浅くなっていた。胸を上下させて、ルオニアは大きく目を見開いたままエウラリカの短剣を睨みつける。紋様を分解し、直線と曲線で表された図形として眺める。



 二重の円。放射状の直線。蔦。円の辺縁に沿う、一対の曲線。円の側で混じり合い、うねりながら下方へ向けて垂れてゆく。



『上手じゃない』と、感心したような自分の声が脳裏をよぎる。何故そんな言葉が咄嗟に蘇ったのか分からない。記憶を浚う。短剣を握る手に汗をかいていた。喉元まで何かが出ようとしている。

『これ……ラヴァラスタ宮殿?』

 そうね、とエウラリカが意味深な表情で頷く。つい数時間前の記憶が鮮烈に閃いて、ルオニアは考えるより早く立ち上がっていた。セニフがぎょっとしたようにたたらを踏むが、声をかける余裕もなかった。


 しがみつくように机へ飛びつき、ルオニアは引き出しを一息で抜き出した。乱暴な扱いに、机が抗議するように軋む。中に納められていた紙束を抱えて天板の上へ広げる。瞬間、は、と吐息が漏れた。怪訝な表情で近づいてきたセニフが、肩越しに机を覗き込んで息を飲む。

 自分の目が信じられなかった。



 ――果たして、そこにあったのは、エウラリカが描いたラヴァラスタ宮殿の鳥瞰図である。

 回廊の二重円、そこから放射状に各棟へ繋がってゆく通路。通路の下を通りながら、回廊に沿って敷かれた石畳の主通路。主通路は一箇所で交わり、宮殿の表へ向けて続いてゆく。


「これ、」

 ルオニアは肩で息をしながら、愕然として地図を眺め下ろしていた。どうして気づかなかったのだろう。震える手で短剣を持ち上げ、そっと地図の横に置く。


 描かれた二つの紋様は、偶然とは決して思えないほどに酷似していた。



 ***


「エウラリカ様を探さなければ……」

 彼は、狂乱に叩き落とされた宮殿の中をゆったりと闊歩していた。サハリィ家が抱える多くの兵がなだれ込むのに紛れて、方々で剣を交わらせる戦士たちを尻目に、ある人影を探す。

(エウラリカ様、)

 内心でその名を何度も呟きながら視線を走らせるが、愛すべき姫君の姿は見当たらない。回廊に大勢が避難していることに気づいてそちらにも足を運んだが、彼女はどこにもいなかった。寝間着姿のまま裸足で逃げてきた女たちが、不安げな顔をして身を寄せ合っている。その姿の中に、彼女の輝かしい面影はない。


 なるほど、これは打つ手がない。彼は腕を組んで首を傾げた。彼女が行きそうな場所と言ったらどこだろう? とんと想像がつかないのが現状であった。


 仕方がない、と嘆息して、彼はあてどもなく宮殿の暗がりに足を向けた。



 激しく交戦する兵たちの姿が目に入って、彼は歩調を緩める。参ったな、と口の中で呟く。目の前で叫び交わされている言語とは違う、帝国語である。大変熱心な教師に懇切丁寧に教えて頂いた、正統で綺麗な帝国語であった。それでも時々、舌に馴染んだ言葉がついつい口をついてしまうことがある。


「エウラリカ様はどこにいるか……」

 腰に手を当てて息を吐く。高いところから探すか、と近隣の建物を見回すが、すぐに諦める。真夜中の宮殿で、上から地面を見下ろして人捜しをしようなど、正気の沙汰ではない。



 眼前では煌々と火が焚かれた広場で、攻め入ろうとするサハリィ家の軍勢と、それを阻む衛兵たちとがせめぎ合っていた。夜風に揺れる炎に照らされて、彼らの影が怪しく地面にたなびいている。その様子を冷然と眺めて、彼は鼻を鳴らした。彼女がいないのなら、ここに用はない。

 そう思って踵を返した直後、背後で、咎めるような大声が聞こえた。

「そこの女! 何をしている!」

 戦闘で気が昂ぶった男の声であった。彼ははっと息を飲んで足を止める。暗がりに身を潜めた彼に気づく者は誰もいない。彼が大きく目を見開いていることにも。


「――放しなさい、この下郎が!」


 殊更に高慢に作られた声が、高らかに放たれる。その声は、まるで、炎と血に彩られた戦場の中で、一陣の風が吹き抜けたかのごとく響いた。狙い澄まして、一度、丁寧に鐘を打ち鳴らしたみたいに。

「……ちょうど良かったわ。お前、案内なさい。アドゥヴァ様の部屋に保管してあるという、武器庫の鍵が必要だそうなの」

 鼻持ちならない言葉遣いだった。事態を理解していない、思い上がった令嬢のように聞こえる。板についた演技だ。しかしこの場面では、あまりに苦しすぎる。苦しい嘘をついてまで、この地点を突破しようとする女がいるのである。


 声の主を確認しようと、振り返る。まるで昼間のように明るい広場を目に映した瞬間、一点に視線が急激に吸い寄せられる。

 衛兵に腕を掴まれたまま、彼女はゆっくりと目を眇めた。肩口で切り揃えられた金髪が、赤い炎に照らされて不思議な色彩を帯びる。つんと顎を上げ、彼女は衛兵を睥睨して吐き捨てた。

「早くしなさい。私の言うことが聞けないの!?」


 その横顔を見据えたまま、彼は大きく息を吸った。胸を膨らませて、泣き出してしまいそうに唇がわななく。彼女の名を呼ぼうとして、息が詰まる。無理もないと思った。だって――


 ――最後に彼女の姿を間近で見たのは、もう六年以上も前のことなのだ。



 戦地へ丸腰で飛び込んできた彼女のことを、衛兵は信用しなかった。乱暴に突き飛ばされて、彼女の小さな体が軽々と吹き飛ばされる。大きくよろめいて、尻餅をつきそうになる。

 火花が散るような剣戟が至るところで繰り広げられている。泳ぐように空を切った彼女の手が、大きく横薙ぎに振るわれた剣を掠めた。手の甲を薄く切り裂いた剣先から、僅かな鮮血がぱっと散る。彼女目掛けて、血の上った衛兵の剣が振り下ろされようとする。


(今のは危ない)

 地面から引き剥がすように足を動かす。彼は、光の当たらない物陰から踏み出そうとしながら、彼女に向けて手を伸ばした。赤々と灯された松明の炎を背景に、彼女の手が鮮明に浮かび上がる。明確な輪郭を伴った、その手に向かって、腕を伸ばす。

 細い手を掴んで引き寄せる瞬間のことを夢想した。自分の名を呼んで、嬉しそうにこちらを見て、『来てくれてありがとう、助かったわ』と目を潤ませる姿が思い浮かぶ、


 俺の姫様。愚かで可愛らしい、哀れな女の子。

(どうせ叶わぬ望みなど捨てて、俺のところへ落ちてこい)

 あな愛おしや――エウラリカ・クウェール!





「エウラリカ様ッ!」


 刹那、手を伸ばした彼の真横を、風のように駆け抜けた影があった。剣を抜き放つ音が、騒乱のさなかにある戦場において、水際立って涼やかに空を切る。後頭でひとつに結った黒髪が、優美な弧を描く。


 躊躇いひとつなく戦地へ飛び込んでゆく後ろ姿を、彼は呆然と見つめていた。


 エウラリカの腕を掴んで、青年が彼女の体を強く引き寄せる。今まさに振り下ろされんとしている刃を弾き飛ばし、そのままの勢いで衛兵の腹に容赦のない蹴りを入れる。衛兵が仰け反る。外套を翻して、視界を覆うようにエウラリカを胸元に抱き寄せて、青年の剣が防具の隙間を突いて衛兵の喉笛を切り裂いた。音もなく赤黒い血が噴き出す。


 衛兵がどうと倒れた衝撃が、地面を揺らすようだった。

「……やっぱり、この辺りにいると思いましたよ」

 荒い息をつきながら、青年が低い声で囁く。その顔を見上げて、外套に巻き込まれたエウラリカが目を疑うように瞬きをする。それも束の間、彼女はまるで少女のように明るい声を上げて笑った。


「――カナン!」


 呼ばれて、青年が笑う。歯を見せて、好戦的に目を細めて、よく似た笑顔で二人が顔を見合わせる。一対の横顔が、まるで絵画のように浮かび上がる。

「俺が、二度も同じ手に引っかかると思いましたか」

「一度引っかかったお前だから、分かると思ったのよ」

 それだけ言い交わせば十分だというように、二人は行く手を阻む衛兵たちの群れへ同時に向き直った。


「突破するわよ」

「仰せのままに」

 小ぶりな片手剣を受け取って、エウラリカが昂然と額を上げる。水を得た魚のように、凜と背筋が伸びる。一本芯が通った後ろ姿を眺めながら、彼は物陰でなす術なく立ち尽くしていた。




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― 新着の感想 ―
[一言] エウラリカもルオニアもだけど、カナンも王族ではあるんだよねぇ(今更)…エウラリカのペットとして居着いてそこから提督になってるので、なんかもう、王族というより提督だけど。 ともあれ、再会。 …
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