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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
灼ける砂国と伏流の矛先【後編】

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地平にて奮う



「全員、回廊のところまで避難しなさい!」

 ライアや、彼女に近しい侍女たちが幾度となく叫んでいた。寵姫や侍女たちが、寝間着の裾を翻して走ってゆく。その光景は、犬に追い立てられる羊の群れを思い出させた。もう真夜中だというのに、宮殿は悲鳴と動揺に揺れている。


 視界の隅を、光が横切る。はっと息を飲んで振り返り、目を凝らせば、赤い光が次々と降り注いでいた。「火矢だわ」とエウラリカが呟く。ルオニアは思わずその場に立ち止まった。エウラリカも同じく足を止め、「どうしたの」と険しい声を出す。皆が同じ方向に向かって走る中、動かないルオニアの肩に、次々と女たちがぶつかってはすれ違う。たたらを踏みながら、ルオニアは汗が額を伝い落ちるのを感じていた。


「一体、どうして……」

 掠れた声で、火矢が絶え間なく落ちてゆく地点を見透かす。

「どうして、こんなことができるの……?」

 ラヴァラスタ宮殿は高い塀で囲まれており、寵姫たちの居住空間は、位の低い者ほど辺縁に位置する。中央にある回廊へ向かう背中に、甲高い悲鳴が突き刺さる。逃げ遅れた者たちがいるのだ。火は徐々に大きくなり、夜空の一端に浮かび上がる明かりの大きさは、炎が建物に燃え移っていることを如実に示していた。


「……怪我した人がいるかも」

 そう呟いて、ルオニアはくるりと体を反転させた。「ルオニア!」とエウラリカが叱りつけるように叫ぶ。

「駄目! 行ってもどうせ何もできないわ、無駄よ!」

 かぶりを振るエウラリカの声を無視して、ルオニアは人混みを掻き分けるように流れに逆らい始めた。いつしかエウラリカの声は聞こえなくなっていた。彼女はきっと、きちんと避難したのだろう。

 そういう、正しい判断をできる人だと思っている。



 ***


 倒れた扉の下敷きになっていた下女を引っ張り出し、近くにいた寵姫に声をかけて押しつける。この非常事態である、素直に肩を支え合った二人が、回廊の方向へと逃げてゆく。

「誰か逃げ遅れた人はいませんか!」

 火矢の数はまばらになってきていた。左右に立ち並ぶ家屋は、いずれも屋根を突き崩され、あるいは家財に火がつき、木造のものはまるごと炎に包まれて近づくこともできない。


「痛い……痛いよ、もう歩けない……!」

 足に矢傷を負って泣き叫ぶ少女を、「大丈夫だから、早く逃げよう」と別の少女が必死に励ます。けれどその少女が差し出す手も、既に赤く染まっているのだ。幾筋もの血が腕を伝う。

「大丈夫? ちょっと待ってね」

 駆け寄ったルオニアは羽織っていた上衣の裾を裂くと、少女の脇にかがみ込んだ。傷の状態を確認するが、医師の心得がある訳でもない、酷い傷だということしか分からなかった。矢に抉られた傷は、次から次へと鮮血が湧き出して止まらない。傷を覆うように布を巻いて、震える手で強く縛った。これが正しい処置なのかも分からない。もしかしたら何の意味のない行為なのかもしれない。


 巻いた布地が、瞬く間に赤く染まる。「大丈夫だから」となおも動けない少女の背を賢明に撫でて、ルオニアは回廊の方を指さした。

「あっちの方に、お医者様が来てるから、すぐに処置してもらえるよ。だからもう少し頑張って、歩けるかな」

 嘘であった。医師が来ているかどうかなんて知らない。恐らく、他にも怪我人は大勢いて、すぐに傷の手当てをしてもらえることはないだろう。

「大丈夫だからね。大丈夫……」

 それでも空虚な言葉を繰り返す。そのうちに少女は涙に濡れた目でルオニアを見上げて、「分かった」と小さく頷いた。覚束ない足取りで避難していった二人を見送って、ルオニアは呆然と周囲を見回した。



 地面に頽れたまま動かない女の姿が、影のように静まりかえっていた。倒壊した建物の数々と瓦礫の山が、いくつも連なっては炎に包まれている。


「だれか、逃げ遅れた人は、いませんか……!」

 喉が裂けんばかりに繰り返す。何度も何度も叫ぶうちに、いつしか、涙が頬を伝っていた。息が詰まる。どうして。声にならない言葉が、胸の中で木霊する。


 ――どうして、こんな、酷いことができるんだろう?


「た、すけに、来ました。怪我をして動けない人は、いませんか……!」

 無力感が全身を苛む。まさしく悪夢であった。かつての光景と全く同じだ。為す術なく蹂躙され、すべてが火に巻かれてゆく。あの日と同じように……。ふと、前触れもなく、足に力が入らなくなって、ルオニアは歩を進める道半ばで崩れ落ちていた。

 周囲は火の海であった。乾いた地面に手をついて、肩で息をする。滝のような汗が流れては、こめかみを滑り落ちて地面へと吸い込まれてゆく。


(結局、私は、何も……)

 は、は、と口から浅い息が断続的に漏れる。

 多くの犠牲を払って生かされ、いつか、いつかはアドゥヴァを討ってこの地を救ってみせるなどと口先だけで、何が起こっているのかも分からないまま、何も救えないまま……!


(一体、私は何のためにここにいるのだろう)

 怪我人がいるかもしれない。火矢が降る中で、逃げることもできずに蹂躙されている人がいる。そう思った瞬間に、体が動いていた。自分一人が来たところで、何かが変わるわけでもないのに。


(何のために、私は生かされたんだろう)

 自分が踵を返した瞬間、『無駄よ』と叫んだエウラリカの声が蘇る。全くもってその通りだった。


(私は、何も、変えられない――)



「――大丈夫ですか!?」

 火が爆ぜる音に紛れて、声が聞こえた気がした。緩慢な動きで顔を上げる。一瞬、自分に言われたのかと思ったが、近くに人影はない。灼熱に揺らめく地表に目を凝らす。瓦礫の向こうに動くものが見えて、ルオニアはよろめきながら立ち上がった。


「大丈夫、今助けますからね。大丈夫ですよ」

 大きな声でゆっくりと語りかける声がした。半壊した建物を避けて回り込むと、瓦礫の山の前で膝をついている人影を見つける。

「セニフ」

 咄嗟に呼びかけると、彼は目を丸くしてこちらを振り返った。「ルオニアさん」と呼ばれて、大股で駆け寄る。


「どうしたんですか」

「足を挟まれてしまって、動けないようなんです」

 そう言ってセニフが指し示したのは、半身を瓦礫の下敷きにされて、ぐったりと動かない少女の姿だった。地面に投げ出された腕に力はなく、時折呻くのみで身じろぎもしない。セニフが再び大きな声で呼びかけるが、反応は鈍かった。ルオニアは一歩退いて、瓦礫の状態を眺める。


「ここの柱を少し持ち上げたら、引っ張り出せますか」

「……試してみましょう」

 短く頷き合って、ルオニアは瓦礫の一端に手をかけた。あまり動かしては、更に倒壊する恐れがある。


 無我夢中だった。少女が意識を失わないようにずっと声をかけ続けながら、びくともしない瓦礫を必死に押し引きする。汗で滑る手のひらを脚で拭って、渾身の力で巨大な木材を押し上げた。ほんの僅かに、動くだけ。小指の幅ひとつ分動くだけ。

 それでも諦めるという選択肢は浮かばなかった。

「動きました!」

 セニフが叫ぶ。少女の瞼が、一瞬だけぴくりと持ち上がる。それを見た瞬間、地面に踏ん張る脚に力が入った。


 一息で、セニフが少女を瓦礫の下から引き出す。直後、隙間の空いた瓦礫の山が、粉塵を上げて崩壊した。


「脚の感覚はありますか? すぐにお医者様がいるところまで行きますからね」

 セニフは少女の背を支えながら、顔を覗き込んで声をかけている。その様子を、ルオニアは呆然と眺めていた。付近を取り囲む火の手は明らかに狭まってきている。早く逃げないと、退路がなくなる。そう分かっているのに、視線は自然と、まだ探していない区域の方を向いていた。


「僕はあちらから来ました。まだ逃げていない人は、……僕が気づけた範囲では、いないはずです」

 ルオニアの視線に気づいて、セニフが大きく頷く。ぐっと息を詰めるような仕草をしたのち、浅い呼吸を繰り返している少女を背負って立ち上がる。

「戻りましょう。ルオニアさん」

 そう言って力強く微笑んだセニフの、煤と汗にまみれた顔を見つめて、ルオニアは束の間声を失った。上手く返事ができないまま、こくりと頷く。



「火矢を射かけるなど、僕は、了承していない……」

 燃えてゆく居住区を睨みつけながら、セニフが低い声で吐き捨てる。炎に照らされて赤く浮かび上がった横顔を一瞥して、ルオニアは唇を噛んだ。宮殿を包囲し、この攻撃を行っているのは、サハリィ家を初めとした氏族家と、新ドルト帝国だという。帝国といえば、浮かぶのはカナンの顔のみである。そして、『この』セニフが先程エウラリカの部屋に現れて告げた言葉。

『総督閣下の命を受けてお迎えに上がりました』。セニフが、カナンと繋がっていることは明白だった。


「あなたは、この攻撃を行っている側の人間なのね」

 呻くように呟くと、セニフは驚くほど澄んだ目でこちらを見据えた。「ええ」と返答は揺るぎない。

「それが、ナフト=アハール、ひいては南方連合全域の民を守ることだからです」

「こんな……こんなことを、しておきながら!?」

 静かな声音で返された言葉に、ルオニアは食ってかかる。片腕を広げ、今まさに燃え落ちようとしている宮殿の一角を指し示す。

 瓦礫の下敷きになっていた少女は、まるで綿の詰まった人形のように力なくセニフの背に乗っかっている。服を剥いでいないので分からないが、大怪我をしているに違いない。その表情は苦悶に歪んでいた。


 何の罪もない、抗う術もない人間を蹂躙しておきながら、『民を守るため』。ご立派な大義を掲げることなら誰にだってできる。どんなに崇高な題目を唱えていたって、やっていることが無慈悲な攻撃ならば、それは単なる虐殺に過ぎないじゃないか。


 声高に詰られても、セニフは反駁する様子はなかった。

「多くを救うためには、少しの犠牲は仕方ないでしょう」

 セニフはふいと顔を背けて正面を向くと、それきり、ルオニアの方を顧みようとはしなかった。行き先はどうせ中央の回廊である。仕方なく追随しながら、ルオニアは唇の端に力を入れてセニフを睨んだ。

「それならどうして、あんなところにいたのよ」

 セニフ自身が今背負っている少女を見て吐き捨てると、セニフは思わずといったように眉根を寄せて、不本意そうな表情をした。「それは」と口ごもる。

「……それを言うなら、あなたこそどうして」

 返す刀で問われて、ルオニアは「だって」と反駁した。反駁しかけて、言葉が途中で立ち消える。セニフが目だけで苦笑した。

「同じですよ」



 眼前に回廊の輪郭が見えてきていた。暗い夜空の中で、煌々と火の焚かれた回廊の柱や丸い通路が、うっそりと浮かび上がっている。その中を、多くの影が慌ただしく動き回っているようだった。人の気配に、詰めていた息が自然と漏れる。

「もう少しですからね、大丈夫ですよ」

 柔らかい声音になって、セニフが背後の少女に声をかけている。その様子を、つい凝視してしまう。今しがた酷薄な発言をしておきながら、どうにもセニフの言動には甘いところがある。


 喧噪が近づいてくると、背負われている少女は人の気配に薄らと瞼を上げた。「あ……」と声が漏れる。何かを言おうとしている気配に、ルオニアは近づいて耳を傾ける。苦しげな呼吸の合間に、唇がぎこちなく動く。

「……ありが、とう」

 微かな声で囁かれた一言に、ルオニアは思わず目を丸くした。セニフの表情にも動揺が現れる。セニフと視線が重なった一瞬、互いに妙なばつの悪さを感じて目を逸らす。



 怪我人が寝かせられている一角に近づいて、膝をついて慎重に少女を下ろす。少ししてから手すきの侍女が飛んできて、怪我の状態を確認しているようだった。

「うん、骨は折れてしまっているようだけど、命に関わるような怪我じゃないわ」

 看護の心得があるのだろう、慣れた様子で頷いた侍女の言葉に、ルオニアはほっと胸を撫で下ろす。これで用が済んだ、というように立ち上がって、セニフは安堵のため息を漏らした。


 もの言いたげな視線に気づいたらしい。セニフはばつが悪そうな顔になって踵を返す。

「……切り捨てたものに対する責任は、己が身で負う。それが信条だというだけのことです」

 いまいち要領を得ない言葉であった。そのまま立ち去ろうとするセニフの袖を「待って」と引き留めて、ルオニアは大きく息を吸う。


「さ……サハリィ家がこの攻撃を主導しているということは、狙いは、アドゥヴァなの?」

 潜めた声で問うと、セニフはぴくりと眉を上げた。その視線が素早く左右に動き、人目を気にするように緊張感が走る。

「……こちらへ」

 セニフは有無を言わせずルオニアの腕を掴むと、大股で回廊から離れるように歩き出した。炎の明かりが届かない暗がりに身を潜めて、セニフがこちらをじっと見据える。


「どうして、サハリィ家がアドゥヴァを狙っている、と?」

「エウラリカがそう言っていたわ。そもそも、連続殺人を辿っていけば、サハリィ家がアドゥヴァ、ひいてはラヴァラスタ宮殿に対して何らかの企みをしていたことは分かる」

 ルオニアは一呼吸も置かずに答えた。品定めするように、セニフが目を細める。徐々に目が慣れてくると、伸ばした手の先も見えないような暗闇の中に、彼の黒い双眸が瞬いているのが見えた。決然とした、腹の据わった眼差しである。


 先程から、心臓がいつになく早鐘を打っていた。

 危惧していた『最悪の事態』は既に目前に迫っている。サハリィ家がアドゥヴァに反旗を翻し、彼を討ち取る。さすれば待つのは南方連合の分断である。サハリィ家が簒奪を成功させ、この地で更なる権力を握ることを良しとしない氏族は多いはずだ。今この場で起こっている争乱は瞬く間に砂漠全土に波及し、数々の悲劇を生むに違いない。――アドゥヴァのときと同じように。


 セニフ、と声が漏れる。小さな声で呟く。

「……私、戦争を起こしたくない」


 だから、サハリィ家に疑いが浮上したときに、初めて口に出してみた。自分がアドゥヴァを討つのだ、と。しかし結局何の術も計画もないまま、こうしてサハリィによる反乱は実行された。燃え落ちてゆく建物を前にして、絶望と無力感だけが肩を押さえつける。

 保身に走ったのは自分だ。正体が露呈すれば、アドゥヴァは今度こそ自分を殺すだろう。だから仕方ない。けれど、正体を隠したままでは、誰も自分に力を貸してくれないのだ。だから仕方ない。

 どうせ、私は、何も変えられない。分かっている。


「サハリィによる簒奪は、ナフタハル家を軸として各氏族家が集う、従来の南方連合の形を大きく揺るがすことになる。サハリィが南方連合の王になることを認めない氏族は必ずいる。このままじゃ、宮殿内で起こっている騒動とは比にならないくらいの死者が出る」


 暗闇の中で目を見張っても、視界に広がるのは茫漠とした夜陰ばかりである。それでもしっかと目を見開いて、眦に力を込めて、そちらを睨みつけることしかできない。地面に突き立てた両足の感触が、全身を駆け巡って、自分の輪郭を真っ暗な空間の中に刻み込んでいる。ささやかな面積の足裏から、砂の地平が果てしなく広がってゆく。



 もう散々痛感した。私は、一人では何もできない。それでも……


「――わたしは、ルクレシア・ナフタハル。新しい名はルオニア・ドルテール」


 低い声で告げた瞬間、目の前のセニフが鋭く息を飲むのが分かった。

「アドゥヴァによって離宮が襲撃された際に、先代のセニフに救助され、孤児院を経由してここにいる。あなたがあのとき、アドゥヴァに忠誠を誓った言葉も聞いている。その上で命じるわ」


 ……抗えない暴力に頭を押さえつけられ、為す術なく地に伏せて、来るかも分からない救いを待つだけの人を見捨てられない。たとえ何も変えられないかもしれなくても、目の前で蹂躙される人たちを助けずにはいられない。


「サハリィ家に簒奪の手柄は渡さない。全部わたしがやる。わたしが新たな王になる。お父さんを継ぐ。良い王様になるから、精一杯頑張るから、……だから私に手を貸して、セニフ」

 力の入らない足で告げたときには、彼は既に足下に跪いていた。深く頭を垂れたまま、セニフは肩を震わせているようだった。


 ややあって、「はい」と涙声が応える。こちらを真っ直ぐに見上げて、泣き笑いのような表情で彼が言う。

「ずっと、お待ちしておりました……我が君!」




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― 新着の感想 ―
[一言] 焼き討ちはどこからの指示で、どの程度までの下々の手によるものなのかな。 ルオニアは事ここにいたって漸く冠を戴く気にはなり、セニフもそれに付き従う気満々だけど… 焼き討ちに関して承知してい…
[一言] 自らに足りないものを自覚した上でなお、誰かを見捨てられないという思いをもとに王者たる覚悟を固めたルクレシアがカッコ良すぎて惚れました。「正しい判断」を下して逃げることができる(逃げてしまう)…
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