砂上の楼閣2
夜が深まる頃、おもむろに扉が叩かれた。用件を告げる侍女の声はない。怪訝に思いながら、ルオニアは椅子から腰を浮かせて立ち上がる。机に向かって何やら難しい顔をしていたエウラリカも、扉の方を振り返って耳を澄ませているようだった。
「何かしら」
「見てくるわ」
ルオニアは足音を忍ばせて部屋を出て、廊下へ繋がる扉へと歩み寄る。扉はなおも控えめに叩かれており、そこに何者かがいることを示していた。慎重に、扉に耳を近づける。
「夜分に申し訳ありません。セニフです」
低い声で囁く声に、息を飲む。昼間にも一度来たのに、またここを訪れるなんて、何かあったのだろうか。背後でエウラリカが小さく頷き、滑るような足取りで寝室へ戻っていった。足音がしなくなったのを確認してから、ルオニアは細く扉を開けた。
「いかがされましたか」
取り次ぎの侍女を挟んでいないということは、ここまでは人目を避けて来たのだろう。ひとまず部屋に入るように合図をすると、セニフはするりと扉の隙間から部屋へ入ってきた。すれ違いざま、全身を覆うように頭から被った外套から煙の匂いがする。僅かな鉄くささや、汗の匂いも。宮殿内で日々執務に励む宦官長から漂うべき気配ではない。ちりっと、火が肌を掠めたような違和感が胸に落ちる。
セニフは後ろ手に扉を閉めると、居室をぐるりと見回す。
「いきなり失礼します。このことは内密にお願いします」
言いながらフードを下ろして現れた顔に、違和感はいや増した。確かに見覚えのある、セニフの顔である。しかし、その表情や仕草なんかが、どこか記憶と違う。数刻前に見たばかりの、あの人とは……。
「フィエル嬢はどこにいますか? ええと、あなたは確か……ルオニアさん、でしたっけ」
ルオニアを見下ろして、セニフが曖昧に微笑んだ。瞬間、背筋を怖気が駆け上がり、ルオニアは慄然として立ち竦んだ。
「――あなた、誰」
今日の昼間に来たセニフは、ルオニアのことを知っていた。当然のように名前を呼んで、エウラリカの容態を確認すると出て行った。だからこの場で、ルオニアの顔を見て言い淀むことはないはずなのに。
青ざめたルオニアを見て、セニフがきょとんと首を傾げながら応じた。
「私は、セニフです」
「違う!」
身構えるルオニアを前に、セニフの顔をしたその人は戸惑うように瞬きをする。不可解そうに顎に添えた手に、剣だこはない。そのことに気づいた直後、ルオニアは大きく息を飲んだ。
「……あなた、」
以前にも、納得がいかないことはあった。いくつかの記憶が、次々と浮かんでは繋がってゆく。
『ルオニア、この間――』
滑らかな声が蘇る。女性にしては少し低めの、落ち着いた声音である。あのときは何も気づかなかったけれど、よく考えてみれば妙だ。記憶を浚う。
『あ、私です。ルオニアと申します』
彼女に呼びかけられる数日前、ひょいと片手を挙げて名乗ったときの光景が、瞼の裏に浮かんだ。そうか、と口の中で呟く。
「分かったわ」とルオニアは片手で顎を支えながら呟いた。
部屋に入ったところで立ち話をしている二人を怪訝に思ったらしい。エウラリカがそっと寝室から顔を覗かせる。セニフはそちらに背を向けており、彼女にはまだ気づいていないようだ。
「ライア様が、セニフなのね。あなたは偽物だわ」
「偽物?」
エウラリカが思わずといった風に呟いたことで、セニフは弾かれたように振り返ってしまった。寝室の戸口に佇んでいたエウラリカを見据え、彼は息を飲む。何故か、呆然としたように絶句していた。まるでエウラリカに見とれているようだったが、それだけではないような、驚愕の顔色である。
「偽物ってどういうこと?」
セニフの異変は気にも留めず、エウラリカがルオニアに向けて問う。ルオニアは腰を低くしたまま、セニフと名乗った男を睨みつけた。
「以前、一度も名乗ったことがないはずなのに、ライア様が私の名前を呼んだことがあった。そのときは、どこかで知ったんだろうと思ってたけれど」
無作法に放置していた箒を引っ掴み、ルオニアは侵入者を遠ざけるように突きつける。
「でも私、その前に、セニフ様に名乗ったことがあったわ。つまり、セニフの中身はライアだったのね」
「では、ライアの一人二役だったということ? なら、ここにいるのは誰なのかしら」
セニフから距離を取るように、エウラリカがぐるりと大きく弧を描きながら居室へ歩み出る。視線を外さないまま、片腕を伸ばして窓を覆う幕を左右にかき分ける。月明かりがさっと部屋に射し込んだ。
「違います」と光を浴びて、セニフが明朗な声で否定した。箒を両手で握り締めたまま、ルオニアは眉根を寄せる。
「一人二役ではない。むしろ、二人一役とでも言うべきでしょうか」
部屋の中央で相対した両者の姿だけが、いやに明るい月光の中に浮かび上がっていた。
「僕が宮殿を外す際に、不在を周囲に悟られぬようにするための措置です。僕がいない間だけ、宮殿内でのみ、ライアがセニフとして行動すると取り決めてあった。あなたが『セニフ』に名乗ったのは、ちょうどそのときだった訳です」
言いながら、セニフは少しずつエウラリカに向かって歩いて行く。
「あなたの言葉を借りるなら、ライアこそがセニフの『偽物』だ。王の従者を名乗るに値しない……」
物憂げな伏し目がちで呟く、その腰に大ぶりの剣が提げられていた。ルオニアは息を飲み、咄嗟に割って入ろうと体が動く。
ルオニアが一歩を踏み出そうと前のめりになった瞬間、セニフは音もなく片膝をついた。
「――総督閣下の命を受けてお迎えに上がりました、エウラリカ様」
エウラリカが、艶然と微笑む。弧を描いた唇から白い歯がちらりと覗いた。何かを呟く。『良い子ね』。
訳が分からずに、ルオニアは呆然と立ち尽くした。エウラリカ様、とはどういうことだ。跪いたセニフの姿を見下ろし、当惑して眉をひそめる。エウラリカは一体……。
沈黙が落ちる。ごくりと唾を飲む。――そのとき、視界の端で何かが動いた。
窓の外から、地面を強く踏む足音がした。砂が擦れる音と、軋む窓枠。開け放たれた窓のその先に、人影が見えた。
「誰!?」
叫んだルオニアの声が間抜けに響く。セニフが目を丸くして顔を上げる。
エウラリカに動じた様子はなかった。
ずっと背後に回していたエウラリカの手が、流れるように動いた。ぎらりと鋭い反射光が居室を素早く横切る。
「ちょうど、もう一人、役者が欲しいと思っていたところだったのよね」
素早く振り返りざま、短剣を振り抜いたエウラリカが声を上げて笑う。鮮血が散る。小さな悲鳴が上がる。
背後の大窓から飛び込んできた姿に、ルオニアは目を丸くした。小柄な影であった。闖入者はエウラリカに取り押さえられて藻掻く。その顔を見た瞬間に、くらりと足下が揺れる。
「暴れないで頂戴。殺すわよ」
手袋を嵌めた手でその首を床に押さえつけ、短剣を頬に添えて、エウラリカが冷ややかに口の端を吊り上げる。ルオニアはその場で力なくへたり込んだ。セニフは絶句したまま動かない。
「セニフ」とエウラリカが鋭く呼んだ。我に返ったように、セニフが身じろぎをしてエウラリカへ向き直る。
「旧炊事場の井戸に伝言を書いた紙でも放り込んでおきなさい。――こちらは順調、速やかに動け、と」
小柄な侵入者の背に膝をつき、エウラリカが短く息を吐いた。乱れた前髪の隙間から、彼女が微笑む。
「……それだけで、カナンには伝わるわ」
一度目を見開いたセニフが、小さく頷く。音もなく窓から飛び出して姿を消した後ろ姿を、ルオニアは呆然と見送った。
荒い息づかいだけが部屋に残される。エウラリカは何も言わず、侵入者の腕を強く捻り上げた。音を立てて短剣が落ちる。エウラリカの下敷きになったまま、その人は喉の奥で唸った。
「放し、なさい……っ! この淫売が!」
「嫌よ。それにしても部屋の中に宦官が一人いただけで淫売とは、酷い言いようじゃない」
エウラリカが嘲るように口角を吊り上げる。あはは、と笑い声は乾いていた。
「肉親がさ、知らないうちに外道になってるってのは、辛いものよね」
ルオニアは身動きもできないままに、浅い呼吸を繰り返す。やめて、と譫言のように呟いていた。そんなはずない。そう囁く声は震えていた。力の入らない手をついて腰を浮かせ、惨めに床に押さえつけられているその人に手を伸ばす。顔を隠すフードが落ちると同時に、白髪交じりの髪が照らし出された。床に転がっている短剣に視線が吸い寄せられる。
「お前もご存知でしょう、王太后さま?」
繰り返されてきた殺人事件が、瞬き一つの間に脳裏を駆け抜けてゆく。朝日に照らされたテテナの骸と、隣に転がったままの凶器。同じ形の、短剣。数多の記憶が、鮮烈な光景とともに蘇っては明滅した。
「違う、そんなはずない……」
いくつもの点を、線が繋いでゆく。直視したくない景色が浮かび上がろうとする。それをかき消すように、「ちがう」と呟く。エウラリカが端的に告げる。
「違くないわ、ルオニア」
その声が、本当に冷たく、酷薄な口調に聞こえたのだ。
ルオニアは堪えきれずに絶叫した。エウラリカに向かって跳びかかり、その腕にしがみつき、金切り声で叫ぶ、
「――――マーリヤ様を虐めないでッ!」
ほとんど駄々をこねる幼子のような涙声だった。エウラリカが眦を下げて微笑む。
「だから言ったのよ、あなたに犯人は教えられないって」
優しい声音で囁くと同時に、エウラリカの腕が強く振り払われる。乱暴に突き飛ばされて、ルオニアは踏ん張ることもできずに尻餅をついた。空を切る音と共に、鼻先にぴたりと短剣を突きつけられる。
ルオニアの悲鳴を聞きつけて、侍女たちが起きて近づいてくる気配がしていた。エウラリカはマーリヤの背に馬乗りになったまま、冷徹な眼差しをこちらに注いでいる。
「私たち、絶交かな、ルオニア」
青白い光の中で、彼女の輪郭が濃い影を落としていた。苦笑にも似た下手な笑顔を口の端に引っかけて、エウラリカが自身の短剣を逆手に持ち替える。マーリヤのうなじに切っ先を突きつけ、ルオニアを真っ向から睨みつけ、彼女は低く吐き捨てた。
「動かないでよ、二人ともね」




