サハリィの街にて2
軽い脳震盪らしい。放っておけばそのうち目覚めるということで、近隣の客間に運び込まれたセニフの枕元で、面々は立ったまま向き合った。
「セニフ殿がここにいた件は後回しにするとして……何があればこんな騒ぎになるんだ?」
部屋の隅で小さくなっているアニナに水を向けると、彼女は「えっと」と答えづらそうに目を逸らした。それから、身振り手振りを交えて説明する。
「お水の飲み過ぎで、その、お手洗いを借りようとしたんですけど、道中でばったりセニフさんに鉢合わせしたんです。真正面から顔を見てしまいましたし、セニフさんがどうやら『まずい』と思われたらしくて、近くの部屋に連れ込まれそうになって、咄嗟に『やめてください』って抵抗したら、セニフさんが吹っ飛んでしまって、そのまま壁に、ゴンって」
カナンとサハリィ当主は揃って黙り込んだ。話し終えた部屋の中に『暴力女』『怪力女』の単語が浮遊している気配を感じたらしい。アニナは「本当に違うんです!」と拳を握って反駁した。
「私、軽く押しのけただけです。ほとんど力だって入れてませんし、それを言うならむしろ、あんな程度で転ぶセニフさんの足腰が」
憤然と反論してくるアニナを「分かった」と宥めてから、カナンは腕組みを解いて寝台に寄り、セニフの顔を覗き込んだ。痩せた男だった。宦官という生き物をまじまじと眺めるのは初めてで、確かに、奇妙な柔らかさを見た目からも感じる。褐色肌は艶があって、波打つ髪は黒々としていた。
やはりライアと似ている。似ているが、あの女ほど鋭さを感じないのも事実だった。
枕元の棚に立てかけられている剣は、彼が所持していたものだろう。やけに物々しく、豪奢な装飾の施された長剣だ。ハルジェルの地下にて、彼が見せた身のこなしを思い出す。気配を敏感に感じ取り、正確無比に木箱を貫いた手さばきは、まさに武人のものである。
……そんな男が、こんな非力なアニナに押されただけで、転ぶだろうか?
一抹の違和感を覚える。不意に唇を閉じて黙り込んだカナンを、当主とアニナが注視する。カナンは目だけを動かして、セニフの顔を再度見た。眉間に皺を寄せていた瞼が、ぴくりと揺れる。
「あ……」
意味をなさない呻きとともに、セニフが瞼をもたげた。緩慢な仕草で身じろぎし、寝台を覗き込む面々の顔を見回す。誰も、何も言わなかった。アニナが安堵のため息をついて、胸の前で手を握る。
しばらくの間、セニフはぼんやりと天井を見上げていた。ややあって、座りが悪くなったように体を捻った拍子に、カナンの傍らにある剣に気づいたらしい。
何故だか慌てたように「剣」と呟くので、カナンは何気なくひょいと身を屈めて、そこにある長剣に手を伸ばした。もしや、どこかに傷でもついてしまっただろうか。
気を利かせて剣を確認しようとしたカナンは、そこではたと動きを止めた。装飾過多にも見える鞘を掴んで持ち上げた瞬間、強烈な違和感が襲う。
「軽い」
知らず、言葉が漏れた。こんな大ぶりの長剣ならば、ずっしりとした重みが手に加わるはずだ。そのつもりで力を入れたのに、セニフの剣は拍子抜けするほどに軽い。思わずよろめいてしまうくらいだ。
どういうことだ、と柄を掴み、鞘から引き抜く。結論は単純であった。
鞘だけが立派な張りぼてだ。現れたのは、さして包丁と変わらないような刃渡りの、小ぶりな短剣だった。
アニナが片手で口を覆い、目を丸くしてセニフを振り返った。彼は浮かせかけていた頭を枕に戻して、額に掌を当てて深々と嘆息した。
「は……恥ずかしい……」
顔を真っ赤にして、セニフが手を下ろす。のそのそと上体を起こして、「なんで抜いちゃうんですか」と口調はまるで拗ねた幼子のようである。
「これは、どういうことですか」
努めて穏やかな声で、カナンは短剣を鞘に戻した。セニフはへらりと歯を見せて笑うと、「ええと」と言い淀んだ。
「……どうも、剣術が不向きなようで、大きな剣なんて扱えないんですよ」
セニフは照れた様子で目を逸らし、ばつが悪そうに頬を掻く。カナンは素早く視線だけでアニナを窺った。彼女も同じことを考えていたのだろう、険しい表情でセニフを窺っている。
「そもそも僕は幼少の頃から運動がからっきしだったんです。でも大層な剣を下げているだけで変な輩に絡まれることも減りますし、装飾品と同じようなものですよ」
そう言って舌を出す仕草は、どこか愛嬌があって軽妙である。人好きのする表情だった。まるで、それが生来の気性かのような笑顔だ。
そうではない、とカナンは頭を振った。
「……そんなはずがない」
唇からこぼれ落ちた声は重々しく響いた。「え?」とセニフが目を瞬く。カナンは見せかけだけの長剣を見下ろして、早まってゆく鼓動を感じていた。
「あなたは剣を使えたはずだ。もう少し細身ではあったが、ある程度長さのある得物だった」
全身の末端から、血の気が引いてゆく。セニフの一挙一動を注視しているのに、彼からは動揺のひとつも見られない。……今だけの話ではない。宮殿で相見えたときから、ずっとだ。彼の様子には、何も怪しいところなどなかった。怪しいほどに。
「ハルジェルの宮殿の地下で、左大臣と話をしているときに……物陰に潜んでいたのは、俺だ。あのときあんたは、人の気配を感じて、剣で、木箱を貫いていた。明らかに手慣れた動きだった」
カナンは剣を床に放り捨て、片手でセニフの胸ぐらを掴んで引き寄せていた。「わっ」とセニフが両手を挙げて目を白黒させる。その間抜け面を見つめているうちに、言いようのない怒りや焦りで指先が震えた。カナンは大きく胸を上下させて息をすると、顔を歪めて吐き捨てる。
「知らないふりで誤魔化せると思うのか。――ハルジェル領を利用して、帝都に違法薬物を流して、官僚たちを抱き込んで帝国の内政に干渉して、アドゥヴァとともに帝都を侵略しようとしていたのは、お前じゃないか!」
困惑を見せたのは、今度はセニフであった。大きく目を見開き、訳が分からないというように眼窩で瞳が震える。
「い……一体、何の話をしているんです?」
セニフは片手をもたげて、掴みかかってくるカナンの腕に添える。手のひらや指先は柔らかく、剣を握らない者の手をしていた。それに気づいた瞬間、はたりと指が緩んで手が離れる。
力なく両手を体の脇に下げ、カナンは呆然と寝台のセニフを見下ろした。彼は耳を疑うように、カナンを見上げて眉根を寄せている。カナンの言葉を反芻するように呟く。
「アドゥヴァとセニフが、帝国を、侵略?」
セニフがカナンの袖を強く引いた。寝耳に水と言わんばかりの蒼白な顔色であった。掠れた声で囁く。
「――それは、誰の話ですか」
セニフは愕然とした表情で目を見開いていた。それまでの温和で呑気そうな表情が一変し、険しい眼差しでカナンを見据える。
「そんな話を、私は聞いていません。身に覚えがない」
「そのような言い分が通ると思いますか」
カナンは目を細めて、セニフを睥睨した。セニフも負けじと眦を決してこちらを見返してくる。
「本当です。私は何も知らない」
「知らなかったにしては、いやにあっさり信じますね」
頭を振ったセニフに鎌をかけるように言うと、彼は「信じますとも」と短く断言した。
「あの男はずっと、帝国に固執し続けてきた」
***
これまでのあらましを語ると、セニフは眉根を寄せて息を吐いた。
「なるほど、そんなことが……」
「本当に身に覚えがないのですか。そうした動きに気づくこともなかったと?」
「ありません。元より私はあまりアドゥヴァには信用されていない」
寝台に腰かけたセニフの周りを取り囲むように椅子を置いて、顔を突き合わせる。サハリィ当主は先程からずっと黙りこくって口を開かず、アニナも険しい表情で口を噤んでいた。
セニフは腕を組み、ゆるゆると首を振った。
「未だに信じられません。南方連合が、帝国に手を出す利点がない。既に我々は広大な土地を一つにまとめるので手一杯です。たとえ帝国をいっときは落とせたとしても、継続的に支配することは厳しいですし、旨味もありません」
「しかし、帝都の官僚や緩衝地帯に位置するハルジェル領は既にアドゥヴァによって抱き込まれていて、本当に帝都を陥落させることも可能な状態でした」
自分が使った地下通路のことを思い浮かべる。城の地下に通じたあの通路と、地の利、機を見計らう勘さえあれば、ほんの少数の兵であっても帝都を落とすことができたのだ。深夜に、いきなり城内のただ中に兵が出現すれば、立地から鉄壁と呼ばれる帝都であっても攻撃を防ぐ手立てはない。
(……むしろ、どうしてアドゥヴァは、帝都を落とさなかった?)
カナンは眉根を寄せて腕を組んだ。あの男が、ハルジェルを利用して帝都を攻撃しようとしていたのは明白である。主都を離れる前にエウラリカと自分が行った『小細工』を思い出す。あの小火騒ぎで領主や左大臣の企みが露呈し、ハルジェルは帝都陥落どころではなくなった。
たとえハルジェルが駄目になっても、そもそも、最初から自分の兵を連れて行けば良いのだ。どうしてそれをしなかったのか。
相手は恐らく、あの地下通路の地図を持っている。エウラリカがそう言っていた。
彼女はその根拠を何と語っていたか。地図について、エウラリカは何を言っていた? あの通路について、何を……。
「そういえば、聞き損ねていたのですが」
サハリィ当主がおもむろに口を開いたので、カナンの思案は途中で打ち切られた。
「……総督閣下は、一体何のご用事で、ナフト=アハールへ?」
愛想を無駄に取り繕うのはやめたらしい。当主はにこりともせずにカナンを見据えている。胡散臭くはぐらかす薄ら笑いより、この方が余程お似合いだった。
「アドゥヴァからの招待なのですよね? あの男は何を理由にあなたを呼び寄せて、あなたはどうしてわざわざ、敵地とも言えるこちらへ来たのですか」
「それは、」
アニナと一瞬だけ視線が重なる。エウラリカのことを言っても良いものか。アニナが目顔で否定を示した。同感だった。今はあくまで情報を探るだけの段階で、相手を信用したわけではない。
「……個人的な事情です。明かせませんが、南方連合における勢力図に影響するようなことではないと断言できます」
「ふむ」
セニフと当主が顔を見合わせる。向こうも、こちらを信用していないのがよく分かる目つきだった。隠す様子もない警戒は、いっそ清々しい。
「少なくとも、アドゥヴァと友好的ではなさそうですね」
「まあ、そうですね」
当主の言葉に頷くと、カナンは腕組みを解く。外に繋がる窓には幕が下ろされ、細い隙間から陽の光が射し込むばかりである。薄暗い部屋は野外の気温とは裏腹にひんやりとしていて、身じろぎすら躊躇わせるような緊張感が漂っていた。
「――報復に、来たのですか」
セニフが、硬い声で問う。その場の空気が、決定的に強ばった。
「……今後の付き合い方を考えるためというのも、目的の一つです」
努めて静かな声で答えたが、セニフとサハリィ当主は水でも浴びせられたように体を固くする。これは好機だと思った。カナンは心持ち声を大きくして、尊大な調子で説く。
「俺はこれでも新ドルト帝国を預かる立場で、属国を含む多くの民を守る義務があります。内政干渉や侵略を厭わない首長が、地続きの区域でこちらを狙っているとなれば当然、警戒せざるを得ない」
そう語る自分の声が、遠く聞こえた。いつもこうしたことを口に乗せるたび、否定できない自嘲が胸に浮かぶ。本当にそう思っているのか、と何かが低い声で囁いては嘲笑っている。
「それは、我々も同じです」
揺るぎない声が返ってきて、カナンは思わず唇の端に力を入れた。セニフは真剣な表情できりと目を見開き、こちらに向き直っている。
「我々には、この南方連合の平和を守る使命がある」
その眼差しがあまりにも疑いなく真っ直ぐなので、どうにも息がしづらくなった。セニフはまるで挑むような顔つきで身を乗り出した。
「アドゥヴァによる帝都侵略行為については、まだ事実関係がはっきりしない状態では何とも申し上げられません。迂闊な謝罪も、私の立場からはできません。ですが」
セニフが、片手を差し出す。握手を求める仕草だった。
「罪なき民を守りたい。その思いは、きっと変わりありません」
協定を申し出たい。
そう言って、セニフの目がきらりと輝いた。何となくウォルテールに似た目をしていると思った。息でもするように、当然のことのように、他人の幸福を願える人間の目だった。
「政権交代が成ったら、帝国とは良好な関係を築きたいと思っています。先までの侵略行為に関する処断は、それまで待って頂きたい」
セニフが流れるような口調で告げる。先の侵略に関する落とし前はまだ待ってくれ、と。その内容に否やはない。こちらもエウラリカの身柄を求める立場である。しかし……何か今、重要なことを言わなかったか? 数秒瞬きをして、カナンは耳を疑った。
「……政権交代とは、どういう意味ですか」
呻くように問うと、セニフに代わってサハリィ当主が口を開く。
「――我々はずっと、アドゥヴァを討つべく動いてきた」
やはりサハリィ家はアドゥヴァに対する反逆を企てていた。しかも、恐らくそれにセニフも加担している。
息を飲みそうになるのを、すんでのところで堪えた。これを当主が口にしたということは、既に相手は覚悟を決めているのだろう。現に、男の双眸は決して逃がさないというようにカナンを睨みつけている。
眼前に差し出された手を見下ろした。……目の前に浮いている手を掴むだけのことが、どれほど難しいか。
思えば、自分の背には、数多の民の平穏が乗っている。そのことを、ふと痛切に理解した。この手を取ることで、何を危険に晒して、何を得ることができる?
自分は決して間違える訳にはいかない。ジェスタにいる家族の顔が脳裏で明滅する。帝都で見知った人間の姿が次々と浮かんでは沈む。皮肉げに頬を吊り上げて、遠くの記憶の中でノイルズが笑う。
エウラリカの手跡が語る。
『お前はこれからこの帝国を蛮族の手から守り抜き、導かねばならない』
――心のどこかで、いつも、バーシェルがあの笑顔で大きく手を振っている。
長いこと目を伏せて、カナンは自らの足下を見つめていた。視線が向けられている。一度目を閉じて、大きく息を吸って、彼は顔を上げてセニフとサハリィ当主を見据えた。腕を持ち上げ、差し出された手を強く握る。
「分かりました」
アニナは顎を引いて唇を引き結んだまま、ただカナンを見ている。
「もう犠牲は出したくないのは同じですから。……俺は、帝国を守りたい。申し出を受けましょう」
噛み締めるように告げる。宣言を嘲る者はいなかった。それでも体は怯えを示して強ばっていた。どの口が言うのだ、と囁いてくる声をねじ伏せる。指先は震えていた。
カナンは険しい表情でセニフに正対する。
「その代わり、全てを明かして頂きたい」
「もちろん」
セニフは頷いて、決然とした顔で重い息を吐いた。




