サハリィの街にて1
「やっぱり、改めて見ても大きな街ですよね。流石にナフト=アハールほどではありませんが、南方連合第二の都市というのも頷けます」
先触れを出しておいたおかげか、サハリィの街に着いて館の門を叩くと、一行はすぐに応接室まで通された。相当に時間を切り詰めた強行軍である、アニナは流石に疲れた様子で息をついていた。
「ここには何日くらい滞在する予定なんですか?」
暗に休憩を要求する視線で、アニナが問う。とはいえ、サハリィの街の観光は以前の訪問で済ませてあるはずだ。
「用が済んだらすぐにでも戻るつもりだが」
「うう……やっぱり……」
アニナが目に見えて項垂れるのを視界の端で眺めながら、カナンは足を組んで先程の応対を思い出していた。
自分で言うのも何だが、今のカナンは紛れもなく権力者である。直前の触れだけでいきなり氏族長の邸宅を訪問しても、文句ひとつ言われない程度には。とはいえ、サハリィ家の門を叩いたときの応対はいやに歯切れが悪かった。賓客扱いしろとは言わないが、応接室に通して既に四半刻が過ぎているのに当主が姿を現さないのも妙だ。
家令は『他に来客はない、問題ない』と言っていたが、本当だろうか?
「遅いですねぇ」と、普段ならあまり客先で不満を漏らさないアニナまでもが呟く。机に置かれている水差しは既に空で、ほとんどはアニナが飲んだ。カナンは開かない扉を見やって、エウラリカのことを考える。
本物のフィエル・サハリィの侍女として宮殿に入ったエウラリカは、名を持たず、顔を隠して生活していたという。顔に関してはフィエルの指示だろうが、エウラリカに名を与えずに宮殿へ同伴させたのは間違いなく当主の指示だ。
元よりエウラリカはフィエルに成り代わる手筈だったのだという。姫を別の美女にすり替えることは日常茶飯事らしいと聞けば、なるほどあれだけの器量の女が手に入れば娘の代わりにしたくなるのも無理はないと思う。
それだけならば、別の女を調達してまで首長に取り入ろうとする態度にも見えた。しかし、宮殿内で『問題行動』が見られる人間が次々と殺されていること、その中でサハリィを初めとした大貴族の縁者が狙い撃ちにされていることを並べて考えると、きな臭さが増してくる。明らかに規則違反の宦官や、夜間に外出していた侍女のこともある。
組んでいた足を戻して、エウラリカのことを考える。まるで別人になってしまった彼女の表情や一挙手一投足が、瞼の裏に鮮明に焼き付いていた。かつての罪を忘れたかのような姿が、どうにも憎らしかった。
『あの子は、人を殺すような子じゃないわ』
ルオニアの言葉が脳裏をよぎる。孤独感が、指先から身の内を蝕もうとしていた。人殺しの罪を忘れて、あの女は、友人からの信頼をほしいままにしているのだ。何の罪も抱えていないかのように、無垢で無知な幼子のように……。
(俺だけ置いて、どこかへ行くなんて、許さない)
深く項垂れて、カナンは奥歯を噛みしめた。俺をこんな道に引きずり込んでおいて、あなただけ逃げおおせるなんて、そんなことが許されるものか。
あなただけが、俺を分かってくれるはずだ。
(置いていかないでくれ、エウラリカ――)
とてもではないが口には出せない哀願は、ほとんど悲鳴のようだった。
片手で目元を覆ったそのとき、扉の向こうから足音が近づいてきた。はっと顔を上げ、カナンとアニナは同時に身構える。扉を開けて、見覚えのあるサハリィ当主が姿を現した。
「大変お待たせしました、総督閣下」
随分と遅れてきた割に、当主の姿に急ごしらえの雰囲気はなかった。身支度は整えられており、その表情には焦りというよりは面白がるような感情が浮かんでいる。カナンは立ち上がると、「いきなりの訪問で申し訳ない」と形式的に詫びを入れた。
顎を引いて正対し、カナンは当主を見据える。
「ラヴァラスタ宮殿にいる『ご息女』について話を伺いたく、訪問しました」
単刀直入に切り込むと、当主は一瞬虚を突かれたように目を丸くした。しかしそれも束の間のことで、すぐに飄々とした態度に戻ると、「はて」と白々しく首を傾げる。
「うちのフィエルがお気に召しましたかな。首長の妻にと送り出したのですが」
ぬけぬけとそう言い放った当主に、カナンも薄らと笑みを浮かべて告げた。
「お気に召しましたとも。……もし、彼女の身柄が欲しいと言ったら如何されますか」
一音ずつはっきりと発音すると、当主は探るように口を噤んでカナンを眺め回した。ややあって、「閣下もお人が悪い」と言うと頬を吊り上げる。
「こちらの言葉が堪能であるとは知りませんでしたよ。先日いらしたときは、わざと分からないふりをされていましたか」
カナンの言葉の内容には一切触れず、当主はおどけた仕草で肩を竦めた。話題を変えるつもりがないことを無言の態度で示せば、男はようやく腹を括ったように重いため息をつく。
「……場所を移しましょう。こんな表の部屋で話すような内容ではありません」
「お心遣いに感謝します」
有無を言わせぬ笑顔で頷いて、カナンは苦い顔の当主を凝視した。視線が重なる一瞬、ぴんと空気が張る。
「――お一人でいらしてください」
踵を返し、扉に手をかけたまま、当主が低い声で告げた。腰を浮かせかけていたアニナが息を飲み、目顔でカナンを窺う。その表情に、深い懸念が浮かんでいた。カナンは少し躊躇ってから、当主を振り返って「分かりました」とだけ答えた。アニナを横目で一瞥し、低い声で告げる。
「もしも俺が戻ってこなかったら、市街に待機させている兵を呼んでくるように」
「おや、随分と信用がない」
帝国語だったはずなのに、当主は当然のような素振りで口を挟んだ。『お人が悪い』のはどちらだ。カナンは思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。
「大丈夫ですよ、ただお話をするだけです。そうですよね、閣下」
正体の分からない笑みでそう言って、当主は片手でカナンを促した。それに応じながら、カナンは唇を引き結ぶ。久方ぶりのヒリつくような緊張感が、体の表面に押し寄せていた。
***
窓に布を垂らした薄暗い部屋で、当主が後ろ手に扉を閉じる。どうやら談話室のようだが、外の光が遮られた今はどこか薄ら寒く思えた。
「さて、と。あれについてのお話でしたか」
当主は穏やかな口調で切り出すと、部屋の中央に立ち尽くしたままのカナンに椅子を勧める。カナンは無言で浅く腰かけると、続きの言葉を待つように顎を引いた。
「あの娘が、何かしましたか? こちらは何も把握しておりませんが」
探るようにカナンを見据えながら、当主は向かいの席に腰を下ろした。
「いえ、ただ気になっただけのことです。以前に当主殿が仰っていたこともありますが、いざ目の当たりにしたら思いのほか素敵なご息女ですから、つい興味が湧いて」
目を眇める。当主の口元は柔和に弧を描いていたが、その眼差しは隠しきれずに鋭い光を湛えている。
「総督閣下でしたら、どんな高貴なご令嬢もよりどりみどりでしょうに、物好きですね」
「おや、彼女もサハリィ家の令嬢なのでは?」
苦々しい言葉尻に食いつくと、今度こそ当主は僅かに口元を引きつらせた。
「……元々、馴染みの行商人が拾ってきた娘でしてね、最近は盗賊による襲撃も頻発しているし、怪我をしている様子で、どうやらどこかから逃げ延びてきたみたいだと。行き場がないうえ役にも立たないし、ろくに言葉も通じない。だが見目は良いし素直な性根をしているから、引き取ってくれないかと持ちかけられました」
反応を試すかのような目つきだった。
「物覚えの良い娘でね、顔も良くて愛想も良いとあって、皆に好かれていましたよ」
一言おきに、視線がカナンの一挙一動を観察していた。カナンは努めて動揺を示さないように膝の上で拳を握るが、妙な恐れが腹に溜まっていくのを自覚する。当主の口から語られる娘は、とてもではないがエウラリカのこととは思えない。
素直で、愛想が良く、皆から好かれている。そんなのは、カナンの知るエウラリカとは似ても似つかない形容である。
(たかが、頭でも打って記憶をなくしただけのことで)
たったそれだけのことで、エウラリカが別人のように変わり果ててしまったことが、カナンにはどうしても許しがたく思えた。
「……それが、どうして宮殿へ行って、当主の娘を名乗る事態になるんですか」
「フィエルがあの娘をいたく気に入りましてね、連れて行きたいと駄々をこねたんです。向こうでの事件や、あの娘がフィエルを名乗っていることに関しては、いまいち情報が判然としないので分かりません。私の関知するところではありませんね」
当然のような態度で言ってのけた当主を、カナンは腕組みをして見据える。
「フィエル嬢と彼女は、酷く折り合いが悪かったと聞いています。そもそも、あなたは初めから彼女をアドゥヴァの妻として送り込むつもりだったそうですね」
「……なるほど」
微笑みを絶やさないまま、当主は呟いた。でまかせで誤魔化そうとしたことを悪びれる様子もなく、むしろ少々面倒がるような態度とも言えた。
「ちなみにその話は、どなたから?」
「宮殿内の情報提供者です。名前は明かせませんが、信頼できる」
「そうですか」
顎に手を添えて、当主の目線はカナンを探るように動いた。出方を窺うような目つきであった。薄らと口角を上げたまま、カナンはその視線を受け止める。
どうにも手応えを感じない相手であった。鋭く切り込んだつもりが、気づけばするりと逃げられてしまう。当主は核心に触れるような発言を意図的に避けているようだった。
攻めあぐねてカナンが眉根を寄せた直後、階下から突如として響いたのは、派手な破砕音と女の悲鳴である。
はっと息を飲み、両者は同時に腰を浮かせた。
(アニナの声に聞こえた)
カナンは息を詰めて体を固くする。アニナの身に何か起これば、帝国内が荒れることは間違いない。
「旦那様、総督閣下!」
程なくして扉が叩かれ、切羽詰まった声が呼びかける。顔を出した若い侍従は、よほど急いで走ってきたのか、額に汗を滲ませてぱくぱくと口を開閉させた。
「お……お客様が、乱闘騒ぎに……!」
「乱闘!?」
カナンは思わず耳を疑った。何が起こったら、ちょっと席を離したこんな短時間で乱闘騒ぎになるのだ。当主もこれは流石に予想外だった様子で、目を丸くして絶句している。
「どうやらその、打ち所が悪くて、気絶されているようで、医師は呼んだのですが」としどろもどろに語る侍従を見ながら、カナンはさぁっと血の気が引いていくのを感じた。
(アニナが大怪我でもしたら、大変な騒ぎになる)
ぐったりと倒れるアニナの姿が脳裏に思い浮かび、カナンは思わず唇を噛んだ。やはりアニナから目を離したのが間違いだった。彼女は人質であると同時に、ともすれば帝国の趨勢に影響を与えうる人間である。
***
「きゃーっ! どうしようどうしよう、私、そんなつもりじゃなかったんです!」
泡を食って向かった現場で、彼女は甲高い悲鳴を上げて頭を抱えていた。
(……すごく無事だ)
カナンは呆気に取られて通路に立ち尽くす。アニナはなおも落ち着かない様子でわたわたと足踏みし、医師の背中に向かって「大丈夫ですよね、死んでませんよね」と話しかけている。
「無事だから、少し静かにしていなさい」と叱りつけられて、アニナがしゅんと口を閉じる。そこでようやく、彼女は駆けつけたカナンに気づいたらしい。
「あ……あのねカナンくん、これはね、」
何も言っていないのに怒られると思ったらしい、アニナは及び腰で顔を引きつらせた。
「……何があったんだ?」
「あのぅ……私、ついびっくりしちゃって、突き飛ばしちゃって……でもわざとじゃなくて」
相当に動転しているらしく、アニナの返事は要領を得ない。一旦見切りを付けると、カナンは問題の地点へと歩み寄った。
窓のない通路である。床に膝をついてかがみ込む医師の向こうに、壁際にもたれかかったまま動かない男の姿が見えている。隣には棚から落ちたと思しき花瓶が真っ二つになって転がっていた。深く項垂れているせいで顔は分からない。カナンは医師に一言声をかけると、床に膝をついて男の顔に手を伸ばした。
目元に影を落とす前髪を慎重にかき分けて、その顔を覗き込む。男の正体を確認した瞬間、息が止まった。
「どうして、セニフさんが、こんなところに……」
アニナが小さな声で呟く。眉根を寄せて気絶している男は、宮殿を出発したときに遭遇したセニフその人であった。
「……散歩にしては、随分と遠出だな」
お互い詮索はやめませんか。そう言って唇の前に指を立てて微笑んで見せたセニフの表情が思い出される。明らかにきな臭いこちらの事情を聞きもしないのは、相手も同じく口外できない用事だったからだろう。
セニフの目的地がサハリィの街だったくらいなら問題ない。問題は、ここがサハリィ家の邸宅の中だということである。
(アドゥヴァの側近が、秘密裏に氏族家を訪れる目的は何だ?)
正当な用事であれば、宦官長ともあろう人間が、あんな未明に宮殿をこそこそと単身で出発する謂われはない。
「おやおや、これは……え?」
遅れて駆けつけてきた当主が、動かないセニフと青ざめるアニナ、険しい表情のカナンを見比べて呆然とする。出だしだけ余裕綽々としていた言葉尻が、すぐに困惑気味になる。
「こ……これは……一体、どういった事態ですかね?」
「俺も聞きたいですよ」
カナンは膝に手をついて立ち上がると、体ごと当主を振り返った。
「――セニフ殿は、一体どんな用でいらしていたんですか?」
穏やかな微笑みとともに語りかければ、彼は初めてはっきりと苦々しげな笑みを浮かべた。
お知らせ
短い番外編置き場(Dear my Femme Fatale - fragments)を開設しました。本編目次ページのタイトル上からアクセスできますので、興味のある方はどうぞ。
余談ですが、第二部後編は全29話を予定しています。よろしくお願いします。




