表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傾国の乙女  作者: 冬至 春化
灼ける砂国と伏流の矛先【後編】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

165/230

血塗りの王道2



 深夜、セニフに連れられて辿り着いたのは、大きな都市であった。昼間ならさぞや活気に溢れて賑々しい市街だろうが、馬に乗って駆け抜けた大通りは、今はとっぷりと闇に沈んでいる。それにしても、物音一つしない街だ。その不気味さに身震いする。

 まるで街全体が、何かから身を隠そうとするように、息を潜めているみたいだ。初めて目の当たりにする街だったが、目を凝らしても様子は分からなかった。こんなに大きな街なのに、酒飲みの笑い声ひとつ聞こえない。


「あともう少しです、ルクレシア様」

 ほとんど休むことなく走り続けて、およそ七日ばかりが過ぎた。街にもほとんど立ち寄っていない。だから火傷を負ったセニフはろくに治療を受けることもできず、容態は疲労も相まって、日に日に悪化しているように見えた。

「ここは……?」

 ぜいぜいと荒い息をつくセニフの胸に抱かれながら、ルクレシアは不安に首を竦める。暗い街並みはなおも深閑としていた。沈黙を慮るように、セニフが低い声で囁く。

「ここはナフト=アハール。殿下のお父上――陛下のおられる都です」

 その言葉に、ルクレシアははっと息を飲んだ。それではここが、目的地なのか。



 二人を乗せた馬は宮殿の正門を通り、広大な前庭を走り抜けると、衛兵の立つ玄関の前で止まった。ほとんど転げるように馬を降り、セニフに手を引かれて宮殿入り口の大扉をくぐる。


 暗い廊下が行く手に延びていた。

 衛兵たちは沈黙し、まるでルクレシアたちに気づいていないように前方を見据えている。侍女たちや巡回中の兵も、誰もが、二人が見えないかのように振る舞う。その人影が、ひとつ、またひとつと足並みを揃え、通路の両脇へ寄っては、表情を動かさずに深々と頭を垂れる。その誰とも視線が重ならない。

 等間隔に掲げられた燭台の灯りの狭間に、黒々とした人の輪郭が佇立していた。物言わず、ただ床を見据える眼差しは、しかし強い意志を放っている。


 異様な光景であった。宮殿内は、単に夜間であるというだけには収まらない、異常な緊張感に満ちている。息を吐くのも躊躇われるような気配である。セニフは何も言わず、足を引きずりながら手を引いて歩き続ける。

 侍女や文官、衛兵たちが並ぶ道の先に、細く開かれた扉があった。その向こうから光が漏れている。誰に言われずとも悟る。――王はあそこにいる。



 いくつもの明かりが灯され、磨き抜かれた石床に光が反射して、その部屋は深夜にもかかわらず眩しいほどだった。暗がりに慣れた目が、きらびやかな一室にきゅっと縮こまる。思わず目を細めてしまった。

 未だに現実味が湧かずに立ち尽くすルクレシアに、穏やかな声がかけられる。

「よく来たな、ルクレシア」

 鷹揚な仕草で手を広げた王の姿を目の当たりにして、ルクレシアは立ち竦んだ。玉座から腰を浮かせ、こちらへ歩み寄ってくる。胸を占めるのは、期待感と、それと同じくらい大きな怯えである。


 父だと聞かされても、実感は湧かなかった。こうして実際に向き合っても、『血の繋がり』などというものによる、不思議な絆を感じることもない。こんなものか、と内心で呟く。


 血縁など、こんな程度のものか。これなら、たとえ血が繋がらなくたって、ずっと一緒に過ごしてきたひとたちの方が、よっぽど近しいじゃないか。


 自分に言い聞かせるみたいに、心の中で唱える。たかが血縁なんてものが、これまで積み上げてきた人間関係を容易く超越するなんて、ありえない。そんなことが、あって良いはずがない。


「お前が無事で良かった」

 そう語る王は、長身の人であった。明るい髪色をして、少しだけ異国のような、不思議な雰囲気を放つ人だった。王が縦に長い身体を屈めて、目を細める。胸を開いて待ち構える父に吸い寄せられるように、一歩、また一歩と覚束ない足取りで進む。おずおずと両手が浮き上がる。顎をもたげて、その人の顔を目に焼き付けようとするように、呆然と瞬きを繰り返す。


 今まで、何度も鏡を覗き込んできた。自分に顔が似ているひとがいるって、どういうことなんだろう。幼心に不思議だった。アディとマーリヤは互いによく似ている親子だった。親子で似るって、どんな気分なのだろう。

 ――鏡を見ながら、ずっと認められないでいたのは、隠しきれない憧れだった。


 ちょっと吊り目気味の大きな目と、間近で視線が重なる。その瞬間、何かがすとんと胸の内に落ちた。

「おとうさん」と、考えるより早く声がこぼれ落ちる。


 大きな手が背に触れた。戸惑う間もなく強く引き寄せられる。温かい胸に全身を包まれた瞬間、言葉に言い表せない感慨がこみ上げた。声もなく、腕の力が強くなる。少しだけ行き場を失って宙を彷徨った両手を、恐る恐る父の背中に回した。

「お父さん? ……ほんとうに、わたしの、お父さんですか?」

 縋り付くように、指先が衣裳の布地に皺を作る。広い肩に顎を置いて、ルクレシアは浅い呼吸を繰り返す。胸が忙しなく上下していた。今にも泣き出しそうな、しかし感情はどこか遠くにあるような、奇妙な気分だった。



 しかし、父は感動の対面に時間を割くつもりはないようだった。呼吸五つ分の抱擁を終えると、腕を解いて身を起こす。

「もうじきこの宮殿はアドゥヴァの軍勢によって包囲される。それより早く、お前を逃がさなければならない」

 始めに呼びかけたときの柔らかい声音とは異なる、厳格な口調だった。まるで父が別人になってしまったかのように思えて、ルクレシアは顎を引いて上目遣いで父を見上げた。


「新たな戸籍を用意させた。既に事故死した、エフタの商人の娘ということになっている」

「エフタの商人の、娘……?」

 いきなり切り出された話題に、理解が追いつかずに目を丸くする。エフタの街は知っている。大きな街道から少し外れたところにある街だ。当然、縁はない。


「向こうの孤児院には渡りを付けてある。もちろん素性は伝えていない。氏族長の肝煎りで作られた孤児院だから、それほど不自由はしないだろう。名乗ればすぐに迎え入れてくれるはずだ」

 決定事項のように淡々と語る姿に、口を挟むこともできなかった。呆気に取られて、ルクレシアは立ち尽くしたまま頷く。


「これから、この土地は侵略者のものとなる。アドゥヴァは正統な継承者であるお前が生きていると知れば、見逃しはしないだろう。だからお前は、自分の生まれを決して誰にも語ってはならない。分かったね」

「わ……わかり、ました」

 ちっとも分からないけれど、震えながら首を上下させた。父の表情は厳しく、否を唱えることができる空気ではない。肩を強ばらせたまま立ち竦むルクレシアを、王はしばらく無言で見下ろした。


「――ルオニア・ドルテール」


 ぽつんと呟かれたのは、耳慣れない言葉である。何を意味する名前だろう、と首を傾げたルクレシアに手を伸ばして、父は目を伏せた。

「お前のもう一つの名前だ。私が決めた」

「名前……?」

 ぽん、と柔らかい手が、頭に乗る。るおにあ、と口の中で音を転がした。これが自分の名前だと言われても、どうにも座りが悪くて変な感じがする。居心地悪く身じろぎすると、父はくすりと笑った。

「お前にぴったりな名前だ。本当に……」

 ゆっくりと頭を撫でながら、父は静かに呟く。癖毛で量のある髪は密かに気にしている部分だったが、父はそれを愛おしげに指で梳いた。


「ルオニア……どういう意味の、名前なんですか?」

 こんなに長々と頭を撫でられたことなんてない。何だかくすぐったいような気分で、しかし父の手から逃げる気にもなれなかった。ルオニア(・・・・)は、上目遣いでそっと父を窺う。その名を告げたときの父の口調には、単に娘に名付けただけではない感慨が籠もっているように思えた。

 問うたルオニアに、しかし父は微笑んだだけだった。

「それが、お前が自分で見つけなければいけない答えだ」



 意味深な言葉を残して、父はそれ以上この話題を続けるのをやめたらしい。父が口を閉じたあとの沈黙は、この部屋に入ってきた直後とは違って、息のしやすい柔らかい気配に満ちている。

「最後に一目だけでもお前に会えて良かった。母親にそっくりだ。きっと美人で聡明に育つに違いない」

 口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、王は楽しそうに目を細めた。『最後に一目だけでも』 の意味が分からずに当惑したルオニアの肩を押して、父が重々しく告げる。


「――何としてでも生き延びなさい、ルオニア。たとえ誰にも出自を知られずとも、お前が何者にもなれなかったとしても、お前が生きていることに意味がある。この土地に、お前の血脈が継がれていくことに意味がある」

 歴史は、決して失われない。


 そう宣言した顔は凜々しく、王者の威風が漂っていた。気圧されて、ルオニアは思わず姿勢を正す。父の言葉は半分も理解できなかったが、自分の無事が祈られていることは分かる。

 だから必死で頷いた。父の顔は真剣で、背後に控えるセニフは自分のために大怪我を負って、この部屋に続く通路にいた人々からは言葉に表せぬ厳粛な決意が感じられた。


 既に窓の外は闇に沈み、玉座の両脇に立てられた燭台の上では、風もないのに蝋燭の炎が揺れている。音もなく蝋涙が滴る。

 炎が揺れる間隔が狭まっていた。不穏な気配が背後から迫っていた。夜間なのに城内には人がいすぎで、でも灯りは少なくて、……まるでそれは、何かの訪れを待っているかのような。



 行きなさい、と言うように、父は片手を動かした。その場でたたらを踏むように退いて、ルオニアは束の間、くしゃりと顔を歪めた。大声で喚いてしまいたい気持ちを必死で飲み下す。

「明朝の市場に向けて、もうじき馬車が出る頃です。子どもなら少しの金を払えば、エフタまで乗せてくれるでしょう」

 ルオニアの背に手を添えて、セニフが告げる。明るいところで改めて見てみると、彼の顔色は蒼白であった。幽鬼のように壮絶な姿だ。本当に酷い火傷だった。「乗り場までお供致します」とセニフが囁く。早く、と促すように背を押される。


 父の顔から、目が離せなかった。何かを覚悟した者の眼差しだった。

「お父さん、」

 呼びかけても、彼の表情はもう揺るがなかった。「王様」と呼びかけた直後にだけ、その口元がぴくりと反応する。


 この人はもう人の親ではなく、王という生き物になったのだ。直感的に悟る。目の当たりにした変容は、空恐ろしい転身に思えた。

 感情を切り離して、己を王の器に流し入れたようだった。その表情からは、躊躇いや恐れ、寂寥といった感情が消えている。それが寂しいのに、何故か不思議な憧れを抱いている自分がいた。

「……わたしは、あなたを継げますか? あなたみたいになれますか?」

 今度こそ王ははっきりと笑んだ。「分からない」と答えが返る。

「ただ、お前が探し求めた道の先がそれなら――」

 愛おしげに伸ばされかけた腕は空を切った。ルオニアは既に一歩下がったところにいた。それに気づいたように、王の目元に苦笑が浮かぶ。


「――善き王になりなさい、ルオニア」

 王と父の狭間から放たれた言葉だった。それで十分だった。ルオニアは小さく首を上下させて、くるりと踵を返す。セニフに付き添われて部屋を辞す。


 衛兵の手によって扉が閉ざされようとする間際に声が聞こえたのは、単なる風の悪戯かもしれなかった。

「さようなら」

 その語尾が震えていたのは気のせいか。はっと息を飲んで振り返ったときには、もはや王の姿は見えなくなっていた。



 ***


 未明の街外れには馬車が並び、荷物の積み込みが行われている。ルオニアは頭からすっぽりと上衣を被り、様子を窺う。

「私は、ここで失礼します」

 セニフは掠れた声でそう言うと、ルオニアの肩に手を添えた。馬車の周りで動いている大人たちは皆忙しそうで、一人で彼らに声をかけるのは恐ろしく思える。ついてきて欲しい、という甘えが、咄嗟にセニフの裾を引く。ナフト=アハールまでの道中では常に丁重で、何でも言うことを聞いてくれたセニフは、しかし今回だけは頭を振った。

「……ここから先は、お一人で」

 口調こそ柔らかかったが、有無を言わせぬ言葉尻だった。ルオニアは眦を下げて気弱な表情になったが、セニフが意見を曲げる様子はない。



「行ってください」

 大きな手が、そっと背中を押す。力のこもらない手だった。

「振り返らないで」

 ずるりと滑り落ちるように、その手が背から離れてゆく。すぐ後ろの足下で、重いものが地面へ倒れる音がした。苦しげな喘鳴が、不規則に繰り返される。


「…………。」

 ルクレシアは無言で、胸元の外套を強くかき寄せた。振り返らないで、と告げたセニフの声を反芻する。一度、大きく息を吸った。勢いを付けるように、大股で建物の影から歩み出して、馬車が並んでいる方へ近寄る。

「すみません、エフタの街へ行く馬車に乗せて欲しいんですけれど――」


 ああ、それなら……と男たちが顔を見合わせて、いくつか先に停められている馬車を指す。示された馬車の持ち主のところに行って、適当な嘘をついて少しの金を払って、そうしてルオニアは荷台の隅でくるりと丸くなった。

 恐る恐る首を伸ばして、先程曲がってきた角を窺う。セニフがいたはずの暗がりには、もう人影はなかった。


 しばらくして、馬車がゆっくりと動き出す。木箱に背を預けると膝を抱え、深く俯いた。膝に額を乗せたまま目を閉じる。振動が伝わってくる。

 ありとあらゆる感情が、高波のように次々と押し寄せては思考を攫ってゆこうとする。それらを端からひとつひとつ身体から切り離して、離れた場所へ置いてゆく。激情に身を任せてしまわぬように。絶望に飲み込まれてしまいそうな全身を、必死に保つために。


 夜はまだ明けずとも、ナフト=アハールは遠ざかる。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 更新お疲れ様です。 >> 「……わたしは、あなたを継げますか? あなたみたいになれますか?」 この質問ができるあたり、ルクレシアには王者の片鱗が垣間見えますね……
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ