水面下1
いつにも増して陽射しの強い日だった。しばらく屈んでいたので腰が痛い。
「ううー……疲れたぁ」
背を伸ばして両手を突き上げたルオニアに、「まだ半分よ」と手厳しい声が飛ぶ。思わず顔をしかめながら、ルオニアは渋々また屈んで作業に戻った。
宮殿内で出る廃棄物は種類ごとに分けて回収され、今日は布類が対象となっていた。服や布団、敷布なんかは少しくらい汚れたり破れたりしても、自分たちで繕って使うのが原則である。それでもやはり、どうしても使えなくなる布は出るわけで、
「……でも、こんなのまだ全然使えるよねぇ」
「そうよね、もったいない……自分で縫いなさいよ、これくらい」
二人揃ってぶつくさと文句を垂れながら、ルオニアとエウラリカは廃棄された布を漁って籠を引っかき回していた。
目的はもちろん縄を井戸から回収した相手を突き止めるため、まずは廃棄物の中に紛れていないかを探すことだが、これがなかなか難航した。
「絶対ないよ、なさそうだよ。私の勘がそう告げてるね」
「そういう詰めの甘さが命取りになるのよ」
互いにうんざりした顔をしながら、大きな籠の中身をひっくり返しては中身を検めて籠に戻していく。途中から愚痴を絶え間なく羅列するようになったルオニアとは対照的に、エウラリカはきゅっと唇を引き結んだまま寡黙に作業を続けていた。
全ての廃棄物を確認する、と譲らないエウラリカの気迫に押されて、ルオニアも額の汗を拭いながら籠を覗き込む。もしかしたら、最後の最後の一番底なんかに、隠れていた大事なものが見つかるかも知れないじゃないか。存在するかもしれない、何かが。
……結論から言えば、縄は発見されなかった。ルオニアは鼻息荒くエウラリカを振り返る。
「ほら言ったじゃん! 絶対ないって言ったじゃん!」
「あのとき、あなたも『勘』って言っていたでしょう。最後まで確認したからこそ可能性が一つ減らせたんだから、これは実績よ。間違いないわ」
きまり悪そうな態度で、しかしエウラリカは芝居がかった尊大な仕草で腕を組んで唇を尖らせた。何の成果もなく籠から出してまた戻されただけの布の山を前に、二人は無言で睨み合う。殺伐とした空気と緊張感がぴりっとその場に立ちこめ、――噴き出したのはどちらが先だか分からなかった。
あはは、とエウラリカが苦しそうな顔で体を折って笑い転げる。
「本当は、私も途中から少し望み薄かなって思っていたのだけれど、でもあなたがあんまり真剣な顔で探しているから、おかしくって……」
「ひどい! 『真面目にやれ』って言い出したのはどっちよ!」
ルオニアは憤慨して拳を振り上げた。エウラリカは近くの柱に手をついてまだ笑っている。
「もう……」
ルオニアは腕を組んで、鼻から長い息を吐いた。
***
「まあ、取りあえず『あれ』が捨てられてないことは分かったんだから、それは事実よね」
「それ、さっき私が言ったことじゃないの」
まさか聞き耳を立てている者もいるまいが、万が一ということもある。話題をぼやかして喋りながら、ルオニアはのんびりとした足取りで通路を歩いていた。宮殿の入り口から奥へ向かうと、『主通路』と呼び習わされている石畳の道は、回廊に接するところで二又に分かれる。
この道を右に行けば宦官らが仕事をしているお堅い区域に入るし、左に行けば寵姫たちが生活している区域になる。二階部に円形の回廊を持つ中央広場を回り込む形である。
「近道しようか」
「そうね」
とはいえ、主通路を素直に通る者はあまりいない。よほど重い荷物でもない限り、大抵は回廊に上がって、それぞれの目的地の方向に向かう通路に入っていくのが通例である。さながら車輪を上から見たように、回廊からは渡り廊下が放射状に広がっている。これがなかなか便利なのだ。
他の地面から膝の高さほどまで掘削された主通路から上がって、二人は回廊へ向かった。徒労感はあったが、エウラリカの言うとおり、ひとつの可能性を潰せたと思えば、……許せなくもない。
回廊へ上がる階段を上がる途中で、ルオニアは異変に気づいた。……妙に、人が多い。
「何かあったのかな、」
思わず急ぎ足になって、階段を一段飛ばしで駆け上がった。エウラリカも表情を厳しく引き締めて歩調を速める。
「――お願い、やめて、アディ!」
引き絞れるような声で哀願する声が耳に入った瞬間、心臓の中心に杭を打たれたような心地がした。
「お母さんのお願いよ、ねえアディ、お願いだから、もうこんな酷いことをしないで……!」
「マーリヤ様、」
掠れた声で呟いて、ルオニアは転げるように手すりに取りついた。
回廊の上からは広場が一望できる。ぱっと目に入るのは、中央で血濡れた剣を手に提げた男と、その足下で蹲る人影である。服装からして宦官のひとりだろう。地面に横倒しになったまま、脇腹を両手で押さえて、しかし体の下からは容赦なく、徐々に真っ赤な血溜まりが広がってゆく。
何らかの理由でアドゥヴァの不興を買ったのだ。一目で分かった。……だってこれは、彼がラヴァラスタ宮殿の主になってから、数え切れないほど繰り返されてきた光景だ。
でも今回がいつもと違うのは、アドゥヴァの腕に、その母が縋り付いていたことだった。マーリヤは両目から大粒の涙を零しながら、必死に息子を止めようと、剣を持った腕を胸の前に抱き込んで動かない。
「私は、我が子が、人殺しになるのなんて見たくない……!」
こうして見ると、マーリヤは本当に小さな女であった。細身で小柄な体は、アドゥヴァに比べてあまりにも無力だ。己の片腕を必死に抱きかかえる母を見下ろして、しばらくアドゥヴァは何の感情も読み取れぬ顔で立ち尽くしていた。
「……今更のことでしょう、母上」
氷のような声だった。マーリヤが息を飲むのと同時に、ルオニアもひゅっと喉が締まるのを感じた。その声には嘲笑すらも含まれてはおらず、ただひたすらに無関心な態度であった。
「あなたは俺のことなど一欠片も愛していない。母親である自分に酔っているだけだ。従順だったはずの俺が、あなたの意に沿わないのが気に食いませんか」
平坦な口調で、アドゥヴァは肩を鬱陶しそうに揺する。マーリヤはそれでも腕を掴んだまま放さず、茫然自失とした表情で息子を見上げた。
「そんなことないわ。アディ、どうして……どうして、そんな……」
譫言のように呟いて頭を振る。その指先が、袖の布地を手繰って皺を作る。マーリヤの顔が見る間に青ざめていくのが分かった。母を眺め下ろすアドゥヴァの表情が、次第に強ばり、険しくなっていく。それを見咎めた瞬間、ルオニアは広場に降りる階段を探して視線を走らせた。
アドゥヴァが顔を歪めて睥睨する視線の下で、マーリヤは涙ながらに告げた。
「――あなたがどんな人になったって、私は、あなたを愛しているわ」
その瞬間、アドゥヴァの喉から言葉にならない呻きが漏れた。まるで火が触れたように激しい動きで腕を振り払う。マーリヤは為す術なく突き飛ばされて地面に打ち付けられた。至る所で悲鳴が上がる。
「マーリヤ様っ!」
ルオニアは叫んで、二人の元へ向かう階段を目掛けて走り出した。エウラリカは顎を引いて腕を組んだ姿勢のまま動かない。
地面に倒れ込んだマーリヤは、しかしすぐに手をついて身を起こすと、膝でいざってアドゥヴァの足下に縋り付いた。
「本当よ、本当なの。……あなたの為なら、お母さん、何だってしてあげるわ。だからお願い、もう誰かを傷つけるのはやめてちょうだい……。あなたがこれ以上手を汚すのを、私は見ていられない……!」
膝をついたまま、両手を伸ばして必死に足下へ縋る母を、アドゥヴァは静かな面持ちで見下ろしていた。その両手は重みに任せてだらりと体の脇に垂れ下がっていたが、ふと、右腕がぴくりと動く。未だに鮮血が筋となって伝う剣先が、音もなく持ち上がった。
(まさか、)
恐ろしい予感に血の気が引く。階段を二段飛ばしで駆け下りながら、ルオニアは鋭く息を飲んだ。と、つるりと踵が段を踏み外し、その勢いのままつんのめる。
「わっ!?」
最後の数段をほとんど転げ落ちて、ルオニアは広場へ頭から滑り込んだ。ずざ、と乾いた地面が擦れる音がして、砂埃が上がる。
……束の間、完全な静寂が円形広場と回廊を満たした。
(やってしまった)
ルオニアは肘をついて上体だけ起こしたまま、無言で悟る。冷や汗がゆっくりと背中を伝う。地面に擦ってしまった額と鼻先、それと手のひらがひりひりと痛い。
こちらを横目で睨み、地鳴りのような低音でアドゥヴァが唸る。
「……お前、」
「ご、ごめんなさい、足が滑って……」
これはまずい。しどろもどろに言い訳をする一方で、脳裏では警鐘が激しく鳴らされている。ここに降りてきて何をするつもりだったのかは決めていなかったが、少なくともこんな間抜けで派手な登場をする予定はなかった。衆目が集まっているのを感じて、ルオニアは何とか立ち上がる。
「一体、何のつもりだ」
「そ、れは、」
ほとんど蹴り飛ばすようにしてマーリヤの手を払うと、アドゥヴァは大股でこちらへ歩いてきた。その手に提げられている抜き身の剣に、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。アドゥヴァの顔と剣先との間で、視線が素早く行き来した。
「あ……アドゥヴァ様、聞いてください」
何を言おうとしているのか分からないまま、両手を前に出して、なるたけ穏やかな声を出す。彼の感情がいつになく昂ぶっているのが分かった。怒りや苛立ちがない交ぜになった気迫が、その全身からひしひしと放たれている。思わず後ずさりしてしまいそうな圧力であった。
見物している人はたくさんいるのに、誰もが息を殺して気配を隠したまま、身じろぎ一つしない。誰も助け船を出してはくれない。異様に重く、張り詰めた空気が漂っていた。アドゥヴァの肩越しにマーリヤの姿が見える。事態を理解できていないような表情で、呆然と瞬きをしたまま地面にへたり込んでいる。その頬が涙で濡れていた。
母子の姿を見比べて、二人の目元や唇の形がよく似ていることに気づく。こちらを睨み据えるアドゥヴァを見つめ返す。その顔にマーリヤの面影を見つけた瞬間に、言葉に言い表せぬ感慨が沸き起こった。
「わ――私は、母の顔を知りません」
考えるより早くこぼれ落ちた言葉は、まるで要領を得なかった。アドゥヴァが目に見えて胡乱げな表情になる。
「でも私は、母のことをとても身近で大切な存在に感じています。それは、私の周りの人たちが、そのように言い聞かせて私を育ててくれたからです」
つっかえながら訳の分からない話を語るルオニアに業を煮やしたらしい、アドゥヴァは舌打ちをして踵を返そうとした。咄嗟に彼の腕を掴んで引き留めていた。
「親というものは大切な存在なんだと思います。母を知らない娘にもそれを説く人たちがいたのが証左です。私は、肉親というのは、やっぱり何物にも替えがたくて尊いものだと思います」
「何の話をしているんだ?」
母語のはずなのに、まるで不慣れな道具を左手で使うみたいに不格好だった。ルオニアは狼狽え、うまくまとまらぬ考えを口の中でもごもごと並べながらアドゥヴァを見上げた。
決死の覚悟で叫ぶ。
「――だ、だから、お母さんは大切にしなきゃいけないと思いますっ!」
言い分はまるで子どもの駄々だった。目の前の双眸が丸くなる。ルオニアは強く拳を握りしめたまま、膝から力が抜けそうになるのを堪えて踏ん張った。
……だってあなたが言ったんじゃないか。
『お前の母さんは良い人だったよ』と頭を撫でてくれた手が蘇る。穏やかな昼下がりで風の弱い日だった。今でも覚えている。
『あんなに立派な人の娘に産まれたことを、お前は誇らなきゃいけない』
揺るぎのない声だった。断言するアディの口調の力強さこそが、自分の足下を固める地盤だった。唯一の。
呆気に取られたような顔をして、アドゥヴァが絶句する。抜き身の剣を握り、半身に血を浴びた剣呑な姿なのに、不釣り合いな間抜け面であった。
「……はァ」
特に意味のない音が返ってくる。毒気が抜かれたような顔をして、アドゥヴァは数度瞬きをした。面妖なものを見るようにルオニアを一瞥し、それから舌打ちをすると剣を振って血を飛ばす。刃物を持つ腕が動いたことに咄嗟にびくりとしてしまうが、彼はそのまま無言で剣を鞘に納めた。
「お前には関係ない」
告げられたのは明快な拒絶のみであった。ルオニアは返す言葉もなく眦を下げる。一瞬の呆れが通り過ぎると、彼の一挙一動からは再び冷ややかで鋭い空気が伝わってきていた。これ以上食い下がるのは危ない。思考の隅でそう悟って、ルオニアは一歩、慎重に退いた。
「……俺以外の誰に、俺のことが分かるものか」
捨て台詞を残して、アドゥヴァは回廊へ上がってゆく。去って行く背中を見送りながら、彼女は虚ろな無力感を抱えて唇を噛んだ。
余計なことをした自覚はある。アドゥヴァとマーリヤが不仲なのも知っていた。幼い頃から、どこか一線を引いたようにぎこちない親子であった。でも、それでも……
『お母さんは大切にしなきゃいけないと思います!』
愚かにも、高らかに言い放った声が耳の底に蘇って、いたたまれなさに腹の底がきゅっと締まる。こんな当たり前の常識、わざわざ言わなくたって彼は十分にご承知のはずだ。
アドゥヴァの行く先を見届けようと顎をもたげたとき、柱の陰に佇む人影と目が合った。一瞬、それが誰なのか分からなかった。
柔らかな金髪が頬を覆い、その顔に影を落としている。まるで別人のようだ。エウラリカは身じろぎ一つせずに立ち尽くしていた。うっそりと、煙が細く立ち上るがごとく頼りない輪郭だった。
とりわけ鮮烈なのはその双眸であった。息が止まる。こちらに向けられていたのは、ほとんど軽蔑と言ってもいいような眼差しだった。頬は硬く強ばり、力の抜けた立ち姿は薄暗い背景に溶けていきそうに曖昧である。ぞっとするほどに昏い目をしていた。
「エウ、」
ルオニアは咄嗟に手を伸ばす。名前を呼びかけて、すんでの所で声を飲み込む。彼女は公の場で名を口にされるのを嫌っていた。口を噤んだルオニアを見下ろし、エウラリカが瞬きをする。
回廊の上から、エウラリカは何も言わずに冷ややかな視線を注いでいた。と、彼女は不意に顔を背けてルオニアから目を逸らす。ほんの些細な動作なのに、見捨てられたような心地がした。自分は、彼女をそれほど失望させることをしただろうか。慌ててエウラリカを追おうと階段に足をかけたところで、柔らかい手が背に触れた。
「あの、……あなた、フィエルさんのところの、侍女の方、よね?」
慎重にかけられた声に振り返ると、そこにいたのはマーリヤであった。痛めたと思しき膝を庇うような姿で、おずおずと顎を引いてこちらを上目遣いに窺っている。
「マーリヤ様」
アドゥヴァに突き飛ばされたせいだろう、その姿は砂にまみれ、手のひらや腕の擦り傷からは血が滲んでいた。ルオニアは泡を食ってマーリヤを支え、顔を覗き込む。
「大丈夫ですか」と言いながら階段を上がりきった頃には、エウラリカは既に回廊から姿を消していた。




