地下4
「……宮殿内での殺人事件について、探っているんでしょう? 何か分かった?」
まるで天気の話でもするかのように切り出されて、ルオニアは危うく階段を踏み外すところだった。とてもではないが、出し抜けに始めるような話題ではない。ぱくぱくと口を開閉させたルオニアを肩越しに振り返って、ライアが「ふふ」と笑う。
「宦官が殺害されていたのは、この近くだったものね」
そうだったのか、とルオニアは知らなかった事実に息を止めた。折しも通りがかった窓から外を見やる。……言われてみれば、あの朝、宦官が倒れていたのは、この区域の通路だった気がする。
「いえ、私、そんな、事件について探ってるだなんて……」
まさかカナンと一緒に『ライアが怪しい』などと推論していることなど、本人に言えるはずがない。自然と誤魔化すような響きになった言葉尻に、ライアは「ああ、」と合点がいったように頷いた。
「……私が犯人だと思う?」
どきん、と心臓が大きく跳ねる。咄嗟に否定の言葉が出てこず、ルオニアは目を見開いたまま黙り込んでしまった。その反応こそが答えだった。ライアが愉快そうに喉を鳴らす。ルオニアは首を竦めて唇を尖らせた。
「その……殺害された人の何人かは、あまり良い噂を聞かなかったので……そうした風紀の乱れで一番怒りそうなのは誰かなって考えたときに、ちょっとだけ思い浮かんじゃいました」
「そうねぇ。確かに私も、あとから話を聞いて結構怒ったわよ」
結構失礼なことを言ったはずだが、ライアの態度はあっけらかんとしていた。ルオニアはおずおずと顔を上げてライアを見つめた。
「……このラヴァラスタ宮殿は、王とその妻たちの住まいとして長いこと整えられてきた場所だわ。それを愚弄するような人間は、やはり受け入れがたい」
ライアの言葉に、ルオニアは無言のまま目を伏せた。『王』とその妻、か。
彼女があえてその単語を選んだのか、他意なく定義を語ったのかは判断が難しかった。少し躊躇ってから、ルオニアは言葉少なに問う。
「アドゥヴァ様が、宮殿内で人を殺していることは、どう思いますか」
「許せないわ」
返事に迷いはなかった。ゆっくりと、息を吸う。
「それって、」
彼女の発言を追究しようとした直後、前方からぶわりと大きな風が押し寄せるとともに、明るい陽射しが全身を覆った。ライアが階段の先の扉を押し開けたのだ。行く手を見定めるよりも前に、眩しさに負けて目を細める。
先程ライアが言っていた通り、塔の上には狭いながらも見晴らしの良い展望台が設えられていた。ルオニアは目を見張って眺望を見回す。
ライアは大股で風の中に歩み出すと、静かな笑顔でこちらを振り返った。長い黒髪がはためいていた。大人びた笑みであった。
「でも、私はナフト=アハールに仕えることを選んだ人間なの。もう子どもじゃない。目的の為に自分を殺す必要があるなら、私はそれを選べるようになった。……世の中にはね、駄々をこねても仕方ないことがあるのよ」
冷や水を浴びせられたような心地だった。ルオニアはその場に棒立ちになる。頭が真っ白になるのが分かった。
「あなたは、」
――諦めてしまったの? そんな言葉が口から零れそうになった。
だって、あんなにアドゥヴァに対して怒っていたのに、絶対許さないと語っていたのに。それをすべて、『仕方ない』の一言で済ませてしまうのだろうか?
過去を引きずっているのはお前だけだ、と突きつけられたみたいだ。もはや『ルクレシア』は死んだ生き物だ。その成れの果てが一丁前に民の平和を願うなんて馬鹿げている。……自分でも分かっている。
ルオニアが何を言おうとしたのかを正確に理解したわけではないだろう。しかしライアは、表情から不満げな意図は感じ取ったらしかった。眦を下げて曖昧に微笑む。
「私の心ひとつの問題ではないのよ、ルオニア。色々な事情や思惑が絡んでいるの」
「事情って? 何か取引したってことですか?」
「それは、教えられない」
ライアは唇の端を上げると、展望台の縁に設けられた手すりに肘を置いて身を乗り出した。その目線の先を追うように、ルオニアは首を巡らせる。宮殿の中でも、ここは一際高い位置にあるようだった。視界を遮るものはない。
宮殿の中心に鎮座する円形の回廊から、各々の棟に向かって通路が放射状に延びている。寵姫らの居住区はこの塔から見て回廊のちょうど反対側にあった。位の高い寵姫には離れが一つずつ与えられることもあって、あちらは細々とした建物がいくつも建ち並んでいる。その隙間を縫うように、小径が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
居住区に隣接して、庭園が広がっている。風に揺れる木々の梢の隙間から、真昼の光を受けて輝く広大な水面がさざめいた。こうして見てみると、予想よりも大きな泉である。水際から眺めているよりもずっと大きい。
「綺麗な都でしょう、ナフト=アハールは」
ライアの口調は誇らしげであった。彼女の視線はルオニアと反対を向いており、そちらを振り返れば、数々の尖塔や丸天蓋の向こうに街並みが広がっているのが見える。思わず目を見張った。
「高いところからナフト=アハールを見るのは初めてです。……宮殿の中から、外を見ることができるなんて知らなかった」
風に煽られる髪を耳にかけながら、ルオニアは長い息を吐いた。
この宮殿は外界から閉ざされ、外を望むことすら許されない檻なのだと思っていた。先程エウラリカとともに抜け道を見つけたものの、それを抜きにすれば――おいそれと出ることは叶わない塀の中なのだと。
宮殿の内外は隔絶されており、互いに垣間見ることもできないものだと思っていた。そうしたことを言葉少なに伝えると、ライアは意表を突かれたように瞬きをした。
「それは違うわ」
その表情に迷いはない。体ごとこちらを振り返ったライアを見上げて、ルオニアは目を丸くする。
「宮殿――すなわち王とは、民があって初めて成り立つもので、逆も然り。……どちらが欠けてもこの都市は意味をなさないし、どちらかが見えないままでは歯車は決して噛み合わない」
淀みのない口調で言い切ってから、ライアは我に返ったように耳を赤くして頬を掻いた。真面目な顔をしていた反動か、気恥ずかしそうな素振りで目を伏せる。
「私も、そう思います」
ルオニアは短くそう答えると、「でも」と顔を伏せた。
「……今のラヴァラスタ宮殿のありかたは、理想に逆行しているようにも思えます」
ライアがほほえむ。感情が読めない、整った笑みであった。「そうね」と答えた言葉の真意を掴みかねて、ルオニアは無言のままたじろぐ。
と、どこかから風に乗って運ばれて来たような声が薄く聞こえて、ルオニアは眉を上げた。何だろう、と首を巡らせたところで、ライアが前触れもなく「そろそろ戻るわ」と呟く。
「鍵はかけないでおくから、放っておいて良いわよ」
そう言って、ライアは踵を返して塔を降りていった。その後ろ姿を見つめて、ルオニアはきょとんとして立ち尽くす。
耳を澄ませると、声は塔の下から聞こえていた。手すりから身を乗り出して外を見下ろすと、通路の戸口のところで数人の少女がこちらを見上げて手を振っている。
「ライア様! お茶が入ったので休憩にしませんかー!?」
溌剌とした声を聞きながら、ルオニアは既に階下へと姿を消したライアの方を振り返った。確か、あれはライア付きの侍女たちだ。お茶にしませんかと声をかけられて、すぐさま塔を降りたということだろう。ルオニアは思わずくすりと笑みを漏らした。
「おいしいお菓子も、ご用意しましたよー!」
明るい声が響き渡る。開けっぴろげな笑顔を見下ろして、息を吐く。殺伐とした宮殿内に、清涼な風が吹いた気がした。
***
「はー……疲れたわ」
ぐったりと寝台の上に倒れ込んだエウラリカを見下ろして、ルオニアも「うん」と躊躇わずに同意した。
「まさか、こんな大冒険をすることになるなんて……」
「大冒険ってほどではないでしょう。距離で言えばそんなでもないわよ」
「危険とか不安とかの話をしてるのっ! あと水平方向じゃなくて上下の移動で言ったら最大距離を更新したよ、絶対」
こんな目に遭うなら先に言ってよ、とエウラリカの脇腹をつついて文句を言うと、「やめて」と身を捩って避けられる。
枕に頭を乗せて仰向けになったエウラリカは、聞こえよがしにため息をついた。
「私だってもっと早く切り上げるつもりだったわ、初日だし」
「しょにち?」
「でも井戸の縄が何者かによって回収されていたせいで、事態がこじれたのよ」
「ねえ、初日ってどういうこと? ちょっと」
ルオニアの突っ込みを完全に黙殺して、エウラリカは足を組んだ。しかし井戸の縄に関する問題は重要事項である。ルオニアも寝台の縁に腰掛けると、腕を組んで眉根を寄せた。
「少なくとも、私たちが井戸に入るところは見られてないはずだよ。旧炊事場の辺りは見通しが良いし、隠れて覗き見ができるような立地でもないから、その点は大丈夫だと思う」
「つまり、私たちが市街地の方まで行って戻ってくる間に、誰かがあの井戸のところまで来て縄を回収していったってことよね。元々あった縄も回収されていた」
「何のために?」
「…………分からない」
エウラリカはたっぷり沈黙してから首を振った。あやしい、と目を細めて睥睨するが、エウラリカはそっぽを向いてしまって答える気はないらしい。
「でも、何の目的もなく縄を回収するかなぁ。確かにあの布を繋いで作った縄はめちゃめちゃ怪しいけど、一応井戸に下がっているものなんだし、勝手に持って行っても使い道はないだろうし……」
「ただ気まぐれで盗んだだけなら、犯人は近いうちに縄を廃棄するんじゃないかしら。布類の回収っていつ?」
「次の回収だと……明後日の朝かな。宮殿の入り口」
「じゃあそこを見張りましょう。洗濯の際に気に入りの服をどこかに飛ばしてしまったから探しているとでも言えば良いわ」
仰向けで頭の下に両手を差し込んだ間抜けな姿勢なのに、エウラリカの口調にふざけた様子はなかった。天井を見据える視線は鋭く、言外に思考が渦巻いているのが目を見ただけでも分かる。
「もしも縄が見つからなかった場合、相手はあの井戸が別の場所に通じていると分かっている可能性がある。だとしたら、私たちが地下通路を使ったことを知られるのはまずい」
体を起こして、エウラリカが片膝を立てた。足首の辺りに回した指先が小刻みに動いている。
「あの、井戸を、知っている人間……」
低い声で呟いているエウラリカの横顔を、ルオニアは不思議な心地で眺めていた。
頭の良い人なのだろうな、と思った。こんなに顔も良いのに、頭まで良いのは何だか少し劣等感を覚えてしまう。でも別にどちらも、エウラリカがずるをした訳でもないのだ。どちらも彼女が偶然持ち合わせた才能で、努力の結晶である。
何となくカナンの顔が思い浮かんだ。エウラリカを見ているとカナンを思い出すのはどうしてか。ふとした仕草や視線の動き、表情のひとつひとつが、二人はよく似通っていた。
「……カナンがね、エウラリカを分かってやれるのは自分しかいないって言ってたよ」
エウラリカには、あの男が心酔するだけのものがあるのだろう。ルオニアにはまだ掴みきれないところだ。
聞こえているだろうに、エウラリカはゆっくりと瞬き一つしただけで答えなかった。ルオニアはその表情をじっと注視したまま、慎重に口を開く。
「――自分を分かってくれるのは、あなたしかいないって、言ってた」
束の間、彼女の目に鮮烈な痛みが閃いた気がした。唇が引き結ばれる。すっと通った鼻筋に、窓辺から差し込む光が当たっていた。
「思い上がりに買いかぶりよね。愚かだわ……」
脛を抱え込み、膝に顎を置いて、エウラリカが目を伏せる。睫毛の先に光が宿る。
「人と人は分かり合えないわ。たとえ血が繋がっていようといまいと、共に過ごした時間の長さなど意味もなく、想いの強さや、思想のありかたや、交わした言葉の数も巧拙も、何も関係ない。どんなに言葉を尽くしたって本心を語っているかは分からない。隣に立っていたって同じものが見えているとは限らない。かたく手を繋いで眠っても同じ夢は見られない。他人を『分かる』と表現することが、いかに傲慢か……」
そう言って、エウラリカは頭を腕で覆うようにして顔を伏せてしまった。
「――私は、理解者なんていらない。全部自分でやるって決めたんだから」
まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。咄嗟に何か声をかけようとして、その背中が震えていることに気づいて喉が詰まる。
もうじき日が暮れる頃だった。ほのかに赤みを帯びてきた部屋の中で、エウラリカの背中はやけに小さく見えた。「それでもさ、」とルオニアは小さな声で、その背中に手のひらを押し当てた。小さな背だった。
「それでも、忘れないでよ。あなたのことを分かりたいし、少しでも力になりたい人が、この世界にいるんだよ」
エウラリカの返事はなかった。




