地下2
「これ、一体何なの?」
エウラリカは本当に用意が良い。いつの間にか懐にしまい込んでいたらしい蝋燭に火を付けて先導する彼女の背中に、ルオニアは恐る恐る声をかけた。声は吸い込まれるように響き、この通路が相当に長いことを窺わせた。
「多分この通路は、ナフト=アハールの外まで繋がっているわ」
通路の様子をしげしげと眺め回しながら、エウラリカはそれだけ答える。彼女の顔は手に持った蝋燭の明かりで下から照らし出され、怪しく揺らめいていた。
「街の外に繋がっているって……」
足下は平らだが、見る限りではほぼ円筒状の横道のようだ。床面は石畳で舗装されており、明らかに人為的に作られた通路である。いつから存在していたのだろう? あの井戸が掘られたときと同時だとすれば、少なくとも旧炊事場が使用されていた頃よりは前に違いない。
「元々は用水路として作られたのかしら。水の少ない砂漠地帯によく見られる構造だと本で読んだことがある」
エウラリカは淡々と呟き、元来た道を振り返る。通路はひんやりとして湿っているが、水の気配はない。
「ナフト=アハールは、主街道に面した正門から見て、宮殿が最も奥に位置する形になっている。ラヴァラスタ宮殿の背後には斜面があるし、地下水を地表まで引くための灌漑施設が設けられていたのかもしれない」
彼女の話しぶりには淀みがなく、ルオニアは黙って頷くばかりである。エウラリカの背を追いながら、ルオニアは首を傾げた。
「設けられて『いた』ってどういうこと? この水路、全く水が通っていないみたいだけど……」
ラヴァラスタ宮殿の庭園には、今もなみなみと豊かな水が湛えられているはずだ。それなら水は一体どこから来ているというのだろう?
「手入れがされなくなり、砂が入って通水できなくなったのかしら。……でも確かに妙ね」
エウラリカも同じことに思い当たったらしい。庭園の泉には確かに水が湧いている。水路であの水が引かれているとすれば、これはおかしい。
ルオニアは顎に手を添えて、記憶を浚った。
「昔いた街で見たから、私も地下水道の構造については何となく知ってるよ。でも、ナフト=アハールにそれが作られたという話は聞いたことがない。ナフト=アハールには自噴井が複数箇所あって、市街地なんかだと土地の所有者が管理しているところがほとんどだって。井戸もあるにはあるけど、掘れば結構すぐに地下水にたどり着くから、遠方から水を引く必要もない」
そう伝えると、エウラリカは「そう」と頷いて、俯きがちに沈思する。その表情は真剣そのもので、あまり茶化したりする気にはなれなかった。釣られてルオニアも真面目な顔で周囲を見回してしまうが、分かることと言えば、この通路が随分と堅牢な、一貫した構造で作られていることくらいである。
『自噴水のオアシスに地下水道を併設した? どうして……』
エウラリカは前方で何やら一人でぶつぶつ言っているし、内容も聞き取れない。蝋燭を掲げていた手が徐々に傾き、彼女が身じろぎした拍子に、炎が大きく揺れた。一瞬だけ辺りが暗闇に包まれる。思わず前方のエウラリカに抱きつくと、「やめて」とにべもなく振り払われた。
「火を持っているんだから危ないでしょう」
「ごめん」
今度はしっかりと叱られ、ルオニアは首を竦める。何だか本当に近づきがたくなってしまった。これが元々のエウラリカだったのだと思えば仕方ないけれど、友人であるフィエルが消えてしまったようで少し寂しい。
ふと、エウラリカが息を飲む。目を疑うように首を巡らせた。掠れた声で呟く。
『水路じゃないなら、この構造、まさか――』
異国語と思しきエウラリカの言葉の意味は分からない。けれど、それが怯えるような響きをしていることだけは分かる。「大丈夫?」と顔を覗き込むが、返事はない。彼女の両目は大きく見開かれていた。
『――どうして、こんなところに』
無視に次ぐ無視の連続に、ルオニアはふて腐れて膨れていた。が、そこで行く手を見やって目を丸くする。
「ちょっと、分かれ道があるよ」
「ん?」
肩を叩くと、エウラリカは顔を上げて足を止める。前方に真っ直ぐ続く道と、横に逸れる脇道である。一本道だと思っていたから入ってきたのだが、迷路のようになっているなら話は別だ。ルオニアはエウラリカの腕を掴んで軽く揺すった。
「ねえ、一旦戻ろうよ、エウラリカ……」
「待って」
エウラリカは足早に分岐点まで向かうと、地面にかがみ込んで足下を調べ始める。程なくして「こっちだね」と彼女は脇道を指して断言した。
「な……何で?」
もうエウラリカの話についていくのがやっとである。ルオニアは顔を引きつらせ、懐疑的にエウラリカを見やった。
エウラリカは手を使わずにひょいと腰を浮かせると、少し躊躇ってから目を逸らした。
「……人が歩いた痕跡があるから」
「こんなところを歩いている人が他にいるの!?」
勢いよく聞き返すと、彼女はますます言いづらそうに顔を背けてしまう。何かあるらしい。ルオニアは口を開閉させ、動揺を必死に押し殺した。
まさか自分たちの生活していた足下にこんな通路があって、人が行き来していただなんて。知って初めて、恐ろしさというか怖気というか、決して愉快ではない気分が込み上げる。
……と、いうより、だ。ルオニアは腕を組んで通路を見渡した。
「じゃあ、宮殿には誰でも出入りができる状態だったということ? そうなると、これまで宮殿内で人が相次いで殺されているのも事情が変わってくるよ」
「いえ、それはないわ。あの井戸の滑車に元からかけられていた縄で上り下りするには耐久性が足りないし、他の縄やその類が使用された痕跡もなかった」
「『上り下りするには』耐久性が足りない?」
どこか含みのある言い方をしたエウラリカの言葉を拾い上げると、彼女は失言に気づいたように舌を出した。あー、と曖昧な音で雑に誤魔化して歩き出したエウラリカに併走しながら、ルオニアはその顔を覗き込む。
「前にもあの井戸のところにいたよね。……一体、何の用事があったの?」
声を潜めて問うと、エウラリカは黙り込んだ。しばらく無言で歩いてから、「この話は今はやめましょう」とだけ答えた。
「この環境で私たちが仲違いして乱闘にでもなったら、止めてくれる人もいないまま白骨になるだけだわ」
いまいち冗談なのか本気なのか分からない口ぶりである。思わず口を噤んで真顔になると、「冗談」と補足が入った。全然冗談にならない。そうした感情が伝わったのだろう。エウラリカは唇を尖らせて黙り込んでしまった。
前をゆくエウラリカは少し気落ちしているように見える。確かに、こんな得体の知れない暗い場所で言い争うのは嫌だ。ルオニアはエウラリカの隣にぴったり寄り添うと、「ごめんね」と肩をぶつける。
「ううん」
エウラリカは頭を振り、それから蝋燭を持つ手を頭の高さにまで掲げた。その視線の先を追って、ルオニアは息を飲む。
真っ直ぐに続く通路の中ほどに、頭上から光が降り注ぐ一箇所があった。蝋燭のささやかな明かりとはまるで違う光量に、束の間目が眩む。エウラリカは短く息を吹いて火を消すと、持ち手にしていた布で蝋燭を包んで懐にしまい込んだ。
「ここから地上に出られるみたいだね」
エウラリカは目を細めて、光の落ちる地点に立って上を仰ぐ。縦穴がずっと上まで伸びているのを確認して、ルオニアは「おお……」と感嘆のため息を漏らした。ずっとどこにも辿り着けず、同じ道を引き返す覚悟をしていた頃である。蝋燭一本分にも満たない時間だが、陽の光がこの上なく恋しかった。
「多分ここが目的地で合ってる……はず。他に分かれ道もなかったものね」
エウラリカは腕を組んで満足げに頷くと、縦穴との距離を確かめるように手を伸ばす。縦穴の壁面には昇降用の踏み台が取り付けられているが、地下通路は立って歩くことができる程度には高さがある。エウラリカの身長では、手を伸ばしても一番下の段には手が届かなそうだ。
「どうするの?」とルオニアが声をかけるのとほぼ同時である。エウラリカは膝を曲げて屈伸すると、腕を振り上げて思い切り地面を蹴って飛び上がった。指先で踏み台の端を捕らえ、そのまま強く握り込むと体を振って足を引き上げる。隧道の壁面を一度軽く蹴り、エウラリカはするりと身軽に縦穴内へと潜り込んだ。
「おお……」
ルオニアは腰に手を当ててその様子を見上げる。数段上がった先で、エウラリカが「登れる?」とこちらを見下ろしていた。どこか挑戦的なその言葉に、ルオニアは思わずふっと息を漏らす。
「楽勝」
腕を振って勢いをつけ、ルオニアはその場で軽く飛んで段へ手をかけた。「あら、お上手」とエウラリカは面白がるように頬を緩めて、そのまま素早い仕草で梯子を登ってゆく。その足を追って、ルオニアも一息で縦穴を上っていった。
***
活気のある露店街を歩きながら、ルオニアは人いきれに揉まれて目が回るような心地だった。
「ルオニア、こっち」
人酔いしたのか、どうも足下がふわふわとして心許ない。頭上から燦々と降り注ぐ陽射しも相まって、ルオニアはすっかり参ってしまっていた。エウラリカに促されるがままに、大通りから外れた路地の日陰に転がり込む。
「大丈夫?」
暗がりにしゃがみこんだルオニアを、エウラリカが身を屈めて覗き込んだ。
「……外に出たの、久しぶりだから、何かびっくりしちゃって」
膝に手をついて呟くと、エウラリカは少し黙ってから「そっか」と微笑んだ。隣に座り込んで、「ずっと宮殿の中にいたのね」とどこか遠くを見るように呟く。
「いつから?」
エウラリカの声が優しい。ルオニアは乾いた地面に目を落として項垂れた。少し考え込む。
「小さいときから。十三とか四とかそれくらいだったよ、それ以来ずっとラヴァラスタ宮殿の中しか知らない」
まだ幼い少女だったときに宮殿に入り、それからずっと下女として息をひそめて生きてきた。宮殿に入った理由は他の少女たちとさして変わらない。一人では食っていくことができなかった。それだけだ。
「その前は?」
「孤児院」
間を置かずに答えると、エウラリカはすっと目を眇めた。まるで探るような眼差しだった。
「両親は?」
「父親に一度会ったきり。母親は私を産んですぐに亡くなったって」
聞かれたくないと素振りであからさまに示せば、エウラリカは怯んだように口を噤んだ。こちらを慮るように、しばらく黙って様子を窺う。
「そう」
ややあって、エウラリカは短く頷いた。再び言いあぐねるように中空を眺めてから、慎重に口を開く。
「狭い箱庭の中しか知らないことは、得てして無知として語られるわ。確かに、外へ打って出なければ分からないことも沢山ある。でも叡智や歴史、記憶とか、意志とか――そうした大切なものはすべて、内に積み重なっていくものだから」
何だかよく分からないことを言って、エウラリカは少しばつが悪そうに顔を背けた。ルオニアは数秒間首を捻って彼女の横顔を眺め、それから更に首を捻る。
「……もしかして今のって、励まそうとしてた?」
無粋かと思いつつ訊くと、エウラリカは目に見えて気まずそうな態度で「別に」と鼻を鳴らす。どうやら図星だったらしい。ルオニアは咄嗟に口元に手を当てて噴き出すのを堪えた。
「エウラリカ、あなた記憶が戻って口下手になったんじゃないの」
「そういうのはね、わざわざ面と向かって確認するようなものじゃないのよ」
素っ気なく吐き捨てたエウラリカを眺めながら、ルオニアはカナンの顔を思い浮かべていた。なるほどこれは、何だか……くせになりそうだ。しげしげとエウラリカを観察していると、彼女は居心地悪そうに身じろぎしてこちらを一瞥する。
「気分は治った? 本当なら何か飲み物でも欲しいところだけれど、お金なんて持っていないし」
「うん、大丈夫……だと思う」
ルオニアは頷くと、膝に手をついて一息で体を起こした。と、その拍子にくらりと立ちくらみが襲って、踏ん張りきれずに近くの壁面へ後頭部を打ち付ける。そのまま壁にもたれたルオニアに、エウラリカは「ちょっと、大丈夫?」と目を丸くして立ち上がった。
「うう、支えてくれたって良かったじゃない。薄情者……」
頭をさすりながら恨みがましく見やると、エウラリカは「いきなりだったもの」と目を逸らした。
「せっかく出てきたから観光でもして帰ろうと思ったけど、ルオニアの調子も悪そうだし早めに戻ろうか」
まさかの計画が存在していたことを明かしながら、エウラリカが腕を組んで結論を出す。ルオニアは思わず絶句した。どうやら、あんな地下通路を使って宮殿から脱走した挙げ句、ナフト=アハールの市街観光としゃれ込む予定だったらしい。宮殿からの無断脱走なんて、もし発覚したら、一番良くて死罪くらいのものだ。豪快や大胆なんて言葉では表しきれない。
呆れ果てながら、ルオニアは「そうしてくれると助かるかな」とだけ答えておいた。




