地下1
ルオニアの章
一夜明け、改めて目の当たりにした友人は、まるで別人のようだった。
「連続殺人の犯人は既に把握しているわ」
あっさりとそう言ってのけた『エウラリカ』に、ルオニアは呆気に取られて絶句する。どう考えても、こんな雑談みたいな口調で言うような内容ではない。
「でもルオニアには教えられない。あなたのことは信頼しているけど、あなたが誰かに騙されている可能性も否定できないし、情報が漏れれば私が殺されるもの」
歯切れの良い口調でそう言って、エウラリカは部屋の隅の戸棚を開ける。屈んで彼女が取り出したのは一抱えほどの箱である。植物を編んで作られた籠の蓋を開ければ、中には細々とした物品と布地が詰め込まれている。
こんな箱がしまわれていたなんて知らなかった。ルオニアはエウラリカの背後から箱を覗き込む。
「なに、それ」
「私物。まあ昔の服とか、装飾品ね。何なのか分からないなりに、持ってきておいて良かったわ」
言いつつ、大きな白い布地を取り出すと、エウラリカは短く鼻を鳴らした。箱の底に転がっていた短剣を取り上げ、躊躇いなく鞘を落とす。物々しい短剣である。鍔のところに、見慣れない紋様が施されている。何だろう、とルオニアは目を凝らした。……太陽と、月?
と、エウラリカがいきなり刃先を布に当てる。ルオニアが止める間もなく、彼女は表情一つ変えずに布を切り裂いた。新品ではなさそうだったが、見るからに上質な布だったのに、もったいない。唖然とするルオニアをよそに、エウラリカは手早く布を細長く切っては端を結び合わせている。
「な……何してるの?」
「縄を作ろうと思って。この宮殿じゃ欲しいものがすぐ手に入らないの、不便よね」
言いながら、エウラリカはさっさと縄を完成させてしまう。数度結び目を引っ張って強度を確認すると、「うん」と頷いて立ち上がる。
結び終えた縄を巻いて肩にかけ、エウラリカは外套を羽織りながらルオニアを振り返る。
「少し出てくるわ。他の侍女たちには上手く誤魔化しておいてね」
言い残して部屋を出て行こうとするエウラリカに、ルオニアは「待ってよ!」と声をかけた。ようやく我に返り、エウラリカの服の裾を捕まえたまま肩で息をする。
昨日の夕方のことである。フィエルは突如として自らを『エウラリカ』と名乗り、人格が変わったかのように言動も様変わりした。元々彼女が砂漠に来る前の記憶がないと語っていたことからしても、可能性は一つである。
「全然分かんないよ、フィ……じゃなくて、エウラリカは、記憶が戻ったの? 何者なの? これから何しに行くの?」
「落ち着いてよ、ルオニア。質問は一つずつよ」
くすくすと笑うエウラリカは、以前よりうんと大人びたように見える。ルオニアは床に座り込んだまま、エウラリカを見上げて眦を下げた。……これまでずっと仲良くしてきた友人が、跡形もなく消えてしまったみたいな気分だ。
エウラリカは振り返り、ルオニアの前にしゃがみ込んで目を合わせた。指先を揃えて膝を抱え、首を傾けて微笑む仕草には気品が漂っている。これまでにはなかった気配である。その眼差しには怜悧なきらめきが宿っていた。
「まあ、驚くわよね。無理もないわ」
エウラリカはこめかみに指先を当てて苦笑しながら、小さく嘆息した。憂いのある眼差しに厭世的な感情が混じる。
「私が何者かという問いには、『エウラリカ』としか答えようがない。……賢いルオニアなら分かると思うけれど、この名前は決して他言しちゃ駄目よ」
甘やかすような口調で、エウラリカが自らの唇の前に人差し指を立てた。「良いわね?」と目を眇められ、咄嗟に頷いてしまっていた。エウラリカがこれ見よがしに短剣を掲げたせいもある。
「良い子ね」
エウラリカはにこりと微笑んで、優しい表情で頷いた。窓辺から差し込む光を頬に受け、彼女の顔が明るく照らし出された。それを見て、思わず体が強ばる。
(誰かに似ている)
既視感に眉をひそめ、ルオニアは目を見開いてエウラリカを見上げた。しかし、こんなに綺麗な顔をした女なんてそうそうお目にかかれるものではない。誰かに似ていたら大問題である。じっとエウラリカの顔を見上げるが、既視感の正体は掴めなかった。
ルオニアの視線に気づいて、エウラリカが僅かに笑みを深めた。ふ、と息を漏らして頬を吊り上げる表情を目の当たりにした瞬間、ルオニアは目を丸くしていた。……ちっとも面立ちが似ていないはずのカナンの姿が、脳裏に浮かんだのである。
頬に落ちてきた髪を耳にかけ、エウラリカが腰を浮かせる。
「これから何をするのかという問いに関しては――」
背筋を伸ばし、彼女は腰に手を当てて暗い部屋の隅に目をやった。黙考するように口を噤み、それからこちらを振り返る。
「一緒に行きましょう、ルオニア。あなたも知っておいた方が良い」
挑戦的な表情であった。ルオニアは一瞬臆して黙り込んだが、床に手をついて勢いよく立ち上がる。腹を決め、大きく頷いた。
「……分かった。私も行く」
ん、と微笑んだエウラリカの背を追って、ルオニアは早足で歩き出した。
***
立ち並ぶ居住区の前を横切るように、大きく弧を描く通路が延びている。エウラリカは慣れた足取りで石畳の通路を歩きながら、時折周囲を窺うように左右へ視線を走らせていた。
彼女が向かう方向を思い浮かべて、ルオニアはぴんと来て眉を上げた。
「ねえ、エウ……」
「ルオニア。外では、『フィエル』と」
ぴしゃりと制されて、ルオニアは咄嗟に唇をすぼめて言葉を切った。人に命令することに慣れた人間の口調である。とはいえ彼女の言葉遣いに険はなく、何気なく指摘しただけのようだった。
「フィエル」と言い直して、ルオニアは三歩ほど大きな歩幅で進むとエウラリカに並ぶ。
「……カナンに、会いに行くんだね?」
耳元で囁いた瞬間、エウラリカは初めてぴくりと眉を跳ね上げ、明確な反応を示した。顔ごとこちらを振り返り、眉根を寄せる。
「あれを知ってるの?」
「知ってるも何も、カナンはあなたに近づくために私に接触してきたようなものだよ。結構執念深く……」
エウラリカはしばらく完全に沈黙してから、「あの馬鹿」と低い声で毒づいた。毒づきつつ、その口ぶりに心底の嫌悪や怒りは見られない。呆れたような、しかし砕けた口調であった。その表情をつぶさに観察しながら、ルオニアはちょっとだけ唇を尖らせた。……どうやら、カナンが嫌がるエウラリカを一方的に追いかけ回しているという訳でもなさそうだ。
「部屋の場所なら私が知ってる。急ごう、――今日中にでもカナンが宮殿を出てっちゃう」
言うと、エウラリカは素直に頷いてルオニアの先導に従った。
結論から言えば、カナンの部屋は既にもぬけの殻であった。どれだけ扉を叩いても返事はなく、耳を澄ませても人の気配はない。ルオニアは思わず項垂れながらエウラリカを振り返った。
「ごめん、エ……じゃなくてフィエル。カナン、もう出発しちゃってたみたい……」
記憶を取り戻して、一秒でも早く昔馴染みに会いたい気持ちもきっとあるはずだ。間一髪のところで再会を逃したエウラリカの心中を慮って眦を下げると、彼女は「別に構わないわ」と平常そのものの態度で応えた。
「宮殿から出ると言っても、帝国に帰る訳ではなくてどうせ用事か何かでしょう。違う?」
「いや、そうだけど……よく分かるね。やっぱり通じるものがあるんだ」
目を丸くしながらエウラリカをしげしげと眺めると、彼女は大変反論したそうな顔でこちらを一瞥した。が、結局ルオニアへの文句は胸にしまっておくことにしたらしい。
「ちなみに、あれはどこへ行ったの?」
つい、と目線を滑らせながら問われて、ルオニアは思わず唇を尖らせて黙り込んだ。……サハリィ家への疑いを、エウラリカの前で口にして良いのだろうか? だって記憶がなかったとは言え、彼女はかつてサハリィ家を恩人として語っていた女である。
ルオニアはしばし躊躇い、結局「すぐに帰ってくると思う」とだけ答えた。
(サハリィの街までは二日か三日ほどで着くだろうし、あの様子だとそんなに長居もしないだろうし)
エウラリカの得体の知れなさは、彼女が記憶を取り戻してから輪をかけて強調されていた。一枚膜を隔てたような、手を伸ばしても触れられない拒絶のような。
輪郭の見えない飄々とした姿からは、どこか人間味のない印象を受けた。
「……サハリィにでも行った?」
出し抜けに問われて、ルオニアはどきりとした。何も言っていないのにカナンの行き先を言い当てて、エウラリカは小さく嘆息する。ルオニアの反応で正解だと悟ったらしい。やってしまった、と顔を引きつらせるルオニアをよそに、彼女は気楽な態度で眉を上げた。
「まあ、連絡が取れないならそれで良いわ」
エウラリカはあっさりと頷き、腰に手を当てる。部屋の前に来るまではあんなに早足で口数も少なかったというのに、いないと分かったら淡々としたものである。
「あれの帰還を待っている暇はないのよ。……時間がない」
そう吐き捨てて、エウラリカはさっさと踵を返す。ルオニアは慌ててその後を追った。
今度こそ迷いのない足取りでエウラリカは宮殿を闊歩する。そうして彼女が足を止めたのは、宮殿の隅にある旧炊事場跡地であった。思えば、前にもフィエルがここにいるのを見たことがある。
……こんな、人の寄りつかない場所に、あのときフィエルは何の用があって足を運んでいたのだろう?
眉根を寄せて考えこむルオニアをよそに、エウラリカは外套の下に隠していた縄を取り出した。先程布を裂いて作った急ごしらえの縄である。縄の端を握りながらエウラリカは井戸端に歩み寄ると、錆び付いた滑車に手を伸ばした。滑車にかけられているのは古びてささくれだった縄で、今にも切れてしまいそうに風化している。
エウラリカは様子を検めるように滑車を数度回し、次いで滑車の据えられた梁を指先でなぞる。その横顔は真剣そのもので、口を挟むこともできずにルオニアは立ち尽くした。
「他のものがかけられた形跡はなし、この縄は人の体重を支えるには不十分……」
低い声で呟きながら、彼女は思案するように井戸を検分している。風が髪を揺らし、柔らかく毛先が頬をくすぐっていた。エウラリカは「うん」と一度頷くと、おもむろに縄を梁にかけると、井戸の縁に膝で乗って手を伸ばす。
ともすれば井筒に転げ落ちてしまいそうな体勢に、ルオニアは慌ててエウラリカに駆け寄った。その腰を支えると、「ありがとう」と頭上から声が降ってくる。エウラリカは梁にお手製の縄を数度巻き付け、頑丈に縛り付けたようだった。体重をかけて縄を引くが、梁はびくともしない。何となく嫌な予感がして、ルオニアは顔を引きつらせてエウラリカを窺った。
「あの、……何をする気?」
「入るわ」
「ええ!?」
軽やかに地面に降りたエウラリカに、ルオニアは思わず声を裏返らせて叫ぶ。エウラリカの肩に掴みかかり、ぶんぶんと首を振った。
「なんで!? 危ないよ!」
「その反応、何だか懐かしいわね」
エウラリカはくすくすと首を竦めて笑うと、身を捻ってルオニアの手を振り払う。
「井戸の中に入るのは初めてじゃないのよ」
そう言うなり、エウラリカは石積みの縁を越え、井筒の中へその身を躍らせてしまった。ルオニアは細い悲鳴を上げて井戸を覗き込む。見ればエウラリカはすぐ真下におり、縄を伝って壁面に足をつきつつ、井戸の中を器用に降りている。
ルオニアは呆気に取られてその様子を眺め下ろした。とん、と底に降りたエウラリカの姿を見て、これが涸れ井戸であることを知る。
「す、すごい……」
フィエルは頑なではあったが、奇行に走ることは少ない女だった。それが何ということか、躊躇いもなく井戸に飛び込むなんて、何というお転婆だろう!
(カナンがエウラリカのことを『苛烈で孤高の人』って言っていたの、何かの間違いなんじゃないの?)
少なくともルオニアの知る『孤高』という言葉の意味に、迷いなく井戸へ飛び込む性質を表すものはなかったはずである。
井戸の底でエウラリカは顔を上げると、ルオニアに向かって手招きをする。まさか降りてこいと言っているのか? どうやらそうらしい。ルオニアは井戸を前に狼狽えた。周囲を見回すが、こんなところに寄りつく人影は皆無である。
誰に咎められることもない。井戸に入ったエウラリカを一人にするのも躊躇われる。しかし井戸に入るなんて、こんな、絶対汚いし危険極まりない行いをするなんて……。
内心で言い訳を並べ立てながら、ルオニアはおずおずと白い縄に触れる。エウラリカが布を裂いて作った縄は手触りがよく、やはり質の良い布地であったことを窺わせた。
(う……)
大体、エウラリカは井戸に入ってどうするつもりなのか。好奇心がむくむくと頭をもたげる。気づけば、縄をぎゅっと握り締めていた。結び目に手が触れる。
「はい、お疲れ様」
えっちらおっちら降りてきたルオニアに、エウラリカは腕を組んで壁にもたれたまま悠然と微笑んだ。ひりひりする手を擦り合わせながら、ルオニアは恨みがましくエウラリカを見やる。彼女は意に介した様子もなく、「さて」と腕を解いてくるりと体を反転させた。
「こんな井戸の中に潜り込んで、一体何をしようっていうの?」
こちらに背を向けたエウラリカに、ルオニアは慎重に問うた。自然と声が小さくなる。エウラリカは「ちょっと待ってね」とかがみ込み、腰から短剣を抜くと壁に手を這わせ始めた。
(井筒は石積み……でも随分と古そうだし、砂が入って埋もれてしまったのかな?)
ルオニアは頭上を見上げ、井戸の内部をぐるりと見回す。それからエウラリカに視線を戻すと、彼女は壁面に積まれた石に短剣の刃を突き立てていた。何をしているのか、と目を剥いた直後、ころりと石が足下に転がり落ちる。
「――やっぱり、」
エウラリカの口から漏れた声に、驚きの色はない。壁を崩すのが目的だったのか? 問い詰めようと身を屈めたルオニアは、そこでエウラリカの視線を追って息を飲んだ。
細い指先が、落ちた石に隣接していた石にかけられる。次々と乾いた石が井戸の底へ転がる。そうして姿を現したのは、黒々とした闇の広がる横穴であった。
「そんなことだろうと思った……」
短剣を鞘に収める音が鋭く響く。気づけば眼前の穴は人が一人通ることの可能な大きさにまで広がっていた。ルオニアは何も言えずに立ち竦む。これが意味することは何だろう。
(もしも、宮殿内の涸れ井戸が、どこかへ繋がっているという事実があるならば……)
エウラリカは砂の上に片膝をついたまま、暗い横穴を見透かすように目を眇めている。顎を引いて、その横顔はどこか怯えているようにも見えた。
(この通路が、連続殺人に、何か関与しているのだろうか?)
唇を引き結び、ルオニアはふるりと腹の底が震えるのを自覚した。鳩尾の辺りで強く拳を握る。
「行こう」
ただ一言呟いて、エウラリカは石積みを潜って穴の向こうへと身を投じた。小さな背中が暗闇へと溶けてゆく。ルオニアは喉を鳴らして唾を飲んで、深呼吸一度分だけ躊躇って、――エウラリカを追って地下通路へと足を踏み入れた。




