血塗りの王道1
夜半であった。鐘楼で激しく鐘が鳴らされる音に、はっと飛び起きる。いつもと変わらない寝室の中だ。物心ついたときから暮らしている、離宮の一室。そのはずなのに、正体の分からない悪寒が足下から駆け上がった。
「なに……?」
自分の他には誰もいない寝室の中、呆然として瞬きを繰り返す。恐る恐る寝台から降りて窓辺へと寄る。息を飲む。
――階下は火の海であった。
ごうごうと燃えさかる炎の中に、見慣れた尖塔や廊下の輪郭が黒々とした影となって浮かび上がる。まるで、建物全体が巨大な怪物の口へと少しずつ引きずり込まれているかのような光景であった。
まだ夢の中なのだ。これは悪夢だ。必死に自分に言い聞かせようとしても、息ができないほどに熱せられた上昇気流が顔に吹き寄せれば、嫌でも認めないわけにはいかない。
離宮が、燃えている。
寝間着のまま、裸足のまま、何も持たないまま連絡通路を駆ける。
「マーリヤさま! マーリヤさまっ! ……誰か!」
声を限りに叫ぶが、応える声はない。火の手が上がる方向を見やれば、逃げ惑う人影が見えた。少なくともあちらには人がいるらしい。延焼の危険がある今は、ともかく外へ出るべきである。
静まりかえった塔に明かりはなく、立ち上った煙の匂いが薄らと漂ってきていた。冷たい夜の風が隙間を縫うように吹き寄せ、髪が煽られて頬を撫でる。階段を一段飛ばしで駆け下りる最中、踵に鋭い痛みが走った。思わず声を漏らして足を止め、屈んで傷口に手を添える。何か硬いものでも踏んだらしい。あまりの痛みに涙が滲む。
息はとうに上がっていた。
(どうして、火事が……)
徐々に火の手は強くなり、窓の外には赤く眩しい炎の片鱗が見え隠れするまでになっている。その様子を見るともなく眺めながら、なおも階段を駆け下りる。足の裏が硬い床と擦れて熱くなっていた。
使おうと思っていた通路は既に火に巻かれており、慌てて方向転換して別の道へと向かう。しかしそちらの階段は既に崩落して使えず、それではと足を向けた回廊では柱が倒れて瓦礫の山となっている。
まるで、退路が断たれているのを一つずつ確認するかのような作業であった。最後に残された逃げ道を、縋るように辿る。もう皆が逃げてしまった後なのか、人気はどこにもない。
そうして踊り場の角を勢いよく曲がった瞬間、足がぴたりと止まる。階下にあるはずの談話室は炎に包まれ、もはや見る影もない。熱風が、ごうと音を立てて迫り来る。たたらを踏んで後じさる。
「たすけて、」
自然とそんな声が漏れていた。炎から遠ざかるように下がるが、後退してももはや逃げ場所などない。
「助けて、アディ……」
もういない人の名前が唇から零れる。足に力が入らず、その場にぺたんと座り込んだ。炎はもう眼前にまで迫っている。どうしようもない無力感に全身が苛まれていた。
「――ルクレシア様ッ!」
知らない声が炎の向こうから聞こえて、はたと動きを止める。
「返事をしてください、ルクレシア様、助けに参りました!」
聞き覚えのない男の声であった。しかしその声が呼んでいるのは紛れもなく自分の名である。
ルクレシアは一度身を縮めると、大きく息を吸って、声を限りに叫んだ。
「わ――わたしはここです!」
叫んだ数秒後、視界を阻んで燃えさかる炎を割って、大きな影が姿を現す。壁際で座り込んでいたルクレシアは、呆然として男を見上げた。彼の格好は壮絶であった。髪や肌は炎で焼けただれ、服は燃えた跡で埋め尽くされている。咄嗟に安否を確認する語彙が出てこず言葉に詰まったルクレシアに、男はぱっと顔を輝かせてこちらへ歩み寄ってくる。
恭しい仕草で膝をつき、手を差し伸べられる。こんな扱いを受けるのは初めてのことだった。非常時にもかかわらず目を瞬いたルクレシアに、男は柔らかく微笑む。
「お父上からの命で、あなたを保護しに参りました」
「お……おとう、さん?」
ルクレシアにとっての『父』とは、正体の知れないならず者であった。少なくとも自分はそのように聞いて育ってきた。自分の父親は、宮殿の侍女に手を出すようなろくでなしで、なおかつ娘が生まれれば名乗り出もせずに逃げ出した男なのだという。
そんな父親が、自分を助けに、人を使わした? 訳が分からず困惑するルクレシアに、男は「ええ、もちろん」と迷いなく頷いた。
男はやや強引にルクレシアを抱き上げると、少女を胸に抱きかかえて呟く。
「スエラテルスはいつだって、ナフタハルの忠実なるしもべですから」
少し熱いですよ、と声がかけられた直後、頭から濡れた布を被せられて視界は遮られた。
***
布が剥ぎ取られて、息苦しさから解放される。口を大きく開いて深呼吸するルクレシアを地面に下ろし、男は油断のない目つきで周囲を見回した。
どうやら建物裏の厩舎の近くらしい。煙たさに混じって、薄らと獣臭さが漂っていた。事態が掴めないまま呆然とするルクレシアの手を引いて、男が早足で歩き出す。
「あ、あの……」
「どうされましたか、ルクレシア様」
規則正しい足並みながら、帰ってきた声は柔らかかった。繋いでいる手に思わず力が入る。ルクレシアはおずおずと男を見上げて、小さな声で問うた。
「……一体、何が起こったんですか?」
目が覚めたら火事が起こっており、離宮の中に人はおらず、退路はきっちりと断たれたあとで、そして『父』が使わしたという男が救助に来た。偶然とは思えない。妙なことに巻き込まれた覚悟をして、ルクレシアは唇を噛みながら男をじっと見上げた。その視線を受け止めて、彼はつと言い淀む。
「何が起こったか、と言うよりは……」
その視線がどこか遠くを忌々しげに一瞥した。
「――まさに今、政変が起きている最中なのです」
普段使うことのない不穏な言葉に、ルクレシアは唾を飲む。
「それって」
どういうことですか、と言葉が続くよりも先に、足音とともに暗がりから人影が転げ出た。
「お師さまっ! どうしよう、兄さんがアドゥヴァに捕まって、私、逃げることしかできなくて、兄さんが、兄さんが……!」
長い髪を振り乱した少女が、半狂乱になって男に掴みかかる。驚いて立ち竦んだルクレシアを庇うように男は立ち位置を移動し、少女を宥めるように低い声を出した。
「落ち着きなさい、ライア。お前が焦っても仕方ないだろう」
肩に手を置かれて、ライアと呼ばれた少女は泣き出しそうな顔で口を噤んだ。反論したそうな顔で唇を引き結び、しかし何も言わずにぐっと黙り込む。
「……アドゥヴァ?」
ライアの言葉の端を聞き咎めて、ルクレシアは小さく呟いた。
「アディがここにいるの?」
ライアを振り返って問うと、彼女は息を飲み、臆したように半歩下がる。ルクレシアは大股でライアに歩み寄り、その腕を掴む。
「アディはどこ?」
ほとんど譫言のようであった。全く飲み込めない事態を前にして頭は回らず、ただ『アディ』という単語だけが思考を支配していた。腕に縋り付くルクレシアを見下ろして、ライアは気味の悪いものを前にしたように顔を引きつらせる。
「なに、この子……」
「ルクレシア様。陛下のご落胤だ。……マーリヤ様の庇護のもと、アドゥヴァとともに育ったと聞いている」
目の前で交わされる会話の意味も分からず、ルクレシアはアディの名を繰り返してライアの腕を揺すった。
「ねえ、アディ……アディに会いたいよ……」
生まれ育った離宮は、今まさに炎の中に飲み込まれようとしていた。自分の家が燃えつきようとしているのを直視するなんて、できるわけない。全身を無力感が襲う。わたしには何もできない。ぎゅっと目を瞑って、ルクレシアは数年前に姿を消した少年の姿を思い浮かべた。
「アディなら、きっと助けてくれるもん」
俯いたままそう呟いた瞬間、「放して!」と乱暴に肩を押されて突き飛ばされた。踏ん張れずに尻餅をついたルクレシアを助け起こして、男が厳しい声で「ライア」と窘める。
咎めるように声をかけられても、ライアは怯まなかった。彼女は肩幅に足を開いて立ったまま、拳を握りしめてルクレシアを見下ろす。
「馬鹿なこと言わないでよ――この火事は、そのアドゥヴァがあんたを殺すために火を放ったものだ。あんたを助けるために私たちはこの離宮に駆けつけて、お師さまはこんな酷い怪我をしてまで火の中に飛び込んだんだ。それなのにあんた、さっきからアディアディって、馬鹿のひとつ覚えみたいに……!」
顔を歪めて、ライアが吐き捨てる。その頬には大粒の涙が伝い、言葉の狭間に押し殺した泣き声が混じっていた。ルクレシアはまるで頬でも張られたような心地で、呆然とライアを見上げる。背中に手を添えたまま、男は目を伏せたまま黙っていた。その頬や額には、熱傷の跡が生々しく剥き出しになっている。
ライアの言葉が徐々に染み込んでくるに従って、ルクレシアは自分の呼吸が速くなっていくのを聞いていた。
「――アディが、火をつけたの?」
ライアの顔は激しい炎に照らされて、絶え間なく揺れる濃い影に縁取られていた。血の気の失せた頬で彼女が頷く。
「そうだよ」
そのとき、塔を回り込む足音とともに「誰かいるのか!」と誰何の声が飛んだ。全員が、はっと息を飲んで声の方向を振り返る。
「お師さま、殿下を連れて逃げてください」
ライアが低く囁いた。男は一瞬だけ息を飲むような気配を見せたが、すぐにルクレシアの手を掴んで立ち上がる。
「近くの街で朝まで待つ。間に合わなければそのままナフト=アハールへ向かう」
「分かりました」
それだけ言い交わすと、男はルクレシアを抱き上げるが早いや一目散に暗がりへ走り込む。泉のほとりに立ち並ぶ木立の影に入り込み、茂みに屈み込んで息を殺した。
『おい、ガキがいたぞ!』
知らない言葉だった。ルクレシアは咄嗟に聞き取れずに眉根を寄せる。直後、松明の炎が複数現れ、揺れながらライアに近づいてゆく。ライアは大仰に狼狽えるような仕草をしたのち、反対方向へ向かって駆け出した。「追え!」と怒鳴り声が飛ぶ。大きな影が次々とライアに飛びかかり、容赦のない手つきで地面に引き倒す。
身を捩るような絶叫が響いた。ライアは自分よりは年上のようだけれど、それでもまだ体の小さな子どもである。恐怖の滲む悲鳴と殴打の音に、ルクレシアは思わず目を覆って顔を背ける。
「目を逸らしなさるな、殿下」
目を隠した手を柔らかく、しかし容赦なく掴んで、男は低い声で囁いた。
「あれが、あなたを守るために身を投げ出す者の姿です」
引っ立てられて連行されてゆくライアの横顔が、束の間明るい炎に照らされる。切れた唇をきつく引き結び、彼女は行く手を真っ直ぐに見据えていた。ルクレシアは木の陰に隠れたまま、息を止める。
「あなたが生き延びることで、救われるものがある。そう信じているからこそ、我々は何を賭してでもルクレシア様をお守り致します」
決意に満ちた声音であった。ルクレシアは暗闇の中で限界まで目を丸くして、男の顔を見つめる。ところどころ皮膚が焼けただれた顔を眺める。差し伸べられた腕には、古いものから生々しいものまで、無数の傷跡が刻まれていた。
「どうか、我々の献身をなかったことにはしないで頂きたい。あなたの無事を願う者がいることを忘れないでください。……これも、俺たちの我が儘に過ぎないのかもしれませんが」
その声は重々しく、それでいて軽妙な苦笑を含んでいた。大きな手が頭のてっぺんに触れ、豪快に撫で下ろされる。数日前に短く切り揃えたばかりの癖毛が、首筋をくすぐった。
「行きましょう」
男はそれだけ呟き、人の気配がなくなったのを確認してから腰を浮かせた。「決して大声を出さないように」と言い含められ、手を引かれて慎重に歩き出す。泉の向こうに馬を繋いであるらしい。正門の方を通らないように泉を大回りして馬がいるところまで移動するそうだ。
ルクレシアはつんのめるように歩きながら、首を反らして男を見上げた。
「……あの、わたし、まだ何が起こっているのか分からなくて、わたし……わたしのお母さんはただの侍女で、お父さんは誰なのかも分からないって、マーリヤさまも仰ってて、」
「彼女は、本当のことをあなたに伝えるのを躊躇ったのでしょう」
彼は短く答えると、肩越しにこちらを振り返る。その口元に微笑みを浮かべて、伝えられたのは端的な一言であった。
「あなたの父君は当代の王です、ルクレシア様――あなたは間違いなく、ナフタハルの血を引いておられる、正統なる王位継承者だ」
予想だにしない言葉に、ルクレシアは目を見張った。
***
「まずいな、どうやら繋いでおいた馬が見つかったらしい」
椰子の幹に身を寄せるようにして、男が低い声で毒づく。ルクレシアはぴったりと口を噤んだまま、目線だけを上げて男の顔を窺った。
「あそこに止めてある馬の近くに、待ち伏せがいるのが分かりますか」と指し示されるが、目を凝らしても待ち伏せはおろか、馬の姿もよく見えない暗がりである。素直に首を振ると、男は「そうですね」と苦笑した。
「奴らの馬か駱駝を拝借しましょう。少し怖いかもしれませんが、私の側から離れないようにしてください」
男の言葉に小さく頷いて、ルクレシアは繋いだ手にぎゅっと力を込めた。……これがただの不始末による火事などでないことは既に分かっている。この離宮は、襲撃を受けているのだ。
ここまで移動する間にも、松明を手に辺りを彷徨く人影や、聞き慣れない言葉で喋る男たちをいくつも見てきた。いずれも粗野なそれらは、どう考えてもこの離宮に悪意を持った人間だ。
ルクレシアは男の腕に縋り付くようにして、暗闇の中で目を見開いたまま、ライアの言葉を反芻していた。『この火事は、そのアドゥヴァがあんたを殺すために火を放ったものだ』。その一言が、胸の内に絶え間なく波紋を落とす。
(アディ……)
ずっと一緒に育ってきた、家族同然の人だった。彼は数年前のある晩に、書き置きひとつ残さず忽然と姿を消したのだ。マーリヤが半狂乱になって捜索を命じる姿を何度も見たし、夜な夜な声を殺して泣いていたことも知っている。この離宮で働く人たちも皆、アディがいなくなったことを悲しんでいた。
愛される人だった。物言いがちょっと意地悪なこともあったが、優しくて情に厚い人だ。
(アディが、火を付けるはずがない。……わたしを殺そうとするはずがない)
唇を噛んで俯いた直後、前方から叫び声が上がるのを聞き留めて、ルクレシアははっと顔を上げた。
「やめてアディ、どうして、どうして……!」
「マーリヤさまの声だ」
悲痛な声を上げる女の姿は見えなかったが、その声は聞き覚えのあるマーリヤのものである。滅多に声を荒げることのない彼女が絶叫している。それだけで身が竦み、ルクレシアは怯えて目を見開いた。
「やめて、アディ、その子を放してあげて、……やめなさい、アディ!」
男は足を止めることなく、声の方向に歩いて行く。近づくにつれて、離宮の前庭に多くの人影があることに気づく。野次馬のような人だかりの隙間に目を凝らす。
そうしてルクレシアは、その姿を見つけた。
「あんたの妹? 知らないよ、中で焼け死んでんじゃないの?」
屈強な男に羽交い締めにされたまま、ライアが人を食ったような態度で吐き捨てる。唾を吐く仕草は堂に入っており、その姿は非常に粗暴で行儀の悪い子どもに見えた。
「私は何も知らない、ただ偶然居合わせただけ――ッ」
ライアの言葉が途中で途切れた。その顔が激しく横に振れ、苦しげに喉の奥で呻く。
「じゃあ、ガキ二人でこんな離宮まで夜中にノコノコお散歩に来た訳だ。……嘘をつくならもう少し上手い嘘をついた方が良いんじゃないか? お前の兄の方がよほど口が上手かったぞ」
容赦なくライアの頬を張った青年の横顔から、目が離せなかった。鼻や口から血を垂らし、頬が腫れ上がって酷い有様のライアとは対照的に、悠然として冷ややかな面持ちであった。随分と成長した。しかし、その面影は見間違いようがない。あれはアディだ。
「アディ……」
声は震えていた。自分の目が信じられない。「足を止めないで」と男が焦ったように声を潜めて囁くが、自然と足は重くなった。
離宮の前庭は、今や真昼の明るさのように照らし出されていた。炎は塔のてっぺんまでを飲み込もうとし、いくつも掲げられた篝火は夜風に揺られて絶え間なく揺れ続けている。見慣れない男たちが前庭に詰めかけ、マーリヤを初めとした離宮の面々は拘束されて一塊になっていた。見れば見るほど明確な襲撃だ。アディが火を放ったという言葉は、俄然真実味を増していた。
「まあ、お前が口を割らないなら、そこにいるお前の『兄さん』にもう一度聞き直すだけだがな」
立ち止まりそうになるルクレシアを半ば無理矢理引きずるように、男は大股で歩を進める。ルクレシアは必死で首を回して声の方向を見やるが、既にそちらは人影や木立に隠れて様子を窺うことはできない。
ライアが、言葉にならない悲鳴を上げた。「兄さん」と甲高い声で呼ばわる。聞こえるのは声ばかりで、自分たちはこそこそと場を去ろうとしているのだ。男の手に力がこもる。その全身が、意思を押し殺すように震えていた。ライアの悲鳴からして、彼女の『兄さん』が酷く痛めつけられていることは容易に想像がついた。恐ろしさに腹の底がきゅっと締まる。
「――殺してやる!」
涙混じりの激昂であった。ライアが髪を振り乱して叫んでいる様子が瞼の裏に浮かぶ。ルクレシアは思わずかたく目を瞑り、男の腕に両手で縋り付く。
ライアの声が夜の闇を切り裂いて、暗い空に響き渡った。
「何があっても、あんたが何をしようと、いつか絶対に、あんたを殺してやる。私は永遠にあんたを狙い続ける。絶対に、あんたを許さない……ッ!」
言葉にできない感情が、絶えず胸の内を渦巻いていた。
ずっと探していたアディは知らない人たちをたくさん従えて、まるで別人のようだ。烈火のごとき憎悪を向けられる人に成り果ててしまったのだ。母であるマーリヤが哀願するほどに苛烈な人になったのである。どうして、と問ういとまはなかった。
ルクレシアと男は正門前にたどり着き、繋がれていた馬の一頭に歩み寄っていた。こちらを見張っている者はおらず、襲撃者たちは皆が前庭での騒ぎを見物しに行っているらしい。ルクレシアはなおも騒ぎの方向を繰り返し確認しては、少しでもアディの声が聞こえやしないかと耳を澄ませていた。
「やめろ、ライア!」
少年の声が強い口調でライアを制する。それまで聞こえないふりを貫いて作業を続けていた男が、はっと顔を上げた。その目が揺れるのを見て取って、ルクレシアは不安に眦を下げる。彼は酷く苦しげな顔をしていた。大人の男の人でも、こんな表情をすることがあるんだ。密かな驚きが胸の内に落ちる。
ライアの兄なのだろう。遠くで声が告げる。
「……推測はしていると思いますが、僕たちはスエラテルスに拾われた孤児で、陛下の命令でここに来ました」
やはり、と言うようにアディが息を吐いた。ライアの兄は淀みのない口調で続ける。
「到着してすぐ養父が王女を救出しに建物内へ入りましたが、半刻以上待っても出てきませんでした。もしかしたら別の出口から脱出したかもしれないと、妹と手分けをして養父を探していたところです」
決して大きな声ではなかったが、芯のある響きをした声音だった。言葉尻が僅かに震えている。
「陛下は、あなたがここを最後に襲撃するだろうと予想していました。予想は当たりましたが、最後の王位継承者を救うことは叶わなかった。僕たちの負けだ」
「そうだな」
アディの声が、静かに肯定する。どこか感傷的な、噛みしめるような一言であった。
「アドゥヴァ様、――僕は、あなたに忠誠を誓います」
馬を繋ぐ縄を解いていた男が、深く項垂れたのが分かった。「あの馬鹿」と唇が動く。
「何でもする。どんな汚れ仕事だってやってやる。あんたを王座に即けてやっても良い。何でもするから、全部捧げるから……」
だめ、とライアが鋭く遮るが、声は止まらなかった。男は縄を解き終えて、手綱を短く握ったままルクレシアに合図をする。ライアが叫ぶ。鐙に足をかけるように言われる。
広い砂漠の方向から冷たい風が吹き寄せて、ルクレシアは胸元で外套をかき寄せた。
――その瞬間、離宮が大きな音を立てて崩落した。
どこかの柱が崩れたのだろう。石積みの楼閣が内側へ崩れ、すべてを押しつぶすように瓦礫と化してゆく。
緩慢な動きで、離宮が形を失ってゆく。まるで悪夢のような光景を、ルクレシアはひとときも目を逸らすことができないままに見つめていた。
頭上は満天の星空であった。砂を撒いたかのように大小様々な光が視界いっぱいに広がって、音もなく瞬いていた。月のない夜であった。もうもうと立ち上る白煙と砂塵があってなお、空を覆うには足りないらしい。遠くの砂丘に柔らかな影が落ちていた。
為す術もなく、無力で矮小な声が響く。
「だから、妹をこれ以上、傷つけないでください……!」
そう乞うしか選択肢がない子どもの声だった。
促されるまま鞍に手をついて、鐙に足をかけて、ぎこちなく馬の背へよじ登る。男の手が尻を支えて、ぐいと持ち上げられたと思ったときには、既に馬上であった。男はもう何も言わなかった。あちらの会話は聞こえているだろうに、その眼差しに動揺は見当たらなかった。あらゆる感情を押し殺しているようだった。
「行きましょう、ルクレシア様」
背後に腰を据えた男が掠れた声で囁く。ルクレシアはほとんど項垂れるようにして頷いた。
夜の砂漠を駆ける。離宮のほど近くに街があるはずだ。冷たい風が吹き付けて、鼻先や耳、頬が凍てつくような心地だった。
「……あの、お名前を窺っても、良いですか?」
離宮の喧噪が完全に遠ざかり、ただひたすらに砂を蹴る規則的な音だけが残る。その頃になってようやく、ルクレシアはおずおずと振り返って問うた。男は前方を見据えたまま、少し目元を緩めて微笑んだようだった。
「――私は、セニフと申します」
そう告げて、セニフと名乗った男は火傷跡の残る顔で誇らしげに笑ってみせた。
「南方連合の王ただひとりに忠誠を誓う者にのみ、名乗ることを許された名です。王の従者を意味します」
誰もいない広大な砂漠は、見渡す限りの砂に満たされている。緩く曲線を描く稜線が続いてゆく。しんと静まりかえった砂であった。ルクレシアは行く手を見つめたまま、砂の下のことを思っていた。
前に教師に教わったことがある。砂の下には、誰の目に見えずとも、水が流れているところがあるのだと。水はどこかで地表にたどり着き、民に豊かさと潤いを与えるのだという。
――曰く、その流れを伏流と呼ぶ。
セニフが顎をもたげて額を真っ直ぐに上げ、朗々と告げた。
「私たちは、ナフト=アハールとその主に、忠誠を誓っておりますゆえ……」
進路を南にとって、伏流の流れ着く先へ馬の鼻先を向ける。
砂漠の地下で流れる水の淵源は、まだ知らない。




