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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
番外編

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156/230

標をゆくひと 上


「エウラリカ様、またお部屋を抜け出して勝手に遊びに行かれましたね?」

「……課題は終えたもの。簡単すぎるわ」

「ではその旨、先生方にお伝えしておきましょう」


 む、と唇を尖らせる姫君の姿に、エーレフは思わず苦笑した。早熟、神童などとしきりに持て囃されるエウラリカは、その実、案外お転婆な一面を持っている。近しい者なら誰でも知っている事実である。


「課題も、簡単だからと適当に済ませていると、どこかで落とし穴に引っかかりますよ」

 先日出された課題で、やや分かりづらい応用問題に、まんまとしてやられたことを思い出したのだろう。エウラリカの顔がぎゅっと不本意そうにしかめられた。


「よろしいですか、エウラリカ様」

 エーレフはエウラリカの前に膝をつくと、小さな手を取って視線を合わせた。まだ十にも満たない幼い姫君が、つぶらな瞳を瞬かせてこちらを見ている。

「エウラリカ様のことが大切だから申し上げているのです。お一人で密かに外へ行かれては、我々もエウラリカ様をお守りすることができません」


 慎重に包み込んだ手のひらの中で、小さな指先がぴくぴくと動いていた。手を引っ込めようとする意図が読めて、ほんの少しだけ力を込める。

「ご自身では、この城の中に危険なことなど何もないと思っておられるかもしれませんが、僭越ながら申し上げれば、それは油断や傲慢に他ならないお考えだと存じます」

 エウラリカの顔に、さっと苛立ちがよぎった。癇癪を起こす一歩手前に思えた。頃合いを見て手の力を緩めると、彼女は素早く両手を引いて立ち上がった。追従するように腰を浮かせる。


「わ……わたしのことが心配なんじゃなくて、わたしに何かあったら自分が怒られるから、エーレフはそう言っているんでしょう」

 強い口調で言い放ってから、言い過ぎたと首を竦めるのが分かった。身構えるように体を固くして、上目遣いでこちらを睨みつけている。エーレフは苦笑を噛み殺して、殊更に真剣な表情を作った。

「どうして、御身に何かがあったら僕が叱られると思いますか? ……皆が、エウラリカ様を大切に思っているからです」

 静かな口調で語りかけると、エウラリカは見るからに居心地が悪そうに身じろぎした。引き際を見失ったように俯いて唇を噛んでいる。


 本来エウラリカを諌めるべき父親――皇帝は、どうにも娘に対して甘すぎるきらいがあった。エウラリカを叱ろうと思って向き合っても、娘に甘えられてしまうと言葉が鈍る。

 かと言って、『先生』が事ある事に窘めれば、過度に萎縮して落ち込んでしまって見るに堪えない。兄のラダームはこのところ帝都を離れている期間が長く、妹を制するには不向きである。


「……分かって頂けましたか?」

 声音を柔らかくして顔を覗き込むと、エウラリカは不承不承ながら小さく頷いた。「わかったわ」と丸い頬には赤みがさして、言い負かされたことが非常に不満なのが分かる。

「あと半月もすれば、ラダーム様が帰って来られます。そのときに、良い子にしていたと言えるようにしましょうね」

「……ええ」

 素直に頷いたエウラリカが、その実、エーレフの言葉をろくに聞き入れていなかったことが判明したのは、まさに半月後のことであった。



 ***


「エウラリカ!」

 悲鳴のような声に、慄然として立ち竦む。はっと振り返れば、庭園の茂みの向こうに懐かしい姿がある。優に半年ぶりに帝都へ帰還した第一王子ラダームであった。しかし、その顔はいつになく蒼白で、足元の何かを見下ろして狼狽えている。

 ラダームが帰還後、こちらへ来るという連絡は受けていた。エウラリカは隣室で侍女に身支度を整えてもらっているはず、である。


「どうされましたか」

 エーレフは花壇を踏み越えてラダームのもとへ急いだ。配備されていた衛兵たちも瞬く間に人数を増し、「医師を呼んでこい」と指示が飛ぶ。


 果たしてエーレフが目の当たりにしたのは、地面に倒れたエウラリカの姿であった。

「う……」とその口から力ない呻き声が漏れる。「いたい」と声は掠れていた。

 その脇腹から、真っ赤な血が音もなく地面へ広がってゆく。

「ラダーム様、これは」

「エウラリカが、いきなり、そこの上から落ちてきて……!」

 険しい声で問うと、ラダームは右手にある塀を指した。エーレフの身長よりもやや高い、石積みの塀である。


 塀の上からエウラリカが倒れている位置を視線で辿れば、庭園の通路を形作るように植えられた潅木の枝が、高い位置で突き出ている。通常なら頭をぶつけることもないような高さの枝である。――あそこで脇腹を切ったらしい。節くれだった潅木をよく見れば、破れた服の端が鋭い枝先に引っかかっていた。


 医師が泡を食って走ってくる。衛兵たちが担架を運んできて、慎重にエウラリカを担ぎ上げる。騒然とする庭園の片隅で、ラダームとエーレフは呆然と立ち尽くしていた。

 血を流しながら、痛い、痛いと呻く小さな少女の姿が、目に焼き付いて離れなかった。



 ***


 脇腹に大きな傷が残るらしい。臓腑に影響があるほどの傷ではないが、数針縫ったと医師から聞かされた。今はまだ眠っているという。

 侍女たちに付き添われて、エウラリカが寝息を立てて眠っている。ラダームが待機している隣室に入ると、張り詰めた声が飛んできた。


「エウラリカは?」

「よく眠っておられます」

 久しぶりに帝都へ帰還したラダームは、本来ならば来客や訪問の用事で立て込んでいるはずである。それらを全て急遽断って、エウラリカが目覚めるまで待つと強固に言い張ったのだった。


「……エウラリカは、俺がいない間、どうしていた?」

 声は沈んでいた。ラダームが、遊学のために帝都を長らく離れていることを気にしているということは、『母』から聞き及んでいる。

「僕も侍女ではないので、常に付き添っている訳ではありませんが」と前置いて、エーレフはラダームの斜向かいに腰掛けた。


「エウラリカ様は本当に聡明で、理解力の早さや知識量には、僕自身驚かされることがよくあります。神童、と先生方が仰りたくなる気持ちも本当に分かります」

 ラダームが眉根を寄せる。言わんとしていることが分かって、エーレフは小さく頷いた。

「けれど、エウラリカ様にどのような才覚があろうと、殿下はまだ幼い少女であらせられます。才ある少女だから、王女だからと無責任に褒め称えるだけでなくて、きちんとエウラリカ様自身を見て、時には諌めつつ導いてやる大人が、必要だと思うのです」

「……お前がエウラリカの傍にいて本当に良かった」

「僕は、何もできませんよ。……何もできませんでした」


 ラダームが、深く項垂れる。彼がここのところ妹に対して多少のぎこちなさを見せていることには気づいている。何の葛藤があるのかは分からないが、エウラリカのことを忌み嫌っている訳ではないのだろう。



 ややあって、侍女たちの話し声が聞こえた。エーレフは腰を浮かせる。エウラリカが目覚めた気配がした。

 大股で横をすり抜けて、ラダームがエウラリカの寝室に駆け込み、寝台へと歩み寄る。その後は追わず、エーレフは部屋の隅に控えて腹の前で手を組んだ。


「エウラリカ、どうして、あんなところから」

 ラダームの声は震えていた。枕に頭を埋めたまま、エウラリカがぼんやりと瞬きをする。

「……お兄さまのこと、驚かせようと……思って、」

 未だに半ば寝ぼけているような瞬きをして、エウラリカが答えた。それから、へらりと甘えるような照れ笑いを浮かべて、兄を見る。


「ちょっと、失敗しちゃった」


 ラダームは俯いたまま応えなかった。両脇に垂らした握りこぶしがわなないている。その唇が白くなるほど噛み締められているのが分かった。エーレフは部屋の隅で片眉を上げてラダームを見守る。


「……いい加減に、しろ」

 初めは小さな声だった。ほとんど吐息のような一言に、エウラリカが怪訝そうな顔をして頭を浮かせる。すっと息を吸う。不穏な静寂が落ちる。


「――ッ自分が、どれほど危険なことをしたか分かっているのか!」

 一拍遅れて、ラダームはエウラリカを怒鳴りつけた。窓がびりびりと震えるような大声であった。侍女たちは驚いたように後退し、エーレフも思わず目を見張る。

「お……にいさま?」

 エウラリカは面食らったように目を白黒させて、ラダームを見上げた。ここまでの叱責を予想だにしていなかった表情であった。


「俺を驚かせようとしたんだか何だか知らないが、そんな下らない理由で、縫うような大怪我をされた身にもなれ。大迷惑だ」

 

 先程の激昂が嘘のように、ラダームは静かな声で吐き捨てた。エウラリカは大きく目を見開いたまま、怖い顔をしている兄を呆然と見上げている。

 何か反駁しようとするように、その唇が動く。しかし結局言葉は出てこず、はくはくと口を開閉させるだけだ。ややあって、彼女の目が瞬く間に潤む。


「俺は決して、他の人間に責任を擦り付けるつもりはない。お前が一人で勝手に脱走して安易な気持ちで悪ふざけをしようとして、勝手に怪我をしたんだ。でもその咎は、やはり他の人間が負うことになる。何故だか分かるか。お前が王女だからだ、エウラリカ」


 ラダームが訥々と語るうちに、エウラリカの目からは音もなく涙が零れ落ちていた。目と鼻を真っ赤にして、ひく、と息を引き攣らせる。

「お、にいさま、」

「直に父上がいらっしゃるはずだ。そうしたら、自分の口で経緯を説明しなさい」

 ラダームの声は殊更に冷ややかで、しかし言葉尻は怯えるように震えていた。視線を合わせたまま、ぎこちなく心を通わせる兄妹を、エーレフは凪いだ胸中で眺める。


 ――血も心も繋がった家族ってのは、良いもんだな。


「ごめ、んなさい、お兄さま……」

 ひく、ひくとしゃくり上げながら、小さな両手で目元をぐいぐいと拭うエウラリカに、ラダームが初めて顔を歪めた。縫ったばかりの傷を案じてか、強く抱き寄せることはせずに、おずおずと頭を撫でる。

「……もう、二度とこんな思いをさせないでくれ」


 本当に、と内心で呟く。エーレフは目を伏せて、エウラリカが珍しく幼げな泣き声を上げるのを聞いていた。エウラリカが生きていることを噛み締めて、彼は目を閉じる。

 こんなときに考えるべきことではないが、目覚めたエウラリカに駆け寄ることができない立場というのも、なかなかに鬱屈するものだ。


 生まれと育ちという大きな壁は、未だに越えがたい。



 ***


 初めの印象は、『理想主義のお嬢様』だった。貧民街に足しげく通って、非行少年たちに学びの尊さを説いて更生させようとする馬鹿である。


「こら、エーレフ! またこんなところで悪さして……」

 物陰にしゃがみこんで、先程すった財布を物色していた最中である。いきなり頭上から厳しい声が降ってきて、エーレフは思わず顔をしかめて声の主を見上げた。

「何だよ」と舌打ちをして、嫌味を込めた口調で頬をつり上げる。


「――随分と暇なんだな、『先生』」


 呼ぶと、彼女は腰に手を当てた姿勢のまま、満足気に微笑んだ。仕立ての良い衣裳は、小汚い貧民街には不釣り合いな清潔さである。丁寧に整えられた金の巻き毛が額でひと房揺れる。

「ようやく、先生って呼んでくれる気になったのね!」

 皮肉のつもりだったのに、心底嬉しそうに目を輝かせて顔を覗き込まれて、エーレフは顔をひきつらせた。「呼んでねぇよ」と舌打ちをすると、彼女は不満げに唇を尖らせた。



「良い? 学ぶってことは、世界を広げるということなのよ」

 立派な革張りの本を膝の上に広げて、『先生』が得意満面に説く。厄介なのに捕まった。エーレフは渋面で、聞こえよがしに舌打ちをする。とっとと逃げようにも、背後と目の前には屈強そうな護衛がいて、彼女が一言命じればすぐに捕まえられてしまうだろう。


 お嬢の酔狂に付き合わされているエーレフを、通りすがりの子どもたちが指さして笑っている。

「文字を知れば、本が読める。本が読めればうんと遠くの人と言葉を交わすことができる。世界が広がるというのはそういうことよ」

「…………。」


 自分は日銭を稼ぐという大事な用事があるので、こんなところで時間を食っている暇はないのである。自称『先生』のお嬢様の遊びの相手をしてあげても金が貰えるわけでもない。

 それを言ったら「直接金銭を与えるだけで満足して放置するのは下策」などとよく分からない理由で説教された。


「恵まれない子どもたちに必要なものは教育よ。周辺諸国からの搾取と消費を繰り返すばかりでは、帝国は先細るばかりだわ」

 賢しらに説く『先生』の話には興味はなかったが、彼女が持ってくる本には興味があった。精緻に描かれた図はどうやら花か草か何かのようで、葉脈のひとつひとつまでが描き込まれた挿絵を密かに覗き見ることだけが目的だった。


 そういう訳で、わざわざこんな貧民街まで出てくる馬鹿なお嬢様の相手をするのは、エーレフただ一人であった。



 ***


「お母さまがね、よく言っていたの。学ぶことが、自分の身を守ることだって。沢山のものを学べば、超えられない壁は何一つないんだって、いつも言っていた」

 馬鹿みたいに無垢な顔をして、彼女はエーレフに語りかけた。恐らく相手は別にエーレフでなくても良いのだろうが、こんな中身のない話に付き合うような奴は、広い貧民街を探せどエーレフしかいないに違いない。


「私は、あなたたちのことを、もっと知りたいの。私たちの何が同じで、何が違うのか」

 気高い眼差しで薄汚れた路地を見つめるお嬢を見もせずに、エーレフは彼女からかっぱらった『図鑑』とやらのページをめくっていた。たまたま言葉が耳に入ってきたので素早く吐き捨てる。


「生まれと育ちだよ。それ以外にあるか」

「だったら、それは超えられないものではないわね」

 お花畑みたいな発言をした面を拝もうと、思わず顔を上げて凝視してしまった。彼女はよく理解していない様子で、にこりと微笑み返してくる。綺麗な指先をして、白い頬をして、ゆるりと首を傾げれば滑らかな巻き毛が揺れ動く。

「あんた、本当に馬鹿だな」

「これでも学園では首席だったのよ」

 返す刀で胸を張られて、エーレフは舌打ちをした。


「そりゃあ、あんたの母さんもさぞかし喜んだだろ」


 吐き捨ててから、しまったと思った。彼女が語る『母』が全て過去形である時点で気づくべきだった。

 微笑みの形を作ったまま、彼女の全身にひびが入ったのが分かる。何か言おうと彼女が口を開くが、言葉が出てこない。「悪かったよ」とどうして自分がこんなに必死に弁明しているのか分からないが、エーレフは動揺しきっていた。


 しどろもどろになるエーレフを宥めようとするように、彼女が頭を振って苦笑する。

「……その図鑑、お母さまが最後に買ってくださったものなの」

 当てつける意図はなかったのだろうが、エーレフの膝の上を指して放たれた一言に、彼は完全に沈黙してしまった。突如として膝の重みが倍増する。彼女自身も失言だと悟ったらしい。

「西方から取り寄せてもらったものでね、こちらで流通しているような図鑑には載っていない、向こうの植物のことが書いてあるのよ。ユレミア語はまだ、よく理解できないのだけど……」

 ぽんぽん、とエーレフの背を柔らかい手が数度叩いた。エーレフの記憶が正しければ、彼女が自分にその手で触れるのは初めてのことだった。薄い布越しの感触に、何故かどぎまぎとする。


「ごめんなさい、何だか気を遣わせてしまったわね。言わなかったのは私だもの」と彼女は微笑んだ。「違う」とエーレフは唇を噛んで俯いてしまった。

 何も知らずに言ってしまった訳じゃなくて、薄々勘づいていたのだ。彼女の母親はもう生きていない。そうと察していながら抉るようなことを言ってしまったのは、彼女があんまりにも誇らしげに、嬉しそうに母親のことを語るからだった。

「……頭が良くて、優しくて、素敵な母さんで良かったな」

 言うつもりはなかったのに、ぽろりと呟いていた。彼女が目を丸くして小首を傾げる。


「俺の母さんは馬鹿で意地悪でろくでなしだから、さっさと死んじまえば、」

 だめ、と小さな囁き声と同時に、口を塞がれていた。片手でエーレフの口を覆ったまま、彼女は真剣な表情でふるふると首を横に動かす。

「そんなこと、言っちゃ駄目」

 言い聞かせる視線があまりにも悲しげなので、エーレフは口を噤まざるを得なかった。あんなクソばばあ、とっとと野垂れ死んでしまえと内心で思いながら。


「私は分かってる。あなたはとても優しい子だわ。だからそんなこと言わないで」

 無言で片手が持ち上げられる。咄嗟にびくりと身を退くと、彼女は少し目を見張った。「大丈夫」と目を離さないまま頷いて、彼女は慎重にエーレフの頭に手を置いた。柔らかく頭を撫で下ろされる感触に、彼は為す術なく凍り付いたように身を縮めていた。

「あなたはきっと、素敵な大人になるわ」


 悔しいけれど、何だか少しだけ、彼女のことを『先生』と思ってしまった自分がいた。



 ***


 激しい殴打が降り注ぐ、と思った瞬間には、既に床に倒れ込んでいた。あばら屋の壊れかけの扉を開ける前から、部屋の中からは強烈な酒の匂いが漂っていた。母が久しぶりに帰ってきていることが分かったから、音を立てないように入ったはずなのに、すぐに見つかってしまった。

「エーレフ!」

 金切り声とともに髪を鷲掴みにされて、上体を引き起こされる。喉の奥で唸って、エーレフはのしかかってくる大きな影を睨みつけた。

「一体どこをほっつき歩いてた!」

 放せ、とその手を振り払ってやるつもりだったのに、いざ目の前にすると体が竦む。悪鬼のような形相でこちらを見下ろす母の目は血走っており、正気とは思えなかった。


 普段から荒れ果てた部屋だったが、母がいる間は輪をかけてひどい。床には無数の酒瓶が転がり、窓から硝子というものが消え失せたのはもう一年以上も前のことである。そもそもこの家自体、元々誰の住処だったかも判然としない。

 どこぞの男の家に転がり込んでいたと思っていたのに、戻ってきたということは、また見捨てられたらしい。もはや若くも美しくもない母は、エーレフの目から見ても日増しに魅力を失っていた。

 大した存在じゃない。背丈はもうほとんど同じだった。思い知らせてやる。一発殴ってやればいいんだ。勝てない相手じゃない……!


 大丈夫、と優しく頭に触れる『先生』の声が蘇る。大丈夫。大丈夫、と口の中で繰り返す。胸ぐらを掴み上げる母を見返して、エーレフは掠れた声で呟いた。

「か……関係、ないだろ」

 もっと大きな声を出したかったのに、喉から漏れたのは情けなく震えた声であった。母は一瞬だけ呆気に取られたような顔をして、それから見る間に頬を紅潮させる。聞き取れない絶叫とともに脇腹に衝撃が入った。床に肘をつき、堪えきれずに少しだけ嘔吐したエーレフを見下ろして、母は引きつった笑い声を上げる。


「あたしは知ってるんだよ。お前、最近こっちに入り浸ってるお嬢様と良い仲なんだってね」

 不意に声を低めた母の姿に、エーレフは床に手をついたまま怪訝に顔を上げた。

「よくやった。金目のものをありったけ盗んできな」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。「は、」と瞬きをして、珍しい笑顔を浮かべている母の顔を凝視した。母は満面の笑みであった。こんな表情、いつぶりに見るだろう。幼い頃の記憶が瞬時に蘇る。明るい光の中で自分を抱き上げて、母が笑う。『あなたがいればそれだけで良い』と幸せそうに語る過日の母の記憶である。


「できるだろ」

 無言で片手が持ち上げられる。咄嗟に身構えたが、母の手はエーレフの頭に乗せられただけだった。そのまま、ぐしゃぐしゃと多少手荒な手つきで髪をかき混ぜられる。全身から力が抜けていくのが分かった。抵抗しようという気概が、丸っきり萎えて流れ出してゆく。


 鏡の中とそっくりそのままの眼差しで、母は誇らしげに頷いた。

「お前は、あたしの、血を分けた息子なんだから」

 そう言って彼女が酒臭い息で唆すのは、薄汚い窃盗なのだ。




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