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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
灼ける砂国と伏流の矛先【前編】

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巡り出す歯車2



 どこかで甲高い悲鳴が響いた。


 はっと目を開けると、眼前にフィエルの寝顔がある。「わあ」と咄嗟に身を退いた拍子に、腰が寝台からずり落ち、ルオニアはそのまま背中から床に転げ落ちた。

 腰をさすりながら身を起こし、周囲を見回しながら昨日の記憶を思い出す。

(そういえば、フィエルの部屋で寝たんだった……)

 カナンに『一瞬たりとも目を離すな』と言われたのもあり、フィエルが一番怪しいのが夜間ということもあって、昨晩はフィエルの部屋に突入したのである。


 ルオニアは慌てて立ち上がると、「フィエル」と声をかけた。彼女は枕から半ば頭が落ちかけたような状態で、規則正しい寝息を立てている。改めて思い返してみるが、寝ている間にフィエルが抜け出した気配はなかった。何ならずっと寝ずに、逃げられないよう腕を抱き込んでいたのである。ルオニアが寝落ちたのは早朝の頃で、つまり一晩中フィエルはこの部屋にいた。


「フィエル、もう朝だよ」

 何度か声をかけて肩を揺すった頃になって、フィエルはようやく「ん……」と声を漏らして身じろぎした。ぎゅっと両目をつぶって、細く瞼を上げる。眠たげな顔に光が当たり、ぱちぱちと瞬きをした。

「……おはよ」

「おはよう、フィエル。……ちょっと、また寝ないでよ」

 一度は起きたような様子を見せたフィエルだったが、再びすぐに目が閉じる。結局また寝息を立て始めた彼女を一旦放置して、ルオニアは足早に部屋を出た。自室に寄って薄手の上衣を羽織ると、ざわめきが聞こえる方向へと足を向ける。



 廊下を大股で歩きながら、ルオニアは寝乱れた髪を手櫛で乱雑に撫でつける。いつものように三つ編みにする余裕はなく、癖毛は四方八方に跳ねていたが仕方ない。

「ルオニアさんっ!」

 居室を出て通路へ足を踏み入れたところで、侍女の一人が悲鳴のような声で振り返った。蒼白な顔色を見て、嫌な予感がした。

「どうしたの?」

 通路、大部屋の扉が並ぶ前で侍女たちは勢揃いしており、誰もが身を寄せ合って顔を見合わせている。ルオニアはその顔をざっと見回し、頭数を数えた。一人少ない。誰がいないのか、と眉をひそめた直後、「テテナが……!」と弱々しい声が続いた。


 ルオニアは血相を変えて「何があったの」と口調を険しくする。おずおずと皆が指さしたのは棟の入り口の方向で、人だかりができているのが見えていた。嫌な予感が強まる。

 唇を引き結び、ルオニアは大股で外へ出ると、人垣をかき分けて視線の先を追った。その途端、息が止まった。目の当たりにしたものが信じられず、声も出ない。


「ひ、」と喉が音を立てる。無意識のうちに足が下がり、膝から力が抜けた。地面にへたり込み、ルオニアは愕然として足元を見下ろす。



 既に集まった大勢の寵姫や侍女たちが、口々に噂話をまくし立てていた。好奇の視線の先、フィエルに与えられた一棟に続く通路に倒れていたのは、見慣れた侍女の姿である。明るい朝の陽射しを浴びて、その体はまるで物のように強ばって見えた。

 首から胸にかけてを真っ赤に染めた彼女の体を眺め下ろし、ルオニアは胸を上下させて唾を飲む。傍らに転がった凶器は、今までと同じ形のもの。これが一連の事件であることをまざまざと知らせる印であった。

(また、人が殺された……)

 それも今度は、身近な場所で、だ。


「テテナ、」

 呟いて、彼女の頭の脇にへたり込む。床に投げ出されたままの手を取れば、息を飲むほどに冷え切っていた。


 咄嗟に脳裏をよぎるのはフィエルの顔であった。フィエルとテテナが言い争っていたのは、まさに昨日のことである。が、しかし、少なくとも今回はフィエルが犯人ではないことは確定している。

(フィエルは昨日の夜、ずっと私と一緒にいたんだから……)

 動かないテテナの骸を見下ろしながら、ルオニアは昨晩のことを回顧する。間違いない。フィエルは違う。


 ライアがテテナに声をかけていたことも気にかかった。この宮殿には多くの下女がいるのだから、偶然テテナに尋問をしていたとは考えづらい。あのときはフィエルの周辺を探っているのかと思ったけど、もしかしたらあれはテテナ自身に嫌疑を向けていたことを意味するのだろうか?


 しかし……

(テテナが不義密通をしていたということは、ない……はず)

 テテナが属するこの部屋の主は自分である。侍女たちの生活や人間関係はほぼ確実に把握しているという自負があった。それとももしかして、自分は今まで何も知らなかったのだろうか?

 テテナの手を強く握り締め、その指先に額を寄せ、ルオニアは目を伏せて奥歯を噛みしめた。



「ルオニア!」

 前方から呼びかけられて、彼女ははっと顔を上げる。「失礼」と寵姫たちをかき分けながら、黒髪をきっちりと結った青年がこちらへ近づいてくる。その姿を見つけた瞬間に、何故か安堵している自分がいた。

「カナン、どうしよう……」

 自然と弱々しい声が出た。カナンは人混みを抜けると、ルオニアが手を握っている死体をじっと眺め下ろした。膝をついてかがみ込み、遠慮のない手つきでテテナの傷口を確認する。

「また殺されたのか」

「うちの部屋の侍女なの。それに、その……」とルオニアはカナンの袖を引いて耳元に口を寄せる。


「昨日、フィエルと話をしていた子で、」

 そう囁いた瞬間、カナンの目の奥に不思議な光が閃いた気がした。その眼差しに何か妙な気配を感じて、ルオニアは思わず袖から手を離す。カナンの横顔は既に普段通りの素っ気ないものに戻っていた。


「でもフィエルは違うの。絶対によ。だって私、昨晩ずっと見張ってたんだから」

「そうか」

 小声で必死に言い募ると、カナンは短く頷いた。また人が殺されたという報せが徐々に宮殿内に伝わっているのだろう、野次馬の規模は見る間に大きくなっていく。「一旦場所を移そう」とカナンがルオニアの腕を掴んだところで、不意に人混みがさぁっと割れるのが分かった。



「――はて、また死んだか」

 楽しげな口ぶりで呟く声が聞こえた瞬間、全身がびくんと跳ね上がったように強ばった。軽快な歩調とともに気楽な格好で姿を現したのはアドゥヴァである。その姿を視界に捉えた瞬間、腕を掴んでいたカナンの手に強い力が込められる。「いたっ」と声を漏らして、ルオニアは顔をしかめた。

 身を寄せ合って死体の傍らにかがみ込んでいたルオニアとカナンは、揃ってアドゥヴァを見上げる。一瞬だけアドゥヴァの目がルオニアに走らされたが、彼はすぐにカナンに向き直った。口角がつり上がり、嗜虐的な表情が浮かぶ。


「朝早くからご苦労なことだな、総督閣下」

「同じ言葉をそっくりそのままお返ししよう、『首長』どの」


 即座に切り返した、その言い様の攻撃的なことに、ルオニアは思わず息を飲んだ。

 カナンの口調は刺々しく、あからさますぎるほどに当てこすりを含んでいた。昨日、アドゥヴァが正式に王として認められていないことを話したばかりである。カナンがその件でアドゥヴァを皮肉っていることはすぐに分かった。


 アドゥヴァの顔に、一抹の苛立ちが浮かんだように見えた。カナンは慇懃な微笑みを絶やさないまま、ルオニアの腕から手を離して立ち上がる。互いに立って向き合うと、アドゥヴァの体躯のせいでカナンは随分と小柄に思えた。

 まるで子どもを眺めるように見下ろされ、カナンは「何か?」となおも挑発的に首を傾げる。

「いや、」

 アドゥヴァの態度にもはや動揺は見られず、口角を吊り上げた表情は余裕を示して飄々としていた。


「総督閣下ともあろう人が、ひとりの女を追いかけて遠路はるばる来訪してきただけでも涙ぐましいのに、こんな朝早くから部屋の前で出待ちをしているかと思うと同情を禁じ得なくてな」

「言っておくが、その話題で俺を侮辱できると思ったらとんだ勘違いだ」

 言いながら、カナンは腰に手を当てて顔を背けた。効かない、と宣言している割に、その顔は露骨に悔しげであった。ルオニアはテテナの側に座り込んだまま、二人の間で視線を行き来させる。

(これって、フィエルの話なのかな?)

 カナンが遠方からわざわざナフト=アハールに来たのは、フィエルが目的らしい。まあ予想通りだが……。



 それにしても互いに随分と険悪な態度を取っている二人を見比べて、ルオニアは少し困り果てた。ひとまず立ち上がろうと床に手をついたところで、いきなり「ルオニア」と頭上から声がかかる。咄嗟にどちらの声なのか分からずに目を丸くすると、腕を緩く掴まれて引き寄せられた。

「腕は大丈夫か?」

 とん、と背が温かいものに包まれると同時に間近で囁かれて、ルオニアは弾かれたように振り返った。目と鼻の先でアドゥヴァと視線が重なり、一瞬にして脳が沸騰するのが分かった。

「あ……」

「さっき馬鹿力で掴まれていただろう、可哀想に」

 聞こえよがしの言葉に、カナンがくいと片眉を上げる。背後から首に腕を回されたまま、ルオニアは顔を引きつらせた。


「あれはやめた方が良いぞ。女の扱いをろくに知らない上、女の趣味も最悪で、しかも盲目だからな。好きな女以外の人間は人とも思っていないに違いない」

 と、どうやら自分はカナンを嘲笑するダシにされているらしい。見る間にカナンの機嫌が急降下していくのが目つきで分かって、ルオニアは表情だけで謝罪した。




「お前ら、朝っぱらから死体見物とは良い趣味だな」と首長の一声で、野次馬はそそくさと散っていった。しんと静まりかえった通路で、面々はテテナを囲んで向き直る。

「まあそれは良いとして」と言いながらアドゥヴァはあっさりとルオニアを解放し、テテナの死体の側にかがみ込んだ。

「これはフィエル付きの侍女か?」

「はい。……最近入った子で、テテナといいます」

 アドゥヴァの問いに答えながら、ルオニアは再度まじまじとテテナの有様を見下ろした。身につけているのは昼間と変わらない、動きやすい普段着である。しかし、昨日彼女が着ていたものとは違う。となれば、彼女は昨晩、わざわざ寝間着ではなく外出用の服に着替えたことになる。


 テテナが昨日の夜まで生きていたことは確かである。殺されたのは夜間であることに間違いはない。

 ――それではどうして、テテナは夜に外出していたのか?


 自然と腕を組んで、ルオニアは顎に手を添えていた。ラヴァラスタ宮殿において、夜間の外出は禁じられているわけではないが、褒められたものでもない。テテナは自ら積極的に規則を破る質ではないし、咎められる可能性のあることをするような子でもない。ルオニア自身、他の侍女を叱ることはままあっても、テテナを叱責した経験は全くと言って良いほどなかった。そんな子が、他人と良からぬ関係を持っていたなんて、あるだろうか?

 少しどじだが真面目で手のかからない子。それがテテナの印象である。……そう思っていた、と言った方が正しいかも知れない。


(テテナの周辺について調べた方がよさそう)

 ルオニアは腕を組んで眉根を寄せる。やはり引っかかるのは、昨日のテテナとフィエルの会話である。テテナは何かを調べているような様子だった。

『あの人のことを何か知らないか』と、彼女の声が蘇る。その問いをすげなく棄却したフィエルの言葉も、間を置かずに脳裏をよぎった。


 カナンと視線が合うと、彼も同じことを考えていたらしい。昨日聞き耳を立てていた扉の方をちらと見やる。――ちょうどその折に、背後から「あの、」と声がかけられた。


「あ、ルオニア……ねえ、何かあったの?」

 怪訝そうな声に、誰よりも素早く振り返ったのはカナンだった。食い入るような眼差しを向けられているが、フィエルがそれに気づいた様子はない。彼女の視線は一心に床の上の死体に向けられていた。

 起き抜けの寝間着姿のまま、フィエルが口元に手を添えて固まった。その唇が小さく動く。


「ルオニア、その子、まさか……」

 それまで寝ぼけたような顔をしていたフィエルが、さぁっと青ざめるのが分かった。口を覆って棒立ちになったまま、彼女が息を飲む。と、膝がかくんと折れてフィエルはその場に崩れ落ちるように前のめりになった。咄嗟に飛び出したカナンがフィエルを受け止め、体を支えるように抱き起こす。その間も、フィエルの眼差しはじっとテテナに注がれていた。

「……死んでるの?」

 床に手をつき、唇を戦慄かせながら、フィエルが囁く。知らず、握り締めていた拳に力がこもる。疑いたくないが、自然とフィエルを注視している自分がいた。指先が冷え切っているのを自覚して、ルオニアは腹の前で両手を握り合わせた。


「そうだよ。……テテナが死んだ」

 掠れた声で囁き返した瞬間、フィエルは言葉にならない悲鳴を上げた。


 真ん丸に見開かれた両目から、音もなく大粒の涙がこぼれ落ちる。長い睫毛の先で雫が震えた。

 小さな声で呟く。

「――わたしのせいだ」

 その言葉に、アドゥヴァは初めて興味を示したようだった。眉を上げ、「どういう意味だ?」と視線を向ける。

 フィエルは頭を振り、目を疑うようにテテナの側ににじり寄った。雫がぽろぽろと頬を伝っては床に落ちる。


「……テテナは、何か思い詰めていたみたいで、でもわたし、ちゃんと話を聞いてあげられなかった」

 言いながら、その体は打ち震え、酷く怯えているように見えた。膝をついたカナンがフィエルの肩を抱く。彼女は驚いたように身じろぎして僅かに抵抗する様子を見せたが、カナンは腕を緩めようとはしなかった。半ば無理矢理抱きかかえるようにして腕を回す。


「ちょっと、」と口を挟みかけたルオニアは、そこで思わず黙り込んだ。目の当たりにしたカナンの目に、明らかな歓喜が浮かんでいたからである。ぞわりと寒気が足先から駆け上がり、ルオニアは思わず自分の腕を抱いて身震いした。



「わたしがテテナを殺したんだ」

 顔を覆って項垂れたフィエルを抱き寄せて、カナンが目を伏せて微笑む。快い朝日を受けて、堅く結われた黒髪は艶やかな光を放っていた。睫毛がゆっくりと上下する。彼の唇は滑らかに動いた。

「あなたのせいじゃない。――何も悲しむことはない」

 そう囁く声はとろけるように甘やかで、肩に触れる手は傍目に分かるほどの配慮に富んでいた。肩口の高さで切り揃えられた髪をそっと梳いて、涙に濡れて頬に張り付く毛先を慎重に払ってやる。腕を掴んで下ろさせると、頬を転がり落ちる雫を丁寧な仕草で拭い、その目尻を親指で慎重になぞる。


 ルオニアの知る姿からは想像のつかない、恭しい一挙一動であった。ほんの僅かな指先の動作も、薄く唇を開いて息を吸う一瞬も、「大丈夫ですから」と背を撫でながら告げた一言でさえ、すべてが彼女のためにあるもののように思えた。

 フィエルはなおも体を縮めてしゃくり上げていた。瞳を揺らし、途方に暮れたようにカナンを見上げる両目は、深い碧色をしている。空の色よりもなお遠い色彩であった。


 以前ルオニアは二人の関係について『恋人なのか』と訊いたことがあったが、そのとき彼はすげなく否定した。家族などでもないと言っていた。その意味がようやく分かった気がする。

 これではまるで――


「言っただろう」とアドゥヴァは舌打ちでもしそうに忌々しげな顔で呟いた。ルオニアにだけ聞かせるみたいに声量を絞り、鼻を鳴らす。

「すっかり心酔してやがる。自分の意思ってもんがないのか、気味が悪い」



 乱暴な語気で吐き捨てると、アドゥヴァは今度こそ本当に舌打ちをした。そのまま立ち上がってどこかへ行こうとする後ろ姿に、ルオニアは咄嗟に「待って!」と声をかけていた。伸ばした手が空を切る。


「あの、……ああ言ってるけど、フィエルは犯人じゃないです。絶対です。昨日の晩、私がずっと一緒にいたんです。フィエルは一度も外には出なかったし、テテナを殺すことは不可能でした」

 このことは何としてでも伝えねば、と早口に告げると、アドゥヴァは虚を突かれたように瞬きをした。カナンに抱きかかえられたまま打ちひしがれるフィエルに目をやり、死体を見下ろし、それから視線がルオニアの顔に戻ってくる。

「そうか」

 彼は軽く頷いて、少しの間考えこむようにテテナを見下ろしていた。片手で口元を覆い、腰に手を当てて黙考する。

「来い」と促されて、ルオニアは歩き出したアドゥヴァを追って小走りになった。



「――本当に忌々しいな。何か目的があって人を殺して回っているなら、俺に言えば融通してやるものを」

 言いながら舌打ちするアドゥヴァを、ルオニアは半ば呆れながら見上げた。んなことを言ったって、殺人犯が素直に名乗り出るはずもない。咎められるのを避けてすぐに顔を背けたが、アドゥヴァは目敏く視線に気づいたらしい。「何だ」と水を向けられて、ルオニアは「いえ……」と言い淀んだ。

「いくらアドゥヴァ様ご自身がそう仰っても、犯人だって捕らえられるのは嫌でしょうし」

 もごもごと答えると、アドゥヴァは「それもそうか」と軽く頷く。気分を害した様子がないのを確認して、ルオニアはそっと胸を撫で下ろした。


「まあ、目的は俺かもしれないしな」

 あっさりと放言したアドゥヴァの横顔を見上げて、ルオニアは目を瞬いた。



(確かに、アディは命を狙われ続けているし、宮殿内でも暗殺騒ぎは決して珍しくない)

 暗殺の数々を返り討ちにし、苛烈な粛正を続けている彼のことを思い浮かべる。自然と顔が下を向いてしまった。この人は、ごく当然のことのように自分が狙われている可能性を考慮に入れているのだ。

(でも、この連続殺人は違う。殺されているのは良からぬことをしていた寵姫や宦官たちで、むしろアディに利益が出るようになっていると言ってもいい)

 不義密通の事実を知れば、アドゥヴァはその寵姫を生かしてはおかないに違いない。外部と密かに繋がっているような人間ならば、刃物や毒物を調達して暗殺を企てることも可能だ。……被害者たちは、遅かれ早かれ殺されていた。


(――ライア様が、アディに代わって宮殿内の粛正をしている?)

 顎に手を添えて、ルオニアは眉根を寄せる。でもそれなら、どうしてライアはアドゥヴァに黙って寵姫を殺して回っているのか。彼が『殺したい奴がいるなら俺に言え』と冗談めかして語っていることは事実である。

 セニフに次ぐ側近であるライアからの告発なら、アドゥヴァはすぐに聞き入れるに違いない。自ら闇に紛れて手を下さずとも、その行いを白日の下に晒しつつ正当に不穏分子たちを始末することができる。


 しかし、……そもそも、ライアが、アドゥヴァの利になるように動くかどうかという疑問があった。両者が犬猿の仲なのは公然の事実だったし、犯人が見つからないことでライアは相当にいたぶられているらしい。彼女が憔悴したような顔をしていたのも確かである。ライアが犯人なら、適当に別の人間を犯人に仕立て上げることだって可能なはずだ。何なら事件が露呈しないように揉み消すことだってできる。

(ライア様、か……)



 自然と事件に関して考察しようとしたとき、視線を感じてはっと我に返った。足を止めて前触れなく沈黙したルオニアを、アドゥヴァがじっと見下ろしている。その目が、大きく見開かれていた。愕然としたような眼差しに気づいて、ルオニアは息を飲んだ。

「お前……」

 無造作に顎を掴まれ、顔を上げさせられる。咄嗟に振り払おうとして、腕までもが掴まれた。強引に明るい方を向かされ、ルオニアは眩しさに目を細める。


「――ルゥ?」

 刹那、こぼれ落ちた音に、爪先から脳天まで突き抜けるような衝撃が走った。駆け巡った思考の全てを咄嗟に全て飲み下し、ルオニアは曖昧な笑みで「はい?」とだけ応じて首を傾げた。


 頬に触れる指先が震えていたのは気のせいだろうか。アドゥヴァは掠れた声で問う。

「お前、……名前は何といった」

 まるで怯えているかのような声音であった。喉がひくりと引きつった。膝が笑う。

「ルオニア。――ルオニア・ドルテールです」

 指先が急速に冷えるのが分かった。心臓が暴れ回り、顎に触れる指先に脈拍が響きやしないかと不安になった。ルオニアは顎を引き、しっかりと目を見開いたまま、アドゥヴァの視線を受け止めて見つめ返す。何の疑いも抱かせぬように、何も後ろ暗いところなどないかのように。


「家族は」

「いません。両親ともども、先代が即位する際の鉄砲水で近い親族を亡くして縁がなかったそうで、両親も私が幼い頃に死にました」

 淀みなく答えると、顎を掴む手が幾ばくか弱まった。ルオニアは喘ぐように喉を反らして息を吸う。


「……その名前は、誰が付けた?」

「父です。父が生きていた頃、私にぴったりの名前だと頭を撫でてくれたのを覚えています」


 そう答えた瞬間、アドゥヴァの指先から、ふっと力が抜けた。顔を伏せた彼の目に、一瞬だけ不思議な感情がよぎる。苛立ちとも渇望ともつかない眼差しであった。ルオニアは気取られぬように背に回した両手を強く握り合わせた。

「そうか。いきなり悪かった」

 深追いせずに手を離して、アドゥヴァは頭を振る。「気のせいか」と呟くと、彼は深々と嘆息した。眉間を抑え、腰に手を当てて顔を伏せる。その姿を、ルオニアは黙って見上げていた。


「死体の処理はあとで他の人間に指示しておくから、放っておくように言っておけ」

 そう言い置いて、アドゥヴァが大股で離れてゆく。後ろ姿を追う気力もなく、ルオニアはその場で立ち尽くした。――いくつもの嘘をついたせいで、背中に嫌な汗をかいていた。




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