差し出される手4
「いきなり何よ、私だって暇じゃないんだけど」
不機嫌そうな態度で腕を組んだルオニアを眺めて、カナンは口をひん曲げた。たまたま見かけたから声をかけて部屋に招いただけでこの反応である。嫌われるようなことをした覚えは、……全くないと言ったら嘘になる。
「いや、ただ……何となく」
「私たち、用事もなしに雑談するほど仲良かった?」
「……いや」
カナンは言い淀んで身じろぎした。自分で言うのも何だが、よく知らない女からこんなにつっけんどんな態度を取られるのは初めてである。先程から後ろでアニナがくすくすと笑っているのも居心地が悪い。
気まずい沈黙を見るに見かねたのか、アニナが「ところでルオニアさん」と朗らかな声で口火を切った。
「少し前に宮殿の外でライアさんにそっくりの男性を見つけたんですけれど、もしかしてご家族なのかしら?」
話し出しの雑談のような口調であった。カナンは中空に目をやって、到着した際に案内役を買って出た寵姫の姿を思い出す。背の高い、まるで青年のように端正な女であった。年のほどは二十代半ばほどだろうか? アニナとおおよそ同じ年頃だろう。
ライアの容姿を思い浮かべているカナンをよそに、ルオニアは事も無げに「ああ」と軽く頷いた。
「それなら多分、セニフ様ですね」
――その瞬間、カナンは弾かれたようにルオニアを振り返っていた。いきなり素早い動きを見せたカナンに、彼女は「何よ」と面食らった様子で目を丸くする。怪訝そうな視線に取り繕うこともできず、カナンは呆然と浅い呼吸を繰り返した。
「……セニフ?」
聞き返すと、アニナが「そう」と頷く。カナンは思わず額に手を当てた。
間を置かず、記憶の彼方から遠い地下倉庫の記憶が蘇る。息も詰まるような暗闇の中で、すぐ側にあるエウラリカの体温を感じていた。炎の明かりが壁に映し出されては揺れる。積まれた木箱で視界が遮られる、秘密の空間であった。
ハルジェル主都、城の敷地内に広がる林の中のことである。温室の下に密かに設えられた地下室にて、自分たちはあのとき確かに、『セニフ』と名乗る人間を目の当たりにしている。あのとき南方連合は既にハルジェル領を掌中に収め、セニフは左大臣に対して、帝都に対する反逆の手筈を整えるように命じていた。
「その、セニフというのは、どんな男だ」
ルオニアを見据えて、カナンは慎重に問うた。あの地下室で直面した、得体の知れない恐ろしさが全身を襲っていた。穏やかな口調で苛烈な脅迫を行う、滑らかに流れてゆくような声音を思い出す。
ルオニアは「セニフ様?」と少し考えこむような仕草を見せてから、腕を組んだ。
「綺麗な人だよ。男性……というか、ここの宦官長なんだけど、物腰も柔らかだし、何となく中性的な魅力があるかな。結構人気あるよ」
(……あのときの『セニフ』と、同じ人間だ)
カナンは口を噤んだまま確信する。後ろでアニナが「なるほど」と頷いているのを聞くともなく聞きながら、彼はゆっくりと息を吐いた。セニフがこの宮殿にいるのは、考えてみれば至極当然のことである。しかし……。
(また油断ならない人間が増えた)
カナンは思わず歯噛みし、苛々と首元に触れる。
「セニフ様という方がいらっしゃることは、私もロウダン様からお名前だけは聞いています。アドゥヴァ様の側近と伺っていましたけど、宦官長もされているんですね」
ウォルテールがセニフのことを知っているとは初耳である。意外に思って目を丸くすると、ルオニアはルオニアで「ロウダン様……?」と首を捻っていた。
「ああ、あの……私の夫です。うふふ」
一人でくすぐったそうに照れ笑いを浮かべているアニナは放置して、カナンは音を立てないように慎重に足を組んだ。
(アドゥヴァの側近、か……)
セニフ、とカナンはその名を口の中で転がす。ルオニアが僅かに身じろぎをして、どこか居心地悪そうに目を逸らすのが気になった。
「せ……セニフ様は、ライア様のお兄さんなの。二人ともスエラテルスで、特にセニフ様はアドゥヴァ、様の最側近だから、宮殿でも地位が上で、」
聞いてもいないのに喋りだしたルオニアを、カナンは懐疑的に眺める。付き合いは大して長くないが、それでも今日の彼女はどこか様子がおかしい。まるで何か触れられたくないことがあるかのような素振りである。
人に言えない秘密を抱えて追い詰められていった青年の面影が、ふと一瞬だけ瞼の裏にちらついた。果てには自ら水底に身を投げたイリージオのことを思い浮かべながら、カナンは目を眇める。
「スエラテルスって何ですか? 名家なの?」
気楽な口調で問うアニナの声をどこか遠くに聞きながら、カナンはルオニアの目の奥をじっと見据えていた。ルオニアはアニナの方に顔を向けたまま、意地でもカナンと目を合わせようとはしない。
「よく家名と同列の扱いを受けていますが、ナフタハル家に代々仕える従者の組織のことです。元の血統を捨てて王家に忠誠を誓うことでのみ入れる、王家の最側近……かな? 原則としてスエラテルスに血縁関係がある人間が所属するのは禁じられているはずなので、あの二人は特例か何かなんでしょう」
ルオニアは饒舌だが、カナンが含みのある目で見ていることはとうに察している様子である。膝に置かれたままの指先が、ぎゅっと強ばっていた。布地に強い皺ができるほどに握り込まれた拳を一瞥して、カナンは鼻から長い息を吐いた。
「血統が非常に重視されるナフタハル家に対して、スエラテルスは――」
「ルオニア」
彼女の言葉を遮って、カナンは歯切れの良い発音でその名を呼んだ。ルオニアが目を見開いたまま、ぴたりと唇を閉ざす。その双眸が、僅かな怯えを示して揺れた。
どこから切り込んだものか、とカナンは無言のうちに思案した。声をかけた直後は驚いたような顔をしていたルオニアは、既に警戒心を露わにしてこちらをじっと睨みつけている。
「……なに?」
顎を引いて身構える様子は、どこか手負いの獣を思い起こさせた。カナンは組んでいた足を戻すと、ルオニアの顔から目線をずらす。ルオニアが何かを隠していることは、ほぼ間違いない。
「その、セニフという男は、信頼できる人間か?」
「質問の意味が分からないわ。話の流れって知ってる?」
ルオニアはぴしゃりと撥ねのけるようにそれだけ答えた。余計なことを喋るものかと唇を引き結び、目を伏せる態度は頑なである。
(もしも最悪の事態――エウラリカを攫ってでも連れ帰ることになった場合、筆頭侍女であるこいつの協力は必須となる)
アニナは緊迫した空気に勘づいたのか、無言で軽く一礼すると足音を立てずにカナンの背後へ戻った。机の上に置かれた盃に片手を乗せ、指先で縁を持ち上げる。アニナがせっせと淹れた茶を一息で飲み干して、カナンは不遜に頬を吊り上げて首を傾けた。
「話をしよう、ルオニア。俺は君の力を借りたい」
「嘘ばっかり。あなた、フィエルに近づきたいだけのくせに」
「それだけ分かっていれば話は早いな」
悪びれる気もなく頷いて、カナンは空になった盃を天板に戻す。そのまま身を乗り出し、握手を求めるように手を差し出した。
「じきにフィエルが殺人犯として捕らえられ、処刑される。十分に有り得る未来だ。君の友人は政治的な正当性のもとに殺される。そのとき君はどうなる? この国では罪を犯した者は一族郎党殺されるのが流行りらしい。……しかし、『フィエル』の罪を我が罪だとサハリィ家が大人しく受け入れるだろうか? 否、」
ルオニアの両目が、はっと見開かれる。カナンは笑みを深めた。
「『全て、この娘が勝手にやったことです。自分たちはまさか、実の娘に付けた侍女がフィエルを名乗るなど思いもしませんでした』。だってあの女は元々サハリィ家とは何の繋がりもない女だもんな。血縁を理由にしたって、この南方連合で累が及ぶ人間は誰もいない。ならこの件に限って、他の人間はお咎めなしか? それで済んだことにはできないのが、施政者の面子ってやつだ」
掌を見せるように両手を開いて、彼は朗らかに目を細めた。自分がいつになく優しい声を出していることは自覚している。ルオニアは臆したように身構えた。
「言っておくが、ルオニア――この件は君ひとりの手に負えるほど小さな話題ではない」
俎上に上がっているのは南方連合の長と、最大の氏族家と、加えて新ドルト帝国の王女である。こんな下女上がりの、何の力も持たない女に扱える限度は超えていた。
「どんな形で巻き込まれるかも分からないし、自分で身の潔白を証明することも難しいだろう。……そんな中で、君を守ってくれる人間は、この宮殿にいるか?」
甘やかすように、ゆっくりと語りかける。ルオニアは既に青ざめて唇を噛んでいた。が、すぐに目を怒らせて強い語調で反駁する。
「い、いるわよ! ……セニフ様と、ライア様が、味方になってくれるって言ったもの。アドゥヴァ様を除いて、この宮殿で最も偉い二人なんだから」
やけくそのように胸を張ったルオニアに、カナンはこれ見よがしにため息をついてみせる。
「馬鹿だな、お偉いさんがこんな侍女の後ろ盾になるって? そんな胡散臭い話を信じたのかよ」
「言っとくけどあなたも、いかがわしさで言ったら大して変わらないからね」
「…………。」
カナンは降参を示してひょいと両手を挙げた。この話題は良くない。
セニフの正体は、正直に言えばよく分かっていない。明かりのない空間で覗き見た姿のみが情報の全てである。カナンは目を伏せ、自らの手のひらをじっと見下ろした。向こう見ずなエウラリカを背後から咄嗟に抱きかかえたときのことを思い出す。あの人は本当に我が身の安全を顧みないのだ。どれだけ肝を冷やしたことか……。
暗闇に翻る刃の軌跡が、ぱっと脳裏で鮮烈に閃いた。自分たちが隠れ潜んでいた位置を狙い澄まして、分厚い木箱を一息に貫いた瞬間のことを思い出す。エウラリカの鼻先を、鋭い切っ先が掠める。気配を悟ることに長けた、あれは武人の振る舞いであった。
「そのセニフという男は、宦官たちの長でありながらアドゥヴァの近衛も兼任しているのか? 随分と忙しいな」
回顧しながら何の気なしに呟いた瞬間、ルオニアの表情がはっきりと強ばった。ごくり、とその喉が唾を飲むように動く。大きく目を見開いたまま、彼女は全身で動揺を示していた。
(何だ?)
カナンは思わず眉根を寄せてルオニアを注視する。彼女は言うか言うまいかを酷く逡巡するように口を開閉させ、それから掠れた声で頭を振った。
「……セニフ様は、近衛なんて、してないよ」
「でも彼は武人だろう。じゃああれは趣味で身につけたのか……?」
首を捻るカナンとは対照的に、ルオニアは今度こそ本気で体調が悪そうな顔色になっていた。一度腰を浮かせかけ、途中で思い直したように座り直す。それを数回繰り返してから、彼女は途方に暮れたような顔でカナンを見つめた。
「なんで、そう思うの……?」
ルオニアが弱々しい声で問う。彼女が何をそんなに動揺しているのか分からない。カナンは面食らいながら、「だって」と心持ち仰け反った。
「――セニフは、剣の扱いに慣れていた」
カナンが呟いた直後、ルオニアは「やっぱり」と小さな声で呟いた。大きく息を吸って息を詰め、それからゆっくりと吐く。
長いこと逡巡して、それからルオニアは顔を上げた。きりと眦を上げると、腹を括ったようにこちらを見据える。
「……その話、詳しく教えてよ」
足を僅かに開いて踏ん張り、膝の上に握りこぶしを置いたルオニアの顔には、先程までの懊悩の色はない。決然とした表情で、彼女は挑むように唇を引き結んだ。




