差し出される手1
「何だ、随分とやつれていないか?」
「うるさいわね……」
早朝、優雅に宮殿をお散歩されている総督閣下と出くわして、ルオニアは思わず顔をしかめた。咄嗟に悪態をついてしまったが、カナンはくいと眉を上げるだけで反応しない。普段は一つに結わえている髪は下ろされており、歩くたびに毛先が揺れている。早朝の気配も相まってか、纏う雰囲気が柔らかいように思えた。
「疲れているように見える。……髪がまだ濡れているぞ、まさか朝方に仕事が終わったのか?」
「うるさい」
「いや、しかし……だったら散歩なんてしてないで、早く部屋で休んだ方が」
「うるさいってば、私がどんな夜を過ごそうが関係ないでしょ」
げっそりとしたまま覚束ない足取りで歩くルオニアを、カナンは困惑気味に見下ろしてくる。その横顔をちらと見上げ、ルオニアは眉根を寄せた。
「ねえ、えーと……総督閣下」
「カナンで構わない」
「カナン、フィエルがどこに行ったか知らない?」
問うと、カナンが目を見張る。「行方が分からないのか」と詰問する表情は険しく、ルオニアはたじろぎつつ「そう」と頷いた。
「昨晩、アドゥヴァ……様がフィエルのところに来るって言うから、準備してたんだけどさ」
「え?」
本題に入る前に聞き返してきたカナンに、ルオニアも「え?」と首を傾げる。
「アドゥヴァは何の用事があってフィエルのところに?」
潜められた声が鋭く響いた。振り返りざまにその髪が頬を掠める。肩を掴まれた瞬間、思わず体が跳ねた。
「……そりゃ、あれよ、夜伽というか……」
言いづらく、目を逸らして答えると、カナンはぱっと手を離す。「何だ、よかった……」と呟いてから、「良くない」と目を剥く。愕然としたような表情で立ち尽くし、その顔がさぁっと青ざめてゆく。
「あの男、記憶がないのを良いことに、権力に物を言わせて無体を働くとは……! 今すぐ一発殴ってくる」
凄まじい剣幕で踵を返そうとしたカナンを、ルオニアは「待って」と引き留めた。深々と嘆息する。どいつもこいつも、ろくに対話も連絡もできやしないんだから……。
「最後まで聞きなさいよ。それで、フィエルが直前に行方を眩ませたの。書き置きがあったってことは、誰かにさらわれたとかではなく、自分の意思で出て行ったんだわ」
子どもに言い含めるみたいに告げると、カナンは徐々に落ち着いたように数度頷く。「悪い」と取り乱したことを恥じるように髪を耳にかけ、彼は腕を組んだ。
カナンはしばらく目を伏せたまま沈思する。黒髪の人間はナフト=アハールにも多くいるが、こちらの人間とは異なる髪質であった。顔を伏せたせいで目元に影が落ち、感情が読めない。その姿をしばらく眺めてから、ルオニアは小さな声で問いかけた。
「……あの子、あなたの恋人だったの?」
「違う」
吐き捨てて、カナンが顔を上げた。疲れたような顔でため息をつく。有り得ない、と言いたげな態度に、ルオニアは首を傾げた。
「じゃあ家族?」
「どう見ても血が繋がってないだろ」
「見た目が似ていない家族だっているわ。それに、血縁関係がなくても家族にはなれるわよ」
言葉は返ってこなかった。カナンは数秒黙り込み、「少なくとも、俺とあの女は家族ではない」とだけ答える。
「伝えておくか」と呟いて、カナンは周囲を憚るように視線を動かすと、ルオニアに向き直った。身を屈めて声を潜める。
「――この間言った、フィエルを犯人だと疑っている人間……それが、アドゥヴァだ」
人の気配がないことを探るカナンの目つきは鋭く、ルオニアは告げられた内容に息を飲んだ。
「じゃあ、昨晩、あの人が来たのって、」
「単にフィエルを気に入って訪問した訳ではないのは確かだ。あの男はフィエルを警戒しているし、他に犯人が見つからねば殺すと言い切った」
「探りに来たのね。……フィエルが、本当にあの連続殺人の犯人かどうか」
やにわに緊張感を帯びた空気が漂う。ルオニアは昨晩のことを思い返しながら、唇を引き結んだ。
アドゥヴァがフィエルを見定めるために部屋を訪れたのに、彼女はアドゥヴァの前から逃げ去った。これではまるで、嫌疑を向けられて逃亡した容疑者そのものである。一度行方を眩ませてしまえば、そこには『逃げた』という事実だけが残る。何か後ろ暗いことがあったのではないか、という予想とともに……。
早朝の宮殿に人の気配はなく、日の出直後の空気はまだ冷え冷えとしていた。吹き抜けた風が四肢に触れ、ルオニアはぶるりと身震いをする。斜めに射し込む朝日を受けて、カナンの頬が白く照らし出された。そこに引きつった笑みが浮かぶ。
「……これは、結構まずい状況だな?」
「フィエルの怪しさは増したでしょうね」
顔を見合わせ、同時に嘆息した。ルオニアは肩を竦めて鼻を鳴らす。
「今すぐフィエルを探してくるわ。元々そのために出てきたんだから」
「俺も行く」
ほとんど同時に歩き出した二人は、直後、その場に棒立ちになった。――甲高い叫び声だ。方角の分からぬ遠くから、女の悲鳴がした。カナンが息を飲む。その目がルオニアを窺うように動いた。
「行くぞ」
「うん、」
短いやり取りで頷き合う。ルオニアは声の出所を探すべく、カナンを追って走り出した。
***
カナンが現場にたどり着いたとき、そこは既に混乱の渦に巻き込まれていた。狭い通路に人だかりがひしめき合い、先へ進むことができない。
「何があったの?」
低い声で囁いてきたルオニアに「分からない」と答えて、カナンは腕を組んだ。
寵姫たちが口々に喋っている内容は聞き取れない。その頭越しにも前方の様子は見えなかった。カナンは少し思案してから、ルオニアの前腕を軽く掴む。一瞬だけ警戒するような様子を見せた彼女は、しかしすぐに表情を改めた。
「失礼、通してもらえるかな」
顔を見合わせて語らっている寵姫や侍女たちに柔らかく声をかけると、彼女らは初めてカナンに気づいたように目を丸くした。そそくさと離れてゆく寵姫たちに軽く微笑んで、カナンは開いた道を堂々と闊歩する。ルオニアは大人しくついてきた。
「……あなた、その外面をもう少し私に対しても向けたらどうなの」
「不要な愛想は撒くだけ損だろ」
じとりと睨み上げてきたルオニアに冷たい視線を返して、カナンは鼻を鳴らした。ルオニアがあからさまに呆れたような顔で眉を上げる。馬鹿じゃないの、と言いたげな態度に、カナンは鼻を鳴らした。エウラリカとは別の意味で厄介な女である。
そうして、野次馬たちが何を見ていたのかを目の当たりにして、カナンは「なるほど」と呟いた。
通路の先、閉じた扉の手前で、男がうつ伏せに倒れている。四肢は投げ出されており、体はぴくりともしない。その胸の辺りから血溜まりが広がっていたが、既に表面は乾いているようだ。傍らには小ぶりな刃物が転がっており、汚れた刃先からして凶器であることに疑いはない。
「うっ」とルオニアが顔をしかめるが、人死にに慣れているという言葉は本当らしい。さして取り乱す様子もなく腕を組む。
服装からして、恐らくは宦官だろう。倒れたままで顔の見えない男の脇にかがみ込んで、カナンはその肩をぐいと押し上げる。上体が力なく持ち上がり、ぐったりとした顔が露わになった。苦悶の表情を浮かべているが、思いのほか若いようだ。体を起こさせて初めて、その胸に走った大きな切り傷が目に入った。カナンは顔だけで背後を振り返る。
「見覚えは?」
「私だって、宮殿中の宦官をみんな把握している訳じゃないんだけど」
視線を向ければ、ルオニアは文句を言いながら床に膝をつき、宦官の顔を覗き込む。目を細めた表情に動揺はない。
しばらくして、ルオニアは「新しい宦官ね」と断言した。
「確か、オーサルクの街から来た人だよ。多分そこの有力者の口添えで入れられたんだろうね、若い割にそこそこ高位についているのが気になったから覚えてる」
把握していないと言いながら、あっさりとその正体を言い当てる。思わず感嘆して目を丸くすると、ルオニアは少しだけ得意げに頬を吊り上げた。
しかし、とカナンは宦官の体を元に戻しながら眉をひそめた。
「これまでに殺されていたのは全員、寵姫だったんだよな?」
「そうね。だから」
ルオニアは宦官の広い背を指さしながら、人目を気にするように声を低める。
「……宦官が殺されるのは初めてだわ」
顔を寄せ、険しい表情で吐き捨てたルオニアが、小さく舌打ちをした。「ねえ、カナン」と耳元で囁かれた声は、恐らく、同じことを考えている。
「まずいよ、これ」
その言葉に、カナンも渋い表情で頷いた。見れば、ルオニアは青ざめた顔をして、縋るようにこちらを見つめている。カナンはその視線を頬で受け止めて、眼前の死体を忌々しく睥睨した。
「――フィエルが姿を消した夜に、人が死んだ。これで疑うなと言う方が無理だ」
更に騒ぎが大きくなりつつあるのを察して、カナンはルオニアを連れて一旦その場を離れた。柱の陰に隠れて、顔を見合わせる。
「あの宦官が倒れている扉は、何の部屋なんだ?」
「こっちは居住区じゃないからよく分かんないわよ。確か、倉庫か何かだった気がするけど……少なくとも、用もなしに人が立ち寄るような場所じゃない」
ルオニアの表情に嘘をついている様子はない。自身も訝しむような表情で腕を組んだルオニアを、カナンはしばらくじっと見下ろした。
(正直なところ、エウラリカが本当に連続殺人の犯人である可能性は、相当に高い)
目的の為なら、その程度のことはあっさりとやってのける女である。凶行に手を染めてもおかしくない。……記憶を失ったとは言え、彼女の冷酷な性質の片鱗は残っているかもしれないじゃないか。
しかし、とカナンは視線を死体に向け、それから再びルオニアに戻す。彼女は真剣な表情で死体に目線を投げかけていた。
――その疑いを、ルオニアに教える必要はない。
カナンはルオニアのことを信用しきれないでいた。直情的で単純な倫理観しか持ち合わせていないように見えて、いまいち何を考えているか分からない女である。ふとしたときに漂わせる気配や、僅かに引っかかるような話しぶりが、どうしても気になっていた。取り越し苦労かもしれないが……。
「なあ」と声をかけると、ルオニアは胡乱な目つきで振り返った。癖のある毛が頭頂部で間抜けに飛び上がっている。
「……もしも、フィエルが犯人だとしたら、どうする?」
あくまで例えばの話だと、軽口めいて問う。前にも話題に出したことのある質問であった。ルオニアは鼻白み、顎を引いてカナンを睨みつける。
「フィエルは犯人じゃないって、私、信じているよ」
「例えばと言っているだろう」
重ねて問い詰めれば、ルオニアは眉根を寄せて黙り込んだ。その視線が、倒れ伏して冷たくなった宦官に向けられる。痛ましげに目を細め、ルオニアは静かに瞼を下ろした。
「そりゃあ、然るべき処罰が下されるべきだよ、もちろん。でもそれが叶わないなら――」
音もなく目を見開いて、ルオニアは自らの手を強い眼差しで見据えた。
「――私が、あの子を食い止める。だって大切な友達が人殺しに手を染めているなんて、私は見過ごせないから」
決然と告げたルオニアを見下ろし、カナンは腕を組んで半歩退いた。……やはりこの女には、エウラリカのことは伝えない方が良さそうだ。
***
部屋に戻ると、フィエルは眠そうな顔で円卓に突っ伏していた。片腕を枕にして、とろんとした目で瞬きを繰り返している。当然のような風情で部屋にいる友人を目の当たりにしたルオニアは、思わず口を開けたまま絶句した。
ルオニアが入ってきたのを見つけて、その唇が微かに動く。
「ごめんね、ルオニア」
掠れた声で言われた瞬間、ルオニアは目を怒らせてフィエルに飛びかかっていた。
「フィエル! ……どこへ行っていたのよ、この馬鹿!」
「うん、ごめんね」
フィエルの返事は要領を得ず、その様子は今にも眠ってしまいそうだ。体を起こしざまにぐらりと揺れた彼女を支えようとしたが、フィエルはすんでのところで体勢を立て直す。ルオニアは心持ち身を屈め、机に手をついて立ち上がったフィエルの顔を覗き込んだ。その手を取って「寝てないの?」と訊けば、彼女はこくりと頷く。
ふらつきながら、ゆっくりと瞬きをする友人を、ルオニアはしばし無言で見下ろした。繋いだ手の中で、柔らかい指先が冷え切っている。
「ねえ、フィエル――」
ん、と彼女が無邪気な表情で首を傾げる。甘えるような仕草でフィエルが微笑んだ。心臓が早鐘を打っていることを自覚して、突然口の中が乾く。ルオニアは唾を飲み、努めて何気ない口調で切り出した。
「――今朝、宦官が殺されていたの、知ってる?」
刹那、眠たげだった瞳の奥に光が閃く。が、それはすぐに消え失せ、フィエルは「ちょっと聞いたよ」と眦を下げた。
「可哀想にね……」
息混じりの声で呟いた友人を、ルオニアは無言で見下ろす。彼女の態度に変わったところはなく、宦官が殺されたと聞いても動揺したようには見えない。だいいち、華奢で小柄なこの子が、仮にも男性である宦官を殺害することができるだろうか? あの宦官は結構上背があったように思える。
難しい顔で立ち尽くすルオニアの手の中から、フィエルの指先がするりと抜け出た。
「何だか頭が痛いから、少し部屋で休んでくるね」
そう言ってフィエルはふらふらと自室の方へ向かおうとする。と、その手が扉へ近づくのを見て、咄嗟に「待って!」と引き留めていた。一瞬にして、全身にどっと汗をかく。
「あ、あの……えっとその、」
昨晩の記憶が、視覚や音、感触とともに一気に押し寄せてきて、ルオニアは口を開閉させたまま立ち尽くす。フィエルは怪訝な表情で少し首を傾げていたが、少しして「何か差し障りがあるのね?」と珍しく物わかりの良い反応で頷いた。
「う……ん」
ぎこちなく肯定すると、フィエルはにこりと微笑んだ。意味深な表情でそっと扉の表面を撫で、「ねえルオニア」と囁く。一歩、また一歩と近づいてきた彼女が、肩に優しく手を置いて、そっと身を乗り出した。
「この間、隠し事はなしよって、言ったよね」
どくんと心臓が跳ねる。体を強ばらせて、ルオニアはその場で立ち竦んだ。ルオニアと目を合わせ、フィエルの顔がまるで今にも触れそうに近づいたが、その実かすりもせずに離れてゆく。
「でも、ルオニアは、昨日の夜にあったことには触れられたくなさそうね」
良いよ、とフィエルが目を細める。「わたし、何も気にしないから大丈夫。あなたのこと詮索したりもしないし、『誰か』に告げ口したりもしないよ。だから安心してね」
フィエルはその続きを口にしはしなかった。けれど、上目遣いで甘えるように向けられた眼差しには、明らかに含みがある。念押しのように彼女が笑みを深めた。
その代わり、お前もこちらのことを詮索したり、報告したりするなと、そう言いたいのだろう。
釘を刺されたのだ、明言されずとも分かる。ルオニアは一度唾を飲み込み、「わかった」と首肯した。絞り出した声は自分でも笑ってしまうほどか細く、震えていた。
「うん」とフィエルは整った顔で可愛らしく笑った。
「じゃあわたし、別のお部屋で休んでるね。急げとは言わないから、お部屋のこと、お願いしても良いかな」
その目は何もかも見透かしているようだった。恐らくフィエルは分かっているのだろうと直感する。昨晩この部屋を訪れたのが誰なのかも、そのとき部屋にいたのが誰だったかも彼女は承知のはずだ。
(……仕組まれたのだろうか)
ほんの一瞬だけ浮かんだ可能性を、ルオニアは慌ててかき消した。それは流石に邪推が過ぎる。足音を立てずに部屋を出ていったフィエルを見送り、ルオニアは重い気分で項垂れた。
「どうしよう、」
呟いて、彼女はその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。両手で顔を覆い、声を殺して唇を噛む。
――何もかもが最悪だった。
今朝もまた人が死んだ。フィエルの疑いは消えていない。けれどそれを問い詰めることも、誰かに相談することも封じられてしまった。
極めつけの最悪が昨夜のことだなんて、言わなくたって分かりきっている。彼に脅されずとも、他人に吹聴する気なんてさらさらなかった。
「……どうする」
ルオニアは顔を覆ったまま呟く。問題は山積しているが、今最も急ぐべきは――
(――避妊薬? 堕胎薬? って、今から飲んでもまだ効果あるのかな)
顎に手を添えて、ルオニアは眉間に皺を寄せた。まさかそう簡単にことが運ぶことはないだろうが、万一ということもある。
「……そもそもそんなもの、どうやって手に入れたら良いんだ?」
相談できる相手の心当たりは、正直あまり多くはなかった。




