男難の相4
青い水を湛えた、深い泉に小舟を浮かべて、さざ波に揺られながら水面に指先をつけるのが好きだった。櫂を持った彼が器用に船を動かし、舳先は水を割って滑るように進んでゆく。
今日は自分が舟を漕ぐと言ったはずなのに、何かと理由をつけて櫂を取り上げられてしまった。舟の縁に両手を置いて、不満を表して唇を尖らせる。文句を並べても彼は意にも介さず、「下手くそには任せられない」と当然のような顔をして酷い言い草である。
「アディ、私だって舟くらい漕げるよ。……たぶん」
いつも見てるもん、と言い募るが、彼が応じる様子はまるでない。
「そろそろ戻るか」
「うん」
かけられた声に頷いて、揺れる水面に人差し指を一本だけ差し入れる。波紋が広がりながら軌跡を描いた。
「今日のおやつは何かな、アディ」
「昨日の夕方頃に行商人が来ていたから、変わったものが出るかもしれないな。あれは遠くから来る行商人だ」
アディが訳知り顔で言う。櫂の一漕ぎごとに小舟がすい、すいと力強く進んでゆく。
「遠くって?」
「帝国の方だろう」
「私、帝国って行ったことないなぁ」
「俺も行ったことないよ」
「でっかいお城があるんだって。見てみたいね」
「いつか機会があれば連れてってやる」
「ほんとに?」
とりとめのない言葉が投げ交わされるごとに、岸が近づいてくる。もうじき舟から下りなくてはならない。そしたら自分たちは離ればなれで、それぞれの生活へ帰ることになる。
何せ、自分とは違ってアディは立派な血筋で、年齢も上で、学ぶべきこともたくさんあるのだという。
だから、彼女は、この時間が好きだった。彼と一緒にいることを唯一許された、舟の上でのほんのひとときのことが好きだったのだ。
「……アディ、私まだ戻りたくない」
少し甘えるような口調で言ってみる。彼は視線をこちらに滑らせて、櫂を動かす手を一瞬だけ止めた。その目が探るように眇められたが、彼はすぐに口元に笑みを浮かべた。「我が儘言うな」と窘められてしまえば、もう返す言葉はない。
そのとき、突如として強い風が吹いた。被っていた帽子がふわりと舞い上がり、咄嗟に腰を浮かせて手を伸ばす。帽子を捕まえようとした指先が空を切った。
「あっ、」
と、舟の重心が移動し、くるんと足元がひっくり返る。瞬きをする間のことだった。
激しい水飛沫を上げて、二人の子どもが冷たい水の中に落ちる。視界が反転し、開いた口から大きな泡が噴き出した。喉に大量の水が流れ込んで四肢がびくりと強ばる。頭が浮き沈みし、悲鳴が切れ切れに聞こえる。腕に重くなった布が張り付き纏わり付き、身動きが取れない。
「た、すけ、て、」
伸ばした手に触れるものはない。足はつかない。全身をばたつかせるほどに、まるで底へ引きずり込まれるように体が沈んでゆく。
「たすけて、アディ、」
――ぐいと体を引き上げられた。相手が誰なのかも分からずに、がむしゃらにしがみつく。
ようやく我に返ったとき、そこは泉のほとりの岸辺だった。激しく咳き込みながら、必死に息を吸う。頭から布を被せられ、大きな手が背をさすっていた。
どうやら慌てて飛び込んできた兵に助けられたらしい。侍女や兵たちに囲まれ、地面に手をついてぐったりと項垂れる。
「まあ、何ということ!」
慌ただしく駆け寄ってくる足音が聞こえて、霞む視界で顔を上げた。がらがらとした声で呟く。
「マーリヤさま、」
「誰か、お湯の準備をしておいて頂戴! ああ、こんなに濡れて、可哀想に……」
自分の体が濡れるのも厭わず抱き寄せられて、つい、目の前が潤んだ。気づいたときには、恥ずかしげもなく声を上げて泣いていた。わんわんと子どもみたいな大声を張り上げ、髪から落ちた雫だか涙だか分からないものが、頬を次々と伝ってゆく。
くらくらする視界の中、泉の中心に、見覚えのある服と靴が浮いているのを見つけた。一瞬遅れて、それがアディのものだと気づく。血の気が引いた。
息を飲んだ直後、少し離れたところで水音がする。その場の全員が、慌ててそちらを振り返る。……彼だった。
アディは慣れた様子ですいすいと岸辺まで泳いでくると、人の手を借りることなくさっさと桟橋によじ登った。濡れて顔に張り付いた髪をかき上げ、苦笑しながら、裸足で桟橋を伝ってこちらへ歩いてくる。
さっきまで身も世もなく泣き喚いていたのに、現金なもので、アディの顔を見た瞬間にぴたりと涙が止まってしまった。アディが膝をついて顔を覗き込んでくるので、思わず鼻を啜ってしまう。
「アディ、」
「大丈夫か? お前は本当にドジだからな……」
優しい手つきで頭を撫でられる。濡れた手がそっと頬に触れた。冷たい指先だった。
それ以来、アディと一緒に舟遊びをすることは禁止された。
そうしてあの夜が訪れたのだ。
「アディ、一緒に寝ても良い?」
月の明るい夜更けに扉を叩くと、彼は人目を憚るように廊下を見渡して、すぐに部屋に入れてくれた。後ろ手に扉を閉じたアディは咎めるような目で、「まったく」と額を軽く弾いてくる。自分たちはそろそろ、こうしたことを許される年ではなくなってきている。そのことは自覚していた。
靴を脱ぎ、ひとつの寝台の中で別々の布団に包まって、別々の枕に頭を置いて向かい合う。何も言わずに視線を合わせていただけだったのに、気づけば互いの指が絡んでいた。
「……どうすればアディとずっと一緒にいられるの?」
呟いた言葉に返事はない。布団から差し出した片腕が冷気に触れて、痺れたようになっていた。
一緒に生きるひとのことを家族と呼ぶのだと、最近知った。血の繋がらない人どうしが家族になる方法のことも知っている。
「ねえアディ、大きくなったら結婚しよう」
「駄目だ」
返事は一切の躊躇もなく寄越された。手のひらの中でアディの指先が強ばっていた。
「どうして?」
小さな声で囁くと、彼は驚くほどに静かな眼差しでこちらを見るのだ。
「どうして駄目なのか、お前が理解していないから駄目だ」
「私が分かったら良いの?」
「それでも駄目だ」
繋いでいない方の手が伸びてきて、そっと目元を覆われる。「寝ろ」と声はぶっきらぼうだった。
「どうして駄目なのか理解できたら、ちゃんと理由を言って断ってやるから」
乾いた手のひらが触れていた。すぅっと眠気が押し寄せて来る。そうして自分は、まんまと、あっけなく、寝てしまったのだ。
翌朝目が覚めたとき、冷たくなった敷布の上には、丁寧に畳まれた布団だけがぽつんと置かれていた。
そうして彼はもう二度と戻ってくることはなかった。
***
ひゅう、と冷たい風が体の上に吹き付けて、水の底から浮かび上がるように覚醒する。
「ん……」と声を漏らしながらルオニアは体を起こす。握りこぶしで目を擦って欠伸をして伸びをして、それでようやく目を開いた瞬間、彼女は勢いよく飛び上がっていた。
「誰も応対に出てこないと思ったら、筆頭侍女がこんなところで居眠りしているときた。流石に驚きだな」
底冷えするような低音が響いた。見れば、大柄な男が向かいに腰かけてこちらを眺めている。
考えるより早く悲鳴が出た。慌てて姿勢を正そうと座面についた手が滑り、支えを失ったら膝が折れる。つるんと足を滑らせて椅子から転げ落ち無様に尻餅をついてから、ルオニアは泡を食って立ち上がった。
「も、申し訳、」
「なんだ、要するに――俺は相当舐められている訳だ」
なるほどよく分かった、と深々頷いている男を前に、ルオニアは血の気を失う。
「違、あの、そんなつもりじゃなくて……」
必死に言い募ろうとするルオニアに呆れたような視線を一瞥し、彼は緩慢な動きで立ち上がった。
「良い。案内しろ」
端的な命令に頷いて、ルオニアは震える足でその人の前を横切る。鋭い双眸が自分の動向を見張っているのが分かった。痛いほどの視線が頬に突き刺さる。
顔を見られまいと思って俯くが、相手が何か気づいた様子はなかった。気づかれなかったことに深く安堵し、……一抹の失望を覚える。
「こちらへどうぞ」
ルオニアは慇懃な態度で告げ、顔を伏せたままちらりと、瞼の縁から彼の顔を見上げた。記憶にあるものより、うんと大人の男になってしまった。いつの間にか色々な距離が開いてしまったけれど、それでもやはり、面影は変わらないものである。
万感の思いとともに、短く呼びかけた。
「――アドゥヴァ様、」
やっぱりこんな名前、舌に馴染まない。それでも変に跳ねてしまった心臓を手で押さえ、自分を落ち着かせるように少し息を吐いた。こちらには目もくれない横顔を窺って、諦念と呆れ混じりの苦笑を浮かべる。
(結局あんたも面食いだったわけだ)
フィエルの部屋までの廊下に会話はなく、先導するルオニアの一歩後ろをアドゥヴァがゆったりとした歩調でついてくる。突き当たりの扉を叩き、「フィエル様」と声をかけるが返事はない。……まさか寝ている訳ではないだろうな。
(いや、私じゃあるまいし……)
細く扉を開けて中を覗いてみるが、居室に人の気配はない。となれば奥の私室だろうか。
「少々お待ちください」と言い置いて、ルオニアは素早く室内へと滑り込んだ。足早に居室を横切り、奥の扉を拳でどんどんと殴りつける。
「ちょっと、フィエル? あなたまさか寝てんの!?」
声を殺して呼びかけるが、物音一つ返っては来ない。もしや倒れているのだろうか、と流石に焦ってしまう。慌てて扉を開け、ルオニアは部屋の中に頭を突っ込んだ。
月光が空の寝台を照らし出す。ばたばたと音を立てて垂れ布が風に揺れている。
――部屋はもぬけの殻であった。
「うそ…………」
目の当たりにしたものが信じられない。一旦戻るために体を引いたところで、どんと背中が壁に当たった。……壁?
恐る恐る背後を見やれば、すぐ真上で「なるほど」と声がする。壁だと思ったものは胸だったらしい。まずい、と咄嗟にルオニアが閉じようとした扉を片手でこじ開け、アドゥヴァは目を細めた。
「あの女、逃げたか」
舌打ちをして、アドゥヴァが鼻を鳴らす。ぐいと脇へ押しのけられて、ルオニアはたたらを踏んだ。
誰もいない部屋の中へ足を踏み入れたアドゥヴァを追って部屋へ入る。ぐるりと見回すが、やはりフィエルの姿はどこにもない。念のため衣装箪笥や机の下などを覗いてみるが、まさかそんなところに隠れている訳もない。
フィエルは自分の意思で部屋を出て行ったのだろうか。逃げたのか? ……それとも、何か理由があって出て行ったのか。
眉をひそめながら立ち上がったところで、ルオニアは机の上に走り書きが残されていることに気づいた。紙切れを手に取って見下ろせば、間違いなくフィエルの手跡である。綴られているのは一言。
『ごめんルオニア、上手くごまかしといて』
(な……ッ)
アドゥヴァが部屋まで入ってきてしまった時点で、『上手くごまか』せる可能性は雲散霧消していた。あの馬鹿フィエル、一体何のつもりなのか。ルオニアはぎりぎりと歯ぎしりをする。
「――『ルオニア』というのはお前の名か?」
「う、わっ」
おもむろに背後から手元を覗き込まれて、ルオニアは思わず首を竦めた。咄嗟に紙片を握りつぶして隠蔽しようとするが、無理矢理手を開かされて没収される。
ルオニアからもぎ取った走り書きを目の高さに掲げ、アドゥヴァは「ふむ」と眉を上げた。
「あの女の行き先に覚えは?」
「……ないです」
低い声で答えると、アドゥヴァはしばらく腕を組んで部屋の中央で立ち尽くす。
射し込む月明かりを受けて、その姿が克明に映し出された。もはや幼い少年ではなくなった男である。不思議な感慨を覚えながら、ルオニアはアドゥヴァを見上げた。
何を言うでもなく、呆けたように見上げてくるルオニアにふと目を留め、アドゥヴァは口角をつり上げた。
「お前で良いか」
「……はっ!?」
理解するのに時間が要った。ようやく言葉が頭に滑り込んでから、色気も礼儀もあったものではない声で叫ぶが、伸びてきた手に片腕を掴まれて逃げられない。アドゥヴァは当然のような表情で、ルオニアを引きずって寝台の方へ歩いて行く。
「主人がどっかに逃げ出したんだから、責任を取るのが筆頭侍女の役目だろう」
「そんなことはないと思いますが!」
必死に踏ん張りながら、ルオニアは目を剥いて叫んだ。これは本当に駄目である。彼が思っているよりもっと深刻で、本当に許されない問題であった。ルオニアは掴まれた方とは反対の腕を突っ張って頭を振った。
「私は一介の侍女に過ぎませんし、寵姫でもありませんから、お相手はできません!」
「この宮殿にいる時点で全員俺の女だろう」
「はァ!?」
あまりの雑言に絶句を禁じ得ない。それで力が抜けた拍子に、まるで荷物か何かのように放り投げられる。寝台の上に肩から落ちて、ルオニアはすぐさま手をついて身を起こした。
「……先代の頃は、『お手付き』になる侍女も大勢いたそうだからな」
「そ、れは、」
息を飲んだ瞬間、寝台が軋む。影が落ちた。自分がどんな顔をしているのかさっぱり分からない。ルオニアは為す術なく後退し、窓枠に手をかけて唇を噛んだ。……殴るのは流石にまずいだろうか?
「侍女たちなぞ、こぞって王に秋波を送っていたと聞いているが」
嘲るような口調であった。自分が、そうした侍女たちと同類だと言いたいのか。何という侮辱だろう。
揶揄するみたいに視線を向けられ、ルオニアは思わず顔を伏せる。声は自然と小さくなった。
「……そうしてお手付きになった侍女たちも、その子どもたちも、ろくな扱いを受けられなかったのは周知の事実ですから」
アドゥヴァは反論を受けても怒らなかった。「そうだな」とその口角が持ち上がる。
「その通りだ、」
前触れもなく顎を掴まれ、ルオニアは無言で息を飲んだ。背後には壁があり、窓は開け放たれたままである。冷たい風が首筋を撫でているのに、何故か全身が灼けるように熱かった。
「継承権など存在しないに等しく、宮殿から追い出され遠くの離宮へ幽閉された者が大半。……それでも、王の血を引く者ならば、ナフタハルには間違いあるまい」
目を伏せて、アドゥヴァが身を屈めた。顎を掴んだまま上を向かされ、鼻先が触れ合いそうな間近で視線が重なる。熱い呼吸が上唇を掠めた。かっと頭に血が上るのが分かる。身を引き寄せられたせいで手が窓枠を外れた。行き場を失った腕はふらふらと宙を漂い、そのまま力なく落ちる。
超えてはならない一線が眼前にまで迫っていた。恐ろしさが腹の底でぎゅっと縮こまり、四肢は硬く強ばる。
「な……んで、わたし、」
必死に声を絞り出すと、返ってきたのは「別に誰でも良い」というにべもない一言であった。そう吐き捨てた瞬間のアドゥヴァの目は、酷く虚ろである。思わず息を止めた。
「誰でも良いなら、面白い反応が見られる女が良い」
そう語る彼の眼差しに、救いようもなく厭世的な感情が浮かんでいる。正体のない焦燥感や切迫感と言っても良かった。変わり果てた姿をまざまざと見せつけられ、ルオニアは唇を噛む。
(――前は、こんな人じゃなかった)
ただ内心で呟くことしかできない。言っても仕方ないことだし、公言することは叶わない台詞である。
冷たく乾いた手が頬に触れた。
「ルオニア」
初めて呼ばれた名の痛切さに、思わず瞼を下ろしていた。熱いものが目尻から溢れて頬を流れてゆく。それを拭ってくれる手はない。もはや優しく頭を撫でてくれる人はいない。目を閉じれば、いくつもの雫が玉となって顎まで伝ってゆく。
「良いな」
有無を言わせぬ口調に対して、駄目だと答えようとした声は音にならなかった。覆い被さるように伸びてくる影に腕を絡めて、彼女は顔を歪めて嗚咽する。もう駄目だ、と誰かが脳裏で囁く。とっくの昔に駄目だったのだ。それが今、露呈しただけのこと。幼い日の無知な少女が遠くで頭を振る。違う、確かに自分たちはあの頃、非の打ち所のない――
「このことは決して人に悟られるな。分かったな」
どうして、と唇だけを動かしたのに、彼はそれを読み取ったらしかった。目元に苦笑が浮かぶ。
「お前が殺されるからだ」
端的な言葉に、為す術なく力が抜けた。そうだろうな、と納得をした自分に嫌気が差す。南方連合を統治してなお、数多の恨みを背負って歩いている男である。その寵を受けた者が狙われないはずはないし、万一継嗣ができたとなれば、産まれる前に殺そうとする輩は数知れないだろう。恐ろしさに体が竦む。
その怯えを感じ取ったのか、彼の眼差しに一瞬だけ哀れむような色が宿る。「孕んだら俺に言え。産ませてやるから」と、声音だけは僅かに甘やかすような響きを帯びていた。
そんなのが優しさのつもりなのか。馬鹿にするなと頬をつねりたかったが、腕に力が入らない。
視線が重なった瞬間に、えも言われぬ寂寥がこみ上げてきて、彼女は息を止めた。長大な記憶が襲いかかり、目の前が眩む。体が重くなった。遙か彼方へ思いを馳せる。水底へ沈んでゆくように、水面の裏側から晴れた空に向けて手を伸ばすように、
幼い頃の憧れに指を触れようとするように、窓の外の月を見上げていた。
駄目な理由ならもう知っている。理解している。分かっている。
(アディ、)
喉元でしゃくり上げながら、ルオニアは声を殺して、その人の肩口に顔を埋めた。今なら呼べたかもしれない呼び名が、もしかしたら築けたかもしれなかった関係が、捕らえる間もなく脳裏を過ぎ去り遠ざかる。
ついぞ呼ぶことのできなかった呼び名が唇を掠める。もう二度と口にすることのない音が息だけでこぼれ落ちた。
(お兄ちゃん……)
――私たちは、あの頃本当に、非の打ち所のない完璧な兄妹だったのだ。




