男難の相1
いつものように陽射しの強い昼下がりである。ルオニアは中庭を覗いて目を剥いた。
「フィエル様! 洗濯物は私たちが取り込むって言いましたよね!?」
「あ、ルオニア! おはよう、良い天気ね」
困ったような表情で右往左往する下女たちの向こうで、乾いた洗濯物を両手一杯に抱えた女が振り返った。「すみませんルオニアさん、私たちでは止められなくて……」とおろおろする下女たちを片手でなだめ、ルオニアは大股でフィエルに歩み寄る。
フィエルの側で立ち止まると、ルオニアは口元を手で隠して顔を寄せた。
「全くもう、いつまで下女気分なのよ。もうあなたはサハリィ家のご令嬢のフィエル様なんだからね」
声を潜めて文句を言うと、彼女は眉を下げて「ごめんなさい」と唇を尖らせる。案外殊勝な態度で萎れてしまった友人に、ルオニアは嘆息した。
「……分かった分かった。他の子たちには言っておくから、もう好きにして。一人で出歩く癖だけは認めないけどね」
「ほんとう!?」
途端にぱっと顔を輝かせ、フィエルがルオニアを見上げる。『この』フィエルはルオニアよりもだいぶ小柄で、大きな瞳で見上げられるとどこか逆らえないような気分になった。
手持ち無沙汰の下女たちに残りの洗濯物を手早く回収させて、ルオニアはフィエルと並んで居室への道を辿っていた。胸の前で洗濯物を大量に抱えて、フィエルが大きな口を開けて欠伸をする。それを横目で一瞥すると、彼女は誤魔化すように照れ笑いを浮かべた。
「昨日は、遅くまで晩餐会があったから……」
そう言い訳をするフィエルの顔には、明らかに疲労が滲んでいる。その原因は何となく分かっていた。
ルオニアは思わず顔をしかめながら、鼻を鳴らした。昨夜の晩餐会に招かれていた、異例の客人を思い出す。
「何だっけ、帝国の……総督? 随分とあなたに興味津々だったみたいだけど」
「うーん、わたしがアドゥヴァ様の側に呼ばれたから、それでたまたま会話に入ることになっただけだと思うよ」
曖昧に微笑みながら、フィエルが首を傾げた。案外、本人は気づかないものだろうか? ルオニアは内心で眉をひそめる。
(あの、総督とかいう男……フィエルにずっと目配せとかしたりして、どことなく気持ち悪かったわ)
見た目が悪い訳でもないし言動に問題がある訳でもないのだが、どうにも何だか気に食わない。フィエルに対して舐めるような視線を向けているのも、一言一句のたびにフィエルの反応を窺うように一瞥しているのも……。
やはりフィエルは初対面の人間からしても魅力的らしい。可愛い友人の顔を横目で眺めながら、ルオニアは鼻を鳴らした。
(しばらくはこの宮殿に滞在するっていうし、フィエルには絶対に近づけさせないでおこう)
密かにそう決意したところで、ふと側方から突風が吹いた。フィエルが「わっ」と声を上げ、その腕の中から一枚の手巾が高く舞い上げられてしまう。それを追いかけようとするフィエルを制して、ルオニアは「私が取ってくる」と声をかけた。
「だからあなたは、今持っているその洗濯物を、確実に部屋まで持って行くこと。分かった?」
「……了解」
真剣な顔でこくこく頷いて、フィエルが大人しく元の道に戻る。ルオニアは風下の方向に顔を向けて、急ぎ足でそちらへ向かった。
風向きを追ってみれば、水を湛えた池を擁する、宮殿で最も大きな庭園にたどり着く。なるほどここに飛んでしまったか。ルオニアは途方に暮れて腕を組んだ。
風を受けた拍子に、随分と遠くへ飛んだらしい。この庭園の中から探すとなると骨が折れそうだ。まあ、手巾は元々小さいものだし、さして高価な物でもないし、最悪紛失してしまっても大した問題ではないのだが……。
人の目がないのを良いことに、盛大なため息をついてしまう。念のためざっと見て回るか、と足を踏み出したところで、「失礼」と若い男の声がルオニアを呼び止めた。
「捜し物はこれかな」
そう言って差し出されたものは、まさに件の手巾である。咄嗟に「ありがとうございます」とルオニアは笑顔で顔を上げ、……そこで笑みが凍り付いた。
「あ、えーと……」
見るからに顔が強ばったルオニアに、青年が怪訝そうな表情になる。ひくりと頬が引きつるのを自覚した。――だって、まさかこんなにすぐ出くわすなんて思わないじゃんか!
「あ……ありがとうございました」と手巾を受け取って、既にきっちりと畳まれているそれを懐にしまい、ルオニアは踵を返そうとした。しかし「ちょっと待て」と声がかけられ、ルオニアは渋々立ち止まる。
「な……何ですかぁ? 私に何かご用でもぉ……」
胡乱な目つきで見やれば、彼も敵意に勘づいたらしい、見るからに嫌そうな表情を浮かべている。
そこにいたのは、件の『総督閣下』であった。
片目を眇めて、総督が腕を組む。低い位置でひとつに括った黒髪が風に揺れた。何となく威圧的な視線に、内心で反骨心が沸き起こる。彼は鋭い視線をルオニアに向けた。
「君は昨日、エ……フィエルの側にいた侍女だろう」
「フィエル様のこと呼び捨てにしないで頂けますか」
「フィエル嬢の側付きだな?」
「そうですが」
こんなの、いやが上にも警戒心が高まるというものである。この男、やっぱりフィエル狙いだ。客人として宮殿に招かれておきながら寵姫に一目惚れして探りを入れるだなんて、見境がなさすぎる。軽蔑対象に決定。信じらんない……。
「名は」
「ルオニア・ドルテール」
「君は彼女と近しいのか」
「もちろん。大切な友人です」
ルオニアは一瞬たりとも視線を外さずに答えた。「そうか」と青年が躊躇いがちに目を伏せる。しばし、彼は足元に目を落としたまま、逡巡するように黙り込んでいた。ややあって、短く息を吐く。
「それなら教えてくれ」
そう言って視線を上げた、その眼差しには油断のない光が宿っていた。束の間、気圧されてルオニアは口を噤む。
「彼女は、本当にフィエル・サハリィという女なのか」
「そ……そうよ。当たり前じゃない」
唾を飲み、ルオニアは顎を引いた。咄嗟に周囲へ視線を走らせると、目の前の男が一歩前へ出て、距離を詰める。肩を掴まれ、耳元で声が低く囁いた。
「もう一度訊く。――彼女は本当に、この地で生まれ育った、サハリィ家の血を引く、フィエル・サハリィという女か?」
含みのある言い回しに、喉がきゅっと締まった。……まさか、この男は勘づいているのか。ルオニアは愕然として、肩口に身を屈めた横顔を凝視した。
疑問の体を取っておきながら、それはほとんど断定であった。どうして気づいたのだろう。昨日のフィエルは何も失言なんてしていなかった。傍で聞いていたのだから絶対だ。あの子は、徹頭徹尾『サハリィ家のフィエル』として振る舞っていた。
そこで、ルオニアは改めて目の前の総督を見やった。そういえばこの男は、最初から、あの子に対してただならぬ目を向けていたじゃないか。それなら答えは一択だ。
ルオニアは呻くように呟いた。
「……あなた、あの子のことを何か知っているのね」
「そうかもしれない」
唇を動かさずに応えて、青年が体を起こす。
「カナンとでも呼んで欲しい。――仲良くしよう」
眼前に差し出された手を、ルオニアは取ることができなかった。促されるままに指先に触れかけて、咄嗟に手を引っ込めてしまう。この男は、ルオニアと本気で『仲良く』する気など毛頭ないに違いない。その程度の下心に勘づかないほど鈍くはないつもりだ。
(やっぱりこんな、よく分からない男を信頼するなんて、ありえないわよ)
握手を拒んだルオニアを見下ろして、彼は無言で瞬きをした。その動きは酷く緩慢で、どこか遠くを見るような目をしている。
驚くほど昏い目をした人だった。正面から目を合わせて、その虚ろさに戦慄する。ルオニアは乾いた唇を舐め、口を開いた。
「……確かに、昨日あなたにご挨拶申し上げた彼女は、本物のフィエル様ではありません」
分かっていたことのようにカナンは軽く頷いた。続きを促すように視線を向けられて、ルオニアは思わず顎を引いて言い淀む。
「本物のフィエル様は、半年も前に死にました。……何者かに殺されたんだ」
ルオニアは目を伏せた。暗黙の了解で誰も口にはしないけれど、こんなのは公然の秘密である。誰に聞いたってぺらぺら口を割るに違いない。それなら変に曲解された噂話ではなく自分の口から話した方がましだ。
「あの子は元々、私と同じフィエル様の侍女でした。フィエル様が死んでいるのを一番に発見したのがあの子で、次が私だったの」
事実を述べているだけなのに、言えば言うほど『これはまずい』と頭のどこかで警鐘が鳴らされる。これではまるで、あの子を犯人だと糾弾しているみたいだ。ルオニアは頭を振って、胸元で拳を握りしめる。
「でも違うの、あの子がフィエル様を殺したんじゃない。絶対よ」
死体を発見したとき、彼女の手や体には血しぶき一つ飛んではいなかった。遺体の周辺はあれほど派手に血の海になっていたのに、だ。それに彼女が着替えた形跡もなかった。洗濯物も検めたのだから絶対だ。
「しかし、状況を聞く限りでは、君の友人は随分と怪しい境遇にあるみたいだ。第一発見者が犯人だなんて、よくある話だろう」
まるで試すみたいに、カナンは面白がるような口調で腕を組んだ。……軽口のようなふりをして冗談にならないことを言う輩に、ろくな人間はいない。
ルオニアは顎を引いて目を見開き、決然とした口調で告げた。
「――あの子は、人を殺すような子じゃないわ」
その瞬間、カナンの目に不思議な感情が宿った気がした。どこか呆気に取られたような顔で、彼はルオニアを見下ろしていた。悲しげな表情であった。寂しげな、心細げな目と言っても良かった。しかし、そうした機微の色は瞬く間に消え失せ、気づけばカナンの顔には元通りの薄ら笑いが貼り付けられている。
風に揺れた水面にさざ波が立った。頭上の木々がざわりと大きな葉を揺らす。目の前で、カナンは声を出さずに笑っていた。
「その通りだ。真犯人は他にいる」
妙な確信のある声音に、ルオニアは息を飲んでカナンを強く見据えた。カナンが唇の前で人差し指を立てる。
「ここでは誰に見聞きされているか分からない。……君が警戒しているのもそれだろう」
先程から周囲の様子を確認していたことを気取られて、ルオニアはどきりとした。カナンは息だけで笑うと、手短に自室の位置を説明した。そこへ来いという意味らしい。
「俺と一緒に彼女の潔白を証明しよう」
嘘くさい微笑みで語りかけてくるカナンを、ルオニアは懐疑的な視線で睨めつけた。……やっぱりこの男、フィエルに近づける訳にはいかないな。
***
フィエルの居室へ戻ると、侍女たちは部屋にはおらず、彼女ひとりだけがくつろいだ様子で窓辺に寄りかかっていた。細く開いた窓から吹き込んだ風に、短い髪が揺れる。明るい金色をした髪に指を通す仕草はどこか物憂げで、伏せがちの両目は物思いに沈んでいるようにも見えた。
「あ、おかえり、ルオニア。迷惑かけてごめんね」
のんびりとした様子で声をかけてくるフィエルが、ふとルオニアの顔に目を留めて首を傾げる。
「どうしたの? 何だか怖い顔してるよ」
「ううん、何でもないよ」
フィエルの言葉に、ルオニアは息をするように嘘をついた。あのカナンとかいう男、予想より数倍は様子がおかしかった。フィエルにわざわざ教える必要はあるまい。
ルオニアはフィエルを直視しないまま、さりげなさを装った口調で切り出した。
「そういえば、今日これからちょっと用事ができたから、少し外してもいい? 夕食前には戻ってくるから」
「うん、分かった。やっぱり筆頭侍女って忙しいんだね、頑張って」
「筆頭侍女は、あなたが無理を言って任命したんでしょうが……」
半目で一瞥すると、フィエルはわざとらしく目を逸らした。
部屋を出る前に、元々の用事を思い出す。ルオニアは懐から取り出した手巾を掲げ、腰に手を当てた。
「今度からは気をつけてよね」
他に人の目がない気安さで、呆れた口調で肩を竦める。「反省したってば」とフィエルが舌を出すのを尻目に、ルオニアは戸棚へと向かった。引き出しを開けて、きっちりと畳まれた布地をしまおうとする。
「……そういえば、随分と面白い畳み方をしたんだね」
ふと、フィエルが楽しげな声で呟いた。見れば、彼女は口元に笑みを湛えて、ルオニアの手元を注視している。咄嗟に、手巾を隠すように体を捻っていた。一瞬のうちに、心臓が早鐘を打って暴れ始める。……カナンから手巾を渡されたときには、既にこれは几帳面に畳まれた後であった。
目を見開いて凍り付いたルオニアに、フィエルがにこりと人懐こい笑顔を浮かべた。
「良いよ。他の誰にも言わないから、好きにして?」
薄い唇の前に人差し指を立てて、彼女が目を細める。どこかで聞き覚えのある言葉は、ほんの少し前の自分の台詞だ。続く言葉に気づいて、ルオニアは目を見張る。
「一人で出歩く癖は、一度つくとなかなか直らないから、気をつけてね」
フィエルが含みのある表情で小首を傾げた。その唇が弧を描く。ルオニアは首を竦めたまま、息を止めた。
音をさせずに立ち上がったフィエルが大股で部屋を横切り、背後からそっと、ルオニアの肩に指先を這わせ、耳元に口を寄せる。
「隠し事はなしよ、ルオニア。だってわたしたち友達でしょう?」
ふわりと鼻先を花の香りが掠めた。背中に覆い被さるように、フィエルが息混じりの声で囁く。
「行ってらっしゃい。あまり長居しないようにね」




