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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
灼ける砂国と伏流の矛先【前編】

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139/230

無月



 突風が吹いた。乾いた地面を覆っていた砂が巻き上げられ、束の間視界は砂埃に遮られる。

「やだ、洗濯物に砂がついちゃう」

 顔をしかめて、ルオニアは胸元で盥を揺すり上げた。「急いで戻ろう」と背後に声をかけると、同僚が「分かった」と応じる。


 丸い膨らみのある天蓋と、少し突き出た頂点。視界の悪い中でもよく分かる、ルオニアの仕える宮殿の塔である。

 広大な砂砂漠と、豊かに水を湛えたオアシス。灼けつくような真昼の陽光、凍えるほどに冴え冴えとした夜半の月影。一歩外へ出れば、一刻が過ぎればめくるめく世界の変わる箱庭。そうしたものに象徴される世界が、目の前に広がっていた。


 ナフト=アハール。この砂漠を駆ける民の数々をまとめ上げた首長の住まう、最も大きな都の名である。首長が擁する百人の寵姫と、彼女らを支える千人の下女たちのための箱庭。

 ――それこそが、ルオニアたちの暮らす、このラヴァラスタ宮殿だった。



 かつてナフト=アハールに王が降り立ったとき、王はこの地に豊かな水をもたらしたのだという。始祖の王の名は既に失われ、その人となりももはや伝わってはいない。

 始祖王の血統は王家ナフタハルに脈々と繋がれ、その血を継ぐために宮殿には数え切れぬ女が抱えられてきた。従ってその子孫も砂粒ほどに多く、さりとて直系を名乗ることのできる者は一握りである。多くの継承者たちの中からただ一人の王が選ばれ、選ばれなかった者は野に下る。この都ではそうした継承が始祖の頃から何度も繰り返されてきた。


 新たな王がその座に即くとき、得てして王はこの地に水を招くことがあるのだという。


 それは恵みの水であり、時には人の命を奪う鉄砲水にもなり得る。それでも、水をもたらすことは賢王の証、兆しなのだとお伽噺には記されている。

 本当だろうか、とルオニアは何度も言い伝えを疑ったものである。だって、

 ……先代は即位の頃に穏やかな流れを都にもたらしたが、ろくな王ではなかった。




「待って、ルオニア」と、少し舌足らずな発音で同僚が後ろから呼ぶ。見れば、靴が片方脱げてしまったらしい、彼女は前屈みになって片足の踵に指先をやっている。

「大丈夫?」

「うん」

 手を差し伸べると、ごめんね、と同僚の細い指先が手のひらに触れる。彼女が体を起こすのを待って、ルオニアは微笑んだ。小柄な彼女は、顔を隠す垂れ布を直しながら照れ笑いを浮かべる。こちらからは口元しか見えないが、どうやら垂れ布で目元を隠している彼女自身は周囲が見えているらしい。


 回廊を並んで歩きながら、ルオニアは隣をゆく同僚を見やる。

「その布、邪魔じゃない? 今は私しかいないんだから、取っても良いよ」

 薄手とはいえ黒い布地を目元に垂らした姿は、見る人をぎょっとさせるし、何だか忌避感もある。人から避けられがちな同僚が、実は思いのほか気立ての良い人間であることをルオニアは知っていた。周囲がそれを分かってくれないのが悔しくて、ルオニアは眉を下げて同僚を見つめた。


「ううん、大丈夫。……フィエル様にも、取るなって言われているし」

 同僚はどうやら苦笑したような風情で、小首を傾げて肩を竦める。ルオニアは思わず「うげぇ」と顔をしかめた。

「よくあんな我が儘お嬢様の言うことを素直に聞く気になるね」

「ご恩があるの」

 同僚はその口元に笑みを浮かべて、行く手を閉ざす扉に手を伸ばす。扉を引きながら、彼女は柔らかい声で呟いた。


「当主様に拾って頂けなかったら、わたし、きっと野垂れ死んでいたわ。その当主様に、フィエル様を頼むって言われているんだから……頑張らなきゃ」

 そう言って同僚が扉を開けた瞬間、まるで突風のように、風が扉の隙間をすり抜けて押し寄せた。「わっ」とルオニアは思わず片腕で顔を庇い、一歩下がる。

 棟の突き当たりにあたる部屋はルオニアたちの仕える寵姫フィエル・サハリィの居室で、宮殿の構造上、風が集まりやすい位置になっている。窓を開けたまま昼寝でもしてしまえば、風に乗って運ばれて来た砂が部屋中に広がって大惨事になるのは目に見えていた。ルオニアたちは今までにもそれで何度も、大慌てで掃除をする羽目になっている。


「あの馬鹿お嬢、また窓を開けっぱなしにして……!」

 低い声で毒づきながら、先に部屋へ入った同僚を追おうとした直後のことだった。



「――その忌々しい顔を私に見せるなって、何度言ったら分かるのッ!」

 甲高い絶叫が部屋の中から響き、張り手の音が鋭く鳴った。ルオニアは息を飲み、閉まりかけた扉の取っ手を掴んで開け放つ。

「フィエル様!」

 険しい語気で主を諫めようとしたルオニアの声に被せて、「申し訳ありません!」と同僚が叫んだ。

「ごめんなさい、風が強くて、咄嗟に布が浮いてしまって……」

 彼女は床に手をつき、ひれ伏すように深々と頭を下げている。身を縮めて土下座する同僚の姿に、ルオニアは思わず絶句した。


 足元に側仕えを跪かせた女は、平手打ちの名残と思しき片手を宙に浮かせたまま、肩で息をしている。波打つ豊かな金髪を背に流した、美しい女である。

「フィエル様……」

 ルオニアがおずおずと声をかけると、女は顔だけでこちらを振り返った。その眼差しは憎々しげで、空色をした双眸は冷ややかだ。


「……ああ、お前はこの『名無し』と仲良しだものね」

 嘲るような口調であった。女は美しい顔に意地悪げな表情を浮かべて鼻を鳴らす。ルオニアは同僚を助け起こすと背後に庇い、フィエルを睨み返した。

「お……お言葉ですが、フィエル様が何故この子をそれ程までに憎悪するのか、私には分かりません」

「お前なんぞに分かってたまるものですか」

 わざと肩を当てて、フィエルはルオニアの横を素通りした。そのすぐ後ろで立ち竦んでいた同僚の髪を鷲掴みにし、美しい女は低い声で吐き捨てる。


「良いこと。私はサハリィの姫で、お前は醜い下女に過ぎないの。身の程を弁えることね」

「は……はい、分かっております。わたしは決して、サハリィ家の不利益になることは致しません」

 同僚が答えた瞬間、フィエルは侍女の肩に両手をかけ、強く突き飛ばした。同僚の小さな体はいとも容易く吹っ飛び、隣室との間に垂らされている紗を留め金ごと引き千切りながら床に倒れ込む。遠巻きに様子を窺っていた他の侍女たちが、小さな悲鳴を上げた。

「お前は……お前という女は……」

 フィエルはわなわなと拳を振るわせながら、尻餅をついた侍女を見下ろす。顔を隠した彼女の表情は窺えず、胸の前で握り締めた両手だけが怯えを表していた。


「絶対に……絶対に私は、お前を許さない……ッ!」

「ごめんなさいフィエル様、わたし、また何かご機嫌を損ねることを、」

 同僚は慌てて床に手をついて腰を浮かせるが、フィエルは裾を翻してするりと部屋を出て行ってしまう。荒々しい足音が遠ざかり、筆頭侍女が令嬢を追って駆け出す。部屋の中に取り残されたルオニアは、呆然として立ち尽くした。



「……大丈夫?」と手を差し出し、ルオニアは同僚を助け起こす。乱れた襟元を直して「ごめんね」と口元に笑みを浮かべた同僚を、ルオニアはしばらく無言で眺めた。

「ねえ、さっきフィエル様が言ってたのって、何? 以前に何かあったの?」

「それは……」

 同僚は言いづらそうに顔を伏せる。きゅっと唇が引き結ばれ、逡巡するような沈黙が落ちた。


「わたし、一年くらい前にサハリィ家に拾って頂いて、……最初の頃はフィエル様もよくしてくれていたのに、あるときからいきなり、あんな風に邪険にされるようになったの」

(…………ん?)

 ルオニアは何か違和感を覚え、無言のうちに首を傾げた。


「きっと、わたしが何かしてしまったんだわ……」

 意気消沈した様子で語る同僚を見下ろしながら、ルオニアは少し眉をひそめる。フィエルのあれは、明らかに『ちょっとご機嫌を損ねた』という程度のものではない。

「……ねえ、本当に何もないの?」

 語気を強めて、ルオニアは再度問いかけた。同僚は「え?」と声を漏らして顔を上げる。

「だからさ、本当は、何か思い当たる節があるんじゃないの?」

 言いながら肩に触れようとすると、彼女は驚くほど鋭い動きでそれを振り払った。彼女の纏う空気に警戒が混じる。ルオニアは腰に手を当てたままくすりと笑った。


「大丈夫だよ、人に言い触らしたりなんてしないから。もし原因が分かるんならさ、私も一緒に謝ってあげる」

 ね、とルオニアは布の向こうにあるだろう両目と視線を合わせて頷く。

「謝って許してもらえないことなんて、なかなかないものだよ。今は絶対に許さないって怒っている人だってさ、ちゃんと誠心誠意謝れば少しは話を聞いてくれるよ。……あなたがそんな、決して許されないような罪を犯す人だとは、私には思えないな」


 同僚は静かに微笑んだ。「そうかな」と息混じりの声で囁いて、彼女は小首を傾げる。

 さらりとその髪が落ちて、頬にかかった。暗い色をした髪は肩の高さで切り揃えられており、髪飾りのひとつもなく常に下ろされている。髪を伸ばしてみたらどうか、と言った際に、『面倒だからいいや』と笑っていたことを思い出した。


 仕える主人に目をつけられ、顔を常に隠しているせいで、この同僚には気にかけてくれる人間がほとんどいない。彼女に親切にすればフィエルの不興を買うのだから当然だ。

 でも彼女自身にだって原因の一端はあると、ルオニアはそう思っていた。

「……ちゃんと自分で言わなきゃ駄目だよ。つらかったら助けてって言えば良いし、誰に理解されなくても良いみたいな素振りで一人で抱え込むの、痛々しいから……」

「痛々しい?」

 あ、これは少し言葉の選択を間違った。ルオニアは舌を出して前言撤回すると、ぽんと同僚の肩を叩く。


「まあさ、うまくやっていきなよってこと!」

 雑な結論を出すと、彼女は苦笑するように息を漏らして頷いた。

「ありがとう、ルオニア」



 ***


 それは夜更けのことだった。

「……ん、」

 ひゅうっと、風が体の上を撫でた。おかしい、扉は閉めておいたはずなのに。夢うつつで体を起こしたルオニアは、そこで、隣の寝台が空になっているのを見つけた。

 瞬間、爪先から駆け上がるように悪寒が襲う。ルオニアは弾かれたように部屋を見回す。他の侍女たちは穏やかな寝息を立てている。隣の寝台に熱はない。扉は半開きのまま、風の強弱に合わせて、呼吸のようにゆっくりと開閉している。


 ふと、蘇るのは、かつての記憶である。誰もいない寝台を見つけた瞬間のこと。もう二度と帰ってこなかった、あのひとのこと――。


 考えるよりも先に、ルオニアは立ち上がっていた。足音を忍ばせて部屋を横切り、扉に手を押し当てて、そっと廊下へとまろび出る。寝間着に薄手の上衣を羽織っただけの姿で、裸足のまま駆け出した。

 姿を消したのは件の同僚である。『名無し』の彼女を呼ぶすべをルオニアは知らなかった。だから必死に声を殺して、目を凝らすしかなかった。



 ひょっとしたら夜の散歩かも知れない。用足しに行ったのかも知れない。喉が渇いたのかも。

 そう自分に言い聞かせながら、ルオニアは暗闇の中で眉をひそめ、今日同僚に対して抱いた違和感の正体を探っていた。

(あの子は、一年前に、サハリィ家に拾われたって言っていた)

 サハリィ家という名は、ルオニアも知っている。この南方連合を代表する大きな氏族、その主である。その淵源は遡れば王家ナフタハルに連なる、由緒正しき血筋の大貴族だ。


(大貴族が、決して幼い少女でもないあの子を、どうして拾ったのかしら……)

 十にも満たぬ幼子を哀れんで手を差し伸べてやるというのなら分かる。けれど彼女はせいぜいルオニアよりいくつか年下――少なくとも、そろそろ少女とは呼べない年頃の女のはずだ。

(それに、何年も仕えた侍女ならともかく、一年程度しか付き合いのない女に、大切な愛娘を任せる?)

 ラヴァラスタ宮殿に入るということは、首長の妻となり、ナフタハルに属するということである。どれだけの大貴族であっても、連れて来られるのは侍女ひとりまで。それが規則だ。


(……一人しか連れ込めない侍女に、どうして彼女が選ばれたのか)

 フィエルが蛇蝎のように嫌っている女を、サハリィ当主はその侍女として任命した。――何故? 単純に考えるなら、娘であるフィエルの要求と、父である当主の目的が異なっているからだろう。

 それは例えば、我が儘放題したいお嬢様に、父親が厳しいお目付役をつけるだとか。……普通の家庭ならよく聞く事例だ。でも、

(あの子は主を諫めることができるような性分ではない。フィエルだってあの子の言うことを聞くような性格じゃない)

 それでは何のために、サハリィの当主はあの子を娘の側付きにしたのだろう。

 激昂していたフィエルの姿が脳裏に浮かび上がる。何と言われて、あの女はあんなに怒り狂っていたのだっけ?


『わたしは決して、サハリィ家の不利益になることは致しません』


 顔の見えない友人の言葉を思い出した瞬間、ルオニアの背筋に寒いものがぴたりと寄り添う。彼女は思わず口角を強ばらせて息を止めた。

(あのときあの子は、『フィエル様』じゃなくて『サハリィ家』って言った)

 先程の想像が、突如として明確な輪郭を持って立ち上がる。もし……もしも例えば、フィエル自身とサハリィ家の意向が異なっているとしたら? あの友人が仕えている相手が、フィエルではなくサハリィ家だったとしたら?


 フィエルは、自分に忠誠を誓わない侍女を一人だけ伴って、単身で宮殿に放り込まれたのかもしれない。


 ……どうしてご自身の侍女をそんなに憎悪するのですか。そう問うたルオニアに、フィエルは低く吐き捨てた。『お前なんぞに分かってたまるものですか』。

 あの一言に込められた怨嗟の感情が、突如として理解できたような気がした。否、すべては確証のない推測である。……過ぎた詮索は身の破滅に繋がることを、ルオニアはこの宮殿で既に学んでいた。



 暦の上では満月のはずだったが、空に霞がかかったような雲が広がっているせいで、その光は判然としない。冷え切った空気を割るように廊下を歩きながら、ルオニアは裸足で飛び出してきたことを後悔していた。冷たい床はまるで氷の上を歩くようで、ぼんやりとした列柱の影が行く手を遮るように投げかけられている。


 ゆるりと顔を上げ、ルオニアは突き当たりを見やった。――フィエルの私室の扉が開いている。こんな夜更けに。物音はただひとつとしてなく、高木のてっぺんで幅広の葉が風に揺られる気配だけがしていた。


 フィエル様、と呼びかける声は喉元で凍り付いたみたいになって、ルオニアは息を詰めたまま、恐る恐る扉に手を伸ばす。見てはいけない。開けてはいけない。頭の中で激しく警鐘が鳴らされているのに、ルオニアは踵を返すことができなかった。



 一際強い風が吹く。扉が向こうから押されるように煽られて、ルオニアはひとりでに開いた扉の前で立ち尽くす。雲が流れた。月が出た。室内は光に満ちた。


 ばたばたと音を立ててはためく間仕切り。開け放たれた窓から、光と風を伴って、息も詰まるような血なまぐささが迫る。床は血の海だった。

「あ……」

 仰向けに倒れ伏した女の体に、冴え冴えとした月光が降り注ぐ。美しい女だったのに、苦悶の表情を浮かべた生気のない顔は、恐ろしいほどに禍々しく、直視に堪えない。

「フィエル、さま、」

 身に纏う絹はきらびやかで美しく、投げ出された腕の先には陶器の水差しが転がる。長い金髪がまるで扇のように広がり、白い頬は滑らかだ。分かりやすいほどに完璧な『姫君』の有様であった。

 その胸に突き立てられた短剣の柄だけが異常である。まるで墓標のようだった。


 女の死体の傍らに、細身で小柄な影がうっそりと佇立している。その顔の高さで布が揺れる。風は絶え間なく窓から扉に向かって吹き抜け続け、死体を見下ろす彼女を取り巻く。


 ルオニアは動けない。早く人を呼ばなきゃ。そう思うのに、両足はまるで重い石のように動かない。恐怖はどこか遠くにあった。心拍数が上がるのに、体温は逆に末端から抜けてゆくようだ。フィエルだったものの隣で、影は動かない。

「ねえ、」と、そこまで言って、ルオニアは言葉を見失う。……私は、彼女を呼ぶ名を、持っていない。得体の知れない恐怖が、そこで初めて目の前に迫った。



 気がつけば、ルオニアは甲高い声で絶叫していた。その場に尻餅をつき、慌てて立ち上がって逃げようとするが、四肢に力が入らない。

 悲鳴で初めてルオニアの存在に気づいたように、彼女は緩慢な仕草で振り返った。ふわりと、黒い布が浮き上がる。すらりとした首の上に、小さな顎が乗っている。鼻先に光が当たっていた。

「ルオニア……」

 囁いた彼女の顔を、月明かりが照らし出す。その瞬間に、ルオニアは悟っていた。この子がサハリィ家に拾われた理由は何か。当主は何に目をかけてこの子を拾ったのか。……そんなの明らかだ。


「ああ、ルオニア、大丈夫? わたしも凄くびっくりしてるの。ねえ、だって、フィエル様が……」

 言いながら、彼女は顔を隠す布を片手で取り払った。だからその顔が、今度こそはっきりと浮かび上がる。頭がくらりとした。ルオニアは肩で息をしながら、初めて目の当たりにした友人の容貌を見上げた。


 月光の中に、息を飲むほど冴え冴えとした美貌が浮かび上がっていた。非の打ち所のない均整とともに、一際印象を残すのはその両目である。

 凄絶なまでに美しい顔をした女が、その深い碧色の双眸で、死体を強く睨みつけていた。どこか思い詰めたような、腹の据わった眼差しで、彼女はフィエルを見据えていたのだ。

 ルオニアは、ここに来るまでに考えていた推測に、ある程度の真実があることを確信した。だって、――この女が、ただの気弱な侍女でなどあるはずがない。




 やがて、ルオニアの悲鳴を聞きつけた衛兵たちが駆けつけ、何の騒ぎかと他の寵姫や下女たちが顔を出す。やにわに騒がしくなった宮殿の片隅で、ルオニアは青ざめた顔で震えていた。今でもフィエルの死体の有様が目に焼き付いていた。壁に体を預けるようにして座っているルオニアの隣で、顔を隠した友人は膝を抱えて屈んでいる。


 整った横顔を視界の端で眺めながら、ルオニアは掠れた声で問うた。

「……あなたは、誰……?」

 腰の抜けたルオニアの背を撫でながら、彼女はゆるりと小首を傾げた。「わからない」と薄い唇が弧を描く。

「前にも言ったかな、……わたし実は、ここに来るまでの記憶がなくって、」

 暗い声で、彼女は力なく呟いた。


「でもきっと、わたしは何者かだったんだと思う。だってそれは皆同じことだもん。私を作った両親がいて、私は何者かとして育ったに違いない」

 それはあなたも同じでしょう、ルオニア。そう言って微笑んだ彼女の顔が、不意に驚くほど幼く純真に見えた。


 そうして我に返ってみれば、友人の体には血しぶき一つついてはおらず、両手もまっさらなままである。短剣を人の体に突き立てた直後の姿とはとても思えない。

「……あなたがフィエル様を殺したんじゃない、よね」

 恐る恐る呟くと、彼女は眦を下げて「うん」と頷いた。

「でも、信じてもらえなくても仕方ないよ。……わたしが一番怪しいって、自分でも分かってる」

 そう言って項垂れてしまった友人を、ルオニアは声もなく見上げる。あの一瞬に見た彼女の顔が、今でも目に焼き付いて離れない。凄絶な眼差しをした、息を飲むほどに美しい女だった。まるで作り物のような顔をしていた。けれどこうして言葉を交わしてみれば、実に人間味があるのだ。先程のことはまるで夢だったような気がしていた。



 そのとき、廊下の向こうで悲鳴にも似たどよめきとともに、人の気配が動く。ルオニアはぴくりと顔を上げ、そちらに視線を向けた。


「――アドゥヴァ様!」


 高く呼ばわる声が響く。部屋を代わる代わる覗き込もうとする女たちを制していた長身の寵姫が、凜と背を伸ばして廊下の先を見据えていた。

「どうした」と返った声は低く、朗々と響いてその場を制圧する。瞬間、ルオニアは息を詰めて顔を伏せ、跪いていた。


「アドゥヴァ様、サハリィ家の姫君が殺害されております」

「そうか」

 厳しい声で告げた寵姫の言葉にあっさりと頷き、その男は悠然とした足取りでこちらへ歩いてくる。人波が声もなく、自然と左右に分かれてゆく。

「……俺の宮殿で、殺人が行われた、と? それは良くないな、非常に良くない。――気に食わんな」


 どこか楽しげな口調で言いながら、男はルオニアのすぐ目の前を通り過ぎた。その瞬間、鼻先を掠めたのは、ぴりっと辛味のするような薫物の香りである。

 ルオニアは息を殺してそっと頭をもたげ、その後ろ姿を見つめた。一目見ただけでも、その上背が並外れて大きいことが分かる。寝間着に外套を羽織っただけの気楽な姿なのに、その一挙手一投足には隙がない。腹の底に畏れがこみ上げるのを自覚しながら、ルオニアは再び顔を下へ向けた。

 気づけば全身が震えている。視線も向けられていないのに、それは指先ひとつ動かせないような威圧であった。彼女は唇を噛んで、今しがた目の当たりにした男の姿を反芻する。

(……あれが、)


「殺したいほど憎いのなら、俺に言えば決闘の場を用意してやるというのに……」

 わざとらしく小馬鹿にするような口調で呟きながら、彼は突き当たりの扉の前に立った。


 砂漠の交易都市ナフト=アハールの主、この大陸南部に住まう十三の氏族の長。紛れもなくこの宮殿の頂点に立つ男の名を、ルオニアは内心で噛みしめた。

(アドゥヴァ・ナフタハル……!)




「どれ、見せてみろ」と言いながら、アドゥヴァは扉を押して部屋をひょいと覗き込む。まだそこには醜いフィエルの死体が手つかずのまま転がっていることだろう。「あー……」と、アドゥヴァの口からのんびりとした声が漏れる。

「片付けさせておけ、ライア。委細はお前に任せる」

 扉の脇で姿勢を正して立っていた寵姫に言いつけ、アドゥヴァが再び廊下へと引き返してきた。その片手には、起き抜けのまま引っ掴んできたような剣がある。その鞘を持ち直し、不意に柄を握ると、アドゥヴァは一気呵成に剣を引き抜いた。


「……っ!」

 ライアと呼ばれた寵姫が、瞬時に身を固くして片足を引く。アドゥヴァは一切の躊躇いなく剣を横薙ぎに振るうと、無言で剣を収めた。一拍遅れて、ライアの長い髪が一房、肩を滑り落ちて床へと散らばる。声を殺したような悲鳴がそこかしこで上がった。


 前触れもなく剣で髪を断たれたというのに、ライアは唇を引き結んだまま、身じろぎ一つしようとはしなかった。無言のまま頭を垂れ、アドゥヴァの前に跪く。

「申し訳ありません。私の管理が甘かったようです」

 低い声で告げたライアに対し、男は頬を吊り上げて鼻を鳴らしたようだった。



 そのとき、軽やかな足音が小気味よい歩調で近づいた。

「――アドゥヴァ様、あまり妹を虐めないで頂きたい」

 苦笑交じりの声とともに、細身の宦官が姿を現す。「失礼」と人だかりをかき分けると、跪いたままのライアに歩み寄って、その肩に手を添えた。彼は真っ向からアドゥヴァに向き直り、目を細める。

「話が早いな、セニフ」とアドゥヴァが眉を上げると、セニフはひょいと肩を竦めた。


「良いですか、アドゥヴァ様。何もライアが殺人を犯したわけではないのですよ。それなのに、髪を切るだなんて……。ライアだってまさか、こんな事件が起こるなんてあらかじめ予想していたわけじゃないんだろう?」

「……もちろんです、兄さん」

 こくこくと頷いた妹を見下ろして、セニフはにこりと微笑む。感情の読めない笑顔を浮かべた宦官に、アドゥヴァは渋々と言った様子で嘆息し、「責め立てるつもりなど初めからない」と舌打ちをした。


 膝をついたライアを見下ろして、アドゥヴァは冷ややかに吐き捨てる。

「二度目はないぞ、ライア。一刻も早く下手人を見つけ出せ」

「……承知しております。ラヴァラスタ宮殿にて、これ以上の蛮行は許しません」

 ライアは低く囁いた。その手が彼女の胸元に当てられる。その傍らで、兄も微笑みとともに目を伏せて手を当てる。艶やかな褐色肌が燭台の灯りで妖しく浮かび上がった。


 セニフは低い声で囁く。

「私たちは、ナフト=アハールとその主に、忠誠を誓っておりますゆえ……」

 その隣で、まるで宝玉のように濃い色をした瞳が、強い眼差しで、冷たい床を見据えている。



 ルオニアは言葉もなく、壁際に座り込んだまま、凍り付いたように一部始終を眺めていた。指先一本を動かすこともできなかった。声が出ず、口の中が渇いて仕方ない。

 傍らで同僚は、身じろぎ一つせずに沈黙している。







大変お待たせしました。よろしくお願いします。

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