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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
番外編

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138/230

後日談 イリージオによせて



 麗らかな日差しが帝都を照らし出していた。胸いっぱいに息を吸えば、きっとどこかの花壇の華やいだ香りが漂っていたことだろう。

 ただ、ウォルテールは、この心地よい気候に目を配り、安らかに散歩をする気分にはとてもなれなかった。


 片腕には花束を抱え、往来をゆく足取りはどうにも重い。帝都を抜け、跳ね橋を渡った先には、帝都へ入る前の広大な交易街が広がっている。帝都のように警邏の兵が巡回をしている訳でもなく、帝都に比べると些か治安の悪い地帯である。

 帝都は大陸の中心にありながら、二つの大河と一つの運河によって区切られる。それとは異なり、この下町では面積による制限がない。


 だから、墓地は帝都の外に広がっている。



 帝都陥落から三月ほどが過ぎ、未だ混乱の続く帝国において、情勢は目まぐるしく変わっていた。

 ジェスタが兵を上げて帝都の実権を奪取したにもかかわらず、当のジェスタは国を上げて帝国を支配しようという姿勢を見せなかった。ジェスタ側としては末王子のカナンに一個師団を与えたのみで、カナンが帝都を掌握したことに関しては黙認する形らしい。

 カナンはジェスタは皇帝を弑殺して国家を簒奪することはなかったし、帝国は大規模な粛清に晒されたものの、その形を失わなかった。


(俺は、カナンを主君として仰ぐべきなんだろうな……)

 墓地へと続く門の姿を行く手に認めながら、ウォルテールは嘆息する。


 分かっている。頭では理解している。様々な証拠が、この帝都にて大規模な企みが暗躍していたと示している。多くの声がカナンを英雄と呼び、数々の事実が、ルージェンを薄汚い内通者であると告げている。


 ウォルテールは唇を引き結んで、快晴の空を見上げた。

 ……その評価を何の躊躇いもなく、素直に受け入れられるほど、俺は人間ができてはいない。


 あのときウォルテールは、自分よりいくつも年下の、かつてはほんの小さな少年であったカナンに糾弾されたのだ。己の幼さを、容赦なく、眼前に突きつけられた。

 耳の奥に、カナンの絶叫が蘇る。

『お前が何も知らずにのうのうと暮らしている間に、何人の人間が犠牲になったと思っている!』

 ……痛感した。嫌というほど痛感したさ。


 花束を持つ手に力がこもる。広々とした墓地の番地を確認して、ウォルテールは目的の墓石の前に立ち止まった。土の下に収められているであろう、空の棺を想う。

「――遅くなって悪かったな、イリージオ」

 ウォルテールはぎこちなく微笑んだ。



 ***


 墓の前に屈み込んで、花を置き、『あの日』のことを考えた。何も分からずにイリージオを追い、その手を離した日のことを思い浮かべた。


 数年前、エウラリカに縁談が持ち上がったことがあった。王女の伴侶として選ばれたのは申し分ない家柄で教養のあるオルディウス・アルヴェールという男だった。ウォルテールにとっては遠い親類にあたり、幼馴染と言っても過言ではない存在であった。

 そして祝宴の最中に彼は死んだ。……否、殺されたことを、今の自分は既に知っている。

(兄上、どうして)

 内心で呟き、深く項垂れた。


 オルディウスの頓死を受けて急遽立てられた代役こそが、ウォルテール自身と縁の深いイリージオであった。恋人との結婚を目前に控えたイリージオが何故、エウラリカとの婚姻を承知したのか、ウォルテールにはちっとも分からなかった。

 今ならその答えも知っている。


 ウォルテールの長兄であるルージェンが、オルディウスを殺害し、その罪をイリージオに着せた。カナンの口から聞いても到底信じられないような、あまりにも醜悪な図である。

 イリージオは長兄の言うがままに今度こそ本当に殺人に手を染め、結局良心の呵責に耐えかねて自死した。

 帝都で行方不明になった子供たちは数人が発見されたものの、大半は未だに見つからないままである。恐らく既に生きてはいない。


 今の自分は真実を知っている。あの日何があったのかを知っている。イリージオが何を抱えて水底に沈んだのかも。

(イリージオ……)

 教え子であり、大切な友人でもあった。その彼は、大きな謀略の中に巻き込まれ、己の立ち位置も知らぬまま歯車の間にすり潰されて消えていった。

 自分が何も知ろうとせずにのうのうと過ごしている間に、いくつもの命が失われた。



 やるせなさを抱えて項垂れたウォルテールの背後で、ふと砂利を踏む足音がした。

「……ウォルテール将軍閣下、ですか?」

 声をかけてきた女の顔に見覚えはなく、ウォルテールは困惑して反応に窮する。とりあえず立ち上がって向き直ると、女は臆するように少し顎を引いた。


「あなたは?」

「ケティネと申します」

 そう言って軽く目礼した女は、ウォルテールを見据えて躊躇いがちに口を開く。


「イリージオと婚約を交わしていた者です。あの、将軍閣下……閣下に、ずっと、お礼を言いたく思っておりました」

 ケティネの言葉に、ウォルテールは「ああ……」と呟いた。

「生前のイリージオからあなたのことを聞いたことがあります」とそこまで言って、彼は躊躇いがちに付け加えた。

「自慢の恋人だと言っていました」

「そうですか」

 ふわりと頬を綻ばせたケティネが、ウォルテールに向かって深々と礼をする。


「閣下が、オルディウス様の死の真相に関して秘密裏に尽力してくださったとか……イリージオのことも気にかけて頂いたと聞いております。本当にありがとうございました」

「え?」


 身に覚えのない話に、ウォルテールは目を見開いた。自分は、秘密裏にオルディウスの死に関して調べたことなど、一度もない。

 反応を示さないウォルテールを見て、ケティネが「あっ」と口に手を当てる。

「そうだった、みだりに口にしてはいけないんですよね。ごめんなさい」

「違う、待ってくれ、それは……何の話だ?」

 呆気に取られたような顔をするのは、今度はお互いであった。顔を見合わせ、沈黙する。


「黒髪の男の子に、命じておられたんですよね? 調査するようにって……」


 その言葉を聞いた瞬間、ウォルテールの脳裏にぱっと一人の顔が浮かんだ。

(――カナン、)

 カナンが自分の名を騙って彼女に接触したのだ。そう悟るのに時間はかからなかった。だってカナンは言っていた。エウラリカの奴隷として振る舞う一方で、自分は帝都で動く策略を把握するために奔走していたのだ、と。ケティネのこともその一環だろう。


 ウォルテールは棒立ちになったまま、縋るように見上げてくるケティネを眺める。ケティネの表情にも不安なものが混じり始め、彼は咄嗟に「いや、」と手を上げていた。宥めるような仕草になったそれに、ケティネが安堵したように息を吐く。

 真っ直ぐな目が差し向けられていた。そこに含まれているのは心からの信頼である。それでは自分は、彼女の信頼に値するようなことをしただろうか? 否、俺は……。



「本当にありがとうございました。それで、あの……イリージオについて、何か分かったことって、あるんでしょうか?」

 まるで祈るみたいな問いであった。ウォルテールはただの一言さえも答えられずに凍り付く。ケティネは懸命な表情で、訥々と言葉を紡ぐ。


「イリージオが、し……死んだという話も、聞きました。でも私、あの人が自ら命を絶つなんて信じられないんです。遺体だって見つかっていませんし、……閣下はイリージオの行方に関して、何かご存知ないですか?」

 血の気が引いた。こちらへ向けられる純粋な視線が痛くて堪らない。


 自然と、指先が手の甲の傷跡を辿っていた。ウォルテールの体には大小合わせて無数の傷跡が刻まれていたが、この小さな痕は別格であった。橋から飛び降りたイリージオを捕まえた片手である。手首を掴まれたまま宙づりになった彼は、懐剣をもってウォルテールの手の甲を浅く切り裂いた。それは、彼の行動が衝動的なものではないという明確な意思表示ともいえた。


「イリージオは、」

 掠れた声で、何か取り繕うとするように呟く自分の声を、遠くに聞いていた。

「イリージオは……」

 蒼白な顔をして、ウォルテールはこわごわと彼の墓を見やった。どうせこんなもの、土の下には何もないただの置物である。それでも墓標にはイリージオの名が刻まれている。


 今、目の前にいるケティネを慰める言葉なら、いくらでも思いついた。

 ああその通りだ、まだ死体は見つかっていないのだから、もしかしたらどこかに流れ着いて生き延びているのかもしれない。悪戯好きのイリージオのことだ、いつかひょっこりと顔を出すかもしれない。いつか見つかるかもしれない。いつかまた会えるかもしれない。


 ――無責任に相手の求める言葉を投げかけることは、果たして本当に優しさか?


 イリージオの死に何も関わっていない人間ならば易々と口にできたはずの言葉が、何故か舌の上でわだかまる。もういい歳をしているのに、物知らずの子どものように泣きたくなった。イリージオの姿が脳裏から離れないのだ。

 少しだけ笑って、それから大きく息を吸って、そうして彼は暗い濁流へ飲み込まれていった。そのことを自分は知っている。

 気安く言えるものか。一縷の望みに縋りながら生きているみたいな彼女に伝えられるものか。あいつは最後に『ごめんなさい』と言い残して死んでいったのに、その恋人に対して、いつかきっと会えますよなどと言えるものか。


「……イリージオ・アルヴェールは、間違いなく死にました」


 声はみっともなく震えていた。拳を強く握れば、手の皮が引き攣れる。顔を上げることはできなかった。全身が熱を持っていた。

「適当なことを言うのはやめてください」

 返ってきた声は、身震いするほどに静かである。

「川に身を投げたという噂も聞いたけれど、でも、それは噂に過ぎないわ。詳しい状況は伝わってきていないし、それを目撃したという人にも会ったことがないもの」


 穴があったら入りたいほどに恥ずかしかった。申し訳なさが押し寄せて、ウォルテールは指一本さえも動かすことができなかった。いたたまれなさに顔が歪む。

「お……俺が、見ている前で、彼は、橋から川に向かって、飛び降りたんです、」

 咄嗟に止めようとしたけれど、と続けようとした言葉は、頬をぶたれる衝撃に遮られた。力の入らない張り手であった。


 ぽろぽろと頬に大粒の涙を伝わせながら、ケティネは片手を中空に停止させたまま、声もなく立ち尽くしていた。色のない唇がわななきながら動く。

『――どうして?』

 それは声にならない悲鳴であった。どんなに激昂して糾弾されるよりも、その一単語が堪えた。



 ウォルテールはゆっくりと地面に膝をついた。深く頭を垂れる。

「……全部、俺のせいです」

 喉から、言葉の形を為さない絶叫が飛び出そうであった。カナンから『教えられた』事件の全貌が、頭の中をぐるぐると駆け回っていた。俺は人殺しですと呟いて、絶望して死んでいった友人の影が、瞼の裏から消えていかない。


「ど……どういうことですか? 何もなければ、あの人が自殺なんてするはずがない。何があったの? ……教えてください」

「ごめんなさい、答えられません」

 地面を一心に見つめる狭い視界の中で、ずっと慕ってきた長兄の面影が見え隠れする。あの聡明な長兄がオルディウスを殺害し、その罪をイリージオに着せて自殺に追い込んだなどと、信じたくはなかった。今でも信じられない『真相』とやらを、しかし今、ウォルテールは声高に語ってしまいたくて仕方なかった。

 腹の底で、どす黒くて生ぬるい何かが、激しく暴れ回っている。



 全部ルージェンが悪いのだ。俺は何もしていない。何も悪いことなんてしていない。オルディウスが殺害されるのを防げた訳がない。イリージオがまさか人を殺していたなんて予想できなかった。自殺するだなんて思ってもみなかった。どうしようもないことだ。だって仕方ないじゃないか、


 俺は何も知らなかったんだから……!


 何かが叫ぶ。名付けることもできない醜悪な何かが身を捩って絶叫している。直視するのも躊躇われるそれは、しかし、ずっと前から紛れもなく自分の中にあったものだ。



 深々と頭を下げて、ウォルテールは血でも吐くような思いで告げた。

「俺の責任です。咎はすべて俺にあります。イリージオは何も悪くありません。彼は本当に立派な男でした。糾弾されるべきなのは俺だけです」

 あああああ、と悲痛な絶叫が、澄み切って晴れやかな春空へ響き渡る。甲高い悲鳴を上げて掴みかかってくるケティネの両手が、彼の肩を無力に揺さぶっていた。


『カナンには何も訊かないでください』

 イリージオの言葉の意味が痛烈に突き刺さる。カナンの名を出された瞬間に、激しい拒絶を示して声を荒らげた理由も、今なら推測できた。

 謝らなければならない人がたくさんいる。そう言って絶望していた彼の姿が瞼の裏に蘇った。


 失望されたくない。悲しませたくない。

 イリージオがそう願っていたのは、何もウォルテールに対してだけではあるまい。



「申し訳ありませんでした、」

 喉が詰まって声が出ない。イリージオが死んだときにも流れなかった涙が、今さら熱く目頭を焼いて地面へ吸い込まれてゆく。何に向けた涙なのかも判然としなかった。まさかこの期に及んで我が身を哀れんででもいるのか? 考えるだけで本当に嫌気が差した。


 ――イリージオは人殺しだったのだと彼女に告げるくらいなら、俺はどれだけ罵られても構わない。


 顎に伝った雫が胸元まで滑り込む。痛烈な恥の感情であった。

「あなたが謝ったって、イリージオは帰ってこない……っ!」

「二度とこのようなことは起こしません。もう絶対に、この帝都で、罪のない人間が蹂躙されるようなことがあってはならないと思っています、」

 どれだけ言葉を紡いでも空虚に聞こえた。こんなにも深く悔いているのに、それを伝える方法を自分は持ち合わせていないのだ。


 ウォルテールを責め立てる言葉も尽き、ケティネは顔を覆って泣き崩れた。限界まで張り詰めていた糸が、遂に切れてしまったような、酷く力ない有様であった。

「……イリージオに会いたい…………」

 涸れた声で呟く姿を見つめながら、ウォルテールは拳を握り締める。



「二度と同じことは繰り返しません。この命をかけてでも、絶対に……」

 どれだけ心からの想いを込めて語っても、結局声は実を伴わぬ虚言のように響いた。仕方がないと思った。言葉というものは事象や行動のあとについてくるものである。


(カナン、やはり俺は、お前を諸手を挙げて歓迎することはできない)

 身を縮めて啜り泣くケティネを茫洋と見つめながら、ウォルテールは黒髪の青年のことを思い浮かべていた。

(それでもお前が、この国を救うことを大義として掲げ、民を守ろうとするのなら、俺はお前のもとに喜んで下ろう)


 ウォルテールは強く唇を引き結んだ。

 どこかで鳥が朗らかに囀っているようだった。花の香りと春の陽気が周囲に立ち込めていることに、ふと気づく。嫌になるほど浮かれた春の日であった。

 項垂れて沈黙してしまったケティネを慎重に抱き起こして、ウォルテールはゆっくりと立ち上がる。ケティネは抗わず、人形のようにくたりと体を預けてきた。イリージオの墓を一瞥し、目礼する。


 エウラリカのように、空の棺に悪戯心が隠されてはいないだろうか。そんな想像を少しだけして、ウォルテールはその考えを振り払った。

 失ったものは戻らないのである。



 ***


「……ロウダン様、お手紙が届いております」

 私室にて、酷く言いづらそうにアニナが差し出してきた書簡を「ありがとう」と受け取り、ウォルテールは中身を検めた。

 兄の処断が決定したことを知らせる通知だった。


 予想はついていたし、覚悟もしていたつもりだったが、こうして実際に突きつけられると、形容できないやるせなさが胸に込み上げた。しばらく無言でその文面を眺めていると、アニナが控えめながら中身を知りたそうに近寄ってくる。

「……死罪だそうだ。明朝に執り行われる」

 口元に苦笑を浮かべながら呟くと、アニナはそっと眦を下げた。言葉少なに「そうですか」とだけ言って、痛ましげにこちらを見る。


 余計なことは何も言わずに隣まで来たアニナを、ウォルテールは椅子に座ったままじっと見上げた。丸い目を瞬いて、アニナがこちらを見返してくる。その姿を眺めているうちに、えも言われぬ感慨や愛おしさが押し寄せて、ウォルテールは息を止めた。アニナは静かに瞬きを繰り返すのみである。

 ややあって、ウォルテールは片腕を伸ばしてアニナの背を抱き寄せると、その頬に軽く口づけた。ぱっとその顔が赤く染まる。



「……少し出てくる」

 音をさせずに立ち上がり、ウォルテールは薄手の外套を手に取った。アニナが息を飲み、案じるように眉根を寄せる。心配そうな表情をする彼女を見下ろして、ウォルテールは言葉を選んだ。

「実は、先日帰還したレダス将軍に呼ばれているんだ」

「そう……でしたか」

 拍子抜けしたように頷くアニナに少し微笑んで、彼は大股で廊下へ出た。少しだけ後ろ暗かった。



 ***


 地下牢を警備していた兵は、ウォルテールが階段を降りてきたことに気づくとはっと息を飲んだ。

「将軍、その……この度は、」

「変に気を回さなくて良い。ただ散歩に来ただけだ」

 努めて軽い口調で告げ、ウォルテールは肩を竦める。そのまま兵の目の前を横切ろうとすると、彼は「お待ちください」と小さな声を出した。

「申し訳ありませんが、念の為、同行させて頂きます」

 おずおずと申し出た兵に「分かった」と頷いて、ウォルテールは地下牢の奥へと向かった。



「兄上、お久しぶりです」

「ああ、ロウダン。ちょうどいいところに来たな」

 鉄格子の向こうで、ルージェンは暇を持て余したような素振りで片手を挙げた。髪や髭が野放図に伸び、粗末な服を着てはいたが、気丈である。寝台に浅く腰掛けた兄を眺めながら、ウォルテールは独房の前で立ち尽くす。


 刑が決定したことは既に聞き及んでいるのだろうか? 口を噤んだまま躊躇うウォルテールに、ルージェンは何気ない口調で「今しがた聞いたところだ」とだけ言う。

「お前たちには迷惑をかけるな」

 咎がウォルテール家にまで及んだことを指しているのだろう。それを殊更に庇い立てする気も、当て擦る気も湧かなかった。彼は無言で頭を振る。


「それで、ひとつ頼みがあるんだが」

「……聞けるかどうかは分かりませんよ」

 固い声で応えた弟に、ルージェンは僅かに意外そうな顔をした。それから目を細めて頷き、膝の上で両手を緩く組む。そうした姿勢をとると、彼が非の打ち所のない高級官僚であった頃を思い起こさせた。

 見慣れた微笑みに、どこか真に迫った焦燥感が含まれていたことを、今更ながら知る。


「なあ、――リュナには、俺が死んだことは黙っておいてくれないか」


 予期せぬ言葉に、ウォルテールは息を飲んだ。この期に及んで長兄が妻の名を出すとは思わなかった。真意を探るように視線を向ければ、ルージェンはその目に苦笑を浮かべる。


「彼女には、俺は終身刑になったと伝えて欲しい。どうせ二度と会えないんだから同じことだろう。俺が死んだと知ったら、きっとリュナは泣いてしまう」


 咄嗟に返事ができなかった。ルージェンの言葉の向こうに、先日のケティネの姿を見る。それは等しくリュナと重なった。

 ルージェンが投獄されて三ヶ月、既に憔悴しきった義姉を思い浮かべれば、喉元に形容しがたい何かがせり上がって来た。財産や屋敷は全て差し押さえられ、現在は幼い娘とともに狭い下宿に身を寄せているという。

 ここで更に処刑が執行されたと知れば、彼女はどうしようもなく打ちのめされるに違いない。

 分かった、と答えてしまいたい衝動が襲う。

 喘ぐように口を開閉させて、ウォルテールは痩せこけた長兄の姿を見下ろした。


「申し訳ありませんが、俺は引き受けかねます。……それは優しい嘘じゃなくて、ただの欺瞞だ」


 しばしの沈黙が落ちる。それからつまらなそうに「そうか」と呟いて、ルージェンは足を組んだ。心持ち目を伏せたまま、その横顔は物憂げである。リュナのことを考えているのは聞かずとも分かった。


 両親などは、ウォルテール家の本邸に来たらどうかとリュナに何度も声をかけているらしい。しかし彼女は頷かなかったと聞いている。彼女の生まれは西方の東ユレミア州である。ルージェンと連れ添うためにはるばる帝都まで来たのだから、夫が処刑されたのちに、この場所にいる意味はないのだと。

 数日前、リュナの下宿を弟とともに訪ねたときのことである。ごめんなさい、と彼女は頬に涙を伝わせて呟いていた。

『あの人が死んだ街で、私は生きられません』

 訳が分からない様子できょとんとする娘を胸に抱いて、リュナは声を殺して泣いていた。



 ルージェンはじっとウォルテールを見上げ、何かを言おうとするように口を開き、閉じた。それから疲れたような表情で、長い息を吐く。

「――欺瞞で良いんだよ」


 いつの間にか小さくなってしまった長兄から目を逸らし、ウォルテールは項垂れた。ルージェンは壁に体を預けて呟く。

「俺が死んだら、リュナはユレミアに帰るんだろう」

 確信を抱いている口調であった。兄がこの期に及んで荒唐無稽な頼みを口にした理由を悟って、ウォルテールは思わず唇を噛んだ。


「……もう、ここには来ません」

 そう言い残して踵を返す。ルージェンから返事はなかった。



 ***


 翌朝、見晴らしの良い回廊の窓際に立って、ウォルテールは次第に明るくなってゆく空を眺めていた。


 誰も立ち寄ることのない場所だと思ったが、ふと足音が近づいてくるのを聞き止めてそちらに顔を向ける。その姿を認めた瞬間、ウォルテールは体が固くなるのを感じた。

「カナン、」

「あ……」

 部屋着に外套を引っかけたような簡単な格好で、カナンが呆気に取られたように立ち尽くしていた。顔を見合せたまま、互いに言葉に窮して黙り込む。


 まるでウォルテールからの言葉を恐れてでもいるかのように、カナンは素早く顔を背けた。そのまま立ち去ろうとするカナンを「待て」と引き止めて、ウォルテールは言葉を選ぶ。

 改めてカナンを見てみれば、以前より痩せたような気がした。顔色も悪い。この数ヶ月で一気に大人びた目つきをするようになったが、それでもまだ若い青年である。相当な重圧を背負っていることも予想がつく。


 いくつもの言葉が胸の内で浮上しては沈んでいった。遠くで鐘が鳴る。鐘の数を数えながら、ウォルテールは物心ついたときから敬愛してきた長兄の顔を思い浮かべていた。


 打ち鳴らされた鐘の残響が消える。すべてが済んだことを理解する。



「カナン」と一度小さな声で呼んで、ウォルテールは目を閉じたまま首を振った。……違う、そうじゃない。


「総督閣下」


 呼びかけると、カナンの表情が強ばった。それまで途方に暮れて態度を決めかねていたようだった彼の眼差しに、硬質なものが混じる。背筋を伸ばして、カナンはじっとウォルテールを見据えた。

「何だ」と、カナンが身構えるように応じる。

 瞬く間に総督の顔へ変貌したカナンを眺めながら、ウォルテールはまたしてもかける言葉に窮した。


「ちゃんと食事を摂って、休息も大事にしてください、閣下。――もう子どもじゃないんですから」


 散々声をかけあぐねて、何を血迷ったのか、そんな言葉が口から飛び出した。カナンは一瞬だけ幼い少年のように目を瞬いたが、それから少し頬を緩める。瑞々しい青年らしい笑顔であった。ウォルテールは曖昧な目礼を返す。少々の決まり悪さはお互いだ。


「分かった」と頷いて、彼は窓の外に顔を向けたようだった。その折に朝日が雲の隙間から差し込み、回廊を明るく照らし出す。眩しそうに目を細めたカナンが、長い息を吐いた。


 白い光の中で動き始めた帝都の上空を、一羽の鳥が弧を描くように飛んでいる。




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― 新着の感想 ―
[一言] カナン、いえ総督とウォルテールの関係も、今後少しずつ変化していくのでしょうね…… 第2部が始まるのが楽しみです。
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