追憶 ラダームのための前日譚
「お兄さまっ!」
妹が大きく手を振って合図をしてくるので、彼は思わず早足になった。高い声で何度もこちらへ呼びかけてくる妹は、どうやら髪をお下げにして貰ったことにご満悦らしい。目を輝かせて褒め言葉を待っている様子に、彼は笑みを漏らす。
「可愛いじゃないか。エーレフにやって貰ったのか?」
「ええ!」
妹がくるりと振り返った先には、穏やかに微笑む少年がいた。エーレフが軽い会釈をするのに目顔で応じて、彼は妹の前に片膝をついて屈む。
「エウラリカ、俺がいない間、ちゃんとお勉強してたか?」
「ばっちりよ!」
「良い子だ」
くしゃくしゃと妹の頭を撫で、彼は顔を上げた。三人の子どもたちがまとまっているのを、微笑ましそうに目を細めて見守る女性がいた。
彼は立ち上がり、彼女に向かって軽く一礼する。
「お久しぶりです、先生」
「お久しぶりです、殿下。少し見ないうちに大きくなられましたね」
線の細い、まだそれほど年嵩でない女であった。決して目を見張るほどの美人ではなかったが、常に穏やかで心根の深いこの女は、妹であるエウラリカの筆頭指南役であった。
先生は落ち着いた歩調で、白い石でできた床を踏んで部屋を横切る。
「せっかくですから、お茶でも用意致しましょう」
そう言って、戸棚から茶器を取り出した先生に、エーレフがすぐに歩み寄る。
「手伝うよ、母さん」
「ありがとう、エーレフ」
そう言い交わして、二人の母子は慣れた手つきで湯を沸かす準備を始めた。それを眺めながら、彼は妹を促して机の方へ向かう。跳ねるような足取りで長椅子に座った妹の隣に腰掛け、彼は先生とエーレフを見やった。
茶がぴったり四杯入ったところで、廊下の方から人が近づく気配がした。彼ははっと顔を上げ、扉を窺う。程なくして扉が開かれ、父の顔が覗いた。
「父上!」
彼は弾かれたように立ち上がり、明るい声で叫んだ。父は柔和な微笑みを浮かべ、片手を上げて合図する。
先程父の部屋を窺ったときは取り込み中だとかで通して貰えず、その足でエウラリカの部屋に来たのだが、後から話を聞いてこちらへ赴いたらしい。
「西部への遊学は楽しかったか、ラダーム」
穏やかな声で問われ、はい、と破顔して頷きそうになった彼は、すんでのところで「いいえ」と強い口調で胸を張った。
「僕は遊びに行っていた訳ではないんです。きちんと勉学に励んで、学びを……」
とは言うが、帝都から西に行ったところにある、兵の訓練所と拠点を兼ねた砦では、彼はほとんどお客様状態であった。ままごとのような訓練と座学を受けさせてもらったあとは、兵や侍女たちに何くれと面倒を見られながら領内を見て回ったものである。
「そうかそうか」
父は頷き、少しだけ視線を先生の方にやった。一瞬顔を見合せた大人二人が、微笑ましいものを見るように自分を眺める。それでちょっと彼は見栄を張った自分が恥ずかしくなって、頬を赤らめて目を伏せた。
つと漂った、むず痒いような沈黙を意にも介さず、妹は身を乗り出して明るい声を響かせた。
「お兄さま、えらいのね!」
きらきらと目を輝かせて見上げてくる妹は本当に可愛らしく、丸みを帯びた頬が紅潮して、まるで熟れた林檎か何かのようだった。
「エウラリカ」
思わず妹の頭を撫でてやると、妹は首を竦めてくすぐったそうな顔をする。くすくすと笑っているエウラリカを、父が目を細めて眺めている。
先生の傍らで、エーレフが控えめな微笑みを浮かべていた。その目が、じっと妹に注がれているのに気づいて、彼は少し顔を上げた。
エーレフの眼差しは柔らかく、慈しむようなものである。実兄である自分よりも、よほど長い時間エウラリカの世話を見ているエーレフのことだ、きっと妹同然に思っているに違いない。
そのとき彼は、漠然と、この形がずっと続くのだろうなと思っていた。
先生は穏やかながら、若い女性の身で王女の教育係に選ばれるだけあって、有事には酷く頭の切れる才女であった。父と会話を交わすとき、そこにふと才気走った言葉尻が混じると同時に、ぴりりとした空気が漂うことがままあった。
苛烈で容赦のない本質が垣間見える瞬間であったが、父がそれを指摘せず、内心では楽しんでいるのを彼は知っている。
それが何故なのかも、薄ら分かっていた。
妹を産んで半月した頃に亡くなった母と、先生は、とてもよく似ていた。見た目こそまるで違うし、言葉遣いも生まれも、重なるところは一つとしてない。だから傍目に気づく人は少なかったかもしれないが、彼はそれなりに聡い子供だったので。
美しく女らしかった母と、目立たぬ容姿をした先生。絶世の美女と評された母に比べれば、先生は見劣りすると語る者もいるかもしれない。それでも、二人はいずれとも、怜悧なきらめきを放つ眼差しをした女だった。
だから彼は、いつか先生が、自分の母になるのだろうと、漠然と思っていた。
そうしたら、先生の息子であるエーレフは、王家に入らないまでも浅からぬ縁となる。同い年の少年で、穏やかながら少し影のあるエーレフのことを、彼は先生と同様に好ましく思っていた。
だから彼は、この幸せが、永遠に続くものだと、漠然と思っていたのだ。
***
妙だな、と思ったのは、彼が三度目の遊学を終えて帝都へ帰還したときのことだった。
……どうして、父は、妹を外へ出そうとしない?
妙なことは他にもあった。父が自分の知らぬ間に後妻を迎え、自分に腹違いの弟がいることを、彼は数年遅れで知った。
それだけならまだ、大人同士の政治的な事情だからと納得しただろう。しかし父は、後妻とまだ幼い息子を、帝都から遠く離れた離宮に追いやっているのだという。
父は、二人の息子を帝都から遠ざけて、娘だけをその腕の中に庇護している。少なくとも当時の彼には、そのような構図に見えたのだ。
嫌な予感に突き動かされるようにして帰還した帝都で、彼ははたと立ち尽くす。
「あら、お兄様。おかえりなさい」
そう言って振り返った妹の顔に、彼は既にこの世にいない母の面影を見た。
少し見ない間に、エウラリカは随分と大人びたようだった。顔かたちはまだまだ小さな幼子のものだったが、その話しぶりは堂々としたもので、滑らかに紡がれる言葉は豊かかつ思慮に富んでいる。
先生の教育の賜物だ。彼は咄嗟にそう自分を納得させようとしたが、同時に、戦慄する自分を自覚してもいた。
幼いながらに、その才の片鱗を見せる妹の目に、怜悧で明朗なきらめきが宿っている。
妹につけられた教師の数は、彼にしてみれば些か多すぎると感じるほどであった。しかし妹はそれらを難なく飲み下し、可愛らしさと美しさの入り交じった顔で笑うのである。
この利発な少女を、教師たちはこぞって褒めそやした。数々の賞賛を我がものにして、妹はまるで花開くように、蛹が蝶へ変わってゆくように、目を見張るような変化を日々遂げてゆく。
大勢の人間に囲まれ、この世の全てを手にしているかのような、自分にできぬことなどないと信じているような眼差しをしている。それは正しく亡き母の有様であった。
エウラリカは、その母に、一日ごとに近づいている。
その日初めてラダームは、父の愛情の在処を疑った。
父が、今は亡き妻を心から愛していたことは、知っている。
母が何者かに殺されたということは公然の秘密だった。誰もはっきりと母の死因を彼に教えやしなかったが、そんなものは噂などで存外あっさりと耳に入るものだ。母は刃物で胸を一突きされていたのだという。
凶器も下手人も、未だ見つかってはいない。
母が亡くなったとき、誰よりも嘆き悲しみ、絶望していたのは父である。母の死で、父の心はずたずたに踏み荒らされたのだ。その有様はまるで幽鬼のようで、当時ラダームは父に初めて怯えを抱いたことを覚えている。
だから、父が先生と穏やかに言葉を交わすのを見るたび、彼は幼いながらに息子として安堵していたのだ。父はようやく母の死を乗り越えたのだ、と。
――しかし、父がまだ、母を盲目的に愛し続けているのだとしたら?
***
お前は本当に可愛いね、と父が妹を腕に抱く。妹は幸せそうな顔をして父に抱きついている。以前と変わらない幸福な光景だ。
それなのに、そのはずなのに、一度生まれてしまった疑念はインク染みのように広がり、目障りで消えようとしない。……以前なら何のてらいもなく享受できていたはずの日常に、ひびが入ってゆく。
父の手が、美しい少女の頭を優しく撫でた。
「――お前は本当に、お母さんにそっくりだねぇ」
幸福な家族のはずの光景が、何故か、歪んで見える。
じゃれ合う父と妹を見る目に、険があることに気づいたのだろう。あるとき先生に呼ばれて、彼は城内の庭へと連れ立って歩くこととなった。
「殿下」と呼ぶ声は柔らかく、こちらを案じるように見つめる眼差しはおっとりと優しい。
「先生……」
人目を遮るような生垣の中、先をゆく先生は、いつの間にかこんなに小さな人になっていたらしい。自分が城を離れている間に大きくなったのだとは理解していたが、それでもその変化は彼を動揺させるのに十分だった。
波打つ髪をひとつにくくった、その毛先が一歩ごとに揺れている。
「殿下は、何か、ここ最近悩んでおられることはありますか?」
決して断定しない、柔らかい問いだったが、その目はしっかりとこちらを見据えていた。
「僕は……」
彼は言い淀み、少し目を伏せる。秋口に入り、庭園の地面には掃ききれなかった枯葉が落ちていた。
「……僕には、父上のことが、分かりません」
先生は一瞬目を丸くしてから、眦を下げて微笑んだ。
「それは、どうして?」
「父上は……エウラリカばかりを可愛がります。恥ずかしながら、僕は弟の存在をつい最近知りました。弟は離宮に閉じ込められ、僕も遊学ばかりで、父上は僕たちを手元に置こうとはなさらない。エウラリカだけ……」
口に出してしまえば、予想以上に拗ねた子どもの言い草であった。それが恥ずかしく思われて、彼は耳朶を赤くして俯く。先生は静かに微笑み、「顔を上げてください」と声をかけた。
「今、私が殿下とお話をしているのはね、陛下がご心配なさっていたからなのよ」
「父上が?」
「ええ」
先生は立ち止まり、くるりと振り返る。人気のない庭園の奥で向き合ったまま、彼は先生の顔色を窺った。先生は慈愛に満ちた表情でこちらを見ている。
「陛下は、殿下に対して、優れた君主になることをお望みです。あなたならそれができると信じておられる。だからこそ、帝都という狭い世界のみならず、広い視野を持って欲しいと仰っていました」
そっと手を差し伸べた、先生の指先が頬に触れる。それはまるで母が子に触れるような、愛情が溢れるような手つきだった。
「あなたのお父様は、間違いなくあなたを愛しています。私だって同じです。勝手ながら、母のような気持ちであなたの背を押したいと思っている人間が、ここにおります。――だから殿下、疑わないで」
あなたは、この国を背負って立つ、皇帝となられるのです。
先生は、言い聞かせるようにそう告げた。彼は咄嗟に腕を持ち上げ、頬に触れる指先に手を重ねていた。驚いたように丸くなった両目を覗き込んだ。それで気づく。
――この人は、俺と同い年の息子がいるには、若すぎる。
「……先生は、僕の母になるおつもりなのですか」
掠れた声で問うと、先生は手を引こうとする素振りも見せずに笑みを深めた。
「陛下は私を選びますまい。だから名実ともにあなたの母になることはできません。どんなに願ったとて、血縁はあとから繋がるものではない。あなたの母君は、フェウランツィア様をおいて他にはおりません」
それでも、と続いた接続詞は、もはや呪いのようだった。
「血の繋がらない子の母となるのは初めてではありませんから」
そう言って、先生は頬を撫でてくれた。目を細めてこちらを見上げてくる先生を、彼は呆然と見下ろす。この人もまた、どこか箍が外れたような人なのだな、と彼は静かに悟った。
「大丈夫。私がいますから。殿下は必ず幸せになりますとも。だから何の憂いを抱く必要もありません。私が、お母さんが導いて差し上げますから……」
その眼差しに宿る温かさと責任感は、正しく母のごときものであった。そのような感情を当然のように他人に抱ける先生のことを、彼は尊敬するような、恐ろしいものを見るような心地で眺める。
先生がどれだけ言葉を尽くしたって、父に対する疑念は薄くなりこそすれ、消えることはない。自分でも悟っていた。
それでも彼は家族を愛していたのだ。一般家庭とは呼べぬ地位にあったとしても、様々な思惑の中で変容してゆく人の繋がりを、それでも慈しみたかった。
完璧な円のように満たされた過日の記憶が、ふと蘇る。
父の膝に乗せられたエウラリカが、綺麗な装丁の絵本を覗いて目を輝かせている。先生が優しい声音で文字を読み上げる。自分は時折言葉を挟みながら、妹が笑ってくれやしないかと、その顔をちらちらと窺っていた。自分の言ったことで妹が笑ってくれると、ぱっと光が射し込んだように明るくて、それが本当に嬉しくて……。
あれは確か、火吹き竜と氷でできた少女の絵本だった。愚かないきものの物語だった。互いのためにと別れを選んだふたりのことが、彼はずっと理解できなかったのだ。本当に大切なもののためならば、何を賭したって構わないものじゃないのか。死に物狂いで方法を探すべきではないのか。
たとえその結果命を落としたとしたって、幸福のために尽力できたのなら、それで良いじゃないか。諦めて尻尾を巻いて逃げてしまうより、ずっと……。
枯れた庭園の生垣に目をやって、彼は淡く微笑んだ。
「……僕が優れた君主になったら、父上や先生は、僕を褒めてくれますか?」
ええ、もちろんです、と返事は滑らかだった。だから彼はそこで目を閉じて、これからの将来のことを少し夢想した。
大切な父と『母』、そして可愛い妹。幸福な輪郭を持つ家族の中で、心からの祝福を浴びて即位する自らの姿を思い描く。
それは全き泡沫の夢だった。




