終幕、そして
エウラリカが書簡に添付していた内通者の一覧に沿って捜査を進めれば、その不正の証拠は面白いくらいに見つかった。
「いやはや、まさか……このような実態が広がっていたとは、」
驚き呆れた様子で、帝都の文官が頭を振って呟く。カナンは足を組み替えながら、殊更感動する様子も見せずに頷いた。
「ここまで大規模だと、むしろ気づかないものなのかもしれないな」
ちらりと苦笑しながら文官を見やれば、彼は恥じ入るように頬を赤らめた。「すみません」と小声で目を伏せた文官に、カナンはひょいと軽く肩を竦めてみせる。
「構わない。たとえ気づけていたとしても、きっと一人では何もできなかっただろう。……そのために俺が来たんだから」
言いながら、カナンは上がってきた報告書に目を通す。これまでは不正を認識しておきながら、力不足で手が出せなかった連中が、一網打尽である。芋づる式に引きずり出されてきた余罪の面々も一緒くたに地下牢へ放り込まれ、裁判所にて順次判決を受けている。
何なら地下牢の房が足りなくなったせいで、帝都を攻め落とした直後に一旦地下牢へ入れられた兵が、入れ替わりで解放される事態である。解放された兵は、当初は反抗的な様子を見せたものの、多少の鉄拳制裁やら再度の地下牢送りを経て従順になったし、ここ最近では自らカナンに忠誠を示す者も増えてきた。
最も大きいのは、将軍であるウォルテールが率先してカナンに恭順の意思を示したことだろう。ウォルテール自身はカナンに特別何かを言うでもなかったが、その配下が一斉に従順になれば分かるというものである。
文官は恐る恐るというように、カナンを窺う。
「閣下は……以前、帝都で生活なさっていたときから、これらを?」
「ああ」
軽く頷くと、文官は感心したように息を吐く。その眼差しに憎悪は見当たらないどころか、むしろ敬意と言ってもいいような輝きがあった。
カナンの背後に控えているのは、ジェスタ兵ではなく、元から城内で勤務していた近衛兵のひとりである。元々軍部内でそれなりの地位に就いていた近衛らしいが、真っ先にカナンの配下に下った男だ。
帝都陥落からおよそ半年。関係各所で動揺や騒動を巻き起こしつつ、帝国は徐々に新体制のもと落ち着いてきつつあった。初夏の明るい陽射しも相まって、城内の空気はいつになく良い。
自分で言うのも何だが、カナンとしてはこの半年、努めて公明正大に、何なら慈悲深い姿勢を取ってきたつもりである。処罰を受けているのは、いずれも実際に罪を犯していた者だけだし、それを判断する判事たちだって帝国の人間を登用している。
帝都圏外の各州や属国に対する弾圧や重税を緩め、帝国民のみで執り行う行政を是正。長期的には属国となっている領土に関して、条件付きで独立を認める案も出ているが、まだ道のりは長そうである。
元が腐敗しきった行政だったのだ。今回の政変を歓迎する者がいることは間違いないし、カナンもその期待に応えようという意思はある。方法こそ強引だったものの、この実績を見ればそれを咎める者もそういない。
カナンの肩書きは、新たに即位した皇帝ユインの側近――であるはずだが、いつの間にか書類上は存在しないはずの『総督』という呼び名が定着してしまった。この名称を反対派の連中がどう考えているかは分からないが……。
「閣下、州知事がお見えになっています」
扉越しにかけられた声に「通せ」と応じながら、カナンは確認し終えた報告書をぽんと机の上に置く。
……あるはずの名前が、この報告書には記載されていない。ルージェンの手先として動き、王女の降嫁や暗殺に関与していた、本来ならば重罪として追放刑にでも処されるはずの女である。
「妙だな」
呟くと、文官が目を丸くしてカナンを見た。カナンは腕を組み、執務室の扉がゆっくりと開かれるのを横目に眺める。
「…………ネティヤは、どこへ行った?」
聞こえよがしに問えば、開け放たれた扉の先で軽やかな笑い声がした。カナンは嘆息とともに視線を寄越す。そこにいたのは、黒髪を高い位置で括った、気の強そうな吊り目の女である。
「文官を問い詰めるには及ばない、総督閣下」
口角を上げ、女は悠然とした態度で、室内へ足を踏み入れた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ない、――ウディル州知事の、ネティヤ・エルールだ」
お見知りおきを、と慇懃な態度で握手を求めながら、彼女はわざとらしく小首を傾げた。
「どうなされた、閣下? ……そう怒った顔をしていると、まるで少年みたいだぞ」
カナンは舌打ちをしてネティヤを睨み上げる。「外してくれ」と文官と近衛に声をかけ、彼は天板に両手をついて立ち上がった。
ネティヤは記憶にある姿よりも良い格好をしていた。ほとんど男のような服装を好む点に変化はないようだが、以前より明らかに仕立ての良い服を当然のように身に纏っている。
その肩書きはウディル州知事であり、カナンがかつて帝都を立ち、再び戻ってくるまでの一年足らずで任命されたことは間違いない。
……しかし、カナンの知る限り、ネティヤは一足飛びに知事になるほどの高官ではなかったはずだ。そもそも若すぎる。加えて、旧体制では、州知事にその地域出身の人間を任命することなど、通常ならばありえなかった。
一月ほど前、ネティヤがウディル州の知事であると知った瞬間に、そこに『何か』があることは分かっていた。間違いなくエウラリカが噛んでいる何かが。
分不相応な地位を得たネティヤ。死んだエウラリカ、空の棺、部屋に残されていた手紙。エウラリカが出すにしては随分と単純明快な謎である。
「君が聞きたいことは分かっている」
カナンが何かを言うよりも早く、ネティヤはひらりと片手を挙げて長椅子に腰掛けた。足を組み、その表情はどこか面白がるような笑みである。
「どうするかな、これは君に教えてはいけないと言われているのだけれど……」とネティヤは芝居がかった仕草で頬に手を添えた。ちら、と視線を寄越され、カナンは椅子に座り直しながら鼻を鳴らす。
「州知事の首をすげ替えるのは簡単なことだ。……ウディルに対する関税を大幅に引き上げても構わないが?」
「つまり、ここで私がきちんと情報を教えれば、総督閣下はウディル州に理不尽な迫害をすることはないわけだ。……約束できるか?」
「ああ」
当然のように言質を取られ、カナンは嘆息する。どうせ口約束に過ぎないが、やはり抜け目のない女である。言わずもがな、元々ウディルを冷遇するつもりだってない。
「……それで?」
彼は適当な相槌で、ネティヤを促した。女はふっと微笑み、それから体ごとカナンを振り返る。肘掛けに頬杖をつき、現在帝国を統べる総督を相手にしているとは思えないような、不敵な薄ら笑いである。
「私は、君たちがハルジェル外遊に行く頃には、既にエウラリカ様の側に寝返っていたよ」
「……は?」
「簡単な話だ。ウディルの州知事の座と引き換えに、エウラリカ様に協力する約定を結んでいたという訳」
カナンは絶句してネティヤを見据えた。まさか、この女とエウラリカが、そんな頃から自分の知らないところで秘密裏に繋がっていたとは知らなかった。しかし思い返してみれば、エウラリカとネティヤの両者が、互いに対する態度を軟化させていたのも確かである。
しばし愕然としてから、カナンは表情を引き締める。
「……俺が聞きたいことは分かっているんだろう」
「ああ」
ネティヤは足を組むのをやめ、頬杖から顔を浮かせて立ち上がった。元から細身の女だったが、その雰囲気が以前にも増して鋭く、しなやかになっている。頬を吊り上げた様子は不敵で、カナンは思わず唇を引き結んだ。
「これだ」と言いながら、ネティヤは懐からひとつの小瓶を取り出した。こん、と軽い音と共に、それが机の上に置かれる。カナンは小瓶を手に取り、それを一瞥してから、大きなため息をついた。額に手を当て、「そうだろうと思った」と舌打ちする。
「総督閣下もご存知だったのか」
からかうように眉を上げたネティヤを見やり、カナンは瓶を机に戻して頷いた。
「――仮死薬だな?」
「ご名答」
ネティヤは両手を挙げて微笑む。目を細めると、なおさら狐によく似た笑顔である。いけすかない女だったが、この女をエウラリカが取り立てたと聞けば、どこか納得してしまうところもある。カナンは舌打ち交じりに嘆息した。
***
頭を掻きむしりながらため息をついた青年を、ネティヤは薄らとした微笑みで眺めていた。瞬く間に帝都を掌握してしまったカナンが、まるで別人のように思えてくる。
ふと、初夏の爽やかな空気の中に、ぴりっとした冷気が混じるような心地がした。脳裏に蘇るのは、冷たい冬の日のことである。
「――ご用命の代物です」
差し出した小瓶を、エウラリカは受け取らず、「そこへ置いて」と傍らの机を指し示した。ネティヤはそれに従い、小瓶をことりと天板に置く。一対の瓶には、青い紐と赤い紐がそれぞれ巻かれていた。
ネティヤは重い嘆息を漏らしながら、肩を竦める。
「これを手に入れるのには苦労しましたよ」
「そう」
さして有り難そうな態度も示さず、彼女はくすりと笑う。その表情は意地悪そうで、しかし同時に、悪戯を企てる無邪気な子どものようでもあった。
仮死薬を入手しろ、と言われたときには、馬鹿な世迷い言か冗談だと思った。しかし実際に、その薬は今ここにあるのだ。ルージェンが懇意にしている胡散臭い薬師の顔を思い返しながら、ネティヤは自分がこなしてきた危うい綱渡りを振り返る。
顔色ひとつ変えずに、他人に対して危険を強いるエウラリカの嘲笑が蘇る。愚鈍で蒙昧なお姫様など、とんだ大嘘である。ネティヤは密かに拳を握りしめ、引きつった笑みを頬に浮かべた。
エウラリカは寝台に腰かけたまま、「どちらが先?」とだけ問う。「赤です」と応じると、彼女は躊躇いなく赤い紐の瓶を手に取る。
「ふうん」
彼女は顔の高さまで瓶を持ち上げると、油断のない表情で目を眇めた。小瓶の中に入れられた少量の液体を軽く振りながら、その双眸がちらとネティヤへ差し向けられる。
「嘘じゃないでしょうね?」
「まさか。私がエウラリカ様に嘘をつくとお思いですか」
「どうかしら。お前は自分の利益になるなら、簡単に私を裏切るでしょう」
口角をつり上げたエウラリカに、ネティヤは「ああ恐ろしい」と芝居がかった仕草で両手を挙げてみせた。
「利害が一致している限り、私めはエウラリカ様を裏切りませんとも。口先だけのちゃちな正義や忠誠より、よほど確かな紐帯ではございませんか」
「そうね。相手の気持ちひとつの忠誠に賭けようだなんて、ほとんど博打みたいなものだわ」
エウラリカは鼻を鳴らし、足を組み替える。長い金髪を片手で梳きながら、彼女は躊躇のない口調で告げた。
「お前の栄転に関する手配は済んでいるわ。じきに辞令が下るでしょう」
ネティヤは思わず黙り込んだ。相手の真意を測りかね、エウラリカの顔色を窺ってしまう。冷たく白い部屋の中に、つと張り詰めた空気が漂う。エウラリカは小瓶に視線を注いで、何やら物思いに耽っている様子である。
「……よろしいのですか、それを私に教えて」
低い声で問うと、エウラリカはゆるりと顔を上げた。美しいかんばせに表情はなく、まるでよくできた仮面を見ているような心地だった。余人に見せる、わざとらしいほどに幼く無邪気な姿とはまるで違う。あるときから、エウラリカはネティヤにそうした姿を見せるようになった。
その落差を目の当たりにするたび、ネティヤは腹の底に得体の知れない恐ろしさが広がるのを感じていた。心胆を寒からしめる、明らかに異常な有様であった。まるで興味のない目つきは、ネティヤを人として見ていない。
「お前は私を裏切らないって、私は信じているわよ」
淡々とした口調で、エウラリカは薄っぺらな信頼の言葉を唇に乗せた。ネティヤは身震いしながら「そうですか」と掠れた声で応じる。これから自分は、仮死薬を飲んだエウラリカを葬儀後に蘇生させ、棺が埋葬されるよりも前に彼女を城から連れ出さねばならない。考えるだけでも気が遠くなるような、危ない橋だった。
同時に、彼女の進退は、自分の手ひとつにかかっている。これはエウラリカにとっても非常に危ない橋のはずだ。ネティヤの気が少しでも変われば、エウラリカは猛毒を服したまま二度と目覚めない。
それでもネティヤは、――エウラリカの言葉が本当ならば――野望であったウディル州知事の地位を得ることができる。
そのことをわざわざ伝える意味は何だ。
探るようにエウラリカを見据えれば、彼女は青い紐の小瓶を持って行けというような仕草をした。……ややあって、その頬が音もなく綻ぶ。それは、どこか得意げとも言えるような、乙女の笑みである。
「言っておくけれど」とエウラリカが歌うように囁く。
「もしもお前が私を裏切ったり、途中でしくじって私を殺したら――」
初めて見る顔だった。エウラリカがまるで人のような顔をして笑っている。
「――カナンが、お前を殺しに行くわ」
楽しそうな笑顔で、エウラリカは口元に手をやって、くすりと息を漏らした。その指先が、どうやら下唇をなぞったらしい。どこか呆れたような微苦笑が彼女の目に浮かぶ。
「絶対にね」と目を細めた彼女の深い碧色には、愉悦が滲んでいた。
「あの子は絶対に帰ってくるわよ」
確信しているような口調で、エウラリカは断言する。その唇が、艶然と弧を描いた。
***
鋭い目つきでこちらを見据える青年を、ネティヤは薄ら笑いで見返した。エウラリカに比べればよほど御しやすかろう。それでも、帰国して一年足らずで帝都へ引き返してその実権を掌握する手腕と熱量が、ネティヤには末恐ろしく思えた。
何が彼をそれほどまでに駆り立てたかなど、聞かなくたって分かっている。化け物め、と口の中で呟きながら、ネティヤは一人の女の顔を思い浮かべた。
カナンは空の小瓶を手に取り、口のあたりを親指の腹でそっと撫でた。その中身を干したであろう女の顔を思い浮かべながら、カナンはネティヤを一瞥する。
「エウラリカはどこへ行った」
端的な問いに、ネティヤは勿体ぶることなく、あっさりと答えた。
「――――南方連合へ」
第2部『灼ける砂国と伏流の矛先』へ続く
……これにて第1部完結です。なかなか面倒な構成の本作をここまで読んでくださって本当にありがとうございます。第2部開始まで今しばらくお待ちください。
余談ですが、下部のフォームから評価を入れて頂けると元気が出ます(私が)。
エウラリカたちの物語はあともう少しだけ続きます。これからもどうぞよろしくお願いします。




