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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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やさしいひと



「何を、言っているんだ」

 呟いて、ウォルテールは頭を振った。その頬には、急変した事態を理解することを拒むように、どこか呆れたような、媚びるような笑みが張り付いている。


「な……何を言っているか分かっているのか? カナン、……この人は、俺の兄だぞ」

「もちろん知っていますよ。だから責任を取ってご自分で殺せと言っているんです」

 ふと昔のような口調に戻って、カナンは思わずくすりと笑った。一年会わなかったにも関わらず、ウォルテールは実にウォルテールのままである。その足元で、栗毛の侍女が両手で口を押さえて凍り付いている。


「……デルギナ・ユネールという名に聞き覚えは?」

 問うが、ウォルテールに思い当たる様子はない。カナンは軽く頷き、椅子の背を掴んで立ち上がった。一瞬くらりと目の前が揺れるのを踏ん張って堪え、ウォルテールに向かって一歩近寄る。

「アジェンゼ大臣による横領に加担していた官僚の一人だ。証拠隠蔽に関わる口利きと引き換えに多額の金品を受領していた。それらの金は、彼の『主』の元へと流出。帝国は何年にもわたって国外に国家予算を流していたわけだ。とんだ笑い話だな」

 また一歩、カナンはウォルテールに向かって歩み寄る。まるで化け物でも見たように、ウォルテールがたじろぐ。


「もちろん、デルギナが自身の判断でアジェンゼに加担していたわけではない。『主』の命を受けて、帝都における根回しを取り仕切っていた者がいたはずだ」


 血が足りないのを自覚していた。まだ足元が揺れそうになるのを感じて、カナンは剣帯から鞘ごと剣を抜く。

「帝都にて――違法薬物の流通、他領の既に廃れた邪教の祭儀、児童誘拐ならびに殺害、加えてオルディウス・アルヴェールの殺害およびその弟イリージオに対する殺人教唆……こうした犯罪が、軍や警邏に咎められることもなく横行していた」

 杖代わりにした剣の石突きが、強く床を叩いた。しんと静まりかえった大広間に、その音は痛いほどに鋭く響く。


 ウォルテールの顔に、予感めいたものが浮かぶ。思い当たる節があるらしい。その頬がさっと青ざめ、口角が強ばる。それまで怪訝そうだった視線に、差し迫った危機感が浮かんだ。カナンはウォルテールの目を強く見据えたまま、顎をもたげて唇を歪める。

「王女の降嫁に関わる根回し。用意した婚約者が駄目になれば、今度は王女暗殺を試みた。外遊の手配。外遊先での暗殺の手配。……なあ、思い当たる節があるだろう、ウォルテール。知らないとは言わせないぞ」


 カナンの背後で、ルージェンがくつくつと喉を鳴らして密かに笑っている。その声が酷く耳障りで、カナンは眉間に皺を寄せて舌打ちをした。ウォルテールは今や、立っているのがやっとのような有様だった。

「並行して、第二王子ユインの即位に関する準備も進行。第二王子を離宮から呼び戻し、その周囲を自分たちの手の者で固めた。皇帝の政治能力が十分でないと判断された場合、その側近は皇帝と同等の権限を持つという新たな法が成立。それによって得をするのは……権力を得るのは誰だ?」


 カナンはついに、ウォルテールの眼前に立ってその両目を見上げていた。かつて地面を這いつくばりながら見上げた男は、成長した今になってもやはり大きく、……唾棄すべきほど、人間味のある顔をしている。

「……ここまで言っても、まだ分かりませんか?」

 囁いても、ウォルテールは苦しそうな顔をするだけで、答えようとはしない。胸の内に諦念が広がる。



 ウォルテールと真っ直ぐに視線が重なり、カナンは思わずくしゃりと顔を歪めていた。

「どうして……どうして、何も気づけずに、何も聞かずに、何も見ないでいられるんだ。あんただけ、いつも何も知らないで、自分だけ綺麗なところにいて、俺には到底口に出せないような綺麗事ばかり……!」


 口をついて出るのは、ほとんど癇癪のような叫びだった。カナンは剣の柄を握り締め、怪我のない方の腕を伸ばし、ウォルテールの胸ぐらに掴みかかる。


「お前が何も知らずにのうのうと暮らしている間に、何人の人間が犠牲になったと思っている! ……お前はッ! お前は――たくさんの人を救う力があったし、本当に救えたんだ、お前があとほんの少しでも知ろうとしていたら! ……何をするにも及び腰で、自分は本来ここにいるべきじゃないみたいな素振りで他人事ぶって、お前が寄越すのはいつだって感情ばかりだ、……口先ばっかりじゃないか!」


 歯を剥き出しにして怒鳴る。いくつもの記憶が浮かんでは消えた。自分が利用するだけ利用して捨てた人間の顔や、名も知らぬ男が火に巻かれて頽れる輪郭。誰にも相談できずに追い詰められた人間の、胃の縮むような恐ろしさと無力感が、カナンには手に取るように分かるのだ。そうした者が、もはや逃げ切れぬと腹を括ったときの、焦燥と切迫感も。



「真っ当な同情も哀れみも、全部あんたの特権だ。あんたのそれは優しさなんかじゃない、優越っていうんだ。俺は、与えられた表層だけを見て、作られた綺麗な真実だけを享受して、それで満足しているあんたを、心底軽蔑する」

 衝撃を受けたように、ウォルテールが息を飲む。カナンは剣を持った方の手も挙げ、両手でウォルテールの襟元を握り締めた。


「殺せ! 大義のためだ、殺せるだろう! ――全部お前の兄がやったことじゃないか!」


 カナンは絶叫する。自分が何故これほどまでに激昂しているのか分からなかった。手の中に、愚かで優しい友人を刺し貫いた感触が消えない。過呼吸のように頭がくらくらとしたが、それでもカナンはウォルテールの首元を離すことができなかった。


 大声を出したせいか、息が弾み、つと目の前が暗くなる。ふらついたカナンを支えようとするようにウォルテールが手を出しかけたが、その指先が触れるより前に、彼は躊躇するように腕を引いた。体から力が抜け、がくりと膝が折れる。

「カナン……」

 体を支えきれずに床に膝をついたカナンを、ウォルテールがこわごわ見下ろしている。カナンはもはや立ち上がる気力もなく、顔を歪めてウォルテールを睨み上げた。


『いつかお前を殺してやる』。

 かつて吐いた呪詛が、あまりにも遠い。カナンは強く奥歯を噛みしめて項垂れる。



 ウォルテールは蒼白な顔で、眦を下げたまま、カナンを眺め下ろしていた。大きな手が無意識に腰を探ったが、剣は既に没収されており空である。程なくして、ゆらり、大きな体躯が横に揺れながら、カナンの脇をすり抜けて歩み出る。


 カナンは剣を杖代わりにして腰を浮かせ、肩越しに二人の兄弟を見やった。ルージェンはそれまでの馬鹿にしたような笑いを収め、嘘くさい微笑みで弟を見つめている。



 ***


 カナンの語った話は突拍子もなく、しかし、全くのでまかせであると切り捨てるには、知っている事件との共通点がありすぎた。けれど信じられない、まさか……兄が、帝都を牛耳ろうとしていた売国奴?

 ウォルテールは途方に暮れて立ち尽くす。


「兄上。……カナンの話は、本当ですか」

 幽鬼のように覚束ない声で、ウォルテールは兄を見下ろした。ルージェンはどこか切なそうに目を伏せ、「この場で無実を証明する術はないな」とだけ答えた。ウォルテールは唇を引き結ぶ。それは互いに同じだろう。自分はこの場で、どちらの言葉を信用するか選ばねばならないのだ。そうと悟って、ウォルテールは息苦しさを覚えて小さく喘ぐ。何も言えない弟を、ルージェンは黙って見上げている。


「――ロウダン。俺を殺せ」

 ややあって、ルージェンは腹をくくったかのように晴れ晴れとした表情で宣言した。ジェスタ兵に捕らえられておきながら、それでもなお臆する様子を見せない兄を、ウォルテールは呆然と見つめる。


「……カナンくんが、俺を黒幕と疑っているのは間違いない。きっと、今さら俺が何を言っても、お前が何を言っても、彼は聞き入れないだろう」

 大人びた諦観の眼差しで、兄は静かに首を傾げた。それは、物心ついたときから追い続けていた、聡明で正しい、長兄の顔である。

「お前が俺を殺せば、彼はきっとそれを忠誠の証として、お前を殺さずにおくはずだ。お前は命を落とさずに済む。簡単な話だろう」

 これは二者択一だ、と。まるで設問の解法を説くみたいに、ルージェンは目を細めた。


 兄の声はごくごく小さく、余人の耳には入らないような囁き声である。ルージェンの背後についているジェスタ兵が、こちらの言葉を解している様子はない。


「ロウダン。お前が生き残るためなら、俺は、自分の命なんてちっとも惜しくないんだ」

 ルージェンが、寂しそうに微笑んだ。ウォルテールは唇を噛む。反論の言葉はいくつも浮かぶのに、どれもが形にならず、喉元で堰き止められては消えてゆく。



「……俺を殺して生き残れ、ロウダン。どうか俺のことを忘れないでくれよ」

 慈愛に満ちた眼差しで、ルージェンが一度だけ、ゆっくりと頷いた。それを受けて、ウォルテールは項垂れ、目を閉じる。そのまま彼は、両手を垂らしたまましばらく沈黙していた。


「兄上、」と呟いた声は掠れていた。

 兄を取り押さえるジェスタ兵の腰に手を伸ばし、慎重に剣を抜く。爽やかな朝日に照らされて、その刃先がきらりと輝いた。冴え冴えとしたその光を、目を眇めて見下ろし、そして彼は両手で柄をしっかと握り締める。

「兄上……」

 ルージェンは泰然とした態度で全身の力を抜き、躊躇いなく胸を開いた。

「――愛している、弟よ」


 殺せ、と声を荒げて怒鳴るカナンの姿が、克明に浮かび上がる。まだあの絶叫の残響が、大広間のどこかに漂っているような気がしていた。剣を振り上げた腕が震えている。想像を絶するような激情を剥き出しにして掴みかかってくる青年のことが、ウォルテールは心底恐ろしかった。

 ウォルテールには、カナンが突如として理解できない、輪郭のない化け物に変わったように思えた。この青年がどうして、あれほどまでに激昂して、自分に対して残酷な命令を下したのか分からない。……分かりたくもない。


 対する兄は、慈愛に満ちた表情で、ウォルテールを励ますように微笑んでいる。

 ――殺せ。その唇が動く。自分を殺して、生き残れと、兄はそう言っているのだ。それがどれほど崇高な自己犠牲、家族愛であるか、そんなのは言われなくたって分かっている。

 きっと自分は、ここで兄を殺せば、その事実を一生抱えて生きてゆくのだろう。たとえ兄がどれほど優しく微笑んでくれたって、肉親を殺した罪は消えやしない。



「ごめんなさい、兄上……」

 囁いて、ウォルテールは腹に力を込め、剣を大きく振りかぶる。ルージェンが目を閉じる。背後で誰かが息を飲む。あはは、と少年のような声で哄笑したのは誰だったろう。ウォルテールは顔を歪め、ひと思いに、剣を兄の首へと突き立てようとした。



 その一瞬は、まるで永遠のように長く思えた。

(これはカナンの復讐なのだ)

 内心で呟きながら、ウォルテールは唇を噛み、強く目を瞑る。

『俺は、あなたに覚悟をしておいて貰いたい』

 かつての言葉が、耳の奥に蘇った。

『――いつか、あなたが、近しい人間を切る覚悟を』


 あのときのカナンの、縋るような、祈るような、必死な眼差しを思い出す。今にも泣き出してしまいそうに、唇を震わせた、カナンの青ざめた顔が浮かぶ。


 ちりっと、僅かに針先が肌を掠めたような、小さな違和感が胸の内に落ちた。



「――っだめ!」

 刹那、そんな声とともに脇腹に衝撃が走る。剣は弧を描く軌道の途中で不規則に跳ね上がり、床へ落ちて乾いた音を立てた。ウォルテールは尻餅をつき、呆気に取られて胸元に縋り付く女を見下ろす。

「殺しちゃ駄目、絶対、ぜったい……っ!」

 ウォルテールの腹に馬乗りになるようにして、アニナが胸ぐらを掴んで首を振る。ウォルテールは一拍遅れで我に返り、「何をするんだ」と大声を出してアニナの肩を掴んだ。しかしアニナは目尻をつり上げて手を振り払う。


「一時の激情や諦めに身を任せて、大切な人を自分の手で殺すなんて、間違っています! ロウダン様は本当に優しくて繊細な方だわ。……そんなことをしたら、あなたが本当に傷つくってこと、私は知ってるんだから!」

 悲鳴みたいな声で叫んで、アニナはくるりと体を反転させながら、ウォルテールの肩に手をついて立ち上がる。


 アニナは燃えるような瞳をして、カナンを見据えた。両手を広げ、ウォルテールを背後に庇うようにして立ちはだかる。

「カナンくん――ロウダン様にお兄様を殺させたいなら、私を殺してからにして」

 顎を引き、アニナは決然とした声で告げた。ウォルテールは鋭く息を飲む。大広間で事態を静観していた面々が、一斉に身を強ばらせるのが分かった。


 カナンは無表情のまま、アニナを睨みつけている。アニナは大きく息を吸い、はっきりと宣言した。

「私を殺したら、ハルジェル領は新体制に対して否を唱えるわ、絶対によ。私はハルジェル領の右大臣を父に持つ、コルエル家の娘なんだから。……帝国内でも規模が大きく、かつ古くから帝都に忠誠を誓ってきたハルジェル領が反旗を翻したら、果たしてこの先、無事にその地位についていられるかしら!」


 アニナの肩越しに、独りきりで立ち尽くすカナンと視線が重なる。

 脅しのようなアニナの言葉を受けて、しかし彼は微塵も怯む様子を見せなかった。冷え冷えとした眼差しで、カナンはこちらを眺めている。緩く引き結ばれた唇に笑みはなく、青年はどこまでも虚ろな目で瞬きを繰り返す。カナンの内側に、芯まで冷え切った洞が広がっている気がした。



「ハルジェル領を引き合いに出すのなら、……」

 何か言おうとして、カナンは途中で面倒になったように言葉を切る。


 ……疲れ切ったようなため息ひとつ。カナンは軽蔑するようにウォルテールたちを一瞥し、兵に向かって一言ふたこと指示を出すと、そのまま踵を鳴らして大広間を出て行った。医師が取りすがるのを拒もうとせずに、彼は大股でその場を立ち去る。


 カナンの通った床の上には、その肩の矢傷からあふれ出たと思しき血が、赤黒く点々と、ただ一筋ばかり残されていた。



 ***


 大広間で拘束されていた人員は順次解放され、ウォルテールは普段と同じ執務室に戻って、さも平常通りの態度を装っていた。しかし室内には片手の指の数を超す兵が立っているし、廊下を出たところにも多くの兵が配備されているらしい。随分と厳重な監視である。


「ごめんなさい、咄嗟に飛び込んだりして……」

 萎れた様子で項垂れるアニナに、ウォルテールは「いや、」と呟いた。

「……もちろん、あの場面で急な行動を起こすのは危険だったし、俺も剣を持っていたんだから、角度が悪ければ刃に当たってしまうところだった。だが、」

 なおざりにアニナを窘めながら、しかしウォルテールの思考は別のところにあった。


「……ありがとう、アニナ」

 呟くと、アニナは目を丸くして、それから瞬く間に頬を染めた。「やだそんな」と照れ笑いを浮かべながら頭を掻く。その様子を見るともなく眺めながら、ウォルテールは唇を引き結んで沈思する。


 あのとき。ウォルテールが、ひと思いに兄の首に剣を振り下ろそうとした、あの刹那。アニナの声に驚いて目を開けたときに、ウォルテールはそれを見た。……思い出すだけで背筋が凍る。


 ――あのとき、ルージェン・ウォルテールは、勝利を確信したように愉悦を滲ませながら、確かに嗤っていたのだ。



「もしも、貴女が止めてくれなかったら、俺は兄をこの手で殺していた」

 声は掠れていた。アニナは『その通りです』というように深く頷いたが、ウォルテールは未だに臓腑が冷えるような気分で目を伏せる。

(あそこで、兄を殺していたら……)

 ……きっと自分は、一生カナンを憎悪しただろう。怒りに身を任せて剣を取っていたかも知れない。


(まさか、それを、兄上は……)


 気づけば、まるで全身が濡れたときのように体が震えていた。それを見て取ったアニナが、何も言わずにウォルテールの手を握る。その指先の柔らかさを手のひらの中に感じながら、ウォルテールは目を閉じた。


 血を流しながら、殺せ、と絶叫するカナンの姿。

 慈愛の表情で、殺せ、と唇を動かした兄の姿。


 対照的な姿だ。まるで似ても似つかない。それなのに、今のウォルテールには、兄の表情に冷徹な復讐の意思が浮かんでいたように思えて仕方なかった。


 助けてくれ、と叫びながら、小さな少年がただひとりで必死に藻掻いている。

 ――そんな幻惑を瞼の裏に見る。




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