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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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帝都陥落4


「皇帝陛下を捕らえたって本当かよ、なあ、カナン……!」

 明らかに激怒しているのに、バーシェルは同時に泣きそうな顔をしていた。縋るような眼差しに、カナンは厳しい表情を返す。


「わざわざ逃がしてやったのに……」

 低い声で毒づいて、カナンは剣を構えてバーシェルに向き直った。バーシェルは両手に握った剣を下ろそうとせず、今にも崩れ落ちそうに情けない表情で立っている。その手は震えており、まるで何かに怯えているかのようだった。

「なあ、カナン……どうして、こんな、」

 まとまらぬ言葉を口に乗せるバーシェルに、カナンは意識して冷ややかな視線を向けた。背後で様子を窺う兵を一瞥し、ルージェンを城内まで連行するように合図する。



 その姿が城門の向こうに消えるのを確認してから、カナンはバーシェルに向き直った。

「バーシェル。ジェスタ王国って知ってるか」

 前触れなく問うたカナンに、バーシェルは束の間の困惑をみせてから、浅く頷く。カナンは片方の口角を持ち上げて微笑むと、胸に手を当てて鼻を鳴らした。

「――ゼス=カナン・ジェスタ。ジェスタ王国の第三王子と言った方が早いかな」

 努めてあっさりと告げると、バーシェルは面白いほどに凍り付いた。大きく見開いた目は今にもこぼれ落ちそうで、その両肩はわなわなと震えている。驚愕を示す友人に薄らと微笑んで、カナンは肩を竦めた。


 自分の素性を明かしてしまえば、もはやバーシェルとこれまで通りの関係ではいられまい。予想していたし、覚悟もしていた。

 ……かつて、じきに縁が切れるはずの自分に、軽快に話しかけてきた少年の顔が思い浮かぶ。その意図が読めず、どうして、と問うたときの、きょとんとした間抜け面。乾いた土の匂いと汗臭さが鮮明に蘇った。

 そりゃ話しかけるだろ、と心底不思議そうに首を傾げた彼が、歯を見せて笑う。

『だって俺たち友達じゃん』

 小っ恥ずかしい台詞を平気で言ってしまえる、この友人のことが、カナンは結構きちんと大切だったのだ。



「……王子?」

 バーシェルが小さな声で呟いた。その目に動揺が浮かぶ。

「じゃあ、お前は……」

 そう呟いた声は弱々しく、彼はカナンを、まるで知らない人間を見るように眺めた。

「今まで俺たちのことを、ずっと騙していたのか」

「違う」

 カナンは即座に否定したが、バーシェルの表情から険は消えない。むしろ嫌悪のような感情を覗かせて、彼はカナンを睨みつけた。


「俺たちが、お前のことを奴隷だと思って接してやっていたのも、お前はずっと嘲笑いながら見ていたのか」


 バーシェルが漏らした言葉に、カナンは一瞬息を止めてから、短く嘆息する。胸の内に失意が広がるのが、手に取るように分かった。

「それじゃあ、お前はずっと俺のことを奴隷だと思って、哀れみながら接して『くれて』いたのか」

 呟くと、バーシェルは我に返ったように「違う!」と頭を振ったが、カナンの胸に浮かんだ失望はなくなろうとしなかった。


 視線を合わせた互いの目が、裏切られた、と語っている。



「俺は――お前が、帝国を牛耳る支配者になろうとすることを、認めない。認められない」

 迷いを断ち切るように、バーシェルは強く頭を振って宣言した。剣を持つ腕を持ち上げ、照準をカナンに定めるように剣先を向ける。

「お前にどんな理由や事情があろうと、俺は、お前を進ませる訳にはいかない」

「何故だ?」

 緩く首を傾げて問えば、バーシェルは剣をカナンに突きつけたまま、思い詰めたような表情で答える。


「この国は、何百年もの昔から、正統なる王家によって統治されてきた。その血脈こそがこの国を象徴するものであり、お前が帝国の頂点に君臨した瞬間に、この国はその意味を失うんだ」


 カナンはその口元に嘲笑を浮かべた。「驚いたな、お前が血統主義者だったとは」と呟いたところで、バーシェルが喉の奥で唸りながら肉迫する。

「ましてや、カナン、お前のような人間が、帝国を支配するなんて……!」

 剣を弾く音が甲高く響く。カナンの手に薄らとした痺れが走る。

「何のために戻ってきたんだ、お前は最初から奴隷でもなければ、帰る場所がない訳でもなかったのに……エウラリカ様の敵討ちか!? 倒すべき仇なんていないじゃないか! エウラリカ様は死んだんだ、もうどうしようもない! それなのにどうして……俺たちの国に手出しをする!」

 剣が重なるたび、バーシェルの声には熱がこもった。徐々に押されながら、カナンは歯ぎしりをする。


 バーシェルの剣筋はよく知っている。一緒に訓練をしたんだから当然だ。だからこの剣戟をいなすのはさほど難しくなかった。



 振り下ろされた剣を受け止め、カナンはバーシェルに向かって怒鳴った。

「聞け、バーシェル! ――俺は、この国を救いに来たんだ!」

 その耳元で大声を出した瞬間、バーシェルの動きに迷いが見られた。鈍った剣筋をいなしながら、カナンは「思い出せ」と強い声を出す。


「数年前――オルディウスとイリージオのアルヴェール兄弟が相次いで死んだ事件、あれの真相を、俺は知っている」

 金属が弾かれる音がして、バーシェルが一歩下がった。彼は動揺したように、大きく目を見開いてカナンを見据えている。


「あのとき帝都には、とある違法薬物が出回っていた。そのことはお前も知っているはずだ」「……オルディウス・アルヴェールの部屋から見つかったものか?」

「オルディウスは恐らく、その薬について探ろうとしたから殺された。イリージオは兄殺しの罪を着せられ、自責の念で自死したんだ。……思い当たる節があるんじゃないか?」


 畳みかけるように告げれば、バーシェルの表情には徐々に懸念の色が滲み始める。先程までの決然とした口元が、不安げに緩んだ。

「オルディウスの死に関する捜査は、不自然に打ち切られた。お前が一番分かっているはずだ」

「それは……」

 バーシェルはあからさまに臆した様子で言い淀む。構えた剣の先が、ゆっくりと下がってゆく。


「この国は――帝都は、売国奴によって内側から掌握されようとしている。そうなれば俺の祖国だって無関係じゃいられないだろ? ……だから俺は、この国を救いに来たんだ」


 目を見開いて口元を引き締めれば、自分の顔が誠実そうに見えることを、カナンは知っていた。案の定、じっとバーシェルを見つめて説けば、彼の表情からは徐々に険が抜けてゆく。

「カナン……じゃあ、お前のことを、俺は、信じても良いのか……?」

 バーシェルが剣を取り落とし、よろめくようにカナンの方へと歩み出した。カナンは頬を緩めて頷き、「ああ」と剣を収める。



 ――刹那、視界の外から突如として現れた矢に、カナンは肩を射貫かれた。


「……っ!」

 どん、と強い衝撃に、少しだけ体が傾ぐ。息を飲み、カナンはたたらを踏んだ。予想だにしていなかった激痛に、目の前がくらりと揺らいだ。カナンは肩に深々と突き刺さった矢を掴み、その出所を振り返る。


 果たして、城門前を見下ろすかのようにそびえ立つ集合住宅の上階から顔を出していたのは、もう一人の友人であった。それを認めた瞬間、ざぁっと血の気が引くのが分かった。

「ノイルズ……ッ!」

 怒鳴ろうとしたが、声は情けなく掠れて響かない。開け放たれた窓の向こうで、ノイルズは表情ひとつ変えずに矢をつがえて弦を引いている。


 嵌められた、と単語が脳裏をよぎる。


 そうだ、自分が、ノイルズと一緒に城を離れるように仕向けたのだから……バーシェルとノイルズが、今朝まで一緒にいたのは、考えればすぐに分かることじゃないか!

 すなわち――バーシェルが自分の注意を引いている間に、ノイルズが上から射手として狙いを定める。簡単な作戦だ。どうして気づかなかったのか。


 咄嗟に振り返った先で、バーシェルは青ざめた顔で立ち尽くしている。この野郎、とカナンは口の中で呟いた。

 道理で、いやにあっさりと剣を下ろしたと思った。最初からこいつは、手段を選ばず俺を殺す気だったのだ。


 十全に回らない頭で、カナンはバーシェルの視線を受け止める。友人だと思っていたはずの男は無言のままだ。と、その顔が歪む。


 次の瞬間、彼は決然とした表情で強く地面を蹴り、こちらへ手を伸ばした。迫り来る大男の姿に、全身の毛が逆立つような恐怖と命の危険を感じる。カナンは考えるよりも先に、矢の刺さっていない方の腕で剣を抜いていた。バーシェルが大きく両腕を広げる。


 ノイルズの手から矢が放たれる仕草は、酷くゆっくりとして見えた。周囲にいる兵は慌ててこちらへ駆け寄ろうとするが、否、矢より早く走れる者などいるはずがない。初撃の矢に貫かれた肩は、まるで火でもつけられたかのように熱く、気を抜けばふっと意識が遠のきそうになる。



「殿下!」

 悲鳴のような声が響き渡る。その中に、「カナン!」と強く自分を呼ぶ友人の声が混じった気がした。カナンは片手に握った剣を振り上げる。肩の矢傷から噴き上げた血が目に入る。カナンは霞む視界の中で、まるでのしかかろうとするように両腕を振り上げた大男の姿を見た。



「待て、ノイルズ、こいつは――」と、バーシェルが何かを言おうとしている。その声が、途中で絶える。


 ――カナンの持つ剣が友人の腹を背後から刺し貫くのと、しなりながら飛んできた矢がバーシェルの胸に突き刺さるのは、ほぼ同時のことだった。一拍遅れて、その口から鮮血が噴き出す。



「え?」

 ……我に返って、顔を上げる。バーシェルの姿は、得体の知れない大きなひとつの影のように見えた。彼は咄嗟に、自分の眼前に立っているものが『何』なのか理解できなかった。唇が震える。

「バーシェル……?」

 その肉塊は、まるでカナンを庇うみたいに、守ろうとするみたいに、両腕を広げて矢を防いでいた。


 背に突き立てられた剣の刃を伝って、生暖かい液体が手を濡らしてゆく。その熱が滴って足元に溜まるまで、カナンは身動きひとつできなかった。

 バーシェルの肩越しに、窓の中のノイルズと視線が重なる。彼らは互いに、凍り付いたように動きを止め、声もなく立ち尽くしていた。



「あ、……あ、え?」

 ゆっくりと、その体躯が傾いてゆく。剣の柄が手の中から抜け落ち、体を貫く刃もろともそれは地面へと倒れ込んだ。

「……バーシェル?」

 声は掠れていた。かくりと膝が折れたのは無意識だ。地面の石畳の上に膝をつき、カナンは両の手を伸ばして、あたたかい肉体に触れた。

「ごめん、俺、てっきりお前が襲ってきたと思って、カッとなって……悪かったって」

 その肩を数度叩いてやりながら、カナンは口元に媚びるような笑みを浮かべる。


「なあ、ごめんって。だから、バーシェル、」

 肩に置いた手に力がこもる。横倒しになっていた体が仰向けになり、顔がごろんと力なくこちらを向いた。

「……起きろよ、早く、」

 大きく目を見開いた表情は、苦痛に歪んでいる。口元から顎にかけて血糊が伝い、胸から飛んだ血飛沫が頬を染めていた。

 その両目は虚ろである。


「――起きろってば! おい! 聞いてるのか!」

 裏返った声で絶叫する。動かない体を揺さぶりながら、カナンは横たわる友人に縋りついた。

「バーシェル、……バーシェル!」


 身も世もなく叫ぶカナンを、誰もが遠巻きに見ていた。近づいてくる者は誰もいない。

 ややあっておずおずと、兵が遠くから、肩の矢傷を処置するべきではと進言する。カナンは青ざめた顔で兵の方を振り返り、放心したまま小さく頷いた。



 記憶のかなたでエウラリカが嗤う。

 親しい人が牙を剥いてくれる方が、どんなに易しいか分からない。そう嘯いた彼女の、薄暗い目が浮かび上がった。


 その方が簡単に切ることができるでしょう。


(ああ、本当に。いとも容易く、こんなにも――)



 ***


 城門が背後で閉ざされる。列柱の間を抜けて粛々と歩く隊列の中で、ルージェンは誰よりも落ち着き払っていた。

 早朝の鋭い冷たさから、徐々に柔らかな陽射しが降り注ぐ頃であった。今年の帝都は雪が降らなかったらしい。薄らと霜が降りた庭園を横目に見ながら、ルージェンは唇を引き結ぶ。玄関の大扉が開かれ、黒髪の兵たちが並び立つ。


 地下牢へ続く通路の先で、扉の左右についた兵が顔を見合わせる。取っ手を掴み、暗く冷たい階段への入り口が開かれた。吹き寄せる湿った空気を顔に受け、短く息を吐く。


 自分は負けたのだ。完膚なきまでに――無力な奴隷の少年だった男に、完全に出し抜かれた。端から持っているものが違ったのだと気づいたときには後の祭りである。

 今さらじたばたしても仕方がないことは分かっていた。重いため息をついて、彼は天を仰ぐ。


 白い石が朝日を反射する。輝かしい城壁を一瞥して、彼は静かに苦笑した。これまでの日々を思い返しながら、長いため息をつく。

 ――ようやく終わるのだ。



 背後から急いだ様子の歩調が近づき、ルージェンを連行する兵が呼び止められたのは、その直後のことだった。



 ***


 城内警備にあたっていた兵は既に地下牢へ投獄済み、現在大広間にいるのは深夜の交戦で死傷した兵はもちろん、城内に居室を持つ貴族たちや、夜間に勤務していた一般の使用人ばかりである。その中で唯一、ロウダン・ウォルテールの姿ばかりが異彩を放っていた。


 青ざめ啜り泣く人間の中で、ウォルテールは胡座をかき、暗い目をして周囲を睨めつけている。その隣で正座したアニナも、気丈に額を上げて唇を引き結んでいた。

「大丈夫です、ロウダン様。きっと大丈夫……」

 アニナが祈るように繰り返し囁いている。言葉とは裏腹に、胸の前で組み合わされた手は震えているようだった。その背を撫でてやりながら、ウォルテールは長い息を吐く。


「どうして、カナンくんが、あんな……」

 眦を下げて、ふと気弱な声音で零したアニナに、ウォルテールは目を伏せた。

「カナンは元々ああいう奴だった」

 問うような視線を向けてきたアニナを振り返って、ウォルテールは諦念の混じった苦笑を頬に浮かべる。


「言ってなかったか……カナンの生まれは東部にあるジェスタ王国の、末王子だ」

「ジェスタの王子!? ……それじゃあ、ロウダン様は、」

 アニナは大きく目を見開き、傍らに立って見張っているジェスタ兵の方をちらと窺った。理解が早くてありがたい限りである。ウォルテールも兵を一瞥してから、短く嘆息する。

「かつて俺が手ずから落とした国だ。そのジェスタが今こうして帝都を占領しようとしているんだから、俺が何の報復もなしでいられるとは思わないな」

 そんな、とアニナが青ざめる。大きく見開いた目が揺れていた。



「なあ、そうだろう」

 確実に会話が聞こえる近くで立っていた兵に声をかけると、まだ年の若い兵は、冷ややかな視線でウォルテールを睥睨した。会話の節々で、時折瞳を揺らしていたのは分かっている。大半の兵は帝国語を解さないようだが、少なくともこの兵はこちらの言葉を理解しているはずだ。

「カナンは俺のことを何か言っていたか?」

 問えば、彼は少しの間理解できない素振りを貫こうとしたようだったが、ややあって「いえ、何も」と流暢な帝国語で応じた。


「殿下は、私怨による復讐などという動機で、帝都を制圧したわけではありませんから」

「そうか」

 ウォルテールは軽く頷き、肩を竦める。カナンは、自分はエウラリカの墓参りに来たのだと断言していた。思わず苦笑を浮かべてしまったウォルテールに、兵が目に見えて鼻白む。


「カナン殿下は、この国を救おうと、ずっと尽力なさっておいででした! 愚かな帝国民の気づかぬ危険をいち早く察知し、最悪の事態を避けるために、今も心を砕いておられます」

「お前がカナンを慕っているのは分かったよ」

 頬を染めて反駁した兵を宥めて、ウォルテールは床に座ったまま、青年の尖った顎を見上げていた。


「……でもさ、カナンだって、お前とほとんど歳の変わらない子どもじゃないか」



 ウォルテールが呟き、兵がそれに何か答えようとした瞬間、大広間の扉が勢いよく開け放たれた。「殿下!」と兵が目を剥いて叫ぶ。その視線を追って首を巡らせ、ウォルテールも鋭く息を飲んだ。


「騒ぐな。かすり傷だ」

 不機嫌そうな声とともに姿を現したのは、肩を強く掴み、半身を真っ赤に染めたカナンだった。その頬は蒼白で、肩口から噴き出した血が腕を伝っている。指先から滴った雫が点々と床に軌跡を描いているのを、ウォルテールは呆然として眺めた。


「医師を呼べ」とカナンが言うと、兵が慌ただしく大広間を出て行く。随行する兵に甲斐甲斐しく支えられながら、カナンは椅子に腰を下ろした。そのときになって、ようやく青年の口元から苦しげな息が漏れる。


 血の気の失せた顔に表情はなく、どこか茫然自失としたような、魂の抜けたような気配があった。瞬きのために瞼が上下するのに、瞳は虚ろに床を見下ろしており、視線が定まらない。精彩を失った双眸に光はなかった。


「……カナンくん、何かあったんですか?」

 アニナが口元に手を添えて囁く。ウォルテールも眉をひそめ、カナンの様子を注視した。

 カナンは医師が到着するまで、赤く染まった肩を反対の手で強く掴んだまま離さず、身じろぎひとつせずに黙りこくっていた。ふと、その唇が動き、傍らの兵が短く頷く。兵が身を翻して出て行ったことからするに、何かを言いつけたらしい。


 兵の後ろ姿を見送り、カナンの様子を窺った瞬間、ウォルテールはどきりとした。青年は驚くほど昏い眼差しで、こちらを見据えている。

 空の棺を見下ろして高笑いしていた姿とはまた異なった、異常な風情であった。カナン、と喉元で声が凍り付く。



「――なあ、ウォルテール」

 不意に、カナンが唇をつり上げてウォルテールを呼ぶ。周囲の視線が一瞬にして集中する。ウォルテールは床に胡座をかいたまま、「何だ」と目を開いた。

「人殺しは罪か?」

 短い問いは端的だったが、刹那にウォルテールの脳裏をよぎった顔は数知れなかった。作戦を実行した結果、無駄死にすることになった少年兵や、略奪を悲観した挙げ句に自死した村人の乾いた肌。手の中に、肉と骨を断つ感触が蘇った。


 つと言葉を失ったウォルテールの腕に、柔らかい手が触れる。「ロウダン様」と囁く声に、意識がふっと現実に引き戻された。アニナは丸い両目をいっぱいに見開いて、ウォルテールをじっと見上げている。驚くほどに無垢で、信頼に満ちた眼差しであった。


 カナンは、脈絡のない問いを投げかけておきながら、興味を失ったように顔を背けている。その顔色は真っ白で、医師の手当てを受けている間も、表情はぴくりとも動かなかった。ウォルテールはしばらくカナンの横顔を眺めてから、目を伏せる。


「……大義のためだ」


 それだけ呟いて、ウォルテールは深く項垂れた。明らかに逃げを打った答えであることは自覚していた。

 たとえ誰が咎めずとも、罪に問われなくとも、人を殺した重みは変わらない。己が命はただひとつ、が命もただひとつ。……それだけのことである。

 なれば、その均等な天秤を覆しうる理由があるとするなれば、それは大義のためとしか言いようがなかった。



 ウォルテールの返答を聞いたカナンが、無言で目を見張る。その瞳が揺れた。

「そうか」とカナンは小さな声で呟いて、ふと、にこりと柔和な笑みを浮かべる。穏やかで人当たりの良いその表情は見慣れたもので、しかしそこに一抹の不安を覚える。ぞくりとした予感がウォルテールの背筋を駆け上がる。


 直後、大広間に続く廊下の方から足音が近づいてくるのが聞こえた。カナンは包帯を巻かれた肩を一瞥し、それから自らの右手を見下ろしてから、ウォルテールを振り返る。彼は微笑んでいた。


「それなら、なあ、ロウダン・ウォルテール――」


 兵に拘束されたまま歩かされている男の顔を見た瞬間、ウォルテールは息を飲む。細面に浮かんだ苦笑と、色のない唇。その顔の造作は、自分自身とよく似ている。

 幼い頃から度々言われてきたことだ。――お兄さんにそっくりだね。きっと君も優秀な子に育つに違いない――。


 彼は咄嗟に立ち上がっていた。やにわに鼓動が早くなり、手足から力が抜けてゆく。どういうことだ、と声になりきらぬ言葉が唇からこぼれ落ちる。

「兄上……ッ!」

 掠れた声で叫んだウォルテールを眺めながら、カナンはゆるりと目を細めた。



「――大義のために売国奴を殺せ、将軍。お前の祖国を守るために」




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