帝都陥落3
長く、重い政変の夜は、瞬く間に明けた。日の出を過ぎた頃、普段よりずっと急激に目覚めた街は動揺に揺れていた。
城門前に民が詰めかけているのを窓から眺めてから、カナンはふいと目を逸らした。外の喧噪とは対照的に、しんと静まりかえった議場には冷え冷えとした朝の空気が漂っている。頭上から降り注ぐ白色をした陽射しを受けて、塵が宝石のように煌めいた。
朝を迎え、跳ね橋が下ろされると同時に、大勢のジェスタ兵が、今度は堂々と目抜き通りを縦断して帝都へと入ってきた。もはや人目を憚って、まるで汚い鼠のごとく地下を這う必要はないのである。
開け放たれたままの議場の扉から、またひとり、男が背後からその身柄を拘束されたまま入室する。青ざめた顔に脂汗を浮かべた男は、言われるがままに空いた席へ座ったが、腰を落ち着けて一息つく気にもなれないらしい。怯えた様子で辺りを見回す様子は追い詰められた獣のようで、いっそ哀れに思えてくるほどであった。
カナンは視線だけで議場を見回すと、頭数を目で数える。そのまま傍らの随身に目線を滑らせれば、彼は小さく頷いた。カナンは了解して眉を上げると、踵を鳴らして体ごと議場へ向き直った。
「さて、」
背後に武装した兵を並べたまま、カナンは涼やかな声で一言呼びかけた。瞬間、円形の議場に、ぴんと糸が張ったような緊張が走る。すり鉢状の部屋の中には、いずれも老いた男たちが、怯えた様子で首を揃えていた。
背筋を伸ばし、カナンはその口元に笑みを浮かべて議場を見回す。
「帝国議会の定足数は満たされた。始めよう」
あくまで静かな声でそう言って、カナンは一言も発しないまま、傍らで玉座に座る男を一瞥した。
「早朝からの緊急議会にご足労いただき感謝します、皇帝陛下」
感情のこもらない声で告げたのは明確な皮肉であったが、皇帝の表情に変化は見られない。近くで見れば見るほど、特徴がなく、国主らしい威厳もない男であった。これがエウラリカの父であることが、カナンには到底信じられない。
「単刀直入に申し上げます。皇帝陛下――あなたには、その座を退いて頂く」
有無を言わせぬ口調で告げた瞬間、議場には悲鳴のようなどよめきが満ちた。そんなことが許されるはずは、と囁きが交わされる。そんな中、議員たちの視線を一身に受けた皇帝は目線のみでカナンを見上げた。
ふと重なった視線の先で、皇帝は緩慢に瞬きをする。無論、言葉だけで分かるとは思っていない。脅しが必要かと、カナンが剣の柄に手をやろうとした寸前、壮年の男はあっさりと呟いた。
「あい分かった、禅譲しよう。余も頃合いと考えていた」
感情の見えない顔で皇帝は頷くと、カナンからふいと目を逸らして議員に視線をやる。議員たちは慌てふためき、口々に皇帝に向かって唾を散らして怒鳴りだした。カナンはその様子をしばし冷めた目で眺めてから、軽く咳払いをする。瞬間、水を打ったように沈黙が戻る。皇帝が僅かに目を細めてカナンを見やった。
口を噤んだ面々を褒めるように微笑んで、カナンは小首を傾げる。
「現在、皇位継承権を持つのは第二王子ユイン・クウェールのみ。従って禅譲が宣言された以上、調印式や戴冠式を待たずとも、かの王子が次代の皇帝となることに間違いはありますまい」
議員たちの背後に控えるのは、抜き身の剣を捧げ持ったジェスタ兵である。白く輝く刃を気にしながら、男たちは落ち着かない様子で顔を見合わせた。まだ要領を得ない様子で狼狽えている者もいるが、数人ははっと息を飲んで頬を引きつらせ、弾かれたようにカナンを振り返る。カナンは笑みを深めた。
「今からおよそ一年前、まさにこの場所で、法案が可決されましたね」
幼い子どもに言って聞かせるみたいに、それは甘い口調であった。カナンはゆるりと目を細めたまま、いたぶるように言葉を選ぶ。
「まさかお忘れではないでしょう? ご自身で通された法案だ、まさかそれを今になっていきなり翻しなどなさりませんよね」
こうして相手に語りかけるときの自分は、獲物を定めたエウラリカに、いやに似ている。それをカナンは既に自覚していた。
「なれば問いましょう。次代の皇帝の側近となるに相応しい者は誰か」
カナンは後ろに回した両手を緩く重ねながら、最も近いところにいた男に歩み寄る。「分かりますね」と微笑みとともに顔を近づけると、ヒッと喉の奥で息を飲むような音がした。
「皇帝の政治能力に問題があるとされた場合、その側近は名代として、皇帝と同等の権限を有する――つまり、議会は然るべき人間を、皇帝の側近に任命せねばなりませんね?」
皆まで言わせるな、とカナンは微笑みのまま低く吐き捨てる。薙ぐように視線を動かせば、視線を向けられた男たちは一斉に臆するような様子を見せた。
冷え冷えとした眼差しで、カナンは口元に嗤笑を浮かべる。
「ご自分の立場を忘れぬことだ。お前たちの家族や故郷、親しい知己どもの平和と安全を願うなら、選ぶべきはただ一つだろう」
彼らの首筋には、研ぎ澄まされて白光りする剣が突きつけられている。
全員の拍手による承認を取り、カナンは鷹揚に微笑んだ。割れんばかりと言うにはぎこちなく、躊躇いがちの拍手が議場に響く。涙を流して項垂れる者、顔を真っ赤にして憎悪の視線を向けてくる者、茫然自失として中空を見上げる者。そうした顔ぶれを満足げに眺め回したところで、議場の扉が外から高らかに叩かれた。
カナンが片手を挙げると拍手がぴたりと止む。その様子にカナンは褒めるように頷くと、「入れ」と廊下に向かって声を張った。重厚な木の扉が左右にゆっくりと開かれ、姿を現したのは生真面目そうに背筋を伸ばした若いジェスタ兵である。
「ゼス=カナン殿下にご報告申し上げます!」
明朗な声で放たれたのはジェスタ語だったので、議員は誰もが怪訝に眉をひそめながら兵を見つめている。そんな視線をものともせず、カナンとさして歳の変わらない青年は頬を紅潮させたまま、議場の奥をじっと見上げた。
玉座の傍らで緩く腕を組んだまま、カナンは身振りで『続けろ』と合図する。兵は頷き、僅かに眉根を寄せて宣言した。
「帝都陥落を目論む南方連合に内通する売国奴、その首謀者であるルージェン・ウォルテールを確保いたしました!」
カナンは腕組みを解いて「よくやった」と兵に声をかけたが、その声は恐らく彼には届かなかっただろう。
「まさか、貴様……ッ!」
掠れた声で絶叫した男が、机の天板に勢いよく手をついて立ち上がる。カナンは視線を動かして男の素性を確認した。内通者のリストに名を連ねていた貴族の一人である。兵の報告にルージェンの名前を聞き咎め、すべてを了承したらしい。
「貴様、一体いつから……」
男は額から汗を伝わせたまま、ぶるぶると全身を震わせて、カナンを驚愕の眼差しで見据えている。その視線を心地よく受け止めて、カナンはわざとらしく小首を傾げてみせた。
「まさか、俺が私怨や復讐などといった些末な目的で、これほどまでの進軍をしたとでも思っていたのか?」
言いつつ段をひとつずつ降り、カナンは男の前で立ち止まった。
「英雄とでも呼んでくれよ。お前たちは、できるだけ血を流さずに帝国を救いたかったんだろう? 俺が代わりにやってやっただけじゃないか」
売国を覆い隠す建前を痛烈に当て擦ると、男は喉の奥で唸るような音を出して黙り込む。その様子を確認してから、カナンは興味を失ったようにふいと顔を逸らした。
「ルージェンは現在どこにいる」
「はっ。邸宅にて確保ののち、城まで連行している最中かと」
「分かった。こちらから行こう」
カナンは兵に着いてこいと手で合図をすると、議場の出口に向かって悠然と歩を進めた。凍り付いたように動かない室内は、しんと静まりかえって冷えている。
部屋を出る直前、カナンはくるりと振り返って議員たちを見回した。その表情には憔悴と怯え、困惑が浮かんでいる。
「覚えておいて欲しい。俺は、帝国を滅ぼすためにここへ来たわけではない」
カナンは静かな声で告げた。その言葉を信じて良いか量りかねるように、曖昧な返事が散発する。カナンはできるだけ誠実そうな顔を作って、懐疑的な面々にゆっくりと視線を向けた。
「――では、それはエウラリカのためかな?」
柔らかい声が誰のものだか、束の間分からなかった。目を丸くして壇上を見上げれば、声の主は初めて見るような微笑みでカナンを見下ろしている。
「……仰っている意味が分からないな」
頬が強ばるのを自覚しながら、カナンは短く吐き捨てた。厳しい声音に怯む様子もなく、相手は泰然と肘掛けに手を置いて背もたれに体を預けている。その雰囲気は先程までと同様、ぼやけた印象を残しつつ、しかし眼光ばかりが唯一、面白がるような色を湛えていた。
「『愛するひとの為なら国だって傾けてやる』。違うか?」
微笑んでいるかいないか、判断がつかないような薄い表情で、皇帝は軽く頷いた。「立派だ。何とも心が震える純情だな」と、からかっているのかどうか分からない、淡々とした調子で言葉が続く。
「分かるよ」、と。
男は至極気楽な口調でそう言った。その双眸は、暗い青色をしている。
皇帝の目の奥に、どこか自嘲するような……疲れて諦めてしまった人間の苦笑を見咎めて、カナンは思わず慄然とした。
この男は、紛れもなくエウラリカの父親だ。それを痛いほどに悟ってしまう。既にその座を退いた王は、静かな眼差しでカナンを眺めている。その冷ややかなことといったらなかった。この男は、自らの国が墜とされたことに、本当に関心がないのだ。思わず口角が強ばる。
皇帝はひらりと手を振って、流暢なジェスタ語で言ってよこした。
「エウラリカによろしく」
***
背筋の冷たくなるような思いをしながら、カナンは議場を退出し、しんと静まりかえる城内を横切って玄関へと向かった。丁寧に選定された木々の並ぶ前庭を悠然と闊歩し、城門前へと歩み出る。
城門前の広場は、詰めかけた市民たちで溢れかえっていた。城門が左右に開かれ、カナンが姿を現した瞬間、まるで蜂の羽音のごとく、わんわんと意味をなさぬ叫び声が投げつけられる。カナンはその頬に嘘くさい笑みを貼り付け、すっくと背筋を伸ばして広場の中央へと歩み出る。
ぽっかりと空間の開けた広場、その中央に、男はちょうど連行されてきたところであった。くすんだ金髪は、普段は丁寧に撫でつけられているのが、今はすっかり乱れて額に前髪がかかっている。
「……王女の子飼いはジェスタの王子、か。気づかなかった自分が情けないな」
カナンが何を言うよりも先に、彼は薄らと微笑んで吐き捨てた。カナンは緩く首を傾げながら、「おはようございます、ルージェンさん」と白々しく声をかける。
青ざめた顔をしながら、ルージェン・ウォルテールは気丈に頬を吊り上げてみせた。
「救世主にでもなったつもりか、カナン」
嘲るような言葉に、カナンは「それはあなたの方でしょう」と軽く返した。ルージェンは無言で笑みを深める。
「俺たちの目的は同じだろう。すべて、この帝国を救うためだ。カナン、お前なら分かると思うがな」
「あなたと一緒にしないで頂きたい」
カナンは冷ややかに吐き捨てて、ルージェンを取り押さえる兵に対して短く合図をした。兵は頷き、ルージェンの背を押して歩かせる。皮肉げな笑みを湛えているルージェンを横目に見ながら、カナンは昏い目で吐き捨てた。
「……俺は、自分の目的の為に、旧知の友人を殺すような真似もしないし、何の罪もない人間を手にかけたりもしない」
「ああ、オルディウスのことか?」
ルージェンはいとも容易くその名を出して、淡く微笑む。カナンは肯定こそしなかったが、「驚かないのか」とルージェンは面白がるような口調で呟いた。
「覚えておけよ、カナン。いつかお前も俺の気持ちが分かる」
ルージェンは喉を反らし、くつくつと乾いた笑いを漏らす。その様子にはどこか飄々としたものがあり、追い詰められた罪人のそれではない。開き直った諦めが、軽やかな足取りに表れていた。
「私利私欲のために人を殺して英雄になろうなぞ夢を見るな。己のために手を汚した瞬間に、お前は立派な怪物だ。救いようがない」
歌うように男が呟いた直後、成り行きを見守っていた群衆の中から、一際よく響く女の声がした。
「あなたっ!」
悲鳴のように甲高く絶叫し、必死にこちらへ手を伸ばそうとする女を、青年が全身を使って押しとどめている。青ざめ、髪を振り乱した女の髪は、鮮やかな赤色をしていた。
「駄目です、姉上!」
「いや、放して……放してよっ!」
身をよじる女を羽交い締めにする青年の顔には、見覚えがある。カナンは思わず目を細めた。
「だめ、その人を連れて行かないで、お願い……!」
顔を涙でぐしゃぐしゃにして、打ちひしがれた様子で表情を歪める女が、カナンに向かって懇願する。女の視線を追った青年が、カナンの顔を見咎めた瞬間に鋭く息を飲んだ。それで力が緩んだらしい、女は転げるように広場の中心へ駆け出すと、ルージェンの体に縋り付く。
「カナンさん……?」
「久しぶりだな」
記憶によれば同い年であるはずの青年を、カナンは冷ややかに見返す。ウォルテール家の末の弟は、凍り付いたようにその場に立ち竦み、目を疑うようにカナンを見つめた。
「あ……あなたが、これらを? 城を攻め落として……兄上を連行して、」
信じられない、とその表情が如実に告げている。まさか自分の身に、抗う術もない災いが降りかかるなど、想像したこともないのだろう。ヘルトは全身を震わせながら、カナンを見つめていた。怯えと困惑ばかりがその目に浮かんでいる。相手にもならない。興味を失ってカナンは目を逸らした。
「何かの間違いです! この人が悪いことをしたなんて、そんなこと、あるはずがないわ!」
ルージェンを捕らえる兵に向かって言い募る女を、カナンは無言で一瞥する。胸元に縋り付いて離れない妻を、ルージェンは無言で見下ろした。
「ありえない、ありえないわ! だって、この人は本当に優しくて、いつだって正しくて、公明正大で……ルージェン・ウォルテールが、人を陥れて悪事を働くはずがありません! 私はこの人の妻です、彼のことなら誰よりも分かっているわ!」
その頬に幾筋も涙を伝わせながら、戦慄く声で、自らの体も震わせながら、それでも死に物狂いで取りすがる妻を、ルージェンは黙って見下ろしていた。その頬には苦笑が浮かび、伏せられた目はどこまでも柔らかい眼差しをしている。
「リュナ」
息混じりの声で、ルージェンは低く囁いた。リュナがはたと口を噤み、涙の膜が張った両目をいっぱいに開いて伴侶を見上げる。ルージェンは微笑んでいた。
「……俺のことは忘れて、幸せになりなさい」
嫌、とリュナが絶叫する。カナンが片手を挙げると、控えていた兵がリュナの肩を掴んでルージェンから引き離した。まるで身を裂かれたかのように、女が悲痛な叫びを上げる。ルージェンは僅かに眉根を寄せたが、口元から笑みを消そうとはしなかった。
少なくともルージェンに抵抗する気配がないのを認めて、カナンは密かに安堵の息を吐いた。
ざわり、と、人だかりに動揺が走ったのは、そのときのことだった。「殿下!」と声が響く。カナンは鋭く息を飲み、振り返りざまに剣を抜き放った。両手に握った柄に強い衝撃が加わる。
「ぐっ、」
渾身の力で振り下ろされたと思しき剣を真っ向から受けてしまい、腕全体に痺れが走った。カナンは顔を歪めて飛び退り、そして、声を荒げて怒鳴る。
「何のつもりだ、――バーシェル!」
肩で息をしながら、カナンの友人は、両目を真っ赤に充血させながら歯を剥き出しにする。
「それは俺の台詞だ! どうしてお前が、……カナンが、城を攻め落としているんだ!」




