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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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寒月2



 おにいさま、やめて、と悲鳴が聞こえていた。両腕が何故か動かない。動きを封じようとする邪魔なものを振り払うように身をよじる。どこか遠くで、意味をなさない声が何度も繰り返される。手が痛い。喉が引き攣れたように痛く、呼吸ができない。息が入って来ない。


「おやめください、殿下!」

「ゼス=カナン!」



 そこでようやくカナンは、自分が喉も裂けんばかりに絶叫していることに気付いた。



「カナン、落ち着け!」

 兄の声が耳元で怒鳴る。兵が何人も背後から取りついていて、部屋の入り口では、侍女たちに庇われながら妹が啜り泣いている。我に返って周囲を見回してみれば、そこは自室であったが、今は見る影もなく様変わりしていた。


 丁寧に整えられていた飾り棚は引き倒され、中身が無残にも床に散らばっている。机の上に積んであった書類が引き裂かれて千々になっていた。窓が割れ、気に入りのインク壺が机の上から消えている。手には身に覚えのない切り傷があり、真っ赤な血が傷口に溢れては筋となって流れ、指先から滴り落ちていた。



 肩で息をして、カナンは動きを止めた。呆然。ほとんど放心と言っていいほど頭が回らず、まるで泣きすぎたあとのように目の前がくらくらとする。まさしく、憑き物が落ちた、というのが適切であった。


「兄上……僕は、何を……」

 兄の顔を振り返れば、その頬に殴打の跡がある。兄の目に一瞬だけ垣間見えた怯えの色に、自分がやったのだと悟る。カナンは無言のうちに戦慄した。


「お兄様……」

 怯えた声で妹が囁く。カナンはゆっくりと体を反転させ、部屋の入り口を振り返った。蒼白な顔をした妹が立ち竦む。



「――エウラリカ、」

 妹の顔を見ているのに、こちらをじっと見守る侍女たちを見ているのに、兵たちが警戒を露わにこちらを見ているのに、カナンの口から零れ出たのはあの女の名であった。


『お願いですから、俺がいないところで、死なないでください』

 約束してくださいと、縋るように告げたときのことを、思い出す。血の気が引いた。


「エウラリカ……」

 掠れた声で、カナンは呟く。



 ……エウラリカが、死んだ?


 その瞬間、一時は鎮まったように思えた怒りがまた、腹の底から突き上げるようにカナンを襲った。


「あの、女……ッ!」


 叫ぶと同時に、カナンは傍らの戸棚の上を片腕でなぎ払っていた。甲高い悲鳴が上がる。並べられていた調度品や小物の数々が、派手な音を立てて床に落ちた。そのうちの幾つかは足下で無残にも砕け散り、かつて気に入りであったはずの一輪挿しも破片となって転がっている。その様子を無感動に見下ろし、カナンは茫洋とした思考でゆるりと頭を上げた。



「――兄上。出兵の準備を」


 突如として静かな声でそう告げた弟に、第一王子は「は?」と面食らったような顔をした。カナンの顔色は全くもって平静そのものだった。少なくとも傍目にはそう見えた。

 先程まで、言葉も通じぬ獣のように暴れ狂っていた男が、今は冷ややかな湖上の月のごとくに落ち着き払っている。その異様さに、周囲の人間が一様に後じさる。ごくりと唾を飲む音がした。


「エウラリカが死んだ以上、南の蛮族めが帝都を落としにかかるのはそう遠くない未来でしょう。奴らは第二王子を抱え込む準備を既に調えており、俺たちに残された時間はあと僅かだ」

 カナンの口元には微笑みの影さえ見られず、凜と背を伸ばして立つ姿は揺るぎない。

「その前に、俺が帝都を落とします。さすれば全てが分かりましょう」


 カナンは帯にそっと指先を触れさせた。帯飾りの中にそっと紛れ込ませた鈴を、指で弾く。しゃらりとささやかな音が鳴る。

「――誰があの人を殺したのか」



 あのとき、エウラリカは答えなかった。自分がいないところで、どうか死なないでくれと……ほとんど乞うように告げた言葉に、あの女は、小首を傾げるだけで応じたのである。

 ――あのときから、エウラリカが、死ぬつもりだったとしたら?

 考えたくないし、信じたくないが、カナンの知るエウラリカという女は、そうした決断をぽんとしてしまえる女であった。だから……


(何故死んだ、エウラリカ)

 もっとお前と早く出会えていたら。エウラリカが複数回口にした言葉である。俺がもっと早くあの女に相見えていたら、何があったと言うのだろう? 俺が帝都へ赴き、エウラリカに見出されるより前に――一体何が?

(俺は、エウラリカのことを何も知らない)

 高慢で、横暴で、向こう見ずで、そのくせとびきり脆くて幼い。そんな最悪な主の深層を、自分はちっとも知らないのだ。



 ルージェン・ウォルテールの顔が瞼の裏に浮かぶ。先程の激昂がまだ尾を引いて残っていた。

 あの男がエウラリカを殺したか否かは分からない。分からないが、エウラリカが死んであの男が一番喜ぶのも事実である。

 カナンは目を伏せたまま、ゆっくりと息をした。煮えたぎるような激情を、細心の注意を払って、穏やかな声音と落ち着いた言葉へと流し込む。


「俺が指揮を執ります。どのようにして帝都を落とし、皇帝の首を取るか、俺はずっと昔から考えてきたんです」

 エウラリカとあの白い部屋で二人きり、机を挟んで向かい合い、言葉を投げ合って遊んだ日々が蘇る。かつてエウラリカは問うたことがあった。――お前、もしこの城に攻め入るとしたら、どのような経路を取る?



「狙うべき時間帯は、夜――前北東の刻(午前一時半)。見張りの交代時間にあたるこの時刻を狙い、交代直後の警備を行動不能にすれば、大きな隙が生まれます。その次の交代は二刻後、明け方ですから、すぐに露呈することもない」

 よく交代時間にまで気づいたわ、とエウラリカが手を叩いて、珍しくカナンを褒める。そんな幻影を瞼の裏に見た。


「侵入経路は涸れ井戸――帝都の下に張り巡らされた地下通路を通り、城内の中庭にある涸れ井戸から、直接城へ侵入する」

 一度だけ、この案をそれとなくエウラリカに語ったことがあった。そのとき彼女は、少しだけ複雑そうな表情を見せてから、よく気づいたわね、と目を細めたのだった。



 ずっと考え続けていた。初めの頃にエウラリカに問われて以来、カナンは常に城内の様子を確認し、帝都の地理を把握し、そのたびに情報を新しくし、案を練り直し、考え続けて来たのだ。だから帝都陥落に向けての策を語る口は、驚くほど滑らかに動いた。


「涸れ井戸のある中庭からほど近くに、地下牢へ続く裏口があります。兵が全員井戸から上がるのにも時間がかかりますから、人数が揃うまでの待機所にもなる。地下牢の別の出入り口を通じて城内の別の地点へ出ることも可能だ。この作戦ではあまり多くの軍勢は入れられません。だからかなめとなるのは奇襲であり、陽動であり、素早い進軍となる」


 カナンは微笑みを浮かべているつもりだったが、その口角はぴくりとも上がらなかった。そうとも気づかずに、カナンは淀みなく語り続ける。



「皇位継承権を持つのは、もはや第二王子であるユインのみ。皇帝の首を落とせば次代の皇帝は第二王子において他ならない。第二王子が皇帝となった場合、その側近は皇帝の名代として、皇帝自身とほぼ同等の権限を持つ。先の議会で決定した法案です。奴らが帝都を掌握するために通した法案だ。奴らに、その正当性を覆すことなどできますまい」


 口を挟もうとする人間は誰もいなかった。しんと静まりかえった部屋の中央で立ち尽くしたまま、カナンは仄暗い目で吐き捨てる。


「なれば、第二王子が皇帝となったその場で、議会のじじいどもの首に剣でも突きつけて問えばよろしい。――新たな皇帝の名代に相応しいのは誰か、と」


 今やカナンの目には、帝国を掌握するための道筋がはっきりと見えていた。決して許すものか。エウラリカをみすみす死なせた国を、エウラリカを殺した人間を――。



 ***


 その日から、カナンはまるで何かに取り憑かれたかのように、帝都を攻め落とす軍勢の育成に打ち込むようになった。帝都の地下通路の概略図を描き、城内の詳細な地図も作り上げた。複数人の将軍に助言を請いながら、どのような経路で皇帝の寝所まで兵を進めるかの計画を練る。


 鬼気迫る、と形容するのが正しいような勢いで、カナンは一年足らずで出兵の準備を整えた。寝食もおろそかにし、帝都陥落に向けて昼も夜も問わずに四方へ手を回す。激務に疲弊した思考の中で、それでも、早く早くと急き立てるような声はずっと止まない。

 この一年弱の間に、カナンは祖国の軍議にて帝都への出兵に関する案を可決させ、軍を組織し、この特殊な作戦を微に入り細に入り兵へと叩き込んだ。


 ジェスタはあくまで帝国の属国の扱いであり、衝突は避けたとは言え、つい先日帝国に反旗を翻したことのある王家である。当然ながら内部にまで帝国の監視は及ぶ。それを巧妙に掻い潜りながら、カナンは全ての準備を終えた。



 出立の前日、カナンは自室の窓から月のない晴れた夜を見上げていた。手にしていた茶は既に冷え切っていた。

 扉が控えめに叩かれ、その音から廊下にいるのが兵ではないことを察する。「どうぞ」と穏やかに声をかけると、おずおずと顔を出したのは妹のウーナであった。


「お兄様」

 結婚の予定を先延ばしにしてまで、妹は城に留まっていた。何くれと理由をつけてはいたが、本当の理由は自分のせいであるとカナンは理解している。この我が儘を文句一つ言わずに聞き入れたという妹の婚約者とは数度顔を合わせたが、特に抜きん出たところのない、凡庸で善良な男であったように思う。妹が選んだと聞けば、納得するような、ほんの少し拍子抜けしてしまうような。


 冷めた茶の入った器を机に置き、カナンは妹を振り返った。妹は慎重に部屋に入ると、後ろ手に扉を閉じる。侍女を伴ってこなかったのか、とカナンは多少の驚きを覚えた。

 それでも、妹が随分と思い詰めたような顔をしているので、カナンは努めて優しい声で妹に声をかける。

「どうした、ウーナ」

「お兄様は、明日、本当に発ってしまわれるのですか?」

「ああ」

 躊躇いなく頷くと、妹がぎゅっと眉根を寄せた。唇を噛んだ表情は痛切で、両目にはどうやら涙の膜が張っている。



「お兄様がそんなに急いで帝都へ向かうのは、あの王女のためなのですか?」

 カナンは一瞬だけ躊躇ってから、「いや」と答えた。

「前にも説明したとおり、帝都は現在危険な状態なんだ。帝都が他の人間の手に落ちてしまえば、ジェスタもその影響を免れ――」

「嘘ですわ、お兄様」

 妹は眉を下げたまま、しかし強い口調でカナンの言葉を遮った。


「それは嘘です、お兄様。それは殿方同士で戦の話をするときの言葉ですわ。私は、一人の女として、あなたに問うているの」

 かつてカナンの手を離れた妹は、まだ帯も自分で上手く結べないような子どもだった。それなのに今は、すっかり大人みたいな顔をして、裳裾を引いて、カナンに向かって歩を進めてくる。


「お兄様は、エウラリカ王女を愛してしまったの?」

 咄嗟に、誤魔化すような笑みが出た。違うよ、ウーナ。あの女とは、そんな綺麗な言葉で言い表せるような関係じゃなかった。そんなことを説明しても、きっと妹は自分の言葉を解せないのだろう。

「……どうなんだろうな」

 辛うじてそう返すと、妹は少し目を伏せて黙る。


「お兄様は、私のことを愛していますか?」

「もちろんだ。お前は僕の可愛い妹だよ。……どこにいたって」

 今度は淀みなく答えると、妹はまだ少しだけ幼さの残る顔に、泣き笑いのような表情を浮かべてみせた。


「それでもお兄様は、私よりもエウラリカ王女を選んだのですわ」

 そこに責めるような響きはなかったが、カナンは糾弾されたような気分になって目を逸らした。妹は更に歩を進め、カナンのすぐ傍らで立ち止まる。



「――恋をしているのね、お兄様。本当は国のことなんてどうでもいいのでしょう。そう思えるような恋をしたのだわ」


 妹は両腕を広げ、カナンの首に抱きついて目を閉じた。夜風が窓から冷たく吹き込んでいたが、妹と触れているところの肌だけが、じとりと熱を持っていた。

「大好きです、お兄様。たとえお兄様が、もう二度とここへ戻ってこないおつもりだとしても、どうか忘れないでください。あなたのことを本当に、誰よりも大切に思っている妹が、同じこの地平にいるってこと」

 妹は泣いているらしかった。カナンは妹の背を軽く叩いてやりながら、静かに目を伏せる。

「ウーナ。僕は……」

 続きは声にならなかった。妹が肩を震わせて泣いている。カナンはきつく目を閉じて唇を噛んだ。


 僕はただ、あの人を――。




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