報せ
翌日、ジェスタを中心とした東部諸国連合軍は全軍をウディル州の砦から撤退させた。衝突は起こらず、帝国側と連合軍側どちらも負傷者はほとんどいないまま、この騒動は終結した。
ウディルを発っておよそ一月半、カナンはようやく祖国の土を踏んだ。見覚えのある街並みに、知らず知らず目頭が熱くなる。
ウォルテールは本当に、余計な破壊を避けてジェスタを攻め落としたのだ。都市を見ればそれがよく分かる。カナンは馬上で大きく目を見開いたまま、ずっと声もなく周囲を見回し続けていた。
雪を被った山々を背後に、都市がゆっくりと狭まりながら登ってゆく。慣れ親しんだ風景に心が震えた。カナンは浅い呼吸を繰り返しながら、生まれ育った城へと続く道をゆっくりと辿っていた。
談話室の扉がゆっくりと開かれる。瞬間、扉の向こうから甲高い悲鳴とともに何かが突進してきて、カナンは耐えきれずにその場でよろめいた。
「――お兄様! お兄様だわ!」
勢いよく胸元に抱きついてきた女が、がばりと顔を上げてカナンの両頬に手を添えて目を潤ませる。頬を紅潮させた女の顔を、彼は呆気に取られて見下ろす。どこか見覚えがあるような、懐かしい面影がある気がする。
「まさか、お前……ウーナ!?」
「そうですお兄様! ウーナですわ!」
王女にあるまじき汚い泣き顔を晒しながら、ウーナが顔をくしゃくしゃにしてカナンを抱き竦めた。その背をおずおずと撫でながら、カナンは顔を上げ、談話室を見回した。
「あれ誰?」
「カナンだよ」
「でかくなってる……」
「本当にカナン?」
「多分カナンだと思うんだけど」
「お父様にそっくり……」
長椅子に並んで座った兄と姉たちが、顔を寄せ合ってこれ見よがしに相談している。その様子にカナンは思わず苦笑した。背後からついてきていた長兄が、とん、とカナンの背を押す。それでカナンはようやく足を動かして、室内に一歩足を踏み入れた。
「……ただいま、帰りました」
はにかむようにして告げれば、「ほら!」と姉が手を叩いて立ち上がる。続いて弾かれたように腰を浮かせた次兄が、ほとんど突進するようにカナンを抱き竦めた。
「カナン!」
「お久しぶりです、兄上」
「お前、お前……このー!」
両手でカナンの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、次兄が破顔する。その後ろで姉たちが二人で抱き合い、年の近い方の姉は目元を覆って肩を震わせていた。
「お兄様!」
ウーナが背後から再び抱きついてきて、カナンは前後を兄妹に挟まれて立ち尽くす。その隙を見逃さず、姉たちが川面に飛び込むような勢いで飛びついてきた。
誰ともなく拍手が聞こえ、カナンは絡みつくような兄弟の腕から顔だけを出して周囲を見る。部屋の周囲に並んでいるのは忠臣たちである。見覚えのある顔の中に、初めて見る顔が入り交じっている。それだけのことで、カナンは自分が長いことこの国を空けていたことを自覚した。
奥から、泣き崩れた母を支えながら、目元を赤くした父が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「カナン、」
噛みしめるような声で、父がカナンの名前を呼ぶ。自然と、兄弟たちがするりと離れて両親の傍に並んだ。
「……あのとき、お前を守ることができず、みすみす王女の手に売り渡したことを、一瞬でも忘れたことはなかった」
もはや名ばかりの王となってしまった父が、重々しく告げる。頬を濡らした母が顔を上げ、震える両手をカナンに向かって差し伸べた。
「ごめんなさい、カナン。……きっと、たくさん辛い思いをして、数え切れない苦労をしてきたのよね。でももう大丈夫、大丈夫よ。これからはもう、ずっと一緒だから……」
いつの間に、母はこんなに小さくなってしまったのだろう。記憶にあるよりずっと老け込んでしまった母を胸元に抱きながら、カナンは胸に重いものがのしかかるような気分で息を吐く。
「だって私たち、家族なんだから」
そう囁いて、母が小さな手で、カナンの頭を何度も撫でる。それはまるで幼いときにされたようで、カナンはくすぐったさに首を竦めて照れ笑いを浮かべた。
母が、唇を震わせながら、その口元に笑みを浮かべる。
「――おかえりなさい、カナン」
両親の胸に抱かれながら、カナンはついに両手で顔を覆って嗚咽した。
***
「まあ、坊ちゃま! すっかり大きくなられて!」
「坊ちゃまはやめてくれよ」
「あらあら、坊ちゃまはいつまで経っても私たちの可愛い坊ちゃまですわ」
力一杯に抱擁してくる乳母の肩越しに次兄を見ると、彼は『諦めろ』というように肩を竦めた。
カナンの帰還を聞きつけて城を訪れた昔なじみは、この乳母で既に五十人目だった。長旅の疲れを癒やす間もなく来客の連続である。
「また来客だってよ」
次兄が扉の方から顔を戻しながら声をかけてくる。乳母はさっと離れると、改めてカナンに向き直る。
「こうして無事な姿を見ることができただけで十分ですわ。……よくぞお戻りになられました、殿下」
「ありがとう、マーサ」
カナンは微笑んで、部屋を辞す乳母の後ろ姿を見送った。
「……失礼いたします、殿下」
乳母と入れ替わりのようにして現れたのは、切れ長の目をした見知らぬ男である。立ち姿からして兵士か何かのようだが……。相手の正体が分からず狼狽えたカナンに、彼は言いづらそうに目を伏せた。
「殿下は覚えてらっしゃらないと思いますが、……数年前、帝国の捕虜として、城の地下牢に投獄されていた者です」
それを聞いて、カナンは鋭く息を飲む。咄嗟に腰を浮かせると、相手は躊躇うような素振りでカナンを上目遣いに一瞥した。
――城の地下牢にいた捕虜の前で、かつてカナンは、エウラリカに忠誠を誓った。
カナンは口を開閉させながら、男を見つめる。
「あ……あのときの、」
「ご安心ください、私は、殿下の不名誉になることは決して……!」
兵は慌てた様子で頭を振る。カナンは「そうか」とひとまず長椅子に腰かけ直して、落ち着きなく身じろぎした。今だけは席を離れてくれないかと次兄の方を見やるが、次兄は神妙な顔でこちらを見ており、部屋を出るつもりはないらしい。
「……あのとき、殿下は、もうジェスタへは帰れないと仰っていたので、殿下が帰還されたと聞いて、居ても立ってもいられずに訪問してしまいました」
「……ああ」
カナンは足元に視線を落としながら相槌を打った。地下牢の床に手をついて平伏したときの屈辱が胸に去来するが、それはどこか遠くの事象のようにも思えた。
「あのように恐ろしい主人のもとで生き延びて、こうして無事でおられるなんて……奇跡です。さぞお辛い思いをされたことでしょう」
身震いしながら、男が独り言のように呟く。カナンは思わず苦笑した。首輪に繋がれた鎖で引っ張られ、無理矢理に跪かされて隷属の誓いを捧げるなど……。
「……あの人は、手段を選ばないところがあるからなぁ」
丹念にカナンの心を折ったやり口が、容赦なくかつ陰湿であったことは否定できない。ただ、――エウラリカはそういう女である。
呆れ混じりに頭を掻いたカナンに、痛ましげな視線が突き刺さる。それを目の当たりにして、カナンははっと息を飲んだ。
「でも別に、帝都にいた間ずっと酷い目に遭っていた訳じゃない。楽しいことだってあったし、友達だっていたし、結構良い生活をしていたし」
咄嗟にそう続けたが、それが誰の耳にも気休めの言い訳にしか聞こえないことも分かっていた。次兄は案の定、泣きそうな表情で眦を下げ、立ち上がって数歩でカナンのところに来ると、強くカナンの肩を抱く。
「ごめんな、カナン。ごめん……」
苦しげな顔をして囁く次兄の顔を、カナンは凍り付いたように見つめていた。
違う、という否定の言葉は喉元でつかえてしまう。……家族にとっての自分は、きっとまだ、あの玉座の間で頬を足蹴にされた哀れな少年のままなのだ。
「……大丈夫ですよ、ほら、俺はこうしてここにいるんだから」
兄の背を叩いてやりながら、カナンは曖昧に微笑んだ。
***
歓待は三日三晩にわたって続いたが、カナンの希望により城外には帰還を知らせないままとなった。とはいえ城内の浮かれようは並大抵ではなく、城下町にもその雰囲気は伝わっているようだ。
祖国へ戻って半月ほど過ぎた頃、街が一望できる塔の最上階の窓辺で、カナンは腕を組んで苦笑した。
「どうして、城門前にこんなに露店が出ているんだろうなぁ」
「お兄様が帰ってこられたんですもの、みんな暗黙の了解で分かっていますわ」
隣で微笑むのは、見ないうちにすっかり成長し、娘らしくなっていたウーナである。元々、一番年の近いカナンに一際懐いていた妹だったが、カナンが帰ってきたときの喜びようといったら思い返すだに凄まじかった。既に婚約を結んだという恋人がたじろぐほどの勢いで絶叫し、真っ先にカナンに抱きついてきたのも、この妹のウーナである。
艶のある黒髪を肩の高さで切り揃え、磨いた玉の髪飾りをつけた妹が、おずおずとカナンを見上げる。
「あの、……大兄様から聞きました。いつかまた、新ドルトへ赴くおつもりだって……」
大兄様というのは、長兄を指す妹の呼び方である。
確かに、カナンは長兄にその意思を既に伝えてある。まるで怯えながらカナンの顔色を窺うような仕草に、彼は思わず虚を突かれ、それから目を伏せて微笑した。妹は胸の前で両手を重ねてぎゅっと握り、眦を下げている。
「……でも、それでも、あと数年くらいは、ジェスタにおられるのですよね? 帝都でのご用事が済んだらまた、こちらに戻ってきてくださるのよね?」
「ウーナ、」
縋り付くような眼差しだった。眉根を寄せ、不安に足下が揺らぐみたいな顔をして、妹がカナンをじっと見つめている。
「僕は……」
何と答えたらよいか分からずに、カナンはただ妹の頭に手を乗せた。カナンだって、この生まれ故郷が本当に心地よくて、離れがたいのだ。自分の帰還を皆が本心から喜んでくれていることは分かっているし、同時に、自分を帝都に置き去りにした四年前のことを、家族が本当に気に病んでいることも察している。
自分が帝都にいる、その事実だけで、大好きな家族の罪悪感を刺激し、傷つけ、気を遣わせることも知っている。
カナンは努めて優しい声で応じようとした。
「ウーナ……僕はね、」
適当なごまかしの言葉を口に乗せようとしたのに、何故か、唇が動かない。妹は目に見えて不安げな表情になる。慰めてあげなければ、とカナンは歯噛みする。
それでも、瞼を閉じれば、浮かぶのは彼女のほの暗い眼差しなのである。灯りのない冷えた部屋の中で、心持ち顎を引き、真っ直ぐにこちらを見据えてくる、驚くほど無感動な、虚ろな双眸だ。薄い唇に浮かべられた微笑みも、長い睫毛も、滑らかな頬も、丸い額も、彼女の美しさを体現しているのに、それはあの女の本質ではない。
(エウラリカ……)
カナンの胸の底に、むず痒いような、熱を持つような、扱いがたい衝動が沸き起こる。カナンは無言で顔を上げ、再びジェスタの街並みを見渡した。
エウラリカによって守られた街である。ラダームによる破壊を免れ、すんでの所でウォルテールが落とした街。帝国による征服は、ジェスタに決して良い影響を及ぼさなかった。それだけに、この現状を手放しに喜ぶことはできない。どちらにせよジェスタが帝国に蹂躙されたことに変わりはないのだから。
エウラリカは元気だろうか。帝都の状況はどうなっているだろう。その顔に怯えを浮かべた妹を胸に抱きながら、カナンは目を伏せた。
――そのとき、慌ただしく塔の階段を駆け上がってくる足音を聞き咎めて、カナンははっと顔を上げた。妹もすぐに距離を取り、警戒の表情を見せて階段の方向に正対する。
「ご、ご報告、申し上げます」
階段を駆け上がってきたのだろう、息も絶え絶え、城内警備の兵が転げるように姿を現した。カナンはすぐに距離を詰め、今にも倒れそうな兵を受け止める。
「帝都に配置していた間諜より、緊急の書簡が届いたと、第一王子殿下が、」
「帝都から?」
カナンは低い声で兵に詰め寄った。妹と向き合っていたときの微笑みが抜け、一気に自身の視線が鋭くなるのを自覚する。兵はその変貌にたじろぐような様子を見せたが、こくこくと頷いて「はい」と応じた。
「わ、私も委細は分からず……ただ、ゼス=カナン殿下をお呼びしろと言いつかっただけでして、」
「分かった。兄上は執務室か?」
「はい!」
カナンは軽く頷いて了解の意を示す。
「お前はここで少し休んでいろ。ウーナ、お前は自分の部屋に戻りなさい」
「わ、私もご一緒しますわ!」
妹は首を振って、カナンの袖口をぎゅっと掴んだ。その手は強く、おいそれと振り払うことを躊躇わせた。妹は真剣な表情でカナンを見上げている。カナンは少し躊躇して、「分かった」と頷いた。
ほとんど走るようにして向かった部屋の奥で、兄は厳しい顔をしていた。既に人払いは済んでおり、カナンが扉を開けて入ってくると、すぐに顔を上げる。
「……帝都で何か、異変が?」
大声を出すのを堪えて、カナンは必死に抑えた声で問うた。本当なら今すぐにでも兄に掴みかかって問いただしたいくらいだった。心臓が早鐘を打っている。嫌な予感がする。
「カナン、落ち着いて聞け」
その前置きからして、何か大きな事件が起こったのだと察した。帝都が危険に晒されている事実は、兄を初めとしたごく少数の上層部にしか伝えていない。
兄は机の天板に手をついて立ち上がり、間諜から送られてきたと思しき書簡を片手に、カナンに歩み寄る。大股で机を回り込むと、その書簡をカナンの胸に押しつけ、無言で目を合わせる。
カナンは震える手で書簡の折り目を開き、文字列に目を落とす。兄が低い声で囁く。
二つは寸分違わず、同じ情報を伝えていた。
「『――エウラリカ王女が、死んだ』」




