帰還3
城を抜け出す道中でウォルテールに別れを告げようと思ったのだが、これが思いのほか手間取った。いそうな部屋にはどこにもおらず、結局カナンがウォルテールを見つけたのは、そこいらの通路の端であった。渡り廊下の壁際に蹲り、目を閉じたまま項垂れているウォルテールは、どうやらこんなところで寝入っているらしい。
「ちょっと、ウォルテール将軍」
ウォルテールを何とか揺すり起こしたところで、その顔が酷く憔悴しきっていることに気付く。カナンは複雑な感情を持て余して曖昧に微笑んだ。
「俺が一人で行きます。ジェスタへ戻る。……あなたは戦争なんてしなくていい」
そう告げたときのウォルテールの表情は見ものだった。自分から言い出したくせに、心底驚いたように目を丸くする。今しがた道端で寝落ちていたところを叩き起こしたからだろうか? その両目はどこかぼんやりとして、普段に輪をかけて感情が分かりやすい。
「でも、俺のことは、……俺の素性も、俺がジェスタへ戻ったことも、誰にも伝えないで欲しいんです。――たとえあなたが、どんなに近しく信頼している相手であっても」
どうしてわざわざこの広い城内でウォルテールを探し回ったかと言えば、この念押しのためである。ウォルテールはしばし沈黙してから、曖昧に頷いた。
「……その言葉は、俺の近しいところに、誰か……お前の警戒する相手がいるということを言いたいのか?」
思い詰めたような表情は、ウォルテールがこのことをずっと考えていたことを窺わせた。ああその通りだ。カナンは内心で呟く。
「……ごめんなさい、もう時間がない」
自分が離れようとするこの場面で、ルージェンへの疑念を植え付けても仕方ない。カナンは頭を振り、一歩下がってウォルテールから距離を取る。
「詳しく語るには、残された夜はもうあまりに短すぎます」
その一言で、カナンが何も語る気がないことをウォルテールも悟ったらしい。眉根を寄せて目を伏せる。しかし、カナンがそのまま踵を返そうとすると「待て!」と手を伸ばしてきた。
「どうして、いきなり意見を変えたんだ。……エウラリカ様のお側を離れたくないと言っていたばかりじゃないか」
確かにカナンは一度ウォルテールにそう告げた。カナンは思わず眉を下げた。自分だってそのつもりだった。
「そのエウラリカ様に言われたんですよ。――帰れって」
正直に言えば、裏切られた気分だった。自分はこれほどエウラリカを守るために思い悩んでいたのに、当の本人は知らないところで勝手に結論を出して、カナンに帰還を命じたのである。
今もきっと一人で、音のない部屋で時間を過ごしている。そんなエウラリカの姿を思い浮かべるにつけ、言葉にならない切なさがこみ上げてくるようだった。
「お願いです、ウォルテール将軍。あの人を、……エウラリカ様を、どうかお願いします」
自分はこれからこの場所を離れる。エウラリカの傍にいる人間はいなくなる。ウォルテールがエウラリカの理解者になれるなどとは端から思っていない。それでも、エウラリカが、この男を特別目にかけていることに違いはないのだ。
「あの人は孤独なんです。だから……」
エウラリカを助けてくれ。そんな言葉を咄嗟に飲み込んだ。ウォルテールは続きを待つように真剣な目をしている。
「……こんな別れになってごめんなさい、ウォルテール将軍」
結局何を続けることもできず、カナンは小さな声で呟いた。ウォルテールから距離を取る。
「あなたがいてくれて本当に良かった」
ウォルテールがいなければジェスタは救われなかった。ウォルテールの縁で繋がった人がたくさんいる。
「……そのときそのときは気付かなくても、俺はあなたに何度も助けられたように思います」
何度この男を呪ったか分からない。自分だけは何も知らないふりで平和を享受していることも、そのくせ心底案じているような顔をして優しく声をかけてくることも、何もかもが癇に障って仕方なかった。
この男の兄が帝都であらゆる糸を引いているのである。エウラリカも自分も、幾度となく狙われた。そんなことも知らずに、こいつは兄のことを純粋に慕っているのだろう。装われ、作られた綺麗な真実の中で生きている。その幻想をぶち壊してやりたいといつも思っていた。……今も思っている。
それでも、彼の立脚している幸福な表層を打ち崩してしまえば、ウォルテールはもう二度と今のような性質には戻れないのだろう。
知るということは不可逆だ。
エウラリカと同じくらいに、難しく絡まり合い、一口には言い表せない感情がそこにあった。それでも、ウォルテールがいなければ、今の自分はここにいなかった。少なくともカナンはそう思っている。
「――今まで、本当にありがとうございました」
それはさしずめ、実の兄や友人に対して抱く親愛のような。
踵を返して走り去る。気付けば空は明らみ、未明や早朝を越えて朗らかな朝の光を投げかけようとしていた。その明るさが目に染みる。カナンは庭を横切る最中に、目を細めて空を振り仰いだ。
残月が空の端に所在なく浮かんでいる。
***
帝都を出たところにある城下町で、返すつもりもない馬を借り、カナンは東方に進路を取って街道を進み始めた。
ウディル州に近づくにつれ新しい戦況が伝わってくるようになり、前線が一触即発に張り詰めていることが窺われる。ジェスタを初めとした連合軍はウディル州のとある砦を制圧し、州知事とその一家を人質に捕虜の返還を要求しているのだそうだ。
カナンが宿を取ることにしたのは、その砦に最も近い街だった。
「お兄さん、ここから先に進むつもりかい?」
東部訛りの酷い帝国語で、宿屋のおかみがカナンに問う。そこにはただ単に客を案じるだけでない、探るような目線が混じっていた。ここから先が緊張状態にあるというのは本当なのだろう。住民が神経質になるのも無理はない。
「今のところはそのつもりです、ご心配どうもありがとう」
カナンは形式的な返事と微笑みで返事を濁す。それから階段を上がって自室に向かっても、おかみの胡乱な視線が背中に張り付いているのを感じていた。
深夜、誰に見咎められることもなくカナンは街を発った。冬は深まり、山から吹き下ろす風は冷たく厳しい。髪を結っていた組紐は旅程の途中で千切れてしまった。新しいものを用意する時間も惜しく、肩の長さを超える髪を風にはためかせるがままにして、カナンは先を急いだ。
行く手に石造りの堅牢な砦が見えた頃、遙か遠くで霧に霞む稜線の向こうから、払暁の光が一筋射し込んだ。
砦の上に掲げられた旗と、はためく紋章。それを目の当たりにした瞬間、彼は静かに息を飲む。
眩い光に額を向け、カナンは目を細めた。手綱を引いて馬の足を止めさせると、カナンはずっと懐にしまい込んでいた足飾りを取り出す。目を伏せてそれに軽く口づけると、飾りの中に隠された鍵を探り当て、首輪に指先を触れさせた。うなじの辺りで首輪を固定していた小さな錠を引き上げるように、片腕を挙げる。
目を閉じたまま、指先の感覚だけで、鍵穴にそっと金属を射し込んだ。確かな手応えとともに、カチリと小さな音がする。しゃらりと喉笛の辺りで鈴が囁く。カナンは緩慢な動きで瞼をもたげると、再び朝日に視線を向けた。
かつて祖国にて、君主の血を継ぐ正統なる王子として生まれ育った。それから祖国がその輪郭を失い、自分は拠り所としていた自らの肩書きを何もかも失った。カナンの正体を知る者は一握り、王女の奴隷となった得体の知れない異国人を胡乱な目で見る者がいたし、侮って自分を人とも見ないような輩もいた。しかし、そんな自分をてらいもなく受け入れてくれた人もいた。
帝都での全ては、自らの力で築き上げたものだ。それに疑いはない。王女の奴隷という肩書きを礎とした、絆のようなものは、確かにそこにあったのだ。
音もなく首輪が滑り落ちる。随分とくたびれた革が、手の中で力なく横たわっている。それを力一杯に投げ捨ててしまおうという衝動が襲ったが、結局カナンは首輪を懐に収めた。
砦を取り囲むように、夜間ずっと灯されていたのであろう篝火と、大きな天幕がいくつも並んでいる。これが、砦を奪い返さんとする帝国とウディル州の軍勢らしい。思いのほか小規模な部隊に、カナンは目を眇める。帝国の末端まで来れば軍もこの程度か。
カナンは馬を下り、天幕のひとつに向かって近づいた。夜番の兵がカナンに気付き、警戒するように槍を向ける。敵意がないことを示すように空の両手を肩の高さに掲げ、カナンは規律正しく礼をした。
「帝都から来た交渉役です。ウォルテール将軍の紹介で参りました」と、カナンはいけしゃあしゃあと言ってのけた。
理由は何だって良い。ウォルテールかエウラリカの名前を出しておけば、もしも追究されても上手く誤魔化してくれるだろうという見通しもあった。案の定、堂々とした態度でウォルテールの名前を出したカナンに、兵はひとまずの警戒を解いたらしい。加えて城内で支給されていた剣を見せれば、それが帝都の兵が所持するものであると確認できたらしい。それほど手間取らずにカナンはこの隊の指揮官の前へ通されることとなった。
「君が、ウォルテール将軍の紹介で来た交渉役?」
先触れもなく訪れた若輩の青年に、指揮官は訝しむような目を向ける。カナンは「ジェスタ語を話すことができるので」と平然と頷き、さも自信ありげな表情で微笑んでみせた。
***
帝都を発ってからこの瞬間までが、まるで不出来な劇の台本のように飛び飛びで過ぎたような気がしていた。
天幕から出ると、カナンは慎重に砦に向かって歩を進めた。風が凪ぐ。カナンは全ての窓や戸口が閉ざされた砦に向き直ったまま、しばらく立ち尽くしていた。ややあって、上層階の窓が細く開かれるのを確認すると、首元の留め金を外し、外套を脱ぎ捨てた。冷気が忍び込み、体が引き締まる。
腰の剣帯を外し、腕を伸ばして遠くに投げ捨てた。両手を肩の高さに挙げ、カナンは顎を引いたまま一歩進む。窓が大きく開かれる。
「――兄上」
カナンははっきりとした声で呼びかけた。
「僕は、帰ってきました」
昂然と額を上げ、彼は顔をくしゃりと歪めるようにして不器用な笑顔を浮かべる。心臓が痛いほどに早鐘を打っていた。外は寒いのに、全身が内側から燃えるように熱を持っている。緊張と期待が際限なく高まり、首筋や手のひらからどっと汗が噴き出した。
沈黙は永遠のように思われた。ややあって、砦の正門がゆっくりと開かれる。鎖が巻き上げられる音がして、重厚な木の扉が持ち上げられてゆく。
扉の向こうに、懐かしさを覚えるような面立ちの兵が待ち構えている。彼らは視線が重なると、目を疑うように絶句した。カナンは悠然と目を細めて微笑むと、敵意がないことを示しながら、慎重に砦の内側に入る。背後で再び鎖の音がして、扉が閉ざされる。砦の中は明かり取りの窓が閉ざされたせいで薄暗く、質の悪い蝋燭の煙の匂いが立ちこめていた。
恐らく上からの命令で扉を開けたのであろう、兵たちの大半はこわごわとカナンを眺めたまま怪訝そうな表情で立ち尽くしている。遠巻きにされた状態で、カナンはしばらく身じろぎせずに待っていた。玄関ホールに緊張感のある沈黙が満ちる。
程なくして、階段の上から慌ただしい足音が近づいてきた。ほとんど転げるように、階上から壮年の男が顔を出す。
「でで、でん、で、でで殿下、」
「落ち着け、トーサ」
幼い頃から世話になってきた忠臣に呼びかけると、彼はこぼれ落ちそうなほどに大きく目を見開いた。続いて、トーサの背を突き飛ばすようにして、黒髪の青年が駆け出してくる。
「カナンっ!」
「兄上」
髪を振り乱し、真っ赤な顔をして、彼は階段を二段飛ばしに降りてきた。そのままの勢いでカナンに体当たりすると、両腕で肩をしっかと抱き締める。カナンはおずおずと両手を兄の背に回した。
「兄上……大きくなりましたね」
「それはこっちの台詞だ! 俺たちが一体どんな気持ちでいたと……!」
兄の声が既に潤んでいる。それに釣られて、カナンも思わず顔が歪むのを自覚した。少し背の高い兄の肩に顎を埋めて、奥歯を食いしばり、眉間に皺を寄せて目を伏せる。ようやく事態を理解したらしい兵の間に、驚きと安堵のため息が広がった。それは徐々に熱を帯び、大きなうねりのある歓声へと膨れ上がってゆく。
「――よくぞご無事で!」
その言葉に、カナンは破顔しながら落涙した。
***
砦の階段を足早に上がりながら、カナンは半歩後ろをついてくる兄に声をかけた。
「ところで兄上、早々に申し訳ないのですが、この軍を速やかに撤退させてもらいたいんです」
「お前がこんな形で帰ってくるとは思ってなかったから、まだ段取りは済んでいないが……退くこと自体はすぐにでも可能だ」
「ありがとうございます」
言いながら、案内された司令室に足を踏み入れる。カナンは腕を組み、厳しい表情で壁の地図を睨みつけた。
(ここからジェスタの土地までどの程度の時間がかかるだろうか……)
この規模の軍を率いるとすれば、おおよそ半月程度はかかるだろうか?
少なくとも、帝都側にジェスタが兵を退いたことが伝われば良いのである。帝都で出兵が決定するよりも前に、この騒動が収まったことにしなければならない。
「それにしても、どうしていきなり撤退を?」
その問いに、カナンは少しの間思案して黙り込んだ。どこまでを語れば良いものか分からず、眉根を寄せる。その態度に、兄は剣呑な表情になって一歩踏み出した。心配そうに声を潜め、カナンの顔を覗き込む。
「カナン、……帝都で、何かあったのか? 脅されているとか……」
何かあったかどうかと聞かれれば、その通りである。しかし、脅迫はされていない。むしろ脅かされているのは帝都の方だった。
だいぶ長いこと逡巡して、カナンは腹をくくって説明することにした。エウラリカのことは伏せて、帝都の現状に関して。人払いを命じて、カナンは兄と二人きりで向き直った。
「……帝国は現在、南方連合という、隣接した地域の人間に内部から侵略されている最中です。帝都の高官や、帝国南部のハルジェル領、その他にも南方連合の手の者が入り込んでいると予想して間違いはない」
「それは本当か」
眉をひそめた兄の表情からは、これが全くの寝耳に水であることが窺われた。カナンは軽く頷き、言葉を続ける。
「元々ハルジェルを通じて帝都を落とそうとしていたようですが、今のところハルジェルは内部での騒動で手一杯です。今すぐの進軍はないと予想していますが、今回のジェスタによる侵攻を受けて帝国が軍を動かした場合、帝都は完全に手薄になる」
「そうなると南方連合に帝都を落とされ、現在属国となっている我々ともども、その傘下に加えられるということか」
「理解が早くて助かります」
「つまり、この侵攻は帝都にとっては最悪の時期だった訳か……」
カナンは言葉では肯定せずに、曖昧に微笑むことで応じた。兄は僅かに眉を曇らせたが、すぐに頷いて足早に廊下へ出ると、外に向かって一言ふたこと指示を出す。恐らく撤退準備を命じたのだろう。
「問題は――」とカナンは兄が部屋に戻ってくるのを待ってから呟いた。
「帝都の中枢が、その事実に気付いていないことです」
たっぷり三呼吸分ほど黙って、兄は「は?」と声を漏らした。カナンは傍らの机に腰を預け、腿に置いた両手を緩く組み合わせる。
「僕は帝都で、単なる奴隷としてこの四年近くを過ごしてきた訳ではありません。まだ帝都でやらなきゃいけないことがある」
淡く微笑んで、カナンは目を伏せた。
「だから、またいつか、帝都に戻るつもりだと言ったら、兄上……僕を、国を捨てた愚か者だと罵りますか」
兄はしばらくの間、複雑そうな表情をしてカナンを眺めていたが、ややあって「言うわけない」と頭を振った。カナンを見つめる目には苦笑と諦念が滲んでいる。
「……俺は、お前があの日王女に連れて行かれるのを、黙って見送ったときのことを、今でも夢に見る。後悔しなかった日は一度もない」
優しい微笑を受け止めながら、カナンはそれでもエウラリカのことを考えていた。
「お前がどこにいても、俺はお前を大切に思っているよ。そのことを忘れるな、カナン」
まごころから放たれた綺麗な真実が、目の前に立ち現れている。カナンは思わず目を細めた。兄は真っ直ぐな眼差しでカナンを見ていた。その言葉を疑うつもりはない。
こくりと頷き、「ありがとう」と呟き、彼は今も一人で冷たい部屋に残っているであろう主人のことを思い浮かべていた。




