寒月1
(ジェスタの制圧が実行されるよりも前に、南方連合を押さえ込まなければならない。エウラリカの警備は強化されたとは言え、十分とは言えない……)
空気が冬に流れ込もうとする季節、陽が沈む時刻も着実に早まり、城は斜陽の赤色を浴びて燃えるように染められていた。列柱の影が断続的に落ちる通路を大股で通り抜ける。向けられる猜疑的な視線も囁き声も、まるで一枚層を隔てた向こうの出来事であった。
カナンの胸中を占めるのはただ一つだった。
(――俺が、エウラリカを守るのだ)
目に染みるような赤色が色を増し、一筋の残滓を残し、そして遂に姿を消す。冷え冷えとした冬の空気のみがそこに残った。
押し開けた扉の先で、エウラリカは笑みひとつ浮かべずにカナンを見据えていた。まるでカナンが来るのを待ち構えていたように、寝台に浅く腰掛けたまま、こちらをじっと睨んでいる。
咳払いひとつ。
「こちらへ来なさい」
エウラリカが流行病に罹患した際、部屋に運び込まれた寝台は、未だに撤去されないままでいた。エウラリカの『本当の』私室は、この部屋の隣、更に奥の部屋である。カナン自身は、その部屋に入ったことはおろか、中を垣間見たこともなかった。
室内にはエウラリカの姿しかなく、暖炉に火は灯されていない。既に日が落ちたというのに灯りもなく、エウラリカは含みのある表情でカナンを見据えている。怪訝に眉をひそめながら、カナンは後ろ手に扉を閉めた。
「エウラリカ様? どうかしたんですか?」
「――お前、ジェスタへ帰りなさい」
それは、明確な下知であった。揺るぎのない、有無を言わせぬ口調で、エウラリカは奴隷に命じてみせた。
「……は?」
カナンは目を丸くし、その場に立ち尽くす。冗談ですよね、と言うように笑みを浮かべて首を傾げて合図する。エウラリカは応じない。厳しい表情でカナンに迫るのはただひとつ、諾という返事のみだ。
それでようやく、これが冗談でも言葉遊びでもなく、――今はまだどのようなものかは分からないが――決定的な会話の始まりであることを悟る。自然、カナンは及び腰になり、唾を飲む。
「ど……どうしたんですか、いきなり」
「ネティヤから全て聞いたわ。ジェスタの第一王子がダイラン、カルエナと連合して、帝国に対して捕虜の返還を求めたそうね」
「あの女……」
思わず歯噛みするが、口止めなどの対策を取らなかったのは自分である。ネティヤは今回の渦中となっているウディル州の出身だ、詳しくないはずがない。
「現在この城にはジェスタの民は一人も捕縛されていないし、私の知る限り使用人や官僚、兵の中にもいないわ。ジェスタは属国になってまだ日が浅いしね」
エウラリカの話しぶりは、自分で既に結論を出した上で、徐々に相手を詰めていくような気配があった。カナンの反論や否やなど端から求めていないし、念頭にも置いていない。
「良かったわね、お前を取り返すためだけに軍を組織して、反旗を翻すような家族がいて」
「た……確かに兄は僕を迎えに来たかもしれませんが、でも今、僕が城を離れるわけには……」
「別に構わないわよ? お前がいなくたって私、自分の身くらい自分で守れるわ」
エウラリカは頬にちょっとだけ笑みを浮かべたが、そこに楽しげな感情は見られない。あまりにいきなりのことに、カナンは未だに追いつけないでいた。呆然として口を開閉させるだけのカナンに、彼女は呆れたように嘆息する。
「……お前、はっきり言わないと分からないの? 相変わらず愚鈍で役立たずで、苛々するわ」
そう言って、エウラリカは音をさせずに立ち上がった。部屋の中央までしなやかに歩くと、犬でも呼ぶように指先でカナンを呼び寄せる。そうされるまで、カナンは扉のすぐ前で、床に縫い止められたように立ち尽くしていた。ようやっと、もつれる足を動かしてエウラリカのところへと進み出る。何も言われていないのに、その足下に跪いていた。そうさせるだけの圧力が、彼女の全身から放たれていた。
エウラリカが自分を見下ろしている。それを肌で感じていた。向けられた視線はまるで炎に近づきすぎたときの熱のように、体の表面に突き刺さる。
「かつて私はここで、お前に、命令をしたわね」
素足を冷たい石床の上に乗せて、彼女が囁く。
「嫌になったらいつでもやめて良いのよって、私、ちゃんと言ったわ。ねえ、お前――」
エウラリカはわらっていた。カナンは首を反らして顎をもたげ、エウラリカの表情の僅かな機微も見逃すまいと目を凝らす。そこには躊躇も哀しみもなく、ただただ冷え切った侮蔑のみが広がっていた。
「――私を殺せないなら、帰れと言っているのよ」
腕の中に抱いたエウラリカの肌の冷たさを思い出した。僕にはあなたを殺せない。そう吐露した愚かな男の声が耳の中に蘇る。息を飲む間もなく、呼吸が止まった。
「お前に私は殺せない。……あのときお前が馬鹿正直に教えてくれるずっと前から、薄々察していることだったわ」
「エウラリカ様、」
「だから私、あらかじめ考えてあったのよ。それで既に結論も出ている。『私にはもう奴隷は必要ない』」
カナンが口を挟むのを許さずに、エウラリカは明朗な口調で言い切った。カナンは目を見張る。
「もともと他人の力を借りようとしたのが間違いだったのよね。信じられるのは自分だけ、綺麗な真実も、感動的な絆も、献身的な愛も、この世には存在しないわ。あったとしても私の手の届くところにはないでしょう」
それともお前は、そんなものが私たちの間にあったとでも思っているの? 言外の問いかけが、カナンに差し向けられる。
「だから、お前は、用済み。邪魔なのよ。今度から私はひとりで全てやるわ」
「……全部自分でやるなんて無理だって、ご自身でも分かっているでしょう。自分の立場をお忘れですか? あなたの耳目や手足となる人間なしで、どうやって情報を集めて周囲を操るおつもりか」
「あら、そんなこと、既に用済みのお前に教えるわけがないじゃない」
そう言って、エウラリカは可愛らしい笑みで小首を傾げた。その仕草が妙に芝居がかっていて、カナンは思わず眉をひそめる。
「……エウラリカ様」
慎重に声をかけるが、その表情は揺らがない。これ以上どんなに反駁しても聞き入れる気がないことは、その目を見れば悟られた。床に膝をついたまま視線を合わせているうちに、彼女の口元に微笑みが浮かぶ。
「現状の新ドルトには、ジェスタを瞬殺する軍事力はない。ウォルテールが帝都から出兵し、抗争が長期化したらどうなるか、分かるわね?」
「……帝都は危険に晒される」
「南方連合に帝都を掌握されるのは私の本意ではない。特に、あの地図を所持している人間なんぞには……」
エウラリカは虚空に向かって吐き捨て、それから足下のカナンに視線を戻した。無感情な目であった。
「だから、帰りなさい。お前はもはや私にとって役立たずの足手まといだわ」
その言葉のどれだけを本心が占めているのか、カナンには分からずに眦を下げる。今、自分が、大きな岐路に立っている予感はしていた。
「……今のお前は、自分には私しかいないと思っているかもしれない」
先程までの突き放すような口調とは打って変わって、優しい声音であった。教え諭すみたいに、エウラリカはカナンを見下ろしている。
「でも、お前は、ほんとうに恵まれているのよ。お前を気にかけてくれる人がどれだけいるか、考えてご覧なさい」
エウラリカの唇が耳に心地よい言葉を滑らかに紡いだ。それが訳もなく恐ろしくて、カナンは唇を引き結んだ。
「お前は、多くのものを持っている」
長い金髪が、肩から胸へ流れ落ちる。双眸には深く底知れない青緑色の光が沈んでいる。唇を軽く引き結び、石膏か陶器のように白々とした頬は滑らかだ。その薄い唇から紡ぎ出される言葉が、驚くほど豊かな陰影と緩急に富み、深慮を湛えていることを自分は知っている。
本当に美しい女だった。しかし彼女は賛美を望まないのだ。誰よりもその賛辞を向けられて然るべきの彼女にとって、それが呪いに等しいものであることを薄々悟っている。
「それでも――お前は、私の唯一の奴隷だったわ」
その言葉に、彼は自然と頭を垂れた。長い巻衣の裾から、少女の爪先が覗いている。
咳払いひとつ。
「ねえ、もし私が足の甲に口づけろと言ったら、お前、従うの?」
嘲るような口調であった。言葉で答える代わりに、彼は手を伸ばし、主人の踵に指先を触れて持ち上げると、身を屈めて目を伏せ、その足の甲にそっと唇を寄せる。
しゃら、と音を立てたのは、その足首に嵌まった装飾である。
乾いた唇を、冷えた肌に軽く触れさせたところで、彼は息のみで目を見張った。その反応だけで彼女は、彼が悟ったことに気付いたらしい。
「それを、お前にやるわ」
彼女の足首に嵌まっているものは、二人の手首にかかる腕輪と同じ形をしていた。瞼が震える。力の入らない指先で、彼は足飾りの輪から下がる棒状の金属をひとつずつ手繰る。そうして、その中のひとつに、明らかに人為的に作られた凹凸を見つけて、彼は顔を歪めた。
「……外しなさい」
まるで操り人形のように、彼は足飾りをするりと抜いていた。彼女は足の甲を伸ばしてそれに協力する。その金属は難なく彼の手に収まった。
これは、鍵だ。――何の?
……無意識の癖で、途方に暮れたときの手すさびで、片手が音もなく持ち上がっていた。指先に、首輪の滑らかな革が触れる。喉元で鈴が鳴る。瞬間、彼は息を飲んで、弾かれたように少女を振り仰いでいた。見上げた先で、彼女は満足げに目を細めている。
「その鍵を手に入れた以上、お前はもはや奴隷ではない。首輪を外してどこへなりと行きなさい」
「エウラリカ様……」
呼ばわる、その向こうで、エウラリカは短く息を吸った。
それは、狙い澄まして鐘を打ち鳴らしたように、揺るぎなく凜とした声音であった。
「――ゼス=カナン・ジェスタ」
それは彼の真名である。考えるよりも先に姿勢が伸びる。床に手をつき、しなやかに立ち上がる。心持ち顎を引き、エウラリカと視線を合わせた。彼女は決然とした表情でカナンを見据えた。その名で呼ばれてしまえばもう抗えないと思った。
「新ドルト帝国クウェール王朝の第一王女エウラリカとして、お前に要請します。可及的速やかにウディル州へ向かい、本件の収束に尽力しなさい。……お前の祖国を蛮人の手に落としたくはないでしょう?」
カナンは一瞬おいて、「ええ」と頷いた。エウラリカが艶然と微笑む。紅を引いた唇が弧を描いた。
***
ウディル州まで移動するには、どれだけ急いでも四半月以上はかかる。大急ぎで長旅の準備をするが、全てが調ったときには既に日付を越すような深夜であった。帝都から出るための跳ね橋は既に下げられている時間帯だ。次に橋が降りるのは早朝である。
出立を待つ夜は随分と長く思えた。机を挟んで定位置の長椅子にただ二人。天板には地図が広げられており、旅程を確認した形跡が残されている。しかしウディル州までの道のりは街道一本道で、実際のところその作業はあっという間に終わってしまった。
そうして、出立のときは訪れる。
カナンは廊下へ続く扉に手をかけた。ひんやりとした取っ手の冷たさが指先に染みる。
(……この扉を、開けたら――)
――もう、ここへは戻ってこられないのだろうか?
こんな急なことで最後の別れになるだなんて思っていなかったし、今だって思っていない。エウラリカはどうなのだろう。振り返りたかったが、エウラリカの表情を見るのがどうしても恐ろしくて、カナンは扉に向き合って俯いたまま、為す術なく沈黙していた。
「……行かないの?」
その場で時間が止まったかのように動かないカナンに、背後から近づいてきたエウラリカが囁きのように柔らかい声で問う。カナンは唇を噛んでから、呻くように呟いた。
「エウラリカ様、ひとつ約束してくれませんか」
エウラリカは肯定も否定もしないで、カナンのすぐ隣で立ち止まる。小さな顔が上向けられ、その両目がこちらをじっと見上げている。
「俺が……あなたの、ただひとつの命令に応えられないと言ったのは、事実です。でも俺は、その役目を他の人間に譲り渡したつもりはない」
真意を問うように、エウラリカはゆっくりと瞬きをした。カナンは眉根を寄せて、エウラリカの顔から目を離さずに言葉を選ぶ。声は自然と切実な響きをしていた。
「お願いですから、俺がいないところで、死なないでください。……約束してください」
その願いに対して、エウラリカは無言のまま小首を傾げた。さらりと頬に髪がかかる。彼女はおもむろにすいと片手を挙げ、指先で手招きをした。怪訝に思いながら身を屈めると、エウラリカは顎をもたげ、首を伸ばして踵を浮かせた。
古びた本の紙の匂いとほこり臭さ、燭台に立てられた蝋燭の煙たさ。ほのかな熱ととろみのある、包み込むような香りが鼻先を漂った。やわらかな皮膚が一瞬、はっきりと唇を掠める。
「お前が何と言おうと――」
鼻先が触れ合うような隙間の中で、エウラリカが囁いた。それを聞き届けるより前に、その頬に両手を添えていた。小さな顔を上向かせると、口を寄せる。僅かに重なったままの唇が動く。
「――私は、お前に、もっと早く出会いたかった……」
いっぱいに目を見開いた、彼女の睫毛が震えていた。滑らかな頬に触れた十指に力がこもる。
「……もっと早く、手放せば良かった、」
その言葉を遮るようにもう一度緩慢な仕草で口づけて、ようやく初めてエウラリカは目を閉じた。ややあって顔を離し、手を滑らせるように落とすと、ゆっくりとその瞼が持ち上がる。
「大好きよ、カナン。元気でね」
扉が開かれる。エウラリカが伸ばした片腕で扉を引いたのだ。外の風が吹き込んで、両者の髪が揺れる。ほのかな朝靄と冷たい空気が頬に当たる。エウラリカの腕に力が入り、更に扉の角度が大きくなった。
「また会いましょう」
「ええ、必ず」
短い言葉を交わして、そうしてカナンは外套を翻して冷たい早朝の空気へ歩み出した。一度だけ肩越しに振り返った先で、扉が音を立てて閉ざされた。内側から錠がかけられる。
あの冷たい部屋の中に、エウラリカがただ一人で残されているのだ。




