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傾国の乙女  作者: 冬至 春化
墜ちゆく帝国と陥穽の糸【深層編】

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帰還1



 特に気温の下がった日の昼下がりのことだった。もう年も暮れ、城内にもどこか慌ただしい空気が漂っている。カナンは通路を歩きながら、ふと外を見やった。蠢くように人の行き交う街並みを眺めながら、彼はふと城門近くで騒動が起こっていることに気づいた。


(……暴れ馬?)

 大勢の人が逃げ惑っている様子に、カナンは呆気に取られる。

 と、城門前に立っていた兵が、身を翻して玄関の大扉に駆け込んでゆく。その姿を二階の渡り廊下から見咎めて、カナンは目を丸くした。門番は基本的に二人しかいないはずで、そのうちの一人が持ち場を離れて城内に戻ってくるなんて、滅多にあることではない。

(何かあったのか?)

 そう思って、前庭の向こう、城門に目線をやるが、距離があっていまいちよく分からない。カナンは玄関から離れようとしていた足を反転させて、早足で歩き出した。



 玄関ホールは騒然としていた。人だかりの中央はぽっかりと空間が広がっている。大きな弧を描いた階段の中ほどで、カナンは立ち止まって目を丸くした。――ウォルテールがいる。

 ウォルテールは人垣の中で膝をつき、酷く困憊した様子の男を介抱していた。男は侍女から手渡された水を飲み干すと、胸に手を当てて激しく咳き込む。


 そこでようやく、カナンの足が再び動くようになった。段差を踏み外しそうになりながら玄関ホールに降りる。人垣を肩でかき分けるようにして前へ出た。ぶつぶつと文句を言う声が背後から聞こえたが、その相手をする余裕はなかった。妙な胸騒ぎがしていたのだ。


「……ご報告申し上げます」

 そんな言葉が漏れ聞こえて、カナンは思い切って大きく足を踏み出した。最前列とは言わないまでも、人の肩の隙間からウォルテールの姿が見えるところまで体が出る。人いきれの熱をかき分け、玄関の扉から吹き込む冷たい風が顔に当たった。そのせいだろうか、まるで全身の毛が一斉に逆立つように、鳥肌が足先から頭のてっぺんまで駆け抜ける。

 その声は、周囲の喧騒の中で、やけにはっきりと聞こえた。



「――東部諸国が反旗を翻し、緩衝地帯であるウディル州に進軍しました」



 ……東部諸国、反旗、緩衝地帯、進軍。

 それらの単語は、意味を持たないばらばらの音に分解され、一瞬の空白ののち、ようやく言葉として形になる。理解が追いついた瞬間、胸の辺りがひやりとした手に触れられたような心地がした。


 報告は続く。

「連合している主な国はカルエナ、ダイランなど。中心となって軍を率いているのは、属国である――」

 それらの固有名詞は水が染み込むようにすんなり入ってきた。地図が浮かぶ。ウディルは東部文化圏と帝都圏の境界に位置する州であり、帝都との関係も深い。


 カルエナ、ダイランはいずれもそのウディル州に隣接する小国であり、未だに帝国の傘下に下ってはいないが、真っ向から敵対もしていない。息をひそめていると表現するのが相応しい外交戦略ではあったが、自ら属国として帝国に与するのも時間の問題であると評されていた。

 農業立国カルエナ、商業と貿易のダイラン。そのいずれもと縁の深い属国。二国がその旗頭のもとに集うような国。東部文化圏において大きな地位を占める古都、英知の流れ着くところ。

 言われなくたって分かっている。それでもカナンは、祈るような心地で目を見開いていた。


 伝令は荒い息の狭間に、まるでウォルテールを睨みつけるように鋭い目をした。カナンは伝令の横顔から目が離せない。自分の浅い呼吸の音が耳の中で反響している。

 霞んだ視界の中で、ウォルテールがゆるりとこちらを振り向くのが分かった。



 男は明確な発音で宣告した。

「――ジェスタ王国の第一王子。要求は『捕虜の返還』とのことです」



 がん、と頭を強く鎚で打たれたかのような気分だった。身じろぎ一つできないまま、カナンは声を失う。

(……ああ、やっぱり、)

 すとんと、納得が落ちる。カナンは内心で呟いた。目の前に、長兄の顔が泡沫のようにぱっと立ち現れては消えた。耳の底で、懐かしい声がする。身体の周りの雑踏など耳にも入らない。


(兄上……)

 音を伴うことなく唇から滑り落ちたことばは、否応なしに突きつけていた。これが僕の母語であり、最も舌に馴染んだ響きなのだ。

 生まれも育ちも、決して変えられるものではない。一瞬のうちに、思考がジェスタ語に根ざしたものになる。自分はジェスタに生まれ、ジェスタの水を飲んで育った。そうだろう。


(――兄上が、僕を迎えに来たのだ)



 ***


 エウラリカの容態は、数日間の不調を経て好転し、ここのところずっと安定していた。医師も目に見えて安堵した様子で、あとしばらくの間安静にするようにと指示を出すに留めていた。


 カナンは玄関ホールから脇目も振らずに城を横切ると、エウラリカの居室へと急いだ。

「エウラリカ様……っ!」

「何よ、そんなに血相を変えて」

 エウラリカの憎まれ口もすっかり復活し、彼女は寝台の端に足を組んで座り、顎を反らしている。その手が本を閉じ、枕元にぽんと放った。

 扉をまるで蹴り破るように開け放ったカナンは、そこでふと言葉を失った。どこから切り出して良いものか分からなくなったのだ。その一瞬の逡巡の内に、果たして先程知った出来事を、治りかけとはいえ病床のエウラリカに聞かせるべきなのかという問いが続けざまに浮かび上がる。


 勢いよく部屋に入っておきながら、カナンは扉のところですっかり硬直してしまった。その様子を、エウラリカは怪訝そうに眺めている。眉をひそめ、腕を組んだ仕草は、早く話せという言外の催促である。

「エウラリカ様、その……」

 ひとまず後ろ手に扉を閉じながら、カナンは目を伏せて言い淀んだ。厄介ごとの気配を感じ取ったらしい、エウラリカの視線が剣呑に鋭くなる。

「……何かあったの?」

 それでも言葉ばかりは柔らかく、エウラリカはカナンに問いかけた。カナンは唇を噛んで俯く。



 表面こそ平静を装っているが、カナンの内心は未だ動揺に荒れ狂っていた。ジェスタが帝国に対して反旗を翻した。軍を率いているのは長兄で、恐らく自分を取り返すために兵を挙げ、周辺諸国と同盟を結んでこの反乱を企てたのだ。

「……いえ、その、」

 カナンは壁を背にして、横歩きでエウラリカから距離を取った。足取りは覚束ないし、額に脂汗が滲んでいるのも自覚していた。みっともない醜態だったが、それでも今ここで頭を抱えて大声を出さないだけの分別はあった。


「どうしたの、お前、何だか変よ」

 エウラリカは腰を浮かせ、カナンの方へ歩み寄ろうとするような素振りをみせた。カナンは咄嗟に「近づかないでください」と厳しい口調でその動きを遮っていた。医師からは、あまりエウラリカに近づきすぎて自分も感染しないようにと注意されている。だからこのやり取りは既に五回目ほどだ。


 心臓が嫌な感じで早鐘を打っているのを感じながら、カナンは机と椅子の方へと向かった。脚の短い机の天板に膝をぶつけつつ長椅子に手を触れる。

(兄上が僕のことを迎えに来た。……嬉しくないかどうかでいったら、嬉しいに決まってる)

 カナンは崩れ落ちるように腰を下ろした。額に片手を当てる。

(しかし、今、俺がこの場を離れてジェスタへ戻ったら、どうなる?)

 顔を上げ、五指の隙間から向こうを窺えば、寝台の上で胡座をかいたエウラリカが不満そうに唇を尖らせていた。カナンがいきなり大きな声を出したことが気に食わないらしい。


 エウラリカの顔色はだいぶ回復していたが、それでも跳んだり跳ねたりするにはまだ体がだるいようである。医師が部屋を訪れる頻度は減っていたし、ネティヤが顔を出すのも二日に一回程度になっていた。そもそもカナン自身がネティヤを決して信頼しはしていない。今のところエウラリカに危害を加える様子が見られないだけで、カナンがいないと分かればルージェンからの指示で暗殺者の手引きくらいは平気でやってのけるだろう。


(僕は……)

 エウラリカはカナンが口を開くのを待っている。その視線から逃げるみたいに、カナンは深く項垂れた。


「――秘密を貫き通すことは、真実を詳らかにするよりも、はるかに難しいものだわね」


 藪から棒に一体何なんだ。何の前置きもなく口火を切ったエウラリカに、カナンは目を丸くして顔を上げた。部屋の反対側、寝台の上で、エウラリカは足を組んで目を細めている。

「だから、『真実はいずれ必ず明らかになる』という言説は、きっと一面では真理なんでしょう。お前も薄々察しているんじゃない?」

 要するに『とっとと話せ』と言いたいのだろうか。カナンは胡乱な視線をエウラリカに向ける。彼女の表情は実につんと澄ましたもので、いまいち意図が掴めない。



「その……先程、玄関ホールで少し騒ぎがありまして」

 カナンが躊躇いがちに口を開くと、エウラリカはすぐに口を閉じて話を聞く構えに入った。こういうところは妙に律儀な人である。


「――東部でいくつかの国が連合して、ウディルまで進軍してきているそうです」

 何故か祖国の名前を出すことが躊躇われて、結局カナンはそこまでの発言に留めた。

「あら、それ本当?」とエウラリカは本当に意外そうに目を丸くし、口元に手を当てて身を乗り出す。カナンは「はい」と頷くに留めた。

 この反乱の中心に自分が関わっている可能性を、エウラリカに伝える踏ん切りは、まだつかなかった。理由は漠然と理解している。自分は怖いのだ。何が? ……エウラリカに、ここから去れと言われるのが。


 カナンの機微など知りもせず、エウラリカは「東部諸国が? 全く気付かなかったわ……」と腕を組んで唸っている。カナンはしばらくの間、エウラリカの顔をじっと眺めていた。エウラリカはそんな視線など百も承知だろうに、お得意の知らぬ振りで無視を決め込んでいる。今の情報を吟味するのに集中している様子である。

「……しかし、これだけじゃ何とも言えないわね。実際にどこの国が連合しているの?」

「ええと、」

 ふっと顔を上げて水を向けてきたエウラリカに、カナンは思わず曖昧な返事を返した。それはまだよく、というような音が口から出ていったような気がする。


「ふぅん」とエウラリカは目を細めて、カナンを頭のてっぺんから爪先まで眺め下ろした。どうも様子がおかしいことには気付いているらしい。疑うような視線を差し向けられて、カナンは居心地悪く身じろぎした。

「ねえお前、」

 エウラリカは宥めすかすみたいに優しい声を出した。

「私に、何か言うことはないの?」

 その言葉に、カナンは唇を引き結んで目を伏せた。それが何よりの答えであることは自覚している。エウラリカは僅かに苛立ったような顔をしたが、それ以上声を荒げて追究することはなかった。足を組み替え、鼻から長い息を吐いたらしい。



「……新しい情報がないか、ウォルテールにでも聞いてきます」

 気詰まりな沈黙から逃げるように、カナンは立ち上がった。エウラリカは顎を引いたまま、やや上目遣いにその動きを眺めている。

「その、まだ病み上がりなんですから、大人しくしていてくださいね」

「お前、私を何だと思っているの?」

 エウラリカは呆れたように眉を上げたが、カナンを無理に引き留めようとはしなかった。カナンは曖昧な言い訳を残して、廊下に出る扉に向かった。扉を引いたところで、ちょうどノックしようと片手を持ち上げていたネティヤと鉢合わせする。咄嗟にその脇をすり抜けようとして、肩が当たる。長身のネティヤはカナンとほとんど身長が変わらなかった。


 衝撃にたたらを踏んで、ネティヤが目を怒らせる。

「おい、カナン」

「ごめんなさい、」

 そのまま走り去ろうとすると、ネティヤはエウラリカとは違ってカナンの腕を掴んで引き留めた。


「どうしたんだ? 顔色が真っ青だぞ」

 カナンの前腕をしっかりと掴んだまま、ネティヤは眉をひそめている。カナンに向き直り、「大丈夫か」と顔を覗き込んできた。

「なあ、ダイランがジェスタと連合して進軍してきたそうだな。そのせいで何か言われたのか」

 その言葉に、ネティヤに対しては、自分の生まれがダイランという小国だと偽っていることを思い出す。ネティヤの出身はウディル州――今回の進軍で標的となった緩衝地帯である。

 征服者と被征服者。支配者と被支配者。そんな対比の幾つかが、ぱっと目の奥で弾けては消えた。ジェスタはウディル州に攻め入ったのだ。一抹の後ろめたさがちらつく。


「何もないですよ」

 ネティヤの腕を振り払いながら、カナンは尖った声で撥ねのけた。「おい」とネティヤが声をかけるが、カナンはくるりと背を向けて走り出す。

「放っておいてください!」

「カナン!」

 ネティヤの声を無視して、カナンは直線の廊下をよろめきながら駆け抜ける。最悪な気分だった。



「一体、何があったんですか?」

 驚いたようなネティヤの言葉に、エウラリカが何と答えたかは分からなかった。




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