流行病2
「カナン! 久しぶりだな」
急ぎ足で渡り廊下を通っていたところにそんな声がかけられ、カナンは目を丸くして振り返った。ここ最近とんとご無沙汰であった友人の顔である。カナンは思わず頬を綻ばせてその名を呼んだ。
「バーシェル、久しぶりだな」
「ノイルズもその辺にいるぜ。あ、いたいた」
バーシェルが体を捻って背後に向かって手を振る。程なくして、細身かつ長身の友人が悠々とこちらに歩いてくるのが見えた。
バーシェルはカナンの肩に腕を回して、しばらく顔を合わせなかった時間を埋めようとするように親しげな口調で言う。
「少し前に王女様と一緒にお出かけしてきたんだって? 土産はないのかよ」
「そういう旅行じゃねぇって」
あったとしても、何ヶ月も手元で保管していることはない。
「どこ行ったんだっけ」
「帝都より南にあるハルジェール領、……知ってるか?」
「知ってる知ってる。何か美味いもの食ったか?」
「それなりのご馳走が出たぞ」
そう言い交わしているところで、ノイルズが追いついて軽く片手を挙げた。
「よう、カナン」
「元気そうだな」
応じると、バーシェルが唇を尖らせて文句を言う。「もっと感動の再会っぽくしろよ」と言ってはいるが、「だって俺たちどっちも城内勤務でよく顔合わせるし」とノイルズが一蹴した。
「何だ何だ、一人だけ城外勤務の俺をのけ者にして」
バーシェルがぶつくさと言いながら腕を組む。カナンは「悪いな」とわざとらしく肩を竦めた。
渡り廊下に暖房はなく、三人は自然と壁際に移動して身を寄せ合う。
「あっ、そうだ、お前に会ったら言おうと思ってたことがあるんだよ。ほら、王女様の婚約者が何だかんだってあっただろ? あのときにさ」
バーシェルがおもむろにそんな話題を切り出すので、カナンは思わず肩をびくりと跳ねさせた。ふと蘇るのは、アルヴェール邸に侵入した際にバーシェルと居合わせた際の記憶である。あのときは見つからなかったと思っていたが、まさか見咎められていたのか?
戦慄するカナンをよそに、バーシェルは「聞いて驚け」と威張り顔、腰に手を当てて胸を張っている。
「――なんと俺、王女様と一緒に話をしました」
ノイルズがすかさず頬を吊り上げて、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「へえ、何? 王女様主催の珍獣鑑賞会にでも出品されたの?」
「エウラリカ様のこと何だと思ってるんだ」
思わずカナンも突っ込む。流石のエウラリカも人間を並べて鑑賞会なんて悪趣味な真似はしない……と信じたい。
にしたって、
「エウラリカ様と話? 何を?」
「何かさー、王女様の婚約者が突然死んじゃって、色々憶測とか噂とかあっただろ? んで当然うちでも捜査するわけ。でもそれがいきなり上からの命令で中断されて、俺は納得できずに上官に詰め寄った訳よ。こんなのおかしいって」
「へえ、お前にしては格好いいじゃん」
「だろ」
ノイルズが意外そうに眉を上げる。「ない頭で一生懸命考えたんだな」「何だと」と言い争っているのを眺めながら、カナンは斜め上を見上げた。
(何か聞き覚えある話だな)
カナンはようやくこの段階で、該当するエウラリカの発言を記憶の隅から引っ張り出す。エウラリカの口からバーシェルの名前が出たことがあったのは確かだ。そういえば、エウラリカもそんなようなことを言っていた気がする。
「それでそのときにさぁ、王女様が俺のところに来て、『もっと話を聞かせてくれない?』って俺に言うんだよ」
「あー……」
胸の前で両手を組んでバーシェルに擦り寄るエウラリカの姿が目に浮かぶ。あまり愉快ではない想像を振り払いながら、カナンは「それで?」と続きを促した。バーシェルは拳を握って力説する。
「んでさぁ、王女様がすっげぇ可愛くて」
「そうだな」
「うわ認めたよ」
ノイルズの小声の呟きは無視して、カナンはバーシェルを見据えた。バーシェルはしばらく、初めて間近で見たエウラリカが予想以上に好印象だった、というような話を懇切丁寧に解説してくれたが、「それで」とようやく本題に入る姿勢になる。
「そのときに『ちゃんと本当のことを見極めようとする姿勢、とっても素敵』って言われたのが嬉しくてな」
自慢げな前置きを意図的に聞き流して、カナンは短く相槌を打つ。バーシェルが不意にぐっと屈んで、声を低めた。
「――それで、捜査が打ち切られてからも調べてたんだよ、あの事件について」
バーシェルの言葉に、カナンは鋭く息を飲む。ノイルズも目を見開くのが分かった。
「王女様の婚約者として、オルディウス・アルヴェールが決まっていただろう? それなのに突如として原因不明のまま死んで、遺体もどこかに隠されたって噂だ。そのあとに弟のイリージオ・アルヴェールも死んだって知ってるか?」
「……聞き及んでいる」
「大きな声出すなよ? ……実はな、弟は橋から身を投げて自殺したんだってよ!」
もったいぶってバーシェルが教えてくれた情報に、カナンは真顔のまま「そうだな」と頷いた。目に見えてバーシェルが拍子抜けした表情になる。
「何だよ、知ってたのか?」
「わりと有名な話だぞ」
ノイルズが容赦なく一刀両断し、今度こそバーシェルががくりと項垂れた。
「つまんねぇの……」
「よくそんな野次馬程度の情報で偉そうにできたなぁ」
「何だと」
バーシェルとノイルズがいつものようにじゃれ始めるので、カナンは適当に片腕を差し入れてそれを遮る。
「他には何かないのか?」
「ない」
バーシェルがふて腐れたように応じる。
「あとはまあ、オルディウスの部屋から違法の薬物が見つかったとか、そんな噂程度の話しかないな。死んだ人間にそんな悪い噂立てるなんて、信じられないよなぁ」
「オルディウスが?」
イリージオじゃなくて? と続きかけた言葉を飲み込んで、カナンは目を瞬いた。ノイルズも驚きを隠しきれない表情で、「王女様の婚約者が薬物に手を染めていたってことか」と眉をひそめる。
「いや、使ってた訳ではないらしいんだけど」
「何だ、適当な話だな」
二人がそう言い交わしているのを聞きながら、カナンは無言で腕を組んだ。オルディウスが帝都に蔓延する『傾国の乙女』に気付いていたのなら、彼が殺されたことも頷ける。今となってはもはや知るよしのないことだが……。
「まあそれは置いといて」とバーシェルがおどけた仕草で話題を変える。
「もうすぐ年末だろ? 俺とノイルズの休暇がたまたま被ったから、飲みにでもいかないかって話が出てるんだけど」
ノイルズも頷きながらカナンを窺ってくる。カナンは思わず「あー……」と曖昧な声を漏らして頬を掻いた。
正直に言えば、この友人たちと休みを合わせて遊びに行くというのは、非常に魅力的な提案であった。エウラリカに報告すれば、彼女が反対することはばずないだろう。……エウラリカが話をできる状態だったのなら、だが。
「すげぇ行きたい、んだけど……」
歯切れ悪く応じたカナンに、バーシェルとノイルズは顔を見合わせる。
「……エウラリカ様が、ここ最近体調が悪くて」
カナンがそう続けた瞬間、二人の顔色が変わった。気まずそうな表情で顔を見合わせ、「悪い」とどちらからともなく呟く。カナンは咄嗟に「気にするな」と頭を振っていた。
「すぐに治るって医師も言っていたし、他にも看病を手伝ってくれる人はいるんだ。それほど苦労はしてない。……むしろエウラリカ様が大人しくなっただけずっとマシだよ」
何をそんなにむきになって言い訳しているのか分からなかった。カナンが言えば言うほど友人の二人は眦を下げて、気遣わしげにカナンを見やる。
「なあ、カナン」
「やめろって」
バーシェルが口を開き、ノイルズがそれを即座に制する動きを見せた。カナンはすぐにバーシェルに向き直り、続きを促す。大柄で軽率なところのある、しかし根が非常な善人であるこの友人は、「カナンはさ」と静かな声で端を発した。
「カナンは、ずっと、王女様の奴隷なのか?」
そんなこと俺が聞きたいよ。言葉を飲み込んで、カナンは曖昧に微笑んだ。
「だってさ、今どき奴隷なんて、滅多に聞かない言葉だろ。奴隷っていう単語にぎょっとする人だっているし、その肩書きのせいで、お前はまともな待遇を得られない」
「良くしてもらっているよ。エウラリカ様だってそれなりの手当てを出してくれるし、衣食住には困っていない」
「でもさ、それでもやっぱり、自由はないんだろ」
自由? 自由って何だ。お前はその単語をどういう意味で使っているんだよ。問い詰めたくなる気持ちを押し殺して、カナンは「そんなことない」と短く応じる。
「……王女様はさ、この先……次の皇帝陛下になるか、誰かと結婚して城を出て行くかしか、選択肢がない訳じゃん」
これまで、努めて考えないようにしていた二択を突きつけられて、カナンはその容赦のなさに苦笑した。そうだ。……その通りだ。
「そしたら、お前もついていくのか? 皇帝の最側近に異国の奴隷がいるなんて、きっと国民は納得しない」
「バーシェル、やめろ」
賢明な方の友人は、片手を振り上げてバーシェルの口を塞ごうとしたが、彼はそれを振り払った。
「王女様が降嫁しても同じだろ。王女様の傍に、一番親しい異性の奴隷がいることを、王女様の夫が許すとは思えない」
「……ああ」
カナンはやっとの事で、適当な母音を喉から絞り出した。バーシェルは少し背を屈めて、カナンの顔を覗き込む。本当に心から案じているような目をしていた。
「どちらにしたってさ、お前は、王女様の傍にはいられないんだろ?」
「……だから、どうしろって言いたいんだ?」
「『どうしろ』だなんて、俺たちに言う権利はないだろ」
ノイルズが挟んだ言葉の『俺たち』という単語に、カナンはこの話題が自分のいない場で繰り返されてきたものであることを悟る。ちらりと火がよぎるような苛立ちが襲った。ああ悪いな俺のせいで心配をおかけして――!
「だからさ、カナン」とバーシェルは眦を下げた。
「――あんまり王女様に入れ込むと、あとで辛いんじゃないか?」
ふと、手の中に、エウラリカの肌の感触が蘇る。カナンは何も言えずに目を伏せた。
「……俺はただ、与えられた職務を果たしているだけだ」
あまりに苦しすぎる言い訳だと思った。知らず知らずのうちに手が上がり、首輪に指先を触れる。鈴を鳴らす。「それもさ、」とバーシェルは言いかけたが、今度こそノイルズがそれを黙らせた。
ノイルズはじっとカナンを見据えて、しばらく躊躇するように眉をひそめていた。長身で見目の良いこの友人は、若手の兵の中でも特に優秀な有望株で、出世頭と言われているらしい。城内の情報を探っているときに、話の流れで聞き出した情報である。ノイルズが能力の高い兵だということはカナンにも分かっている。彼がその能力を正当に評価されていることも、それだけにカナンの肩書きをどう思うかも、想像はつく。
「もう癖になっているから、仕方ないんだよな」
理解を示した言葉は柔らかく、カナンは思わず目を見開いた。鈴に触れた指先が震える。
それはまるで、子どもに言い聞かせるような声音であった。そう思って改めて見てみれば、友人はどちらもカナンより拳いくつか分も背が高い。分かっている。二人はどちらも生粋の帝国人で、カナンとは流れている血が違うのだ。
目の色も髪の色も、顔の作りや体の大きさも違っていた。分かっている。それでも壁を感じさせずに接してくれる二人だから、カナンは彼らを友人と呼称することを選んだのだ。
「……放っておいてくれよ、」
咄嗟にそんな言葉が唇から滑り落ちていた。バーシェルが目を丸くしたが、ノイルズは「カナン、」と流石の瞬発力で眉根を寄せた。カナンは目を伏せて吐き捨てる。
「これは、俺とエウラリカ様の問題だ」
「エウラリカ様の問題は国の問題なんだよ」
教え諭すようなことを言われなくたって、そんなこと百も承知だ。誰がこの国を守っていると思っているんだ。中からも外からも南方連合に食い破られようとしているこの国を、売国奴の手から守っているのは誰だと思っている。
「……何も知らないくせに、勝手なことを言わないでくれ」
「じゃあ俺たちの知らない、お前と王女様の事情って何なんだよ」
「そんなことっ」
言えてたら既に言っているに決まっている。続く言葉を咄嗟に飲み込んで、カナンは唇を噛んだ。割って入るのは今度はバーシェルの番だった。
「なあカナン、お前の気持ちは分かるよ。王女様はすごい可愛いしさ、何かこう……守ってあげたくなる感じがあるよな。あんな人と一緒にいたら誰だって夢中になるに決まってる」
「俺とエウラリカ様はそういうのじゃない!」
「大きな声出すなって」
ノイルズが片手の仕草でカナンを黙らせる。カナンは目を見開いたまま、呼吸を落ち着かせようとするように大きく息を吸った。胸を上下させて息を整える。
「とにかくさ、俺たちはいつでも相談に乗るから、困ったことがあったら何でも言ってくれよな」
そんな聞こえの良い言葉で、バーシェルは無理矢理に会話を終わらせた。ノイルズも気を取り直したように微笑み、表情を険しくしているのはカナン一人だけのようだった。必死に反駁しているのはお前だけだと、まるで突き放すような態度に思えた。
カナンは目をつり上げるのをやめ、穏やかな微笑みを浮かべようとしたが、どうにも頬が強ばって上手くいかない。
「……心配してくれてありがとな」
その言葉に、バーシェルとノイルズも揃って下手くそな笑顔を返してくれた。
***
エウラリカの部屋に戻ると、部屋の中はしんと静まりかえっていた。医師は既に帰ったらしい。ネティヤが振り返って立ち上がり、「遅かったな」と言う。カナンは頷き、「エウラリカ様は?」と寝台を窺った。
「眠っておられる」
その言葉の通り、寝台の中からは物音一つしない。ネティヤはエウラリカを起こさないように低めた声で「私は仕事に戻るから」と手振りをつけて合図する。カナンは頷いて、部屋を出て行くネティヤの背中を見送った。
カナンはしばらく部屋の中央に何をするでもなく立ち尽くしていたが、やがて、ふらふらとエウラリカの寝台の方へ近づいた。天蓋から降りた幕はぴっちりと閉ざされており、エウラリカの輪郭さえ見せようとはしない。
寝台の中で、エウラリカが苦しげに咳をしている。カナンは無言でその傍まで歩み寄ると、膝を折って床に座り込んだ。寝台に背を預け、深く項垂れる。胸の前で膝を抱えて、カナンはどうしようもなく床を見つめた。
エウラリカは咳をしている。カナンの手が躊躇いがちに首輪へ伸びた。決して音を立てないように、指先を慎重に鈴へ触れさせる。
エウラリカの咳ばかりが部屋に響いていた。それは彼女の奴隷を呼ぶ声である。エウラリカは本当に息苦しそうに咳をしていた。それを止めてやることも、背をさすってやることもできない。カナンは膝の間に深く項垂れた。
暖炉は部屋の反対側で、尻をつけた石床は冷たく、僅かな身じろぎすらも躊躇うような気だるさだった。部屋は耳鳴りがしそうに静まりかえっている。
あまりエウラリカに入れ込んではいけない。バーシェルに言われなくても知っている。この女は祖国の仇で、大帝国の王女で、人に与することのない生き物である。自分はエウラリカのことを何も知らない。どれだけ言葉を交わしても完全に想いを伝えることはできないし、こんなに近くにいても視界は共有できず、夜をともに越えようが同じ夢を見ることは決してない。彼女が何を思って、このような在り方を選んでいるのかも分からない。
それでもエウラリカはカナンを呼んでいる。それはまるで名前を何度も呼ばわるような、切実な響きを伴っていた。エウラリカが咳をする。
カナン。
カナン。
カナン。
置いて行かれた子どもみたいに、縋るような声に聞こえた。何のことはない、ただの咳である。分かっている。そんなことはよく分かっている。エウラリカは一人で体を折って、助けを求めることもできずに目を閉じている。誰に縋ることもしないで、少女はただ耐え忍ぶように身を縮めている。カナンは片手で顔を覆った。
誰が何と言おうが、エウラリカには俺しかいないのだ。だから守ってやらなくてはいけないのだ。
エウラリカが咳をする。その響きは、幾度となく繰り返されてきた、奴隷の名を呼んでいる。エウラリカが呼んでいる。
――――カナン、




